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99.シーダ
しおりを挟む風の通り道に、小さな草の丘があった。
それは旅の一行がひととき野営地と定めた、森と岩山の境目にある場所。
背の高い木々に囲まれ、獣の気配は少なく、静かで、心地よい風が吹く。
丘の上、黒銀の鱗を纏う巨大な竜が翼を休めていた。
その金色の瞳は、一点を見つめている。数歩先、岩陰から慎重に顔を出す、小さな影――
「……動かぬなら、狩りはできぬ」
ズメウが低く、けれど淡々とした声で言うと、岩陰の影――シーダが、震える前足を一歩前に出した。
小さな体に不釣り合いなほど鋭い爪と牙を持つ、まだあどけなさの残る竜種の子供。
紫水晶のような瞳がズメウを見上げる。
「……でも、こわい」
しっかりとした言葉ではない。けれど、意思を含んだ声だった。
ズメウの目が細くなり、ひとつ、鼻を鳴らす。
「恐れるなとは言わぬ。だが……我らは狩りによって在る」
黒銀の尾が、ゆっくりと草をなぎ、風を切った。
「草食むだけの命では、我が子とは認められぬ」
それを聞いて、シーダはぐっと小さな爪を地につける。
不安と、わずかな誇りが混ざる顔で、ズメウに向かってもう一歩。
「じゃあ……がんばる」
ズメウは何も言わなかった。ただ、一歩、後ずさるようにして空間を開けた。
その隙間に、石の間から這い出てきた一匹の小さな獣。警戒心の強い、茶色い毛並みのイタチのような生き物だ。
気配に気づいたのか、獣がぴくりと動く。
その瞬間、ズメウの瞳が鋭く細まり、声が落ちる。
「今だ」
それは命令ではなく、導きだった。
シーダの体が跳ねる。ふらつき、転びかけながらも、爪を振るう。
草を蹴り、身体を滑らせ、最後の一歩で牙を向ける――
……獲物は、ぎりぎりのところで逃げていった。
しばらく小動物の跳ねる音が森に消えたあと、丘にはまた、風だけが残った。
シーダは地面にぺたりと座り込んでいた。肩が上下し、うつむく。
「……にげた」
「そうだ。だが、追った。爪を振るい、牙を向けた」
ズメウはゆっくりと近付き、シーダの前に身体を伏せる。
「それで良い。次は、当てれば良い」
その声はどこか柔らかかった。
鋼のように冷たい声しか知らなかったはずのシーダが、目をぱちりと開く。
「……パパ、こわく、ない?」
「我は、我が子に牙を向けぬ」
短いが、はっきりとした言葉だった。
その重みに、シーダの肩の力が少しだけ抜ける。
「……じゃあ、またやる」
「うむ。何度でもな」
二匹の竜が、また並んで座る。父は黙って風の音を聞き、子はその隣で尾を巻いた。
そのあと、ズメウはふと顔を上げた。
森の先から、人の気配が近づいてくる。小さく、軽やかな足音――
「ズメウさま!シーダ、どこですかー!!」
双子の片割れ、マヌルの声が響いた。
シーダはぱっと顔を上げ、尾を振った。
「マヌル、きた」
「うむ。そろそろ戻るぞ。我らだけで遠くへ行く訳にはいかぬ」
「わかった。……つかれた。すこし」
「当然だ。お前は、狩りの訓練を始めたばかりの子だ」
ズメウは人の姿へと戻りながら言った。
その姿にあわせて、シーダも瞳を閉じ、呼吸を整える。
「……やる。もっと、じょうずに」
その言葉に、ズメウは少しだけ目を細める。
どこか、自分と似た響きの言葉。それを子が紡いだことに、確かな誇りを覚えていた。
「いずれ、お前は我以上に狩りを成す。だがまずは、今日の歩みを褒めよう」
シーダはそれに、小さな頷きで返した。
──こうして、言葉は芽吹き、狩りの本能が育っていく。
父と子、竜と竜。過酷な世界に在るものたちが、共に生きるための、小さな一歩だった。
それは、訓練の日から少し後のこと。
陽が落ちたあとの焚き火のそば。仲間たちが簡素な夕食を囲む中で、シーダは一人、丘の端でじっと佇んでいた。
「……まだ、変わらない」
低く、こぼれる声。
人の言葉を選んではいるが、どこか発音に硬さが残っている。
ズメウはその背を黙って見守っていた。森に溶ける黒い鱗は月光を吸って、わずかに鈍く光っている。
「焦るな。人の形とは、我らにとって本来不要の術。心と体が合わねば成されぬ」
「……でも、みんな、ヒトの姿。ボクだけ、ちがう」
「ならば、違っても良い。無理に同じになどならずとも、生きていける」
それでも、シーダは首を横に振った。
「ちがう、でも………なりたい」
「なぜだ」
少しの沈黙があった。風が木々を揺らし、焚き火の音が遠くではぜた。
「ボク……みんなと……もっと、はなしたい。いっしょに、いたい」
その言葉に、ズメウの目がわずかに見開かれる。
「……なるほど」
かつて己が人を憎んだ時、こんな気持ちにはならなかった。
異なる存在に“なりたい”と願ったことなど、一度もなかった。
けれど今――目の前の子は、違う。
「ならば、教えよう。我も、かつて己を変えた者から、術を学んだ」
ズメウはゆっくりと人の姿へと変わる。
鱗が滑るように引いて、長身の金色の目が印象的な青年となった。
「シーダ。人の姿とは、心を静めることから始まる」
「こころ……?」
「そうだ。たとえば、怒り。恐れ。哀しみ。それらが強すぎると、術は乱れる」
ズメウはその手を胸に当てる。
「今は何を思っている」
シーダは一度、目を閉じた。
「……あったかい。……みんなと、いっしょ、うれしい」
「ならば、それを支えにしろ」
ズメウは、そっと子の額に手を置く。
「我の言葉を思い出せ。今はまだ、不完全でも良い。だが、お前の中にある“願い”を、形にするのだ」
深く息を吸い、シーダはまた目を閉じる。
空気が揺れた。
かすかに、体が光を帯びる。
鱗がざらざらと引き、尾が短くなっていく。爪も牙も、わずかに丸みを帯びた。
しかし――完全には変わらない。
「……ここまで……ごめ、んなさい」
「謝るな」
ズメウははっきりとそう言った。
「今のお前は、我よりもずっと前を歩いている。変わりたいと思うその心こそ、誇るべきものだ」
シーダは驚いたようにズメウを見上げた。
紫水晶の瞳に、強い光が宿っている。
「……パパ」
「うむ。我は、いつでもお前の傍にいる。成せぬ時は支え、成した時は誇ろう」
シーダはこくんと頷く。
「言葉も……マネする。……ボク、パパに、なってる」
「それは悪いことか?」
「……ちがう。けど、ちがわない。……えっと」
くすり、とシーダが笑った。
「つぎは、ボクの、ことば。つくる」
ズメウの口元が、わずかに綻ぶ。
竜の姿の時には決して見せない、柔らかな笑みだった。
「……楽しみにしているぞ」
夜は静かに、深くなっていく。
火の気配と星のまたたきが、二人の影を淡く包んでいた。
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