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112.春訪れる夜
しおりを挟む季節は移ろい、長かった雪の気配もようやく遠のいていった。
山を越え、谷を越え、春風に背を押されるようにして、一行は「風車の街」へと辿り着いた。
「気持ちが良いところだね~」
街の入り口でメリィが両腕を高く掲げて大きく伸びをする。吹き抜ける風はやわらかく、頬に当たる空気もすでに冬の冷たさを失っていた。
「藁の香りが気持ちよくて……」
「お昼寝したくなります~……」
双子はふにゃふにゃとした様子で、それぞれの尻尾を絡めながら歩いている。日差しを浴びてとろけてしまいそうなその姿に、ネロがくすりと笑った。
「じゃあ、一番に宿を探そう」
彼の一言で一行は街中へと歩みを進め、ほどなくして、風車の回る通り沿いの宿にたどり着いた。
古びた木の扉を開けると、優しい日差しが差し込むロビーと、暖かな空気が迎えてくれる。
部屋へと案内された一行は、それぞれの部屋で荷を下ろした。
間もなく、双子の部屋から元気な声が響いてくる。
「藁入りのお布団です!!」
「ふかふかでお日様の匂いがします!!」
ひとしきり賑やかな声が響いた後──ふっと、静かになった。
「眠ってるみたいだね」
双子の部屋をそっと覗いたメリィが、くすりと笑う。
「この街まで、けっこうな距離があったしな。……疲れてたんだろう」
メリィの後ろに立つネロが答える。
「お前は、大丈夫か?」
彼の優しい声音に、メリィはぱっと振り返る。
「全然大丈夫だよ!ネロこそ、大丈夫?」
「……ああ」
そう言ってネロは、何気ない仕草でメリィの頭を撫でた。その手つきがあまりにも優しくて、メリィは少しだけ顔を赤らめる。
「じゃあまだ時間も早いし……色々買い出しに行かない?」
メリィの提案に、ネロは微笑んで頷く。そして、さりげなく手を差し出した。
「……あぁ」
小さく声を返し、手を繋いで二人は市場へと出た。
通りにある小さな市場は、地元の人々で賑わっていた。
活気のある声が飛び交い、色とりどりの野菜や布、薬草、干し肉、惣菜、そして日用品が店先に並ぶ。
「この地方特産の乾燥チーズだ!日持ちするから旅にはもってこいだよ!」
明るい声の店主が、丸みのあるチーズを差し出す。
「……ん、塩辛いな」
ネロがひと口かじって顔をしかめる。
「塩辛いだろう?一度水で戻してスープなんかに入れると、これが化けるんだよ!」
そう言って差し出された試飲のスープ。香りだけで胃袋が反応する。
「……これは……塩味が程よくスープに溶け込んでる。チーズのキュッとした食感とまろやかさのバランスが絶品だな」
ネロの感想に、店主は嬉しそうに顔を綻ばせる。
「アンタ、いい食レポしてくれんねぇ! 作り手としては嬉しいよ!」
乾燥チーズを買ったネロは「これで野営の食が豊かになるな」とどこか満足げだった。
その横で、メリィは別の店を覗いていた。
ここでしか採れないという薬草をタカチホに買い、ズメウやシーダが喜びそうな干し肉を袋に詰め、そして──双子に似合いそうだと、お揃いのチョーカーを手に取った。
「おまえは……なんか欲しいもんないのか?」
ネロがぽつりと問う。
「私は特に欲しいものはないかな~」
そう言って笑ったメリィだったが、ふと何か悪戯を思いついたようにくすりと笑う。
「……あ。ちょっと欲しいもの……あったかも」
「ん?」
「ネロ、しゃがんで?」
不思議そうにしゃがむネロの額へ、メリィはそっとキスを落とす。
「……ネロだったら、欲しいかな……なんて」
目を丸くしたネロの前で、メリィは得意げに笑っていた。
「……オレは、おまえがいいって言うまで待つって言った。けど──」
ネロの瞳が僅かに鋭くなる。
「煽るなら、別だ」
「えっ?」
ネロはメリィの手を強引に引き、人通りの少ない路地へと連れ込む。
「ネロ、ま、待って! 転んじゃう……!」
そのまま、壁際に押し込まれ、ネロの腕の中に閉じ込められたメリィは逃げるすべもなく、次の瞬間──
「……んっ……!」
深く、長い口付け。
やがて、口を離したメリィは、涙目で抗議した。
「く……苦しくて……しんじゃうよ……ネロ……!」
「そうか」
とだけ返したネロは、今度は彼女の首筋に顔を寄せ──噛みついた。
「いッ!?」
思わず声を上げるメリィ。首筋には歯形が刻まれ、そこから血が滲むのを舐め取るネロ。
ぷるぷると震えるメリィを見て、ネロは大きくため息をついた。
「……煽るなって、言っただろ」
そう言いながらメリィを抱き寄せると、背中を優しく撫でる。
メリィがようやく落ち着いたのを見届け、二人は再び宿屋へと歩き出した。
手は繋いでいる。けれど、互いに言葉はなかった。
宿の前に着いた時、ちょうど双子が昼寝から目を覚ましたのか、建物の前で二人に手を振っていた。
「姉さまーっ!」
駆け寄ってきたマヌルが、メリィに飛びついたその瞬間、スンスンと鼻を鳴らす。
「……ネロさま……姉さまに、何かしましたか……?」
その声には、微かな怒りの気配が混じっていた。
「姉さまからいつも以上にネロさまの匂いが……」
「マヌル! ……それ、見てください!」
メルルとマヌルがメリィの首筋にある歯形を見つけ、顔を引きつらせる。
「姉さまに……傷を付けるなんて……」
「この、鬼畜さまーーーっ!!!」
怒りのオーラを纏った双子が、爪の武器を装着し、ネロに飛びかかる。
「待て! 落ち着けって、おい、話を……!」
悲鳴と怒号が宿の前に響き渡る。
その様子を、二階の窓から見ていた三人。
「今日も……平和ですねェ」
「……ああ」
「ふふ……みんな、元気」
タカチホ、ズメウ、シーダは、それぞれ笑いながら、その賑やかな光景を見守っていた。
***
夜も更け、街のざわめきが遠のいていく。
宿の部屋は灯りが落ち、月の光だけが静かに差し込んでいた。
メリィはすでに寝台に寝転んでいた。首元には、赤く残る噛み跡。
それを見つめていたネロは、どこか申し訳なさそうに、そっとその痕に触れた。
「……自分で思ってた以上に、余裕がないんだな」
ぽつりと漏れる声は、どこか罪悪感を含んでいる。
その指先が触れた瞬間、メリィの肩が小さく揺れた。
「……っ」
「悪い、痛かったよな」
慌てて手を引こうとするネロ。けれど、彼の手は──引かれることなく、柔らかい手で包まれた。
「……ネロは、わたしを……食べたいの?」
その声に、ネロの指がぴたりと止まる。
顔を上げると、メリィがまっすぐに、ほんの少しの恥じらいと、確かな決意を宿した瞳で彼を見ていた。
「……食べる、というか……うん。いや……表現的にはどうなんだ、それは……」
言い淀みながら、もう片方の手で口元を覆うネロ。そんな彼を、メリィはくすっと笑って見つめた。
「わたし、ネロになら……食べられてもいいよ」
その一言が落ちた瞬間、ネロはほんの一瞬だけ目を見開く。
だが、すぐに深く息を吐いて、彼女の頬に手を添えた。
「……いいんだな?」
「うん」
こくんと頷いたメリィの頬は赤く染まっていたが、その目は逸らさなかった。
ネロは、ふと優しく微笑み──彼女の耳元へ唇を寄せた。
「なるべく優しくする。……ただ、途中で止まれる自信はない…覚悟しとけよ」
その言葉と共に、月明かりがそっと、二人の影を重ねていく。
春の夜はまだ浅く、けれど、部屋の中には確かな温もりが満ちていた。
それは言葉よりも確かで、静かで、甘く、やさしい。
──二人だけの時間が、ゆっくりと、深く、流れていった。
* * *
翌朝。
朝日が差し込む廊下に、ぼんやりと現れた一人の少女──メリィは、瞳をとろんとさせたまま、ぽわぽわと歩いていた。
ほわんとした雰囲気と、どこか脱力した足取り。
そのすぐ後ろからは、いつも以上に穏やかで、柔らかな表情をしたネロがゆったりと歩いてくる。
メリィの肩にそっと手を添え、気遣うように背を支えながら。
「大丈夫か?無理するなよ」
「ん……だいじょーぶ……」
とろとろとした返事に、ネロは思わず微笑む。
……そして、その姿を見つけた双子。
「……姉さま、ぽわぽわしてるです……」
「……ネロさまが、やさしいです……!」
顔を見合わせた双子は、ごそごそと懐から便箋とペンを取り出す。
「「ジョアンヌさまへ!!」」
まさかの急報を伝えねばとばかりに、ものすごい速さで手紙を書き始める。
「事件です! 姉さまが、ネロさまと……!!」
「詳細は後ほど調査します!!」
──春風が吹く風車の街の朝は、今日も賑やかだった。
やさしい光と、ちょっぴり甘い空気。
それぞれの距離が、ほんの少しだけ近づいた一夜と、その翌朝。
旅はまだ続く。けれど、今この瞬間も──
彼らの心には、確かな春が訪れていた。
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