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113.何よりも怖い物
しおりを挟む風車の回る春の街に、ほんの少し不穏な空気が漂い始めたのは、夕暮れ時の宿の食堂でのことだった。
「……最近さ、地下水路から変な呻き声が聞こえるって話があるんだよ」
そう宿の主人が、ぽつりと漏らしたのだ。
「呻き声……ですか?」
メリィが首を傾げると、主人は頷いた。
「夜だけなんだ。誰もいないはずなのに、泣いてるような……時には叫んでるような。気味が悪くてな」
その言葉を受け、一行は夜のうちに地下水路へ調査に向かうことを決めた。
地下水路の入り口は、街の隅の古びた石段を下りた先にあった。
開いた鉄扉の奥からは、冷えた空気がゆっくりと流れ出ている。
「うぅ……今すぐお布団に飛び込みたいです」
「マヌルも……」
ふるると震えるメルルとマヌルは尻尾を縮め、互いにぎゅっと寄り添うようにして震えている。
「しかし、地下水道から呻き声とは……中々ホラーテイストな案件ですネ!」
タカチホは目を輝かせながらも、飄々とした調子で先を進む。
「悪趣味だな」
ネロは苦笑しつつも、短刀に手を添えながら後に続いた。
やがて、通路の奥で何かが蠢く気配があった。
壁に灯すランタンの光が、ゆらりと揺れては濡れた石の壁を照らしている。
「……聞こえますか……?」
タカチホの声に皆が足を止めた。遠くから、確かに呻くような声が、湿った空気に乗って聞こえてくる。
「ひっ!!」
双子のどちらともつかない悲鳴が漏れ、尻尾がピンと立った。
その時だった。
「……誰なの!?」
気の強そうな女性の声が、闇の奥から響いた。
「わたしたちは、この街の人たちから呻き声が夜な夜な聞こえると噂を聞いて……調査に来たんです」
メリィが声をかけ、そろりと一歩前へ進む。
「それ以上、近づかないで!!」
鋭い叫びに、一行の動きが止まる。続けて、ズメウが無言でランタンを掲げた。
光の先、湿った壁を背にして立つ女性の後ろに――異形の怪物がいた。
黒い粘液をまとい、無数の目と触手を蠢かせる、名状しがたい生物。
「やめて!彼に手を出さないで!!」
女性は両手を広げ、怪物の前に立ちはだかる。
「私は彼と愛し合ってるの!!彼ほど優しくて情熱的な人はいないわ!!」
あまりにも真剣な表情に、一行は一瞬、言葉を失う。
「何を勘違いされているのか知りませんが……怪物は怪物ですヨ」
タカチホが静かに口を開き、銀針を一本放った。
針は触手の一つに突き刺さる。その先端は、鋭利な刃となり、女性の背に迫っていた。
「ど、どうして……」
震えた声で言うと、タカチホは淡々と答えた。
「……お足元、見えていませんか?あなたを探しに来た方々の物だと思いますヨ」
ランタンの光が、女性の足元を照らす。そこには、擦れた衣服、風化した装飾品、そして骨が転がっていた。
「……あ……」
何かに気付いたように、彼女は声を漏らす。
「おわかりいただけましたかネ」
タカチホはもう一度針を放った。続けざまに三本、五本、十本。
タカチホの針が急所と思わしき場所を的確に刺して行く。
怪物の体が大きく波打ち、ぶしゅ、と異音を立てボトボトと崩れて行く。
地面に落ちたのは、濁った赤い結晶だった。
「ッ……!」
結晶が砕ける音とともに、女はその場に座り込んだ。
そして、すぐに立ち上がり、タカチホへと駆け寄る。
「た、助けて下さりありがとうございます!!お礼をさせてください、私の家にぜひ――」
「近付かないでいただけまス?」
いつになく低い声だった。
「……あなた、臭いんですヨ」
袖で鼻を覆い、明らかに顔をしかめるタカチホ。
「さァ、撤収でス撤収!!怪物も倒しましたし、こんな場所とっとと出ましょウ!!」
メリィやズメウ、ネロの背中をぐいぐいと押し、女性をそのままに早々に来た道を戻り始める。
地上への階段を登りながら、メリィがそっと言った。
「珍しいね、タカチホがあんな嫌悪感を露わにするなんて」
「……匂いや表情でわかりましたが、あの方の言う“お礼”は……性的な意味でしタ」
タカチホは、やれやれと肩をすくめる。
「結局は、自分の欲を満たしたいだけなんですヨ。小生、ああいう類は苦手ですネ」
そして、にっこりとメリィに顔を向ける。
「出来れば小生、メリィサン達のようなハッピーな匂いが好きですので!!」
「わわっ!?吸わないでください!姉さまが減ります!!」
「タカチホさま!!やめてください!」
わたわたと止めに入る双子を、タカチホはかわしながらメリィの毛にモフッと顔を埋める。
「離れろ。今すぐだ」
淡々と呟くネロの手がタカチホの肩を掴み引き離す。
「……ボクも、メリィのふわふわ、好き」
そう言って寄ってくるシーダに、場の空気が和らいだ。
街の地下に潜んでいた奇怪な事件はこうして終わりを迎えた。
だが、誰もが心のどこかで、何かを思った。
それは、恐れでも、嫌悪でも、哀れみでもなく――
「……やっぱり怪物や魔物よりも、人が一番コワイかもですネ」
呟いたタカチホの言葉に、誰もが静かに頷いていた。
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