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第十九話

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「そんなに泣いて。俺は案外信用されていたのですね?」
「そう……みたい……。だって、私は妻だと思っていたから。あなたに愛されるものだと思い込んでいたから。両親はいがみ合っているけれど、私たちは違うんじゃないかって、思っていたから」
「いつか愛し合えると?」
 イーニッドが恥ずかしそうに胸の中で頷いている。
 思わぬ告白に、イーニッドが照れたように笑みを見せてくれた。
「私、心のどこかで期待していたの。でも、もしも信じて拒絶されたら、もしも裏切られたら。そうしたら、私、父の顔に泥を塗るわ。自分の気持ちだって、永遠にふさぎ込むだけ。それが怖くて、近寄れなかった」
 イーニッドは初めて自分の気持ちを吐露した。告白なんて初めてだが、ガウェインに聞いて欲しかったのだ。
「俺が悪いんです。強引な手を使ったから。イーニッドに嫌われても良いと思っても、あなたを手に入れたかった」
「どうして? 私、あなたにそこまで愛される意味が分からないわ」
「そうでしょうね……。ごく自然に、声を掛けてくれましたから」
「……声を掛けた……? 私が?」
「ええ。でも、その話はまた今度。今はあなたにキスをしたい」
 ガウェインは顎を掬うと、唇を重ねた。
 触れる程度なのに、とても深く綱がるような想いになる。
 それに、彼女の温もりを感じて身体中があつくなっていた。
(ああ、これ以上はいけない)
 そっと離れると、イーニッドから潤んだ瞳で見つめられた。
 そんな顔をされたら、ソファでもベッドも構わずに押し倒してしまいそうだ。
「イーニッド。私は王に父の事を暴露します。明日にでも。今、王に手紙を渡したいと申し出ているところです。王に父についてお話があると伝えました。宮中で熟慮されている間に、旅行に行きませんか? 別邸に向かい、ふたりきりの時間を過ごしましょう」
「で、でも……」
「怖いですか? 私が」
 イーニッドが小さく首を振ってくれた。
 彼女の気持ちが融解し、自分の元に来てくれたことが嬉しい。
 それだけじゃなく、王への進言が通れば、父を追い落とすことだって出来る。
「メイドに言って、支度してください。俺は今すぐ、宮廷に向かいます」
「本当にいいの? お父さまよ」
「俺はもう、とっくの昔に父とは縁を切っていると思って生きてきました。そうでもしなければ、父の道具として、扱われていたでしょう。父の命が尽きるまで自由がないなど、俺は待てない」 
 ガウェインは強い意志を持って、イーニッドに伝えた。
 彼女はこくりと頷いて、微笑んでくれる。
 自分だけの戦いじゃないことに安堵して、ふわっとした倦怠感が襲ってきた。
 慌てて背を伸ばすと、部屋を出て馬車を用意させた。
 慌てて用意された馬車に乗り込むと、瞼が落ちてきた。


  ***


 靄のかかるような現実に、これは夢の中だとガウェインは自分に言った。
 宮廷前の噴水広場、豪華な造りの宮廷の前には広い階段がある。
 足の悪い老人には辛いと、若いうちから長男に宮廷貴族での地位を譲る物が多いなか、ソレク家とマッケンジー家は老いてもなお、この階段を何度も昇り、王に進言する力を得ていた。
 ライバルではなく、互いに敵としてガウェインの父アランはマッケンジー家を恨んでいた。
 マッケンジー家に長男がいないことを嘲笑い、いつか王都を追放してやると、よく言っていたものだ。
 イーニッドがどこかの侯爵家に嫁ぐ前に、宮廷を追い出してやると言っていたが、そんな都合よくいくものかと、ガウェインはのんびりと構えていた。
 今日は父の為に資料を持ってきた。その帰りだ。
 噴水の段さに腰を下ろすと、どっと疲れも出る。
(ふう)
 王に会ってもいないのに、宮廷に入るだけでも緊張してしまった。
 父の苛立つような顔を見て、余計に胃が痛くなる。
 しばらくぼんやりと雲でも眺めていたいものだと、空を眺めていたときだ。
「あの」
「はい?」
 くりんとしたブルーの目の美人が、ガウェインを見つめていた。
 髪の毛は金髪を結い上げて、太陽に当たると光り輝くように見える。
「これ、大事なものでは。落としていかれましたが」
 すっと出されたものは、父の為に持っていけと言われたきつけ薬だった。
 資料の事で頭がいっぱいで、渡し忘れているどころか落としていたなんて。
「すみません。大事なもので」
「いいのです。私も父に用があって、ここに参りました」
 くすっと笑みを見せられて、ガウェインは胸が跳ねた。
 女性にときめくような事は今までなく、淡々と過ごすことの方が多かったのに、その笑みを見た瞬間に、心が解かされるような思いになったのだ。
「なにか?」
 女性は首を傾げている。
 ガウェインがじっと見つめ過ぎたのだろう。
 まだ胸がどくどくと鳴っていた。
(名前を聞いて、夜会でダンスを申し入れよう)
「お名前は。お礼がしたいのですが」
「イーニッド・マッケンジーと申します。宮廷に来るのは初めてで。とても緊張しております。父からは余計な人と話すなと命じられていたのですが。大切な落し物ですものね」
 イーニッドが口元に手を当ててまた微笑むと、その所作が可愛らしい。
 父の言いつけよりも、相手を思いやることが好感が持てた。
 しかしガウェインは落ち着くことが出来なかった。
 マッケンジーと言えば、敵でもある侯爵の娘。
 自分は父とは違うと誓っているとはいえ、余計な接触は好ましくない。
 そう思いつつ、ガウェインはイーニッドを見つめてしまった。あまりの美しさに思わず見入ってしまうのだ。ブルーの瞳を見ていると吸い込まれるような錯覚に陥る。透き通った肌は触れてみたいほど透明さのある白い肌だ。
「あの、お名前は?」
「ああ、『パトリック』と申します。王都には少し用があって」
 咄嗟に嘘をついて、なんとかごまかした。
 自分がマッケンジー家から離れろ命じられているのに、彼女がそう躾られていないわけがない。
 少なくとも、彼女は余計な人間とは関わるなと命じられているのがその証拠だ。
「あの、俺はもう行きます。ありがとうございます」
「私も、父の忘れものを届けないといけないの」
 イーニッドはそう言うと、会釈をして去っていった。
 後を着いて行くわけにもいかず、ガウェインはきつけ薬を持って、邸に帰った。
 帰ってくるなり、父の怒りに触れたが、イーニッドのことが忘れられず、夜会に積極的に出て、彼女を探しだした。
 でも、イーニッドはいつも壁際で夜会の様子を見ているだけだった。
 そんな彼女に声を掛けるべきか、すぐに声を掛けなければ、相手が見つかってしまうと思うのだが足が動かない。
 うまくいかない恋ほど、泥沼に足を突っ込んでいるように、はまっていく。
 彼女をよく知らないせいもあり、余計に気になって仕方なく、好意は膨らんだ。
 イーニッドを見て、とても芯が通った女性だと感じたし、素直だとも思った。
 夜会に出れば誰もが男性にすり寄るものだが、彼女はそれをせずに、自分の好きな相手をじっと見定めているようにも見える。
 勿論、誘われればダンスをしていたが、浮ついた男性と軽率に踊ることもない。
 噂話に興じる令嬢に群がることもない。
 それだけでも充分に魅力的に思えるのだが、調べさせるとオペラや読書が好きだという。
 なんとか一度でも話せればと思うのだが、名乗った瞬間にイーニッドの嫌悪の表情が目に浮かんで、踏み切れなかった。
 ガウェインだって、令嬢と形だけでもダンスを踊り、暇ではない。
 それでも、イーニッドを忘れさせてくれるほどの女性はいないのだから仕方がない。
結局、夜会で会っても遠目から見るだけで、接点もなく、マッケンジー家は王都から追放された。
 そして、ガウェインはイーニッドを手に入れる為なら、何でもすると決めたのだ。 
 靄が晴れるように、ガウェインの瞼がゆっくりと開いていく。
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