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第3節:蚕糸(さんし)
第12話:名前のない失踪
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七月に入って、取材は新しい局面に入った。
中澤が次に会ったのは、弁護士の長谷川邦彦だった。宗教問題を専門に扱う弁護士として業界では名の知れた人物で、過去に大手カルト団体の脱会訴訟を複数手がけている。
白髪交じりの髪をきっちり分け、眼鏡の奥の目つきが鋭い。六十代に差しかかった年齢だが、声には多くのものを見てきた人間に特有の、乾いた落ち着きがあった。
取材は長谷川の事務所で行われた。四谷の古いビルの三階。カルト問題の資料棚が壁の二面を占め、ファイルの背表紙にはびっしりと団体名が並んでいる。中澤はICレコーダーを置き、記事の趣旨を説明した。新興宗教の勧誘手口の実態を取材している。被害者側に立った視点で。
長谷川は頷いた。勧誘の手法について、橋本の証言とほぼ同じ構造を法律家の言葉で正確に語った。団体名を聞けば手口と組織構造を即座に言い当てられる。この分野に三十年いるとそうなるのだと長谷川は言った。
記事に必要な取材としては十分だった。だが中澤は、切り上げる前にもう一つだけ聞いてみることにした。
宮城遥人の名前は出さなかった。固有名詞を伏せ、構造だけを話した。ネット上で活動していた若い男性が、近親者の失踪を追ううちに自分も消えた。失踪前の行動に暴力や脅迫の痕跡がない。本人が自発的に連絡を断ち、どこかへ去った形になっている。宗教的な関与が噂されているが既知の団体名が出てこない。
長谷川は眼鏡を外して布で拭きながら聞いていた。拭き終えて眼鏡をかけ直す動作が妙にゆっくりだった。
「その手のケースは時々あります」
声のトーンが変わったのを中澤は聞き逃さなかった。それまでの取材対応――慣れた話題を手際よく裁く専門家の声――とは、何かが違った。
「ただ、既知の団体のどれにも該当しないケースというのがごく稀にある。相談が来ても手の出しようがないんです。団体名がない。パンフレットがない。集会場所が特定できない。ウェブサイトも、勧誘のチラシも、教祖の写真も、何一つ出てこない」
「それは団体としての実体がないということですか」
「そもそも『団体』という形をとっていない可能性がある」
中澤はペンを止めた。団体という形をとっていない。では何なのか。
長谷川は少し言い淀んだ。事務所の窓の外に目をやった。四谷の通りを行き交う人の流れを見ているようだった。それから視線を中澤に戻して、続けた。
「私のところに来た相談で、今おっしゃったのと似た構造のものが過去に二、三件ありました。いずれも本人が自発的に失踪している。家財を整理して、届けを出して、連絡先を断つ。暴力の形跡はゼロ、薬物の痕跡もない。洗脳という言葉を使うなら、これ以上ないほど完璧な洗脳です。痕跡を一切残さないという意味で」
中澤は聞いた。「その方たちの失踪前の行動に共通点はありましたか」
長谷川はまた一拍置いた。「ありました。失踪前の数ヶ月間の行動パターンが妙に似ている。孤立した人間がある時期から急に穏やかになる。周囲への態度が柔らかくなり、持ち物を整理し始め、世話になった人間に連絡を取って礼を言う。そして最後に『自分の居場所を見つけた』というようなことを言い残して消える」
穏やかになる。居場所を見つけた。挨拶をして消える。中澤の頭の中で山科の言葉が反響した。遥人の最後の電話。「もう大丈夫だから」。あの穏やかな声。
「その人たちは見つかったんですか」
長谷川は首を横に振った。「一人も」
沈黙が落ちた。事務所の時計が秒を刻む音だけが聞こえた。
中澤はノートを見下ろした。そこには取材中に走り書きした言葉が並んでいる。団体名なし、パンフレットなし、教祖なし。構造だけがある。
『構造だけがある』
中澤はその一行を見つめた。カルト勧誘の四段階――接近、依存、転換、囲い込み――は、特定の団体が意図的に設計した手法だ。しかし長谷川が語った「名前のない失踪」には、設計者の姿が見えない。手口は存在するのに手口を使う主体が不在。影だけがあって影を落としている何かが見えない。
長谷川が口を開いた。「中澤さん。記事にされるのであれば勧誘手口の一般論にとどめたほうがいい」
中澤は顔を上げた。
「この『名前のない』ほうは正直、私にもわからないことが多すぎる。わからないまま書くと、読者にも、あなた自身にも、よくない結果を招く可能性がある」
よくない結果。その言葉の含みを中澤は量りかねた。法律上のリスクを言っているのか、それとも別の何かを言っているのか。長谷川の表情からは読み取れなかった。
「助言として受け取っておきます」
「そうしてください」
長谷川は立ち上がり、中澤を事務所の入口まで送った。ドアの前で、長谷川がもう一言だけ付け加えた。
「先ほどの二、三件ですが、相談に来られたご家族にはある共通点がもう一つありました。失踪した本人が最後に向かった方角を、ご家族はなぜか知っていたんです。本人が具体的な地名を言ったわけではないのに。聞くと皆さん同じことをおっしゃる。『北の山のほうへ行った気がする』と。根拠はないのに確信だけがある。不思議な話です」
中澤はそれをノートに書き留めた。北の山。
事務所を出て四谷の坂道を駅に向かって歩いた。七月の陽射しが強くアスファルトが熱を持っていた。歩きながら考えた。記事は書ける、書ける部分だけで十分な記事になる。勧誘の四段階、脱会者の証言、専門家の分析。一次情報に基づいた黒田も納得するルポ。
書けない部分は書かなければいい。
長谷川の助言通りだ。名前のないものについては書かなければいい。
だが駅の改札を通るとき、中澤の頭の中にはまだ長谷川の最後の言葉が残っていた。「北の山のほうへ行った気がする」。根拠はないのに確信だけがある。それは何かに似ていた。何に似ているのか、中澤にはまだわからなかった。
中澤が次に会ったのは、弁護士の長谷川邦彦だった。宗教問題を専門に扱う弁護士として業界では名の知れた人物で、過去に大手カルト団体の脱会訴訟を複数手がけている。
白髪交じりの髪をきっちり分け、眼鏡の奥の目つきが鋭い。六十代に差しかかった年齢だが、声には多くのものを見てきた人間に特有の、乾いた落ち着きがあった。
取材は長谷川の事務所で行われた。四谷の古いビルの三階。カルト問題の資料棚が壁の二面を占め、ファイルの背表紙にはびっしりと団体名が並んでいる。中澤はICレコーダーを置き、記事の趣旨を説明した。新興宗教の勧誘手口の実態を取材している。被害者側に立った視点で。
長谷川は頷いた。勧誘の手法について、橋本の証言とほぼ同じ構造を法律家の言葉で正確に語った。団体名を聞けば手口と組織構造を即座に言い当てられる。この分野に三十年いるとそうなるのだと長谷川は言った。
記事に必要な取材としては十分だった。だが中澤は、切り上げる前にもう一つだけ聞いてみることにした。
宮城遥人の名前は出さなかった。固有名詞を伏せ、構造だけを話した。ネット上で活動していた若い男性が、近親者の失踪を追ううちに自分も消えた。失踪前の行動に暴力や脅迫の痕跡がない。本人が自発的に連絡を断ち、どこかへ去った形になっている。宗教的な関与が噂されているが既知の団体名が出てこない。
長谷川は眼鏡を外して布で拭きながら聞いていた。拭き終えて眼鏡をかけ直す動作が妙にゆっくりだった。
「その手のケースは時々あります」
声のトーンが変わったのを中澤は聞き逃さなかった。それまでの取材対応――慣れた話題を手際よく裁く専門家の声――とは、何かが違った。
「ただ、既知の団体のどれにも該当しないケースというのがごく稀にある。相談が来ても手の出しようがないんです。団体名がない。パンフレットがない。集会場所が特定できない。ウェブサイトも、勧誘のチラシも、教祖の写真も、何一つ出てこない」
「それは団体としての実体がないということですか」
「そもそも『団体』という形をとっていない可能性がある」
中澤はペンを止めた。団体という形をとっていない。では何なのか。
長谷川は少し言い淀んだ。事務所の窓の外に目をやった。四谷の通りを行き交う人の流れを見ているようだった。それから視線を中澤に戻して、続けた。
「私のところに来た相談で、今おっしゃったのと似た構造のものが過去に二、三件ありました。いずれも本人が自発的に失踪している。家財を整理して、届けを出して、連絡先を断つ。暴力の形跡はゼロ、薬物の痕跡もない。洗脳という言葉を使うなら、これ以上ないほど完璧な洗脳です。痕跡を一切残さないという意味で」
中澤は聞いた。「その方たちの失踪前の行動に共通点はありましたか」
長谷川はまた一拍置いた。「ありました。失踪前の数ヶ月間の行動パターンが妙に似ている。孤立した人間がある時期から急に穏やかになる。周囲への態度が柔らかくなり、持ち物を整理し始め、世話になった人間に連絡を取って礼を言う。そして最後に『自分の居場所を見つけた』というようなことを言い残して消える」
穏やかになる。居場所を見つけた。挨拶をして消える。中澤の頭の中で山科の言葉が反響した。遥人の最後の電話。「もう大丈夫だから」。あの穏やかな声。
「その人たちは見つかったんですか」
長谷川は首を横に振った。「一人も」
沈黙が落ちた。事務所の時計が秒を刻む音だけが聞こえた。
中澤はノートを見下ろした。そこには取材中に走り書きした言葉が並んでいる。団体名なし、パンフレットなし、教祖なし。構造だけがある。
『構造だけがある』
中澤はその一行を見つめた。カルト勧誘の四段階――接近、依存、転換、囲い込み――は、特定の団体が意図的に設計した手法だ。しかし長谷川が語った「名前のない失踪」には、設計者の姿が見えない。手口は存在するのに手口を使う主体が不在。影だけがあって影を落としている何かが見えない。
長谷川が口を開いた。「中澤さん。記事にされるのであれば勧誘手口の一般論にとどめたほうがいい」
中澤は顔を上げた。
「この『名前のない』ほうは正直、私にもわからないことが多すぎる。わからないまま書くと、読者にも、あなた自身にも、よくない結果を招く可能性がある」
よくない結果。その言葉の含みを中澤は量りかねた。法律上のリスクを言っているのか、それとも別の何かを言っているのか。長谷川の表情からは読み取れなかった。
「助言として受け取っておきます」
「そうしてください」
長谷川は立ち上がり、中澤を事務所の入口まで送った。ドアの前で、長谷川がもう一言だけ付け加えた。
「先ほどの二、三件ですが、相談に来られたご家族にはある共通点がもう一つありました。失踪した本人が最後に向かった方角を、ご家族はなぜか知っていたんです。本人が具体的な地名を言ったわけではないのに。聞くと皆さん同じことをおっしゃる。『北の山のほうへ行った気がする』と。根拠はないのに確信だけがある。不思議な話です」
中澤はそれをノートに書き留めた。北の山。
事務所を出て四谷の坂道を駅に向かって歩いた。七月の陽射しが強くアスファルトが熱を持っていた。歩きながら考えた。記事は書ける、書ける部分だけで十分な記事になる。勧誘の四段階、脱会者の証言、専門家の分析。一次情報に基づいた黒田も納得するルポ。
書けない部分は書かなければいい。
長谷川の助言通りだ。名前のないものについては書かなければいい。
だが駅の改札を通るとき、中澤の頭の中にはまだ長谷川の最後の言葉が残っていた。「北の山のほうへ行った気がする」。根拠はないのに確信だけがある。それは何かに似ていた。何に似ているのか、中澤にはまだわからなかった。
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