ある因習村に関する考察

赤紫

文字の大きさ
12 / 14
第3節:蚕糸(さんし)

第12話:名前のない失踪

しおりを挟む
 七月に入って、取材は新しい局面に入った。

 中澤が次に会ったのは、弁護士の長谷川邦彦だった。宗教問題を専門に扱う弁護士として業界では名の知れた人物で、過去に大手カルト団体の脱会訴訟を複数手がけている。

 白髪交じりの髪をきっちり分け、眼鏡の奥の目つきが鋭い。六十代に差しかかった年齢だが、声には多くのものを見てきた人間に特有の、乾いた落ち着きがあった。

 取材は長谷川の事務所で行われた。四谷の古いビルの三階。カルト問題の資料棚が壁の二面を占め、ファイルの背表紙にはびっしりと団体名が並んでいる。中澤はICレコーダーを置き、記事の趣旨を説明した。新興宗教の勧誘手口の実態を取材している。被害者側に立った視点で。

 長谷川は頷いた。勧誘の手法について、橋本の証言とほぼ同じ構造を法律家の言葉で正確に語った。団体名を聞けば手口と組織構造を即座に言い当てられる。この分野に三十年いるとそうなるのだと長谷川は言った。

 記事に必要な取材としては十分だった。だが中澤は、切り上げる前にもう一つだけ聞いてみることにした。

 宮城遥人の名前は出さなかった。固有名詞を伏せ、構造だけを話した。ネット上で活動していた若い男性が、近親者の失踪を追ううちに自分も消えた。失踪前の行動に暴力や脅迫の痕跡がない。本人が自発的に連絡を断ち、どこかへ去った形になっている。宗教的な関与が噂されているが既知の団体名が出てこない。

 長谷川は眼鏡を外して布で拭きながら聞いていた。拭き終えて眼鏡をかけ直す動作が妙にゆっくりだった。

「その手のケースは時々あります」

 声のトーンが変わったのを中澤は聞き逃さなかった。それまでの取材対応――慣れた話題を手際よく裁く専門家の声――とは、何かが違った。

「ただ、既知の団体のどれにも該当しないケースというのがごく稀にある。相談が来ても手の出しようがないんです。団体名がない。パンフレットがない。集会場所が特定できない。ウェブサイトも、勧誘のチラシも、教祖の写真も、何一つ出てこない」

「それは団体としての実体がないということですか」

「そもそも『団体』という形をとっていない可能性がある」

 中澤はペンを止めた。団体という形をとっていない。では何なのか。

 長谷川は少し言い淀んだ。事務所の窓の外に目をやった。四谷の通りを行き交う人の流れを見ているようだった。それから視線を中澤に戻して、続けた。

「私のところに来た相談で、今おっしゃったのと似た構造のものが過去に二、三件ありました。いずれも本人が自発的に失踪している。家財を整理して、届けを出して、連絡先を断つ。暴力の形跡はゼロ、薬物の痕跡もない。洗脳という言葉を使うなら、これ以上ないほど完璧な洗脳です。痕跡を一切残さないという意味で」

 中澤は聞いた。「その方たちの失踪前の行動に共通点はありましたか」

 長谷川はまた一拍置いた。「ありました。失踪前の数ヶ月間の行動パターンが妙に似ている。孤立した人間がある時期から急に穏やかになる。周囲への態度が柔らかくなり、持ち物を整理し始め、世話になった人間に連絡を取って礼を言う。そして最後に『自分の居場所を見つけた』というようなことを言い残して消える」

 穏やかになる。居場所を見つけた。挨拶をして消える。中澤の頭の中で山科の言葉が反響した。遥人の最後の電話。「もう大丈夫だから」。あの穏やかな声。

「その人たちは見つかったんですか」

 長谷川は首を横に振った。「一人も」

 沈黙が落ちた。事務所の時計が秒を刻む音だけが聞こえた。

 中澤はノートを見下ろした。そこには取材中に走り書きした言葉が並んでいる。団体名なし、パンフレットなし、教祖なし。構造だけがある。

『構造だけがある』

 中澤はその一行を見つめた。カルト勧誘の四段階――接近、依存、転換、囲い込み――は、特定の団体が意図的に設計した手法だ。しかし長谷川が語った「名前のない失踪」には、設計者の姿が見えない。手口は存在するのに手口を使う主体が不在。影だけがあって影を落としている何かが見えない。

 長谷川が口を開いた。「中澤さん。記事にされるのであれば勧誘手口の一般論にとどめたほうがいい」

 中澤は顔を上げた。

「この『名前のない』ほうは正直、私にもわからないことが多すぎる。わからないまま書くと、読者にも、あなた自身にも、よくない結果を招く可能性がある」

 よくない結果。その言葉の含みを中澤は量りかねた。法律上のリスクを言っているのか、それとも別の何かを言っているのか。長谷川の表情からは読み取れなかった。

「助言として受け取っておきます」

「そうしてください」

 長谷川は立ち上がり、中澤を事務所の入口まで送った。ドアの前で、長谷川がもう一言だけ付け加えた。

「先ほどの二、三件ですが、相談に来られたご家族にはある共通点がもう一つありました。失踪した本人が最後に向かった方角を、ご家族はなぜか知っていたんです。本人が具体的な地名を言ったわけではないのに。聞くと皆さん同じことをおっしゃる。『北の山のほうへ行った気がする』と。根拠はないのに確信だけがある。不思議な話です」

 中澤はそれをノートに書き留めた。北の山。

 事務所を出て四谷の坂道を駅に向かって歩いた。七月の陽射しが強くアスファルトが熱を持っていた。歩きながら考えた。記事は書ける、書ける部分だけで十分な記事になる。勧誘の四段階、脱会者の証言、専門家の分析。一次情報に基づいた黒田も納得するルポ。

 書けない部分は書かなければいい。

 長谷川の助言通りだ。名前のないものについては書かなければいい。

 だが駅の改札を通るとき、中澤の頭の中にはまだ長谷川の最後の言葉が残っていた。「北の山のほうへ行った気がする」。根拠はないのに確信だけがある。それは何かに似ていた。何に似ているのか、中澤にはまだわからなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

漆黒の闇から

一宮 沙耶
ホラー
邪悪な霊が引き起こす事件の数々 若い頃から霊が見え、精神を病んでいた私が事件を解決していく ただ、自分も黄泉の世界に巻き込まれてしまう

きさらぎ駅

水野華奈
ホラー
親友から電話があった。 きさらぎ駅という場所にいるらしい… 日常の中の小さな恐怖が今始まる。 触れてしまったが最後。 二度と戻れない。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

しずめ

山程ある
ホラー
六つの森に守られていた村が、森を失ったとき――怪異が始まった。 フォトグラファー・那須隼人は、中学時代を過ごしたN県の六森谷町を、タウン誌の撮影依頼で再訪する。 だがそこは、かつての面影を失った“別の町”だった。 森は削られ、住宅街へと変わり、同時に不可解な失踪事件が続いている。 「谷には六つのモリサマがある。 モリサマに入ってはならない。枝の一本も切ってはならない」 古くからの戒め。 シズメの森の神に捧げられる供物〝しずめめ〟の因習。 そして写真に写り込んだ――存在しないはずの森。 三年前、この町で隼人の恋人・藤原美月は姿を消した。 森の禁忌が解かれたとき、過去と現在が交錯し、隼人は“連れ去られた理由”と向き合うことになる。 因習と人の闇が絡み合う、民俗ホラーミステリー。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。

夏目
恋愛
愛している王子が愛人を連れてきた。私も愛人をつくっていいと言われた。私は、あなたが好きなのに。 (小説家になろう様にも投稿しています)

洒落にならない怖い話【短編集】

鍵谷端哉
ホラー
その「ゾワッ」は、あなたのすぐ隣にある。 意味が分かると凍りつく話から、理不尽に追い詰められる怪異まで。 隙間時間に読める短編ながら、読後の静寂が怖くなる。 洒落にならない実話風・創作ホラー短編集。

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

処理中です...