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第八章:蛇の尾、目覚める
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“黒の記録”の最後の頁に記された転送呪式は、精緻かつ悪質な構造を持っていた。
一歩間違えば、術者の肉体と精神を分離させるほどの強度を持ち、決して正規の魔術体系では扱われない。
「……こんな転送陣、王立魔術学院でも教えていないわ」
クラリスは円陣に粉末を撒きながら、眉をひそめた。ここは、王国南方の外れ、もはや国の地図にすら記されていない死の森“サルフェノ”。
森の奥深く、かろうじて空の見える広場に描かれた呪式陣が、鈍く脈動を始める。
「行くのか、クラリス」
ルークが、腰の剣に手を添えながら訊く。クラリスは頷いた。
「ええ。……この先に、“母の死の真実”があるとしたら。もう逃げられないわ」
* * *
転送呪式が起動した瞬間、世界が裏返った。目を開けた先は、石造りの神殿のような空間だった。
壁には蛇の紋章が刻まれ、空気には薬草とも腐敗ともつかぬ異臭が満ちている。
「……どこかで見たような記号……」
クラリスがそう呟いたとき、奥からかすかな足音が響いた。
「ようこそ、“蛇の尾”へ。クラリス・エルステッド」
姿を現したのは、漆黒のローブを纏った男だった。その顔は仮面で覆われていたが、ただ一つ、銀の蛇の指輪が彼の正体を物語っていた。
「貴様が……」
ルークが前に出ようとしたそのとき、クラリスは息を呑んだ。男の背後──薬草棚の影に、もう一人の人物の姿があった。白髪に薄く緑がかった瞳。年老いた女。
しかしその顔は、クラリスの記憶の底に焼きついていた。
「……まさか……そんな、嘘……」
「おかえりなさい、クラリス」
女の口元が、やさしくほころぶ。
「“お母様”──……?」
* * *
「死んだはず、だった。十年前、私は医者に“毒の副作用による心不全”と告げられた……でも……」
「確かに、私は一度“死んだ”。けれど、それは表の世界での話」
女は穏やかに椅子に腰を下ろし、かつての貴族夫人とは思えぬ静けさで語り始めた。
「私はこの〈蛇の尾〉で研究を続けていた。“毒の制御と解放”の理論を。……クラリス、お前にその才能があったからこそ、私は貴女をこの場所に導こうとしていたのよ」
「あなたが……毒の知識を与えたのは、そういう理由だったの?」
「“毒は救いよ”。不要なものを削ぎ落とし、人間の本質だけを浮かび上がらせる。私はね……この世界から偽りを消したかったの」
「母さん……それは……!」
ルークが言葉を飲み込む横で、クラリスは青ざめた顔で静かに言った。
「……私を、“利用”するつもりだったのね」
その声は震えていた。怒りでも悲しみでもない。ただただ、少女時代の信仰が崩れ落ちる音だった。
* * *
「あなたが開発しようとしていた“完全な毒”──黒の蛇毒の完全版。その被験者は、王太子だったの?」
「そう。支配と清浄の象徴として。けれど、それは失敗に終わった。だからこそ、貴女が必要だったの」
「私は……絶対に、あなたの手には堕ちない」
クラリスの声が、冷たく冴えわたる。
「私は、毒に支配される者ではなく、毒を見抜き、解毒する者。……あなたがどんなに母でも、それだけは譲れない」
「そう……ならば、見せてちょうだい。お前が“毒婦”としてではなく、“私の娘”として何を選ぶのかを」
* * *
その夜、神殿の外れの崖にて。ルークとクラリスは焚き火の前で黙って座っていた。
「……辛かったか?」
「辛い、なんてものじゃなかった。けど、不思議と……泣けなかった」
「……それは、君がもう“娘”ではなく、自分の足で立っている証拠だ」
ルークの言葉に、クラリスはゆっくりと頷いた。
「ありがとう。ルークがいたから、私はここまで来られた。毒の底に沈まなかった。……私、やっぱりあなたと一緒にいたい」
ルークは、驚いたようにクラリスを見つめた。彼女は焚火の明かりに照らされながら、真っ直ぐな目で続けた。
「これは、覚悟よ。私は、もう誰かに守られるだけの存在じゃない。だから……隣に、いてほしいの」
ルークは、静かに手を伸ばし、彼女の指をそっと握った。
「……なら、誓おう。どんな毒が待ち受けていても、俺は君の隣で、剣を抜く」
二人の影が、炎に照らされて寄り添っていた。毒の源が姿を現し、真実が剥がれ落ちる中で──
クラリスとルークの絆だけが、確かにそこに在った。
一歩間違えば、術者の肉体と精神を分離させるほどの強度を持ち、決して正規の魔術体系では扱われない。
「……こんな転送陣、王立魔術学院でも教えていないわ」
クラリスは円陣に粉末を撒きながら、眉をひそめた。ここは、王国南方の外れ、もはや国の地図にすら記されていない死の森“サルフェノ”。
森の奥深く、かろうじて空の見える広場に描かれた呪式陣が、鈍く脈動を始める。
「行くのか、クラリス」
ルークが、腰の剣に手を添えながら訊く。クラリスは頷いた。
「ええ。……この先に、“母の死の真実”があるとしたら。もう逃げられないわ」
* * *
転送呪式が起動した瞬間、世界が裏返った。目を開けた先は、石造りの神殿のような空間だった。
壁には蛇の紋章が刻まれ、空気には薬草とも腐敗ともつかぬ異臭が満ちている。
「……どこかで見たような記号……」
クラリスがそう呟いたとき、奥からかすかな足音が響いた。
「ようこそ、“蛇の尾”へ。クラリス・エルステッド」
姿を現したのは、漆黒のローブを纏った男だった。その顔は仮面で覆われていたが、ただ一つ、銀の蛇の指輪が彼の正体を物語っていた。
「貴様が……」
ルークが前に出ようとしたそのとき、クラリスは息を呑んだ。男の背後──薬草棚の影に、もう一人の人物の姿があった。白髪に薄く緑がかった瞳。年老いた女。
しかしその顔は、クラリスの記憶の底に焼きついていた。
「……まさか……そんな、嘘……」
「おかえりなさい、クラリス」
女の口元が、やさしくほころぶ。
「“お母様”──……?」
* * *
「死んだはず、だった。十年前、私は医者に“毒の副作用による心不全”と告げられた……でも……」
「確かに、私は一度“死んだ”。けれど、それは表の世界での話」
女は穏やかに椅子に腰を下ろし、かつての貴族夫人とは思えぬ静けさで語り始めた。
「私はこの〈蛇の尾〉で研究を続けていた。“毒の制御と解放”の理論を。……クラリス、お前にその才能があったからこそ、私は貴女をこの場所に導こうとしていたのよ」
「あなたが……毒の知識を与えたのは、そういう理由だったの?」
「“毒は救いよ”。不要なものを削ぎ落とし、人間の本質だけを浮かび上がらせる。私はね……この世界から偽りを消したかったの」
「母さん……それは……!」
ルークが言葉を飲み込む横で、クラリスは青ざめた顔で静かに言った。
「……私を、“利用”するつもりだったのね」
その声は震えていた。怒りでも悲しみでもない。ただただ、少女時代の信仰が崩れ落ちる音だった。
* * *
「あなたが開発しようとしていた“完全な毒”──黒の蛇毒の完全版。その被験者は、王太子だったの?」
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「私は、毒に支配される者ではなく、毒を見抜き、解毒する者。……あなたがどんなに母でも、それだけは譲れない」
「そう……ならば、見せてちょうだい。お前が“毒婦”としてではなく、“私の娘”として何を選ぶのかを」
* * *
その夜、神殿の外れの崖にて。ルークとクラリスは焚き火の前で黙って座っていた。
「……辛かったか?」
「辛い、なんてものじゃなかった。けど、不思議と……泣けなかった」
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「ありがとう。ルークがいたから、私はここまで来られた。毒の底に沈まなかった。……私、やっぱりあなたと一緒にいたい」
ルークは、驚いたようにクラリスを見つめた。彼女は焚火の明かりに照らされながら、真っ直ぐな目で続けた。
「これは、覚悟よ。私は、もう誰かに守られるだけの存在じゃない。だから……隣に、いてほしいの」
ルークは、静かに手を伸ばし、彼女の指をそっと握った。
「……なら、誓おう。どんな毒が待ち受けていても、俺は君の隣で、剣を抜く」
二人の影が、炎に照らされて寄り添っていた。毒の源が姿を現し、真実が剥がれ落ちる中で──
クラリスとルークの絆だけが、確かにそこに在った。
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