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連絡を取らず無視をし続けたとしても、きっと律は家へやってくる。家へ来ても私には追い返すことなんてできないし、今の状態で二人きりの空間に耐えられそうもない。だったら覚悟を決めて自分から連絡をとって、カフェ等人目のあるところで会って話をする方が、精神的にもいいに決まっている。
あれから返信が遅れたことを謝罪すると、律はすぐに既読をつけた。案の定、これからこちらへ向かってくる予定でいたことを伝えられ、また心がヒュンっと冷えた。「私も今打ち合わせで外にいるから、カフェで会おう」と伝えると了解の連絡が来た。
律はいつでも誰にでも、特に私に対しては大げさなほどに、誠実な対応をする。そんな律に私も自分なりに精一杯応えてきたつもりだった。今日、私は初めて律に嘘をついた。そのことを心苦しく思わないでもないが、どっちみち外に出る用事があるのも本当なので、重い腰を上げて準備をする。
周りに言っても信じてくれないほどには、私は律に愛されていて、その自覚も十分ある。伊達に8年も付き合ってない。律が私の自信のないところや、だらしないところも含めて、大事にしてくれていることは言葉の端々やその態度でしっかりと伝わっている。仕事を優先することも多々あるが、それでも私は彼の一番であって、常に気にかけてくれていることも、ちゃんと分かっているのだ。
「あの横峯くんが、アンタなんかを好きになるわけない」なんて、知らない女性に呼び出され、告げられることもしばしばあった。そんな呼び出しがあったことを私から律に告げたことはなかったが、律が私の知らないところで私を守っていてくれたのだろう。同じ女性からその後心無いことを言われることは一度もなかった。
そうやって律は、そんな心配を拭い去るだけの愛情と、誠意を持って私に接してくれる。
「大丈夫ですよ。私にとって貴女は一番ですから」
優しく目尻を落として、私の頭をゆっくりと撫でながら、律はいつもそう言ってくれた。私は未だにその言葉にも表情にも仕草にも慣れなくて、何も言わずに俯くのだ。ちゃんと分かってる。分かっているけど。
「…覚悟、ねぇ…」
ー…ギー…カランカラン…ー
「…すみません。お待たせしました」
「…ううん。さっきまで打ち合わせだったから」
「そうですか。なら尚更、少しでもお待たせして申し訳なく思います」
テーブルの上に私が注文したコーヒーがまだ湯気立っているのを確認すると、遅れてきた店員に自分のコーヒーを注文する。「何か食べますか?」「ううん、いらないかな」なんて会話にも少し緊張を感じて、出張大変だったね、とか気軽に言えない私がいる。ねぇ律、今着ているワイシャツは、もしかして、あの時のー
「透」
「、!なに?」
「あの日、あの雨の日、透が帰ってから連絡が取れなくて心配しました」
「あぁーそれはごめん」
「出張が入らなければ貴女の家に向かっていた」
「…ごめんね。実はそのまま風邪引いちゃってて…」
「…体調は?外に出て大丈夫なのですか」
「あ、熱はもう。昨日病院で点滴打ってもらってすっかりよくなった。家に帰ったのは真夜中だったから、連絡できなくてごめん…」
「いえ。事情は分かりました。ですが、点滴を打つほどとは…病院には一人で?」
「いや、日向が来てくれて。玄関で倒れてた私を発見して、タクシーの運転手さんと一緒に運んでくれたみたい。それに、日向が今朝までずっと付いててくれたから、もうほんとに、ばっちり!」
「そうでしたか…日向さんに連絡しても、私に連絡を取ることはできなかったということですね」
……しまった失言だったか…
「あ、いや、たまたま電話が来て、ほら!先週日本に帰ってきて!やっと休みが取れたって来てくれたんだよね」
「ではその後、連絡を遮断するために電源を落としていたと?」
……またしても失言だった…
「透。逃げないで、私の話を聞いてほしい」
「っ!」
…逃げてない。私はあの現実から逃げたかったわけじゃなくて、これより先に進むのが怖かっただけ。でももう、誤魔化しがきくわけでもない。腹を括るってまさに、身をよじる覚悟が必要なんだなと、またぼんやりと考える。
「…あの日は、貴女が思っているようなことは何一つない。あの日、彼女と二人で取引先に出向いていたら、貴女の知る通り突然の雨に打たれてしまった。私たちは帰社する予定でしたが、タクシーにも乗れない程に濡れてしまったので、仕方なくタオルを貸すために家へ寄りました。彼女にはエントランスで待ってもらい、タオルを渡したら帰社するつもりで自宅にタクシーの手配までしておいたんです。
ですが、道中車の泥跳ねに合ってしまった上に、トラブルの連絡が入り急遽出張が決まったので、私は着替えとその準備をして、彼女は呼んだタクシーで先に社に帰すことになりました。ただ、都合上共に会社へ戻る必要があり、仕方なくリビングまで入れてしまった。
シャワーを浴びる間決してリビングから動かないよう伝えたのですが、彼女は自分を庇ったせいで汚れたと思い込み、シャツの泥を洗おうとしていました。そこに貴女が現れた。
…嘘だと思うのなら、会社に連絡をしてもいい。会社には家に寄った事情もその間の時間や内容も全て報告してあります。誓って言う。貴女が思うような勘違いはなにもない」
こんな時でも冷静に、落ち着いた声で優しく語りかけられる律を尊敬すると同時に、そんな律が私は大好きだった。
律とは学生時代に知り合った。法学部の彼と文学部の私が知り合ったきっかけは、たまたま同じ講義を取っていたときに彼が読んでいた本が、私のどストライクをついていて、思わず話しかけたことがきっかけである。
人と積極的に関わることが苦手な私も、そのマイナーな作家のこれまたマイナーな作品を真剣に読む姿に感激し、勝手に同志認定をしてその日は馴れ馴れしくも彼の隣に座って講義を受けた。後日、彼はそのルックスや真面目な性格から、学内外でもとても有名な人で、虎視眈々と彼の隣を狙う女性が大勢いることを知り、明日から大学に行けない!と日向に泣きついたのも忘れられない思い出の一つである。
その時から彼は優しかった。突然話しかけた時は、訝しげな様子だったが、本の話と分かれば私を邪険に扱うことをせず、この作品を好きな人に会えたことが嬉しいと、素直にそう言ってくれたのだ。もう会うことはないと、特に連絡先も交換しないままその日は別れたが、次の講義で彼から隣に座ってくれたときには心が踊り、今まで出会えなかった「趣味の合う友人」ができたことが、とても嬉しかった。
後から聞いた話だけど、このときの律は特定の誰かと関わり合うことを嫌っていて、人とは常に一定の距離をとっていたらしい。特に女性に対しては紳士な態度をとりつつも、自ら近づくこともなく、また近づこうものなら直接的に拒む程には人間関係を遮断していてらしお。そんな律が学部外の、それもぱっとしない女に自分から話しかけたことは、学内に激震が走ったのだが、当時の私はそんなこと知る由もなかった。
講義外でも話すようになるまで、そう時間はかからなかった。彼との話はとても楽しく、また驚くほどに趣味が合った。好きな作家の話、新刊の本についてカフェで語って1日を終えたこともある。あの時のことを今でも二人で思い出しては、「高校生みたいなデートだったね」と笑い合うのだ。
そんな私たちがなるべくしてなったかのようにお付き合いを始めたのも、考えれば自然な流れだったなと、後に日向は笑っていた。
付き合おうとか、明確な言葉があったわけではない。ただ、律の「私にとって、貴女は一番の存在です」て言葉に、私がそのままコロリと落ちてしまっただけ。
忘れもしない。あの時の高揚感を。今までのらりくらりと生きてきた私は、人生において一番になりたいと思ったことなんてなかった。それでも律の一番になれたことは、生涯の誉れなように感じた。
私にとっても、律は一番だったんだ。
「…ただ、何を言っても言い訳にしか聞こえないと思います。どう考えても彼女を家に上がらせるべきではなかった。仕事の都合上なんてどうにもなることでした。現にあの後、当初の予定通り彼女を先に会社へ戻らせ、私は結局上司に電話報告のみで北海道に旅立ったんです。
ただ何度も言うが、やましいことは誓って何もありません。………聞いていますか?透」
「…律、あのさ」
貴方の声で、名前を呼ばれる度に、心の泉が湧き上がり幸福感に満たされていた。
「…大丈夫、ちゃんと分かってるんだよ」
貴方の丁寧な接し方は、私への誠実さで溢れている。
「…だって律はいつも、私を本当に大切にして、一番に考えてくれている。もしあの日何かあったのなら、きっと正直に言ってくれる。だから律が何もなかったって言うなら、本当にそうなんだと思う。信じてる…って言うよりは、律ならそうだろうっていう確信があるから。それに、律はあの時もすぐにきっちり否定してくれたでしょう?だから、だからね、律。私何も勘違いなんてしてないんだよ」
今言わねばならないと、頭では分かっている。同時にその反対側で、警鐘が鳴る。これを言ったら、全てが終わってしまうと。いやだなぁ。辛いなぁ。でも、脳裏に焼き付いた、あの、シワの寄ったワイシャツが私を駆り立てるのだ。
「…律。あのね、私たち…」
prrrrr……
「、!あ!ごめん!音切ってなかった!」
「…いいえ。気になさらず。仕事関係では?」
「あー、織田くんからだ。なんだろう」
「…織田くん?」
「え?あ、伝えてなかったかも。最近バタバタしてたもんなぁ。織田翔平くん、っていって、今年新卒で出版社に入社した子なの。今本田さんに付いて研修を受けてるみたいで。一人担当作家を受け持つことになったらしくて、あくまでメインは本田さんで、織田くんはサブなんだけど、1ヶ月くらい前から私についてくれることになったの。それ以来細かい業務連絡とかは織田くんがくれるの」
「…そうでしたか……気になさらず、どうぞ出てください」
「えーっと、ごめんね」
ピッ
「はい、もしもし」
『ああ先生?春野先生ですよね?俺です!織田です!今お時間よろしいですか?!』
「大丈夫だけど…どうしたの?そんなに慌てて…」
『ああああの!先生!落ち着いて聞いてくださいね!声とかあげちゃだめですよ!あのですね!実は!!』
「えーっと、よく分からないけど、私今外にいるから、もう少し声のボリュームを落としてもらえると助かるんだけど」
『先生の前回の作品が、〇〇賞に選ばれました!!』
…は?え?〇〇賞?って、あの有名な?
ニュースとか、ワイドショーとかにも取り上げられるやつ?
「…は?〇〇賞って、選ばれって、え?ちょっと待って?ノミネートされてたの?!」
『ええええええ!ご存知なかったんですか!』
「だって、織田くんそんなこと一言も言ってないよね?!」
『いや、ノミネートに関しては2ヶ月ほど前から打診があって、社内で掛け合って決まったことなので、本田さんがお伝えしていると思うのですが!あー…ちょっとお待ちくださいね!………本田さん!先生ノミネートのことすら知らないって言ってますよ!』
「ああああの織田くん!私今外だから、もう少し小さい声で…」
『……ようよう春野先生。ご機嫌麗しゅう』
「え、あ、本田さん!何が何だか…私何も聞いてないと思うけど!」
『とりあえずさ、もろもろの話がしたいから、今から家に行かせてもらうわ』
「ええええええ今から?いや待って、だから私今外にいて…」
「…透」
…そう、この声。この声だけは、例えどんなに周りが騒がしくても私の耳に届いてくる。混乱した頭の中を浸透して、私の心を癒やしてくれる。
「…、!ごめん、聞こえてた、よね?」
「はい。大事な話ですから、家に来てもらいましょう」
「いや、でもまだ律と話して!」
「大丈夫ですよ。私も貴女の家に行きます。一緒に話を伺ってもよろしいですか?」
「え、それはいい、けど…」
「ではそのように。先に会計をすませています」
律はそう言うと、伝票と私の荷物を持って立ち上がる。
「えーっと、本田さん。私も今から家に帰るので、30分くらいはかかりますし、1時間後に家に来てもらうということで…」
『わかった。30分後だな。井上と俺と織田、3人で行くから』
「えええ?!いや1時間後に…って、井上さん?取締役も来られるんですか?!」
『じゃ、30分後に。よろしく』
「いや、だから!1時間後に…プツ………あれ?本田さん?え?嘘、切ったの?」
本田さんの傲慢さには慣れていたつもりだけど、これは相当くるものがある。まぁこれだけグイグイできないと、大手出版社の文芸編集長なんて勤まらないんだろうけども。でも書店取締役の井上さんまで来られるなんて、結構大事の話になってきたなぁと、もともとキャパの少ない私の頭の容量では既にパンク状態だ。
「透。どうしましたか?」
「…え、あ、律。あの、織田くんと本田さんと、後取締役が3人で、30分後に、」
「なるほど。わかりました。では急ぎましょう。外にタクシーを呼んでいますので、詳しいことはそこで。さぁ上着を着て。日暮れは冷えますから」
会計も済ませたと思ったらタクシーまで手配して、どこまでできる男なのかとため息が出る。私のコートを広げて待つ律に背中を向けて、コートを羽織る。
「…私!今放り出されたら、一人で家まで帰れないと思う」
「そんなことはありませんから安心してください。帰りましょう」
家で二人きりなんて無理だと思ってカフェに来たことなんて、すっかり抜け落ちていた。でも、律との話し合いがまだできていないことが気がかりで、とにかく仕事の話が終わったらちゃんと伝えようと、頭の中の大事な引き出しの中に貼り付けた。
あれから返信が遅れたことを謝罪すると、律はすぐに既読をつけた。案の定、これからこちらへ向かってくる予定でいたことを伝えられ、また心がヒュンっと冷えた。「私も今打ち合わせで外にいるから、カフェで会おう」と伝えると了解の連絡が来た。
律はいつでも誰にでも、特に私に対しては大げさなほどに、誠実な対応をする。そんな律に私も自分なりに精一杯応えてきたつもりだった。今日、私は初めて律に嘘をついた。そのことを心苦しく思わないでもないが、どっちみち外に出る用事があるのも本当なので、重い腰を上げて準備をする。
周りに言っても信じてくれないほどには、私は律に愛されていて、その自覚も十分ある。伊達に8年も付き合ってない。律が私の自信のないところや、だらしないところも含めて、大事にしてくれていることは言葉の端々やその態度でしっかりと伝わっている。仕事を優先することも多々あるが、それでも私は彼の一番であって、常に気にかけてくれていることも、ちゃんと分かっているのだ。
「あの横峯くんが、アンタなんかを好きになるわけない」なんて、知らない女性に呼び出され、告げられることもしばしばあった。そんな呼び出しがあったことを私から律に告げたことはなかったが、律が私の知らないところで私を守っていてくれたのだろう。同じ女性からその後心無いことを言われることは一度もなかった。
そうやって律は、そんな心配を拭い去るだけの愛情と、誠意を持って私に接してくれる。
「大丈夫ですよ。私にとって貴女は一番ですから」
優しく目尻を落として、私の頭をゆっくりと撫でながら、律はいつもそう言ってくれた。私は未だにその言葉にも表情にも仕草にも慣れなくて、何も言わずに俯くのだ。ちゃんと分かってる。分かっているけど。
「…覚悟、ねぇ…」
ー…ギー…カランカラン…ー
「…すみません。お待たせしました」
「…ううん。さっきまで打ち合わせだったから」
「そうですか。なら尚更、少しでもお待たせして申し訳なく思います」
テーブルの上に私が注文したコーヒーがまだ湯気立っているのを確認すると、遅れてきた店員に自分のコーヒーを注文する。「何か食べますか?」「ううん、いらないかな」なんて会話にも少し緊張を感じて、出張大変だったね、とか気軽に言えない私がいる。ねぇ律、今着ているワイシャツは、もしかして、あの時のー
「透」
「、!なに?」
「あの日、あの雨の日、透が帰ってから連絡が取れなくて心配しました」
「あぁーそれはごめん」
「出張が入らなければ貴女の家に向かっていた」
「…ごめんね。実はそのまま風邪引いちゃってて…」
「…体調は?外に出て大丈夫なのですか」
「あ、熱はもう。昨日病院で点滴打ってもらってすっかりよくなった。家に帰ったのは真夜中だったから、連絡できなくてごめん…」
「いえ。事情は分かりました。ですが、点滴を打つほどとは…病院には一人で?」
「いや、日向が来てくれて。玄関で倒れてた私を発見して、タクシーの運転手さんと一緒に運んでくれたみたい。それに、日向が今朝までずっと付いててくれたから、もうほんとに、ばっちり!」
「そうでしたか…日向さんに連絡しても、私に連絡を取ることはできなかったということですね」
……しまった失言だったか…
「あ、いや、たまたま電話が来て、ほら!先週日本に帰ってきて!やっと休みが取れたって来てくれたんだよね」
「ではその後、連絡を遮断するために電源を落としていたと?」
……またしても失言だった…
「透。逃げないで、私の話を聞いてほしい」
「っ!」
…逃げてない。私はあの現実から逃げたかったわけじゃなくて、これより先に進むのが怖かっただけ。でももう、誤魔化しがきくわけでもない。腹を括るってまさに、身をよじる覚悟が必要なんだなと、またぼんやりと考える。
「…あの日は、貴女が思っているようなことは何一つない。あの日、彼女と二人で取引先に出向いていたら、貴女の知る通り突然の雨に打たれてしまった。私たちは帰社する予定でしたが、タクシーにも乗れない程に濡れてしまったので、仕方なくタオルを貸すために家へ寄りました。彼女にはエントランスで待ってもらい、タオルを渡したら帰社するつもりで自宅にタクシーの手配までしておいたんです。
ですが、道中車の泥跳ねに合ってしまった上に、トラブルの連絡が入り急遽出張が決まったので、私は着替えとその準備をして、彼女は呼んだタクシーで先に社に帰すことになりました。ただ、都合上共に会社へ戻る必要があり、仕方なくリビングまで入れてしまった。
シャワーを浴びる間決してリビングから動かないよう伝えたのですが、彼女は自分を庇ったせいで汚れたと思い込み、シャツの泥を洗おうとしていました。そこに貴女が現れた。
…嘘だと思うのなら、会社に連絡をしてもいい。会社には家に寄った事情もその間の時間や内容も全て報告してあります。誓って言う。貴女が思うような勘違いはなにもない」
こんな時でも冷静に、落ち着いた声で優しく語りかけられる律を尊敬すると同時に、そんな律が私は大好きだった。
律とは学生時代に知り合った。法学部の彼と文学部の私が知り合ったきっかけは、たまたま同じ講義を取っていたときに彼が読んでいた本が、私のどストライクをついていて、思わず話しかけたことがきっかけである。
人と積極的に関わることが苦手な私も、そのマイナーな作家のこれまたマイナーな作品を真剣に読む姿に感激し、勝手に同志認定をしてその日は馴れ馴れしくも彼の隣に座って講義を受けた。後日、彼はそのルックスや真面目な性格から、学内外でもとても有名な人で、虎視眈々と彼の隣を狙う女性が大勢いることを知り、明日から大学に行けない!と日向に泣きついたのも忘れられない思い出の一つである。
その時から彼は優しかった。突然話しかけた時は、訝しげな様子だったが、本の話と分かれば私を邪険に扱うことをせず、この作品を好きな人に会えたことが嬉しいと、素直にそう言ってくれたのだ。もう会うことはないと、特に連絡先も交換しないままその日は別れたが、次の講義で彼から隣に座ってくれたときには心が踊り、今まで出会えなかった「趣味の合う友人」ができたことが、とても嬉しかった。
後から聞いた話だけど、このときの律は特定の誰かと関わり合うことを嫌っていて、人とは常に一定の距離をとっていたらしい。特に女性に対しては紳士な態度をとりつつも、自ら近づくこともなく、また近づこうものなら直接的に拒む程には人間関係を遮断していてらしお。そんな律が学部外の、それもぱっとしない女に自分から話しかけたことは、学内に激震が走ったのだが、当時の私はそんなこと知る由もなかった。
講義外でも話すようになるまで、そう時間はかからなかった。彼との話はとても楽しく、また驚くほどに趣味が合った。好きな作家の話、新刊の本についてカフェで語って1日を終えたこともある。あの時のことを今でも二人で思い出しては、「高校生みたいなデートだったね」と笑い合うのだ。
そんな私たちがなるべくしてなったかのようにお付き合いを始めたのも、考えれば自然な流れだったなと、後に日向は笑っていた。
付き合おうとか、明確な言葉があったわけではない。ただ、律の「私にとって、貴女は一番の存在です」て言葉に、私がそのままコロリと落ちてしまっただけ。
忘れもしない。あの時の高揚感を。今までのらりくらりと生きてきた私は、人生において一番になりたいと思ったことなんてなかった。それでも律の一番になれたことは、生涯の誉れなように感じた。
私にとっても、律は一番だったんだ。
「…ただ、何を言っても言い訳にしか聞こえないと思います。どう考えても彼女を家に上がらせるべきではなかった。仕事の都合上なんてどうにもなることでした。現にあの後、当初の予定通り彼女を先に会社へ戻らせ、私は結局上司に電話報告のみで北海道に旅立ったんです。
ただ何度も言うが、やましいことは誓って何もありません。………聞いていますか?透」
「…律、あのさ」
貴方の声で、名前を呼ばれる度に、心の泉が湧き上がり幸福感に満たされていた。
「…大丈夫、ちゃんと分かってるんだよ」
貴方の丁寧な接し方は、私への誠実さで溢れている。
「…だって律はいつも、私を本当に大切にして、一番に考えてくれている。もしあの日何かあったのなら、きっと正直に言ってくれる。だから律が何もなかったって言うなら、本当にそうなんだと思う。信じてる…って言うよりは、律ならそうだろうっていう確信があるから。それに、律はあの時もすぐにきっちり否定してくれたでしょう?だから、だからね、律。私何も勘違いなんてしてないんだよ」
今言わねばならないと、頭では分かっている。同時にその反対側で、警鐘が鳴る。これを言ったら、全てが終わってしまうと。いやだなぁ。辛いなぁ。でも、脳裏に焼き付いた、あの、シワの寄ったワイシャツが私を駆り立てるのだ。
「…律。あのね、私たち…」
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「、!あ!ごめん!音切ってなかった!」
「…いいえ。気になさらず。仕事関係では?」
「あー、織田くんからだ。なんだろう」
「…織田くん?」
「え?あ、伝えてなかったかも。最近バタバタしてたもんなぁ。織田翔平くん、っていって、今年新卒で出版社に入社した子なの。今本田さんに付いて研修を受けてるみたいで。一人担当作家を受け持つことになったらしくて、あくまでメインは本田さんで、織田くんはサブなんだけど、1ヶ月くらい前から私についてくれることになったの。それ以来細かい業務連絡とかは織田くんがくれるの」
「…そうでしたか……気になさらず、どうぞ出てください」
「えーっと、ごめんね」
ピッ
「はい、もしもし」
『ああ先生?春野先生ですよね?俺です!織田です!今お時間よろしいですか?!』
「大丈夫だけど…どうしたの?そんなに慌てて…」
『ああああの!先生!落ち着いて聞いてくださいね!声とかあげちゃだめですよ!あのですね!実は!!』
「えーっと、よく分からないけど、私今外にいるから、もう少し声のボリュームを落としてもらえると助かるんだけど」
『先生の前回の作品が、〇〇賞に選ばれました!!』
…は?え?〇〇賞?って、あの有名な?
ニュースとか、ワイドショーとかにも取り上げられるやつ?
「…は?〇〇賞って、選ばれって、え?ちょっと待って?ノミネートされてたの?!」
『ええええええ!ご存知なかったんですか!』
「だって、織田くんそんなこと一言も言ってないよね?!」
『いや、ノミネートに関しては2ヶ月ほど前から打診があって、社内で掛け合って決まったことなので、本田さんがお伝えしていると思うのですが!あー…ちょっとお待ちくださいね!………本田さん!先生ノミネートのことすら知らないって言ってますよ!』
「ああああの織田くん!私今外だから、もう少し小さい声で…」
『……ようよう春野先生。ご機嫌麗しゅう』
「え、あ、本田さん!何が何だか…私何も聞いてないと思うけど!」
『とりあえずさ、もろもろの話がしたいから、今から家に行かせてもらうわ』
「ええええええ今から?いや待って、だから私今外にいて…」
「…透」
…そう、この声。この声だけは、例えどんなに周りが騒がしくても私の耳に届いてくる。混乱した頭の中を浸透して、私の心を癒やしてくれる。
「…、!ごめん、聞こえてた、よね?」
「はい。大事な話ですから、家に来てもらいましょう」
「いや、でもまだ律と話して!」
「大丈夫ですよ。私も貴女の家に行きます。一緒に話を伺ってもよろしいですか?」
「え、それはいい、けど…」
「ではそのように。先に会計をすませています」
律はそう言うと、伝票と私の荷物を持って立ち上がる。
「えーっと、本田さん。私も今から家に帰るので、30分くらいはかかりますし、1時間後に家に来てもらうということで…」
『わかった。30分後だな。井上と俺と織田、3人で行くから』
「えええ?!いや1時間後に…って、井上さん?取締役も来られるんですか?!」
『じゃ、30分後に。よろしく』
「いや、だから!1時間後に…プツ………あれ?本田さん?え?嘘、切ったの?」
本田さんの傲慢さには慣れていたつもりだけど、これは相当くるものがある。まぁこれだけグイグイできないと、大手出版社の文芸編集長なんて勤まらないんだろうけども。でも書店取締役の井上さんまで来られるなんて、結構大事の話になってきたなぁと、もともとキャパの少ない私の頭の容量では既にパンク状態だ。
「透。どうしましたか?」
「…え、あ、律。あの、織田くんと本田さんと、後取締役が3人で、30分後に、」
「なるほど。わかりました。では急ぎましょう。外にタクシーを呼んでいますので、詳しいことはそこで。さぁ上着を着て。日暮れは冷えますから」
会計も済ませたと思ったらタクシーまで手配して、どこまでできる男なのかとため息が出る。私のコートを広げて待つ律に背中を向けて、コートを羽織る。
「…私!今放り出されたら、一人で家まで帰れないと思う」
「そんなことはありませんから安心してください。帰りましょう」
家で二人きりなんて無理だと思ってカフェに来たことなんて、すっかり抜け落ちていた。でも、律との話し合いがまだできていないことが気がかりで、とにかく仕事の話が終わったらちゃんと伝えようと、頭の中の大事な引き出しの中に貼り付けた。
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