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「…穂」
「?…え、ま、守兄!」

あの事件から数日経った頃、就業時間になり身支度を終えてエレベーターを降りると、会社のエントランスに守兄の姿があった。仕事帰りなのか、相変わらずスーツがぴしっと決まっている。

「どうしたの?」
「ん?穂とご飯でもって思ってな。俊には言っといたから」
「え、二人で?わー珍しい!どこにいく?」

守兄は兄という感覚よりも自分を育ててくれた人という思いの方が大きい。親と言うには年が近いし、後見者と言うには少し遠くて、なんだかんだ"保護者"が1番しっくりくる。だからつい、守兄の前では子どもじみた部分が出てしまうのだ。
はしゃぐ私に守兄は優しく頭を撫でてから「穂と行きたかったイタリアンがあるんだ」なんて言うから、仕事の疲れなんて吹っ飛んでしまった。





「それで、仕事はどうなんだ?うまくやってるのか?」
「んーまぁ、ぼちぼちかな」
「ふふ、穂はいつもぼちぼちだな」

そう言って笑う守兄がふと真剣な顔をするので、これは過保護が働いたんだなぁと確信を持った。

「…俊兄たちに聞いたんでしょ…」
「そらなぁ。可愛い娘が頬を腫らして帰ってくるなんて、驚くだろう?」
「ほんとに大したことないのに…」
「心配くらいさせてやれ、兄貴なんだから」

そう言ってワイングラスを傾ける守兄に何も言えなくなる。あの事件のあった日、後処理に追われて日付を超えた時刻に帰ってきた妹が左頬を腫らしていたもんだから、3人の兄たちは失神するかの如く衝撃で固まってしまった。何があったか根掘り葉掘り聞かれて、眠い眼を擦りながら答えていたらいつの間にか朝になっていたのも記憶に新しい。二徹なんてものをした私は全てが限界で、横山くんと2人、疲れただろうと次の日を休みにしてくれた社長の懇意をありがたく受け取り、次の日は一日眠り続けた。心配をかけたのはよく分かっているが、寝かせてくれてもよかったんじゃないかなんて思ってしまう私もいる。

「私はやり返してないよ」
「いっそやり返してやればよかったのに」

ふふっと笑いながらも、目は冗談だといっていないあたりが、守兄も過保護だよなぁと思う。態度には出さないけれど、兄の中で1番の心配性なのだ。

「ちょっと仕事でモメただけ。なんでもないよ」
「"冬木部長"は関係しているのか?」

不意に出たその名前に思わずドキッとしてしまう。なんでその名前を…

「…健兄ね…」
「背も高く、なかなかのイケメンだって言ってたぞ」

全く、どうしてこうもうちの兄たちはおしゃべりなのか。お互いに全部筒抜けになるので、一人に相談しようものなら次の日にはみんな知ってるなんてこと、今までもザラにあった。小学生の頃に初経を迎えた時だって、そっと俊兄に伝えて一緒に生理用品を買いに行った帰りに、守兄がお赤飯を炊いて、玄関でみんながクラッカーを鳴らしたときはみんなと3日口をきかなかったな、なんて昔の話も思い出す。

「彼はそんなんじゃないし、それに今回のことには全く関係ない」
「…ほんとに?」
「ほんとよ。モメたのは仕事のことだもの」
「ちがうよ。"彼はそんなんじゃない"ってところ」

思わず言葉に詰まってしまう。
あれから一度も彼とは会っていなかった。わたしも次の日は休んで、それから後処理と通常業務に追われてデスクにかじりついていたし、横山くんの話では企画開発部の方も多くを取り戻すべく慌ただしい毎日を過ごしていると言っていた。ただ、あの日の夜、私の頬と体調を心配するメッセージを送ってくれていた。もっとも、私がそれに気付いたのは次の日だったし、返事もしないままそれ以来連絡もとってないのだが。

言い淀む私をじっと見つめていた守兄は、途から机に頬杖をついて、ふっと笑った。

「…なに?」
「穂は昔から自分が幸せになろうとする道を避ける傾向にあるよな」



「ほら、覚えてるか。穂が幼稚園の頃、帰りにアイス食って帰ろうって言ったら喜んでたのに、いざ買ったら店の前で大号泣したの」
「…そんなの覚えてないよ」
「何がそんなに嫌だったのかって後で聞いたら、大好きなアイスを食べられたけど、お腹がいっぱいで夕飯が入らないかもしれないって思って、それが悲しかったって」
「……ふふ、なにそれ」
「昔からそういうことを気にする奴だったよ。特に父さんと母さんが亡くなってから顕著だったな」

その言葉にあの日の光景が思い浮かぶ。小学生だった私はあの時学校にいて、血相を変えた守兄が迎えに来てくれた。

「自分の感情に蓋をして、目の前のことに集中する。見たい映画があってもテスト前でもないのに勉強を優先するし、着たいワンピースがあってもお小遣いの範囲外なら求めない。目の前にある小さな幸せを選ばずに、役割や仕事を選んで合理的判断をする。その選ばなかった幸せは、俺たちに言えばいくらでもすぐに叶えてやれたのに」

「それを、少し心配していたんだよ」そう言って切なそうに笑う守兄に胸が痛くなる。自分ではそんなつもりはなかったし、守兄の言う選ばなかったものの中に後悔なんて残してこなかったのに。

「俊があの花屋を継ぐと決まったとき、穂は大学を選ばなかっただろ?俊がフランスから帰ってくる時期は丁度穂の高校卒業の時期で、うちで花屋を開くって分かったあの時の穂の決断を、俺は忘れていない」
「決断って、そんな大したものじゃ…」
「十分大した決断だったよ。高3の時に担任が勧める大学を全部断って、通信制の大学受験したと思ったら自分で入学金納めて。資格取りながら店を手伝うなんて、あのとき誰も思いもしなかったよ」
「で、でもそれは」
「分かってる。株で増やした軍資金を元手に高校生になってから始めた個人事業も軌道に乗っていたし、電車に乗って大学に通うよりもあの生活スタイルが一番穂に合ってたんだろ?穂は自分に一番いい選択をしたんであって、何かを我慢した訳でも、俊や俺たちのためにある種犠牲になったわけでもない。だがな、」

そこで一度言葉を区切った守兄は、ふと手元に視線を落としてからまた顔を上げて私を見た。その顔が真剣そのもので、でもその目の奥にある優しさに痛くなった私の胸が今度はほんのりと暖かくなる。

「穂はもっと貪欲に求めてもいい。世の中にはお前が選ばなかった道もちゃんとある。夕飯の前にアイスを食べたって飯は食えるし、気に入ったワンピースを着るだけで世界は華やいで見える。映画を見れば見解が広がるし、大学に通って友だちと遊び歩けば知らないカフェで新たな出会いがあるかもしれない。外に出れ行ったことのない路地裏で美味しい和菓子屋さんを見つけることもできる。……花屋を手伝わなくたって、お前はうちの大事な妹で、父さんと母さんの自慢の娘だよ。それは揺るぎない事実だ」

「世の中は合理的なものばかりじゃない」と言われて、もう私は何も言えなくなる。そんなこと、生まれてこの方何度も思ってる。別にこの生き方が正しいなんて思っていないし、かと言って間違っているとも思っていないのに。なのに最近では割り切って進もうとすると必ず彼が現れる。

―データとか、そんなことより僕は…君が心配で急いで帰ってきたんだよ。守ってあげられなくてごめん―

あの時そう言われて、私はなんて答えたんだっけ…


「…っ私はやりたくてやってるんだよ。仕事だから大変でも頑張るし、それが役割だから面倒でもやるし。人として当たり前のことを、どうして心配するの」
「それはみんなが穂を愛しているからだよ」
「…え」
「みんな穂のことが大事なんだ。家族として妹として、心から愛してる。もちろん俺は、仮にこれが俊でも悟でも、健でも同じことを言うよ。この世に一人しかいない、俺の愛する兄弟たちだからな」
「…守兄」

じんわりと固くなった心が解されて初めて、私はずっとあの日からカチコチに固まっていたんだと気づいた。私が大事だと思っている兄弟たちが、私のことも大事に思ってくれている。分かっていたはずなのに、改めてじんわりと浸透していく。

「……まぁ、もし…家族以外で他にも同じように心配してくれる人がいるなら、それは相当愛されてるってことだ」

―それでも僕にとって君は、かけがえの無い愛しい人だよ―

頭に浮かんだのは、あの人の優しい顔。



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