運命を破り捨てないで。

ますじ

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千晴の場合――1

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 いつかは素敵な運命の番と結ばれて、結婚式には友達を沢山呼んで。新婚旅行は海外にいったりして、そのうちかわいい子供にも恵まれてさ。
 そんな話をぽやぽやとした顔で語る愛良に、千晴はため息をつきながら食べかけの菓子パンを置いた。愛良のふわふわの金髪が日差しを反射していて眩しい。そんな友人を眺めながら、千晴は無意識に自分の茶色い前髪を指に巻き付けていた。
 本当は自分も、こんなふうに愛らしい容姿に生まれたかった。まさしく愛良は愛されるため生まれたオメガらしい造形だ。少女のように大きな瞳が可愛らしく、天真爛漫な性格で人を惹きつける。それに比べて自分はオメガというよりはベータに近かった。オメガはその性質上、庇護欲をそそる容姿に生まれやすいとされるが、自分に当てはまるところと言えば色白を通り越して蒼白した肌くらいだ。飛び抜けて整ってもいなければ劣っているわけでもない顔立ちは、子供の頃からのコンプレックスでもある。

 高校生にもなれば、ほとんどの子供に第二性の特徴が強く現れはじめる頃だ。母親に持たされた弁当をつつく愛良も、まさしくその最中である。
 彼はつい先日ヒートが終わったばかりで、そのぽやんとした顔を見るとまだ若干の名残があるように感じた。それでも難なく学校に通えているのは、彼の首にしっかりと嵌っている頑丈な首輪のおかげもあるだろう。愛良は家族が過保護なこともあってか、事故による番契約を防止する高価な首輪をつけているし、薬もきちんと飲んでいてヒートの周期も安定している。
 千晴はなにもない自分の首を無意識に軽く掻きながら、己の身体のことに思いを巡らせた。実は千晴はまだヒートを経験していない。多くのオメガは十代前半頃に初めてのヒートを経験するが、千晴は16歳になっても未経験のままだった。愛良は中学時代に、そしてもう一人のオメガの友人である晃は小学校を卒業する直前に来たというから、いかに自分が遅れているかを実感してしまう。
「ほんと素敵なアルファいっぱいいるのに、どうして俺の番は見つからないのかなぁ……」
 ぽやんと少し熱っぽい顔で愛良が溜息をつく。同じオメガである自分には分からないが、アルファやベータから見れば魅惑的に映るのだろう。現に教室内からはぎらついた視線が集まっていた。特定の相手もいない発情期前後のオメガは狙われやすい。愛良は何かと危なっかしいところがあるので、暫くは目を離さないほうがよさそうだ。
「ねえねえ、千晴にはいないの? いいなって人」
 愛良がぽやぽやしたまま尋ねてくる。千晴は少し迷ったあと、視線を斜めに逸らして答えた。
「……好きな人ならいるよ」
「まじで!?」
 がたんと椅子を鳴らして愛良が立ち上がる。同時に昼休みの終わりを告げる鐘が響いた。千晴は半分だけ食べた菓子パンを袋に戻すと、鞄に仕舞うついでに次の授業の教材を取り出した。
「えっ、誰!? いつから!?」
「あー……結構前から」
「アルファ!? 俺の知ってる人!?」
 やたら食いついてくる愛良に苦笑しつつ、「そうだよ」と短く答える。昔から愛良はこの手の話題が好きだ。いつか素敵な運命のアルファと番になって幸せになるんだと、まるで絵本のような夢物語を何度聞かされたことだろう。
「この学校にいるとか?」
「うん。三年に」
「ええ!? 誰!? めっちゃ気になる!!」
 空の弁当箱を前に興奮している愛良の背を、ふいに誰かが強めに叩く。驚いて飛び上がる愛良と共にそちらを見遣ると、教材を抱いた晃が呆れた顔をして立っていた。二人よりも背の低い晃は、目付きも悪く言動もきついことが多いが、彼もれっきとしたオメガである。
「お前らいつまでだべってんだよ。教室移動だぞ」
「あ! 晃だ! 番とはどうなの?」
「は? そんなんどうでもいいだろ」
 晃には番がいると教室でももっぱらの噂だ。これまで乱れていた発情期の周期が安定して、時々腰をさすって登校するようになったからだ。本人ははぐらかしているが、相手が三年の有名なアルファであることは誰もが察している。
 いいから早くしろと急かされ、愛良も慌てて弁当箱を片付ける。中身がくちゃくちゃになっている鞄を漁りながら、「いいなあ」とため息をついていた。
「俺も早く番のアルファといちゃいちゃしたいなあ……」
「僕達まだ高校生でしょ。早いって」
「でも晃は番いるじゃん?」
 晃はろくに愛良の話も聞かずさっさと教室を出て行ってしまう。愛良も教材を引っ張り出すと慌てて後を追った。続いて千晴も廊下に出る。開かれた窓からは乾いた秋風が流れ込み、肌寒さにぶるりと身体が震えた。つい先日まで猛暑に殺されていたはずが、いつの間にやら風が冷たくなっている。校庭の木々も色づいていて、時々風に乗った枯葉が廊下に舞い込んだ。あと半月もすれば底冷えする季節がやってくるのだろう。

 三人で談笑しながら廊下を進んでいると、ふと独特の『匂い』に気付いて足を止めた。愛良と晃も立ち止まり、廊下の奥に目を凝らす。やがて二人の生徒が近づいてくるのが見えた。遠目からでも嫌というほど分かってしまう美形が二人、すれ違う生徒からの熱視線を受け流して歩いている。
 柔らかそうな茶髪と眼鏡がよく似合う優男は、晃と番らしいと噂が絶えない神崎だ。もう一人、金髪を刈り上げた体格のいい男は、この学園でも特にファンが多くトップオブアルファとまで言われる芦田だ。彼らはこの学校でもとくに有名な二人で、しかも芦田には番がいないというのだから、常にオメガ達の憧れの的だった。ヒートによる事故を狙った自爆行為に巻き込まれることもあるらしい。オメガも身を護るのが大変だが、アルファも大概だ。
 愛良が「あっ」と小さく息を呑むと、二人の視線がこちらに向いた。緊張したように愛良が背筋を伸ばし、少し上擦った声を上げる。
「お、おつかれさまですっ! 今日はもう終わりなんですか?」
「芦田くんはね。僕はこれから後輩の指導さ」
 神崎が穏やかに微笑みながら言う。番がいる今でも熱視線を集め続ける彼の笑みは、さすがのオーラというか甘い誘惑じみたものがあった。それを見た晃が「きっしょ」と小さくこぼす。彼はいつも神崎に対してこんな調子だ。
「おや、ご機嫌ナナメかな」
「学校で話しかけるのやめろ」
「はは、厳しいなあ。……それじゃあ、僕達は急いでいるから」
 短い会話だけ交わしたあと、彼らは昇降口のほうと歩き去っていった。上位の成績優秀者である彼らは一部の授業を免除されているため、帰宅時間が他の生徒よりも早いのだ。
「はぇー……ほんと、いかにもアルファ! って感じだよなあ……」
 確かに彼等はどこからどう見ても死角のない完璧なアルファだ。どちらも文武両道の成績優秀者で、目が覚めるほどの美形で、さらに金持ちとまできた。それはもう絵に描いたような典型的なアルファそのものだし、もちろん千晴から見てもそれはそうなのだが、どうにも素直には頷けないところがある。とくに、芦田に関しては。
「そう? 神崎さんはともかく、芦田さんって変な匂いするじゃん」
「えぇっ!? 二人ともめっちゃいい匂いじゃん! 千晴おかしいんじゃないの!?」
 急かすようなチャイムが廊下に響き、ようやく遅刻しかけていることに気付いた。他の生徒はいつの間にかいなくなっていて、三人で競い合うように廊下を急ぐ。
 その道中、千晴は軽く息を切らしながら、すんと小さく鼻を鳴らした。すれ違っただけでも芦田の残り香が纏わりついている気がした。愛良はいい匂いだというが、千晴にとっては違和感しかない。ここ最近はとくにその匂いを強く感じるようになったから、芦田が近くにいるだけですぐに存在を認識できてしまうほどだ。嫌いな匂いだと一蹴できてしまえればよかったのに、そうできないから余計に複雑なのだ。

「ねえねえ、千晴って芦田さんと仲いいじゃん?」
「仲いいというか、近所だから昔から知ってるだけかな」
 放課後になり、特定の部活に所属していない千晴と愛良は無人の教室で課題を片付けていた。今日は放課後に晃と合流してゲームセンターに寄る約束がある。晃は野球部に所属しているため、彼の部活が終わるまで時間を潰す必要があった。
 いつもこの時間は二人で宿題を済ませて待っている。別に何をしていても構わない時間だが、せっかくなら残りの時間を自由に使いたいし、なんだかんだ愛良も千晴も真面目な性格だ。お互いに得意分野も違うので、苦手なところは教え合うこともできる。それならこの隙間時間を使って一緒に課題をしたほうが効率的だった。
「俺さ、周りに家族以外のアルファ全然いなかったからよく分からないんだけど、実際どういう感じ?」
「どういう感じって、なにが?」
「だから、アルファの友達がいるってことじゃん? なんかさあ、自分でもきもいって思うけど、俺から見たらアルファはその……みんな恋愛対象になっちゃうんだよね。だから変に気張ったり緊張しちゃって、上手にお付き合いできないの」
「神崎さんもアルファでしょ」
「あのひとは番いるじゃん。知り合ったのも晃の紹介だったし」
 はあ、と愛良の深いため息が聞こえる。彼なりに悩んでいるのだろうが、千晴からしてみれば、別にそこまで気張る必要はないのではと思ってしまう。千晴は番のいないアルファと接する時も、ベータやオメガと変わらない態度を取っている。緊張することもなければ、愛良風に言うなら「ときめく」ことも基本的にはない。
「……ま、あのひとは別だけどなあ」
「ん? まあ、たしかに神崎さんはアルファの威圧感薄いよなあ」
 何気なく吐き出した千晴の言葉は、完全に別の意味で受け取られていた。実際は神崎の話をしていたわけではないが、本当のことを伝える必要もないので黙っておく。
 脳裏にちらつく眩しい金髪と、ときどき妙に雄くさい色を宿す切れ長の瞳。思い出すだけで、なんだかそわそわと落ち着かない気持ちになるのは、幼い頃からずっと変わらない。結局自分も愛良のことを笑えないのだ。恋する乙女なんて可愛らしいものではないが、それに近しい存在ではあるのだから。
「……あ。愛良、そこ間違ってる」
「え、うそ!? どこぉ!?」
「そこそこ。第五問のとこ」
 支給されているタブレットを指先で示すと、愛良は「もうわかんないよぉ!!」とべそをかきはじめた。愛良は理数系や情報処理の方面がめっぽう苦手だ。今回の課題はプログラミングに関するもので、タブレットを睨みながら悪戦苦闘している姿は見ていて少し面白い。得意分野である千晴はとっくに終わらせたため、時々助言を与えつつ、愛良の反応を見て楽しむことにした。


 晃の部活が終わって合流すると、彼の背後には神崎の姿もあった。確かに神崎は後輩の指導があると言っていたが、それにしてもこの時間まで学校に残っているのは不自然だ。愛良と二人で怪訝な顔をしていると、帰宅してからわざわざまた戻って来たのだと晃に説明された。なるほどどうりで私服姿なわけだ。
 とくにメンバーが増えて不都合はないので、四人でゲームセンターに行くことになった。神崎は確かにアルファだが、番がいる神崎には他のオメガのフェロモンが効くことはない。下手なベータよりも番を持つアルファのほうがオメガにとって無害だ。ある意味で護衛役にもなる。愛良がヒート明けで少し危なっかしいので、もしかしたら気遣ってくれたのかもしれない。
「先輩達は何するの?」
「晃くんと仲良くクレーンゲームでもしていようかな」
 ゲームセンターに神崎がいるのはなんだか妙に似合わなくておかしな感じがした。神崎は晃にちょっかいをかけては小突かれながら、クレーンゲームのほうへと消えていく。せっかくなら一緒に遊びたかったが、まあいいかと思い、愛良といつもの筐体に立った。譜面が流れるタイプのオーソドックスな音楽ゲームで、何年もプレイしてきて愛着のあるシリーズでもある。
「よーし! 今日こそは千晴抜かしちゃうからね!」
「無理でしょ」
「そんなことないもん!」
 同じ曲を選択してスタンバイする。難易度も同じ設定だ。今日も愛良のスコアに差をつけて、悔しがる顔を見て笑ってやろう。

 とくに順番待ちもなかったので、続けて数曲プレイした。しかし何曲目かを終えたとき、千晴は急な眩暈を覚えて座り込んでしまった。確かに体力に自信があるほうではないといえ、何時間もゲームセンターに入り浸るなんて普通のことだ。筐体から聞き馴染んだダブステップが響いている。一番スコアを稼げる難所でもあり、叩いていて気持ちがいい譜面なのに、もったいない。
 思い返してみれば、今日は朝からなんとなく体が重いのは感じていた。ほんのり熱っぽいような気もする。愛良がおろおろしながら傍にしゃがみ込み、「だいじょうぶ? 吐きそう?」と背中を擦ってきた。吐き気はないが、ただ体が熱くて怠い。隣のエリアにいた神崎と晃も、こちらの様子に気付いて駆け寄って来た。
「千晴くん大丈夫かい?」
「ん……なんか、調子悪いみたいで」
「千晴この季節いっつも風邪ひくもんね。無理しちゃ駄目だよ」
 愛良の言う通り、季節の変わり目は何かと体調を崩しがちだ。日頃から体調管理を怠っている自覚はあるので、素直に風邪を認めるべきだろう。
「じゃあ今日は早めに帰ろっか」
「ん……すみません」
「謝んな。しんどい時はちゃんと休め」
 先に一人だけ帰ろうとすると、心配だから送っていくと三人から言われてしまった。さすがに申し訳ないからと断ったものの、ほっとけないとしつこく言われれば折れるしかない。あまりごねてこれ以上に面倒をかけるわけにもいかなかった。
 付き添われながらゲームセンターを出ようとするが、身体の異変は急速に進んでいった。はじめはただの風邪かと思っていた熱も、息が切れて呼吸が苦しいほどまで悪化する。よもや悪い病気かと不安になったが、その懸念を打ち消したのは下半身の重さだ。
 あらぬところが疼く。じわ、と下着の中が濡れる感触がした。息を呑んで服の裾を強く握りしめる。まさか。いや、そんなはずはない。頭はパニック状態で、とにかく一人にならなければと焦った。
「う゛……ちょっと、トイレいってくる」
「え、ほんとに大丈夫? ついてこうか?」
「ほんと、だ、大丈夫だから……ちょっと待ってて……!」
 心配する愛良達を振り切って、ゲームセンター内のトイレに駆け込む。とにかく体がおかしい。汗が噴き出して、心臓がばくばくと飛び跳ねて、腹の奥が切ないくらいに疼いて仕方がない。
 個室に駆け込んで鍵をかけてから、まさかと思いつつズボンを下げる。案の定というべきか、小さめの性器はしっかり勃起していた。しかしもっと異常なのは、その奥……尻の穴がぐっしょり濡れていたことだ。
「え、な、なんで……」
 発情期。その単語が脳裏を過った。今朝からなんとなく体調が悪かった理由が、こんな形で判明してしまうとは思わなかった。どうか何かの間違いであってほしい。
 便座に座り込み、何度も何度も深呼吸する。もちろん抑制剤なんてものは持っていない。愛良達に聞けば持ち歩いている可能性はあるが、この状態で個室を出る勇気はなかった。せめてもう少し落ち着くまではと思っているうち、残酷にも身体は熱に蝕まれていく。視界がぼやけて意識まで朦朧としてきた。じくじくと股が切なく疼いて、とにかく誰かに慰めてほしくて、足りないところを埋めて欲しくてたまらなくなる。
「うわ、すげえ匂い」
 誰も居なかったはずのトイレに、全く見知らぬ声が響いた。びくりと体を震わせると、急激に甘ったるい匂いが漂って来て脳が痺れた。
 本能的に分かってしまう……これは、アルファの匂いだ。
「あ……」
 だめだ、まずい。見つかる訳にはいかない。しかし薄い扉を挟んだ向うから漂うアルファの匂いに、身体は勝手に反応していた。
「なあ、いるんだろ、おい。ここ開けろよ」
 開けてはいけない。そう思うのに、体はアルファの言葉に逆らえない。震える手で鍵を開けると、勢いよく開いて一人の男が押し入ってきた。男はろくに扉も閉じないまま、興奮に目をぎらつかせ千晴に覆い被さる。
「ひっ……!」
「なあ、なんでオメガがこんなとこで発情してんの?」
 恐怖のあまり悲鳴を上げることさえままならない。息を乱しながら男を見上げると、興奮で血走った目が不気味に細められた。吐き出される息は熱く、吐きそうなほど甘い匂いが漂う。
「本当はさあ、あの女みたいな顔の子……発情期の残り香がするからずっと狙ってたんだけど……この匂い、君のほうだったんだな」
 男が言っているのは恐らく愛良のことだろう。あやうく大切な友人に危害が及ぶところだったようだ。気を付けて見ていたつもりなのに、自分がこんなふうになってしまったら本末転倒だ。愛良が助かったのはいいけれど、これからこの男に何をされるのか考えると、恐ろしくて声もあげられない。
 無理矢理腕を引かれて壁に押さえつけられる。確認のためズボンを脱いでいたせいで、いとも簡単に尻を晒す羽目になってしまった。じわりと目に涙が浮かぶ。嫌で怖くて仕方がないのに、身体は意に反して発情し続けた。それがただひたすら気持ち悪い。
「もう一人の子はアルファ連れてるし、なんで君だけ首輪もしないでこんな無防備なわけ? やっぱ襲われるの待ってた?」
「ち、ちが……っんううぅ!」
 弱々しく否定する千晴の口を、男の大きな手が塞ぐ。濡れた穴に「なにか」が押し込まれ、酷い圧迫感に吐き気を催した。
「んん゛ーっ!! んっ、ぐ、ぅう……うっ……!」
「すげえ……びしょびしょじゃん。こんなとこでさ、一人でシようと思ってた? いや、違うか。発情して、レイプされるの待ってたんだもんな」
 そんなわけがあるか。ふざけるなと否定してやりたくても、口を塞ぐ手を引き剥がす力さえ出ない。今できるのは、ただ冷たい壁に額を押し付け、目を閉ざして耐えることだけだ。
「ふ、ぐ、ぐぅ……ぅ゛、ぁ゛、ん゛んーっ!!」
「はーっ、はぁっ……はぁっ……」
 男の荒い息が耳にかかって鳥肌が立つ。この男にはもう理性はない。捕食中の飢えた獣だ。本来なら痛くて気持ち悪くて仕方がないはずなのに、ヒートによって変化した身体は、雄を受け入れるために濡れそぼって快感を得ようとする。
「ぅ……ぐ、ふーっ、ふっ、ぅう……っ」
「あ゛ー……おまえ……うまそうだなあ……」
 熱に犯された頭は男の発言を正しく理解できなかった。ただ、突如首の後ろに走った、鋭い痛みでわずかな理性が一瞬だけ戻ってきた。
「んン゛ンンッ!? んん゛ーーッッ!!!!」
 ぶつりと鋭い牙に貫かれる感覚。そこだけは絶対に、暴かれてはいけない場所だった。中途半端に理性が戻ったせいで、何が起きたのか嫌でも正しく理解してしまう。急激に頭から血の気が引いて、激しい悪寒に襲われる。全身ががたがたと震えて脱力し、自力では立っているのもままならない。勝手に大量の涙が溢れ出して溺れそうになった。
「ぅ、う゛、ぐ、ぁ゛……やだ、たすっ、たすけ……」
 うそだ、うそだうそだうそだ……たすけて。
 こんなのは嫌だ。認めたくない。だって僕はずっとここを守ってきた。愛良じゃないけれど、いつかは初恋の人に捧げることができたらって、そんなことをずっと密かに願い続けていたのに、どうして……

 どうして僕は運命に嫌われてしまったの。……教えてよ、ねえ、芦田さん。

「や、やだ、やだやだぁぁあっ!! あ゛ッあしっ、あしださっ、たすけ、たすっ……!」
 いくら受け入れたくなくても残酷に血は流れ、いつまでも長く牙が食い込み続けた。このまま食いちぎられるのではないかという恐怖と、合意のない『契約』による拒絶反応が全身を駆け巡り、激しい吐き気が込み上げてきた。
「ぅ゛ぶっ、う、ぉ゛えっ、え゛っ、げほッ、げほ、げぇっ……!!」
 さすがに口を塞いでいた手は外されたものの、男は構わず腰を打ち付け続けた。次第に意識が朦朧としてくる。このまま殺されてしまうのだろうか。いや、もういっそ、死んでしまってもいいのかもしれない。
 たとえ助かったとしても、項を噛まれてしまった以上は、もう。

「やめろおぉおおおッ!!!!!」

 突如、激しい怒声が聞こえて、沈みかかっていた千晴の意識も微かに浮上した。それが友人の声だと気づいた途端、いつになく必死な顔をした神崎が鞄を振り上げて向かって来るのが見えた。しかしその鞄が男の後頭部にヒットしても、男は行為をやめようとしない。ヒートにあてられたことでラットを起こし、それにより正気を失っているのだ。
 神崎の背後には晃と愛良の姿もあった。ラットに当てられた晃は珍しく怯えて動けないようで、代わりに愛良が大声で周囲に助けを求めていた。神崎は必死で男の身体を引き剥がそうとするものの、凶暴化した男に力の限り殴り飛ばされてしまう。神崎の身体が便所の床に叩きつけられ、晃の悲鳴が聞こえた。いくら同じアルファといえど、一般人がラットを起こした男を制圧するのは容易ではない。
 間もなく駆けつけた警備員によって男が拘束され、千晴の身体は解放された。咄嗟に駆け付けた愛良に上着をかけられ、体液まみれの身体を隠された。遠くからパトカーと救急車のサイレンが近づいてくる。自分の身に起きた事件を、いまだ千晴は受け止めきれずにいた。ただ茫然と床に座り込んだまま、友人の腕の中で荒い呼吸を繰り返した。

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