カラスと白い花

ますじ

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「──!」
 その場の誰も言葉を発することなく、ただその静かな靴音が望夢の真横を通り過ぎる。コツ、コツ。2回だけ鳴ったわざとらしい靴音は、まるで警告でもしているかのようだった。
「て、てめぇは……」
 誰かが呆然と呟く声がする。気が付けば、望夢の前には黒い背中が立ちはだかっていた。丈の長い黒いコートが、風を受けて小さく揺れている。男はその場から動くことはないまま、ゆっくりと銃を持ち上げた。その先端には筒状のものが不自然に取り付けられ、月明かりを受けて鈍く光っている。
「やれ! やっちまえぇええ!!」
 誰かの怒号が上がると同時に、男達が一斉に動き出す。パシュ、とまたひとつ、静かに乾いた音が響いた。刃物を振りかざした男の額に、まるい影が穿たれる。男の身体が崩れ落ちるのも待たず、また次の乾いた音がした。
 ひとつ、また、ひとつ。乾いた音と、崩れ落ちる男達の身体。その光景を、望夢はどこか遠くに見つめていた。あれだけ激しかった男達の怒号が、ひとつひとつ消えていく。夥しい鮮血が畳を濡らし、望夢の足元にまで広がった。
 それはたった一度、瞬きをした間の出来事のようだった。男がどう動いて、何をしたのかもよく分からない。はっと気が付いた時には、立っているのは男ただひとりになっていた。
「は、はっ……」
 耳が痛いような静寂が周囲に充満している。聞こえるのは、やけに荒い自分の呼吸音だけだ。両手はナイフを握ったまま、凍ったみたく動かなくなっていた。むせ返るような血の臭いが鼻腔を突き刺し、生理的な吐き気がこみ上げる。
「あ……」
 ゆっくりと、男が振り返るのが見えた。視線は男に釘づけられたまま、月明かりを浴びるその青白い顔を捉える。柔らかく跳ねる黒い髪。眠たげに重い瞼。真っ直ぐ結ばれた唇──記憶の底、薄れかけていた面影が、はっきりとそこに重なった。
「か、らす……」
 男の眉が、ほんの微かにだけ動いた。
 望夢の脳裏を遠い記憶が過る。茜色に染まるリビング。額から血を流す母。銃を握った黒い男──。
「っああぁあああ!!」
 反射的に身体が動いていた。跳ね起きるようにして地面を蹴り上げ、男に向かって一直線に突き進む。汗で滑るナイフを握りしめ、瞳はただ目の前の仇だけを見つめる。男の瞳が小さく細められるのが見えた。男の脇腹目指して飛び込んだ、その刹那。
「あぐっ……!」
 鳩尾に鈍い衝撃が走り、望夢の身体はその場に崩れ落ちた。手からナイフが滑り落ち、からんと気の抜けた音を立てる。男は静かにそれを拾い上げると、軽々とへし折り背後に投げ捨てた。
「けほっ、げほげほっ……」
 痛みのあまり息が詰まり、滲んでいた涙が零れ落ちる。ぼやける視界の先には男の黒い靴が映っていた。それがゆっくりと踵を返すのを見て、望夢は咄嗟に声を絞り出す。
「待、て!」
 男がぴたりと足を止める。こちらに背を向けたまま、視線だけで軽く振り向いた。温度のない暗い瞳に見つめられ、ぞくりとしたものが背筋を駆け抜ける。それにも構わず望夢は身を起こすと、震える足で男に歩み寄った。
「僕も、連れて行け」
 自分でも驚くほどかすれた声だった。殴られた腹がずきずきと鈍く痛む。視界の端で血溜まりが揺れ、月明かりを小さく反射させた。破れそうに脈打つ胸を押さえながら、それでも望夢は男を睨み続ける。ここで離れたら二度と追いつけない。せっかく訪れた復讐の機会を、易々と逃がしてたまるものか。
 男はしばらく黙っていた。まとわりつく血の臭いの中、望夢は一歩、また一歩と男に迫る。
「……こいつら、ただの酩酊にしては異常だった。薬か?」
 ふと投げられた問いに、望夢の足が止まる。男はようやく身体ごと振り返ると、感情の見えない黒い瞳で望夢を見下ろした。睨まれているわけでもないのに、それどころか眠たげな眼差しさえしているのに、思わず足が竦みそうなほどの威圧感だ。それでも望夢は怯むことなく男を見据え続けた。強く奥歯を噛み締め、やがて罪を認めるようにゆっくりと頷く。
「なんでそんなことした」
「あんたにやられる前に、自分でカタをつけたかった」
 男の眉がひくりと跳ねる。やはり感情は読めないままだが、何か考えるように視線をずらしていた。やがて男は小さく肩を竦めると、再び望夢に背を向けた。
「そのやり方はおすすめしない」 
「は?」 
「獲物、横取りして悪かったな」
 淡々とした男の言葉に、胸の奥から何かが逆流するような感覚がした。それは屈辱か、怒りか、それとも別の感情か分からない。ただ喉がひくりと震えて、息が苦しくなった。
「ついてくるなら勝手にしろ」
「え」
 男はそう短く告げると、ポケットに手を入れゆっくりと歩き出す。一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。男の背中が遠ざかっていくのを見つめ、望夢ははっとして足を踏み出す。何度もよろめきながら、それでも男を追うのをやめなかった。足元に光る血だまりも無視して、ただ目の前の背中だけを睨み続ける。
 裏口から料亭を出ると、男は真っ直ぐどこかへと歩き出した。やわらかな夜風が頬をくすぐり、血の生臭さを攫っていく。冷え切った空気が鼻腔を突き刺し、肺まで凍えさせるようだった。
 ふと、望夢は小さく顔を上げる。男の広い背中の向こうに、丸く肥えた月がぼんやりと滲んで見えた。分厚い雲を掻き分けながら、静かにこちらを見下ろしている。
 それがまるで自分達を監視でもしているかのようで、望夢は逃げるように小さく顔を背けた。
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