人形遣いたちの学園~火の国の王子と水の国の王女~

工藤ゆさ

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「まぁ、ようやく目が覚めたのね。とは言っても、いつから意識がないのかは私には分からないけれど……」

目を開けた時クウェリルの視界は、目と鼻の先の距離にある見知らぬ誰かの顔で覆いつくされ、暗い影が落ちた。
何故目の前に顔が迫っているのか、状況が把握できないクウェリルが驚きで目を見開き、二つの瞳から逃げるように顔を背けると、頭上で包容力の感じる、温かみのある声が朗らかに笑った。

「不躾にも顔を覗き込んで悪かったわ。ここは安全な場所よ、貴方を脅かすものはなにもないわ」

続いて女は、すっかり壁を作ってしまったクウェリルを宥めるように増々優しい声を出し、クウェリルの肩をぽんと叩いた。
振り返った先にいた女は、たれ目がちな目を更に下げて、クウェリルに向かって微笑んでいて、害を全く感じさせないその様子に、クウェリルはいつの間にか力の入っていた肩を少しだけ緩めて下げた。
人よりかは少々年いった両親と同じほどの年齢に見えるその女は、少し小柄な身長ながらも脂肪を少々蓄えた体には安定感があり、先ほど感じた声にあった包容力は、勿論彼女の少々年老いた年齢にもよるものだろうが、この体形にちなんだもの含まれるのかもしれない、とクウェリルは密かに思った。
彼女が少し動く度に揺れる、ふわふわとして軽そうに見える茶色の毛は、彼女の穏やかであり、かつ少し茶目っ気のあるような雰囲気によく似合っていた。
しかし、彼女が身に着けているものはあまりにも見慣れないもので、クウェリルは思わずまじまじとつま先から肩まで眺めた。
彼女が身に着けているのは、切り替えもない一枚のワンピースと、上から羽織る大きなフードのついたマントだった。どちらも黒色で、闇に紛れれば見失ってしまいそうなその二枚の服の内、一見一番特徴的なのは、下にいくにつれ少し広がりながらも、足首辺りできゅっとしまったそのデザインをしたワンピースだった。
しかしよく見ればその服の素材というのも服の違和感を増長させている一因のようで、黒色のそれは、近くで見ればまるで石の断面を切り取ったかのように滑らかであったが、少し遠目にみれば、伸縮性のある柔らかい布のようにしか見えないものだった。

「初めまして、クウェリル。私の名前はレーホル。この学校の長を努めさせてもらっているわ」

レーホルと名乗った女は、クウェリルに手を差し伸べたので、クウェリルは差し出された手を握り返そうと、布団の中におさめられたままの手をもぞもぞと動かして布団の入り口を目指した。
クウェリルはレーホルの手を両手で強く握り返したが、彼女手は布団の中で温められていたクウェリルの手よりも更に温かく、それはむしろ熱いように感じると同時に、なぜだかその手に少しの違和感を感じた。
見れば彼女の左手にはずいぶんと年季の入った茶色の輪っかの指輪があった。
しかしその古びた土台には、真っ赤に燃えるような美しいルビーの指輪が付いており、クウェリルはその似つかわしさを不思議に思った。
自分は一体どうしてここにいるのか、その訳を聞こうとクウェリルが口を開くより先にレーホルが言った。

「この人はドゴンコ。あら? いないわ。いつの間に引っ込んでしまったのかしら」

レーホルは、右に手を差しだしてそう言ったがそこには誰もおらず、自分の手が意味をなしていないことに気が付いた。
困ったように頭に手を当てるとすぐに周りを見渡し、その後クウェリルが寝るベッドの周りを囲っている白いカーテンをめくると、レーホルはその先に消えてしまい、クウェリルの視界からは誰もいなくなった。
目当ての人間が近くに見当たらないのか、レーホルの足音は徐々に遠ざかっていった。
律儀にもカーテンを閉めて出て行ってしまったレーホルのおかげで、外の様子もうかがえないクウェリルは、白い視界から逃れるように、天井を見上げた。
見上げた天井は、四角に分かれた囲いの中に、赤、緑、そして青色の何かのモチーフを描いたものが、綺麗に整列していた。
何のモチーフが描かれているのか、クウェリルは天井にじっと目を凝らしていると、消えた足音が二人分になって、戻って来た。

「クウェリルが目を覚ましたわ。貴方も顔を見せてあげて」
「どうせすぐに顔は覚えるでしょう。ここの教員はそんなに数はいないですから」
「貴方はすぐにそういう言い方をしますね」

カーテンの向こうから聞こえたレーホルの呆れたような声に耳を澄ませていると、突如レールが大きな音を立てながら、白いカーテンが開かれた。

「お待たせクウェリル。この人もうちの学校の教員で……そして、将来は私の跡をついでもらう人間よ」

レーホルの手が向けられたそこには、気難しい顔をしている男がいた。
男はくすんだ枯れかけの草のような髪を、木から滴る粘液を使ったかのように頭皮にぴちっと張りつけていた。
顔は細長い輪郭で、切れ長でこれまた細い目には、きらりと光る眼鏡をつけていた。
彼の容貌も、低く厳粛な声も、不思議とゾーデウェルを思い起こさせた。
男は、レーホルの言葉に元々寄せた眉を、更に寄せて深い皺を眉間につくった。
身に着けたものは、これまたレーホルと同じような黒ずくめのマントを羽織っていたが、しかし中に着るローブの素材が、また違っているようにクウェリルは思った。
レーホルのワンピースは、滑らかさを一番に思ったが、対して男のものはゴツゴツとした岩を思い出させるように、ごわついた印象を受けた。

「私の名はドゴンコです。クウェリル、貴方とはこれから長い付き合いになりますから、どうぞよろしく」

ドゴンコは気難しい顔のまま、肌触りの悪そうな袖口から、細い右手をクウェリルに差し出した。

「それとレーホル。勝手なことを言うのはよしてください。私が貴方の跡を継ぐだなんて……」
「あら、残念。貴方がこれを継いでくれなかったら誰が引き受けてくれるかしら……?」

レーホルは即座に首を振ったドゴンコを見て、クウェリルが先ほどから目にちらつくその指輪を指先でいじり、ドゴンコに残念そうな顔を向けた。

「……別に私は断るとは言っていません」

ドゴンコは少しの沈黙の後、小さく言った。
クウェリルは、彼の手にもレーホルと同じように指輪がついていることに気が付いたが、彼のものは、土台はそこまで古びている訳ではなかったし、真ん中に輝くのは澄んだ緑色の石だった。

「ごめんなさい、私ってば早とちりをしてしまったね」
「……えぇ、まぁそういうことにしておいてあげましょう……それにしても、ローリィは一体どこにいったのですか。今、彼女に必要な薬等たくさんあるはずです」

ドゴンコは辺りを訝し気に辺りを見回した後、レーホルを見た。

「あぁ、彼なら先ほど目覚めたばかりのあの少年の元にいると思うわ」

クウェリルの位置からは見ることの叶わない、カーテンの向こうをのぞき込んで見る二人の後ろ背に、声を掛けた。

「あの……ここはどこか私さっぱり分からないの……」

ようやく口を挟むタイミングを見つけたクウェリルは面と向かってレーホルに問いかけると、奥ばかりを見つめていた二つの視線はクウェリルに集まった。

「あら。私たちばかり盛り上がってあなたを置いてけぼりにしてしまっていたわね。私たちがいるここは、ヴァンミフ学園」
「……ヴァンミフ?」

聞きなれない言葉に、クウェリルは口の中でそのまま繰り返した。

「貴方はきっと初めて耳にした言葉でしょう?」
「えぇ。それは勿論そうだけれど……それよりもヴァンミフ学園ということは、ここは学び場ということよね?」
「全くその通りよ」
「だったらどうして私がここにいるの? 私は王族よ。みなが通うような学校には私は行かないわ」

クウェリルは幼い頃から専用の教師が彼女につきっきりで様々なことを教えていた。
そのため、市民が通うような学校には行く必要はなく、城の中で事足りていたのだった。
そもそもの話、クウェリルは将来父の跡をつぎ、国の一任を任されることが約束された身であり、その他大勢と同じ場所へ学びに行くなどありえないのだと言われて育った。

「そうねぇ……そっちの世界の事情はよく知らないけれど、貴方がこの場にいるのはあまり褒められたものではないのかしら?」

そっちの世界という言葉が気にはなったが、クウェリルはレーホルの言葉に小さくうなずいた。

「ここは学ぶ資格がある子供たちからは決してその機会を奪ってはいけないという信念を持つ学校よ。……かといって学びたいと思わない子を無理やり拘束するようなところでもない」

レーホルはクウェリルの肩に優しく手を置いた。

「でも……貴方の本当の想いはどうかしら。学校で学ぶのはどう? それが貴方にふさわしくないなんて誰が決めたの?」

レーホルに目の奥をじっと覗かれると、目を通り越し、ずっと奥の心臓の中まで見透かされているような気がして、クウェリルは思わずシーツの端をぎゅっと握りしめた。
実のところ、レーホルが期待する言葉通り、クウェリルの中の学校への憧れというものは、どれほどの時を経ても薄れることはなかった。
その体の弱さから、外に出ることを禁じられ、同世代との関りは婚約者である隣国の王子ドロリア、その人だけといっても過言ではない。
少ないながらも得た情報で、学校とは同世代の人間が集団生活を送る中で勉強をする場であると知ってからは、自分ももしそこで学ぶことが出来たら友人という存在が出来るのではないか、度々そう思っては口に出てしまう前に頭の中でその願望を打ち消した。
―自分は学校へ行く立場ではない―
両親を含め、周りの人間はいつだってその言葉を言っただろう。
しかし、今目の前に初めてクウェリルの入学を歓迎する人がいる。クウェリルの心は確かに傾いた。
クウェリルが口を開く寸前、カーテンのレールが、今度は静かに回転した。
ひらけた視界の先にいたのは、クウェリルの二倍ほどあろうかというくらいには背が高く、それだけで威圧感すら感じさせるような男だった。
しかしドゴンコと同じく愛想の足りない男かと思ったのも束の間、クウェリルと目が合うとすぐ、男は顔をほころばせた。

「やぁやぁ、おはよう。いつの間に目を覚ましていたんだい?」
「ローリィ、貴方が消えてしまったほんの隙にね」

レーホルが男の疑問に答えた。
男はそれを聞くと、頬を掻いた後、手に持つ細く銀色の先が二つに分かれたものをカチカチと鳴らした。
彼が鳴らすと同時に、先端から黒く細かい塵が舞った。
その黒が、彼の着る白い更衣を染めているのを見た後、改めて彼の姿をよく観察すると、どうやら最初の印象は彼にふさわしくないように思えた。
茶色の眼鏡の奥からのぞく瞳は、クウェリルを捉えて優し気な色を持ち、その笑みと共に上に緩やかに上がった口角はこの場しのぎの偽りのものには決して見えなかった。
黒く長い髪は後ろにまとめられ、彼が動く度に、軽やかに後ろで揺れていた。

「いやぁ実は彼の処置に少々時間がかかってしまって。だってこれでいちいち剝ぐんですよ? そりゃあ大変でしたよ」

剥ぐという言葉を聞き、クウェリルは眉をひそめたが、男の隣に立つドゴンコも似たような表情で、彼の横顔を見つめていた。

「それは大変でしたね。よくやってくれました」

レーホルが労わると、男は眉を下げた。

「はい。まさかあんな状態の生徒の処置をすることになろうとは夢にも思いませんでしたよ」
「いや、あの時彼はまだ入学を控えた身でしかありませんでしたよ。入学式はつい先ほど終わったばかりです」

苦々しく言った後、ドゴンコは几帳面にも整えられた髪を、更に撫でつけた。

「おぉ。それはまたやんちゃな子が入ってきましたね。僕の仕事も増えるのかな」

男はそう言うと、なぜかクウェリルの方を見て含みのある笑いを浮かべた。
その表情に、突如クウェリルはなんとも奇妙な場所にいたことを思い出した。
最後の方の記憶はあやふやだったが、どうにかあの、自分を見失ってしまうかのような、危うい空間から逃れ、ここにたどり着けたのだろう。

「私、好きであんな危ないところにいたわけじゃないわ」

思えば興奮状態に陥っていたあの時は何とかあの場を乗り切ったが、白いベッドの上で少なくとも正気のように見える大人たちに囲まれている今の保護下で、クウェリルの体は突如小刻みに震え始めた。
握りしめた拳が小さく震えてしまうのを視界に入れながら、じっと耐えているとクウェリルの体は温かい温度に包まれた。
それは、レーホルの腕だった。

「ごめんなさい、ちょっとした手違いで貴方を怖い目に遭わせてしまったわね」

背にまで回されたレーホルの腕が優しくクウェリルの気持ちを落ち着かせると、クウェリルの体の震えは徐々に弱まった。

「あやつももう年です。こっちとあちらを行き来するには役不足かと私は言ったはずですよ」

頭上からドゴンコの、咎めるような声が聞こえた。

「そうねぇ。でも、あちらから安全にこちらまで運び込めるのはボルエゴしかいないのもまた問題かもしれないわ」
「改善するべき、と言いたいところですが今回のようなケースはもうないでしょう」

腕の中の震えが完全に止まったのを感じると、レーホルはクウェリルから離れ、今度はベッドの縁に腰かけた。

「ローリィ、クウェリルに必要な処置はどんなものかしら」

レーホルは上を見上げて尋ねた。
その言葉に男は膝立ちになり、クウェリルの顔を覗き込むと頬に優しく触れて、目を凝らした。
次にクウェリルの体にかけられていた布団をはがすと、足のつま先に至るまでチェックし、しばらくして満足がいったのか、布団をまたかけなおし、レーホルに神妙に言った。

「そうですねぇ。僕の見る限り彼のように外傷はないようですから……あとは取り戻すだけでしょう」
「そう、それはよかったわ」

レーホルは難なく笑顔で男の言葉を受け入れたが、クウェリルの頭の隅で何かがひっかっかった。

「あの……取り戻すっていったい何を?」

途端に視線が自分に集まり、居心地の悪い気持ちでいっぱいだったが、クウェリルはじっと彼らの言葉を待った。

「そうね……それを取り戻すのは一瞬よ。だけど……貴方には少々辛い思いをさせるでしょう」

レーホルの言葉に、クウェリルは増々疑問に思う気持ちが増幅したが、ふと視線をずらしてみると、レーホルを見つめた二人の男は、クウェリルに反して感心したように彼女を見ていた。

「ドゴンコ、今トテエはどこにいるかしら」
「彼女なら……新入生たちを寮に案内しているところでしょう」

ドゴンコはマントの中のローブのポケットに手を入れると、中から小指ほどの太さの紐を取り出して一目見て言った。
それはドゴンコの一連の動作がなければ、ただの紐としか思わなかっただろうが、彼の手元をよく見るとそれは、透明な筒のようになっていて、肝心の筒の中は煙で満たされていてクウェリルはよく見ることが出来なかった。

「もうそろそろ案内も終わった頃かしら? トテエの部屋で待っていましょう、ローリィ案内を頼める?」
「えぇ。構いません」

男が快く承諾すると、レーホルは腰かけていたベッドから立ち上がり、クウェリルの方を向いた。

「さぁ。これからローリィが案内してくれるから何も心配することはないわ」

クウェリルにそう言うとドゴンコと目を合わせそのまま二人、背を向けて部屋を出て行ってしまうかと思ったが、横から声が飛び出した。

「あぁ待ってくださいレーホル先生。フラデリアはどうしますか? 動いて問題はない状態ですが、一応大事をとって今日の夜はここで休ませましょうか」
「そうね……。えぇでは今日はここに寝かせてあげてちょうだい」
「分かりました」

返事を聞くと、レーホルとドゴンコは立ち去り、クウェリルと男の二人だけになった。

「さて、さっそく移動したいところだけど一応君は長いこと気を失っていたわけだから、急に立つのは危ないね。温かいスープでも持ってこよう」

温かいスープという言葉に、クウェリルは断りを入れようとしたがその暇もなく男は白い裾を翻してクウェリルの目の前から消えてしまった。
クウェリルは行き場のなくなった手を引っ込めると、その手に力を入れ上半身だけをベッドの上で起こした。
レーホルか、男かどちらの仕業か分からないが、カーテンが開いたおかげで、クウェリルはこれまで断片的にしか分からなかった部屋の全貌を見ることが出来た。
部屋はクウェリルが今寝ているものと同じ白いシーツがかけられたベッドが整列していた。
その周りには、全てカーテンが設置されており使用時には個人の空間を守ることが出来るようになっているはずだったが、利用者がいないためか、それらのほとんどはカーテンは解放されていた。
しかし、たった一つだけ―クウェリルの向かいだけは、白いカーテンによってそこにいる誰かが守られていた。

「お待ちどうさま、襟魚の骨でだしをとった水分たっぷりのスープだよ。熱いから気を付けて」

向かいのベッドに気をとられていると、いつの間にか男が湯気の立つ銀色のカップを両手に抱えて持って帰って来た。
辺りには途端に、香ばしい香りが広がり思わず唾液が口内にたまり、クウェリルは喉を鳴らしたが、確固たる意志を持って、男の持つカップから視線を逸らした。

「ごめんなさい、私それは口に出来ないわ」
「え? 君ミリクィじゃなかったかな?」
「ミリクィ? ……それが何なのか分からないけれど、私は液体を口にすることは出来ないの」
「……一体どうして?」

男はベッドの隣にあるチェストにカップを慎重に置くと、傍らの椅子に座りクウェリルと顔を見合わせた。

「両親からそう言いつけられているの」
「だったら何も気にせず口にするといい」

男はクウェリルの返事を聞くと、置いたばかりのカップにスッと手を伸ばしクウェリルの目の前に突き付けた。
胸の辺りに突き付けられたカップをあんぐりと見つめた後、クウェリルは顔を上げて言った。

「……私の話を聞いていなかったの? これは飲めない、そう言っているでしょう?」
「勿論聞いていたよ」

クウェリルの困惑に反して、さらりと男は返した。

「だったら……」
「でも、それは君の意思じゃない」

クウェリルの反論を遮って男は押し切るように言った。

「確かに、ご両親は君がこれを口にするのを喜ばないかもしれない。けど、君自身はどうなんだい? これを床に捨ててしまいたいと思うのか?」

クウェリルはお腹を刺激する匂いを纏うスープを見た。
スープは、水分たっぷりという言葉にふさわしく透けたオレンジ色をしていた。

「君が望むなら、今ここの床に流してしまおう」

男は自らの方にカップを引き寄せると、そのまま斜めに傾けた。

「やめて!」

クウェリルは気が付くと、カップを持つ男の手を上から握りしめていた。
反動に耐えきれなかった分、カップからほんの少し中身がこぼれ出て床をオレンジ色に染めた。
勿論、クウェリルと男の手も濡れ、床と手を交互に見た後クウェリルは恐る恐る男の表情を伺った。
男の先ほどからの口調からして、クウェリルのたった今の行動を、男は咎めるとばかりに思っていたが、しかし想像とは大きく異なり、男労わるような目をしてクウェリルを見ていた。

「大丈夫かい? 温めたばかりのスープだ。早く冷やした方が良い」

クウェリルは呆気にとられている内に、男は素早く立ち上がった後、再び部屋の奥へと消えた。
戻って来た時には、彼の手には水の入った銀色の桶と、白い布を抱えていた。

「ほら、手を出して」

桶に入った水で布を濡らすと、男はクウェリルの手を優しくそれで包み込んだ。
ひんやりとした冷たさを感じ、クウェリルはしばらくその心地よさに浸った。

「皮膚はただれていないようだけど、痛みはないかい?」

手に触れていた布を離して、優しく熱いお湯を被ったであろう箇所をくまなく目を向けて男は尋ねたが、クウェリルはその処置が少々大げさであるように感じた。

「あの……言いにくいのだけれど、痛みも何も全く感じないわ」

クウェリルが遠慮がちにそう言うと、男はきょとんとした顔になった。
しかしその後すぐに笑って言った。

「……あぁそうだ! 君はメリクィだったね。熱湯でやけどなんかするはずがない」

一人、お腹を抱える男をクウェリルはちっとも笑わずに曲げられたその体をただ目に捉えていた。

「……さっきから言うメリクィとかってよく分からないけれど、それは一体何を指すの? そして、私は何故そう呼ばれているの?」

男の様子が落ち着いたところで、クウェリルは問いかけた。
しかし、男はクウェリルの欲しい返答を簡単には返してはくれなかった。

「そうだねぇ……これは僕の口から説明するよりも君が取り戻した方が早い気がするよ」
「取り戻すって、さっきからそれも話題にしている意味が分からないわ」
「……聞きたいかい?」

男は握るクウェリルの手にぎゅっと力を込めた。
じっと見つめられたその瞳にクウェリルは答えるように小さくうなずく。
男はそれを受けて、ゆっくりと口を開いた。

「君が取り戻すべきなのは、”記憶”だよ」

彼の言葉が指すものを理解した時、クウェリルの頭の中は真っ白になった。
しかし、失ったというそれを探そうにもクウェリルの脳内のどこにも、その破片は見当たらなかった。

「……記憶? ……私、忘れていることなんて、きっと何もないはず……」

クウェリルの口から出た声は、自分でもわかるほど掠れてしまっていた。

「混乱するのも無理はない。記憶を奪われてしまえば、それを自力で取り戻すことはまず不可能。だから、人間は自分が失ったとする記憶があるという事実を受け入れがたい」

体を固くさせたクウェリルを和らげるように、男はひどく優しく言った。

「……貴方たちが嘘を言っているという可能性もあるわ」
「まぁ、それを否定する手段は僕らにはない……いや、早く君が記憶を取り戻せばそんなことを疑ったことを面白おかしく思うはずだ」

善は急げだ、そう言うと男はクウェリルの手を引き、共に立ち上がろうとした。
クウェリルは彼の力になすすべもなく、つられるように立ち上がったが、しかし丁度足で踏ん張った箇所が先ほどスープをこぼしてしまっていた場所だったため、クウェリルは足を滑らせその体は再びベッドに沈んだ。

「大丈夫かい? この水たまりのこと、すっかり頭から抜けていたよ」

天井を見上げ、目を瞬かせるクウェリルの視界に、男の慌てた顔が入り込んだ。
差し出された手に、自分の手を重ねるとクウェリルの上半身はあっという間に起き上がった。

「こんなもの、早くこうしてしまえばよかったんだ」

男は一人そう呟くと突如ベッドの頭側にある窓のふちに飾ってあった植木に手をかざした。
すると、なんと驚くべきことに植木の中で育っていた大きな三つの葉の内の一枚が、地面に降りてきたのだった。
降りてきたとは、それは土から少しだけ顔を出していたはずの茎が急激に成長したかのように長さを増し、そしてその先端につく葉が丁度オレンジ色に染まっていた床までたどり着いてしまったというわけだ。
クウェリルは自分の目を疑った。

「……この植物は一体何なの!」

クウェリルは今もなお手を植物へ向けてかざしたままの男に向かって震える声で叫んだ。

「そうだよね、驚いて当たり前の光景だよ」

男の言い聞かせるような声は、今のクウェリルには全く響かなかった。
しかし伸びた茎の先が自分の足近くにあることはきちんと目に入れてしまい、クウェリルは悲鳴を上げて慌てて両足をベッドの上へと持ち上げた。

「大丈夫、君に危害を加えたりなんて一切しないよ」

落ち着け、と諭すように男に両肩を掴まれ、クウェリルはほんの少しだけ正気を取り戻した。
しかし、その時クウェリルは男の手に合わせた高さ―つまりクウェリルの肩の位置までこれまた茎が迫っていることに気が付いた。
唖然とした表情で茎に視線を奪われていると、男はクウェリルの肩からパッと手を離した。

「ごめんね、驚かせる気は全くなかったんだ」

男は苦笑して頭を掻いたが、またもやそれに合わせて茎は動きを見せた。

「あぁ……もしかして、これってその植物のせいじゃないのね」

クウェリルは到底信じられない思いだったが、この一連の事象で、この奇妙な植物の動きは目の前にいるこの男によってもたらされているのだと、そう受け止める他はなかった。
「ご名答。君の言う通り、こんな風に茎が伸びたり、そして縮んだりするのは……」

男は左手を高く持ち上げたり、そして振り下ろしてみせた。

「この植物のせいじゃなくて”これ”のせいなんだ」

その言葉と共に、男はクウェリルに向かって、左手の真ん中に嵌めてある指輪を指さした。
その指輪は、とても既視感のあるものだった。
茶色の土台の真ん中に埋められていたのは、先ほど彼が作ってくれたスープのように透き通った緑色だった。
それはレーホル、そしてドゴンコが身に着けていたものにとてもよく似ている―。

「僕がなぜこんなことを出来るかというと、草の人形遣いであるから……」

―人形遣い―
遠いどこかでその言葉を耳にしたことがあるような気がしてならず、クウェリルは痛む頭に眉をひそめた。

「君は水の人形遣い……そしてここ、ヴァンミフ学園は人形遣いの学校なんだ―」


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