婚約破棄されたので、ミドリアイランドの住人を買収して国を統合します

常野夏子

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第八話 名を呼ぶことさえ、まだ早い

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 嵐は、宣告という形で訪れました。

「王国より、正式な通達です」

 ヨハンの声は、いつもより低く抑えられていました。

「ミドリアイランドを“特別監督領”とし、
 暫定統治官を派遣するとのこと」

 私は、目を閉じました。

 ——来るべきものが、来ただけ。

「名目は?」

「治安の安定と、経済活動の是正」

「要するに」

 私は、静かに言いました。

「首に縄をかける、ということですね」

 王国は、もはや隠しません。
 対話の段階は終わり、“正しさ”を振りかざす段階に入ったのです。

「暫定統治官の名前は」

「……エドガー・ハインツ卿」

 その名に、胸が一瞬だけざわめきました。
 王国中枢でも有名な、冷酷な実務官僚。

「迅速に成果を出す人物ですね」

「ええ。
 反発が出れば、切り捨てることも躊躇しない」

 ヨハンは、言葉を選びながら続けました。

「……代表として、カイル殿を据える話も、
 同時に進められています」

 私は、机の端を指でなぞりました。

 ついに、来たのです。
 彼が“選ばされる”瞬間が。

 その夜、私は彼を呼びませんでした。
 呼べば、答えを聞いてしまうからです。

 ですが——。

 扉を叩く音は、私の意思など関係なく、響きました。

「……入って」

 現れたカイルは、外套も脱がぬまま立っていました。
 顔色が、よくありません。

「聞いた」

「ええ」

 それだけで、十分でした。

「俺を、正式代表にするつもりだ」

「はい」

「条件は」

 私は、顔を上げました。

「私と、完全に袂を分かつこと」

 沈黙。

 彼は、苦く笑いました。

「分かりやすいな」

「王国は、いつも合理的です」

「……あんたは?」

 その問いは、政治のものではありませんでした。

 私は、すぐには答えられませんでした。

「私は」

 ようやく、言葉を紡ぎます。

「あなたが代表になることで、
 この土地の被害が最小限になるなら——」

「それが“正解”だと?」

 彼は、遮るように言いました。

 私は、首を振りました。

「いいえ。
 “正解”ではありません」

 少し、声が震えました。

「ただの……計算です」

 彼は、何も言わず、私を見つめていました。

 その視線が、痛いほど真剣で、
 同時に——優しかった。

「なあ、リリアーナ」

 彼が、初めて私の名を呼びました。

 それだけで、胸の奥が、きゅっと縮みます。

「俺は、政治は分からない」

「ええ」

「だがな」

 彼は、一歩近づきました。

「誰かを切り捨てて守るやり方が、
 この土地を救うなら——」

 一拍。

「それは、もう別の国だ」

 私は、息を呑みました。

「……それでも、守らねばならないものがあります」

「あるな」

 彼は、低く答えました。

「だが、守り方は一つじゃない」

 そして、静かに言います。

「俺は、あんたを切り捨てて立つ代表にはならない」

「……」

「それで全部失うなら、
 最初から選ばなきゃいい」

 その言葉は、愚直で、非効率で、
 政治的には最悪でした。

 だからこそ。

「……どうして、そこまで」

 私は、声を抑えきれませんでした。

 彼は、少し困ったように笑いました。

「理由が欲しいか?」

「……はい」

「簡単だ」

 彼は、目を伏せ、そして言いました。

「俺は、あんたが一人で立ってる姿を、
 もう見たくない」

 胸が、静かに、しかし確実に痛みました。

 沈黙の中、私たちは向かい合っていました。
 触れ合うほど近くはなく、
 しかし遠ざかることもできない距離。

「……私は、強くありません」

 思わず、そう漏らしていました。

「知ってる」

「怖いのです」

「それもな」

「それでも」

 私は、彼を見ました。

「あなたが隣に立つなら、
 私は……」

 言葉が、続きませんでした。

 彼は、何も言わず、
 ただ——そっと、私の手を取ります。

 握るでもなく、引き寄せるでもなく、
 逃げられる余地を残したまま。

「無理に言わなくていい」

 その温度が、胸に沁みました。

「今はまだ、これでいい」

 私は、ゆっくりと頷きました。

 甘さは、約束ではありません。
 切なさは、未完成だからこそ生まれます。

 外では、王国の旗を掲げた馬車が、
 ゆっくりとミドリアイランドへ近づいていました。

 嵐は、もう避けられません。

 ですが。

 誰かの手の温もりを知ってしまった以上、
 私は、もう以前の私ではありません。
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