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第五章 図書館で暴れる妖怪
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Ⅰ
本日、祈李は「あやかし図書館」の中で、二階のソファに腰かけながら読書をしていた。手にしているのは、「妖のすべて」というタイトルの本である。これは、妖怪の世界で作られた本であった。
何故妖怪の本を手にしているかといえば、祈李が妖怪に詳しくないからであった。関わりを少なからず持つ妖怪たちのことは、少しずつだが覚えてきた。だが、いまだに知らない妖怪のほうが数が多いわけである。
ちなみに、特に仲良くなったのは、初対面から話をしている狐と狸だ。今では雑談をするほどの仲である。図書館の中ではなかなか会話ができないため、一度図書館の外に出て入口付近で話したり、紫雲の許しが出れば二階で話すこともあったりした。「許しが出れば」に関しては、狐たちが教えてくれたことであったが、基本的に二階は立入禁止になっているらしい。というのも、紫雲が一人でいることを好んでいるからなようだった。
さらに、紫雲はあらゆる妖怪たちから人気があるようだが、本人はまったく興味がないとのことだった。
祈李は以前一度だけ、紫雲に直接確認をしたが、その時もあっさりと告げてしまっていた。
「私はただこの図書館の主なだけだからね。図書館にいる者として、他の妖怪たちが興味を持っているだけだろう。私からすれば、どうでもいいことなのだが、ね」
紫雲はにこりと微笑んでいた。
祈李は正直に言えば、人気があることには納得していた。物腰が柔らかく、目を惹く整った顔、絵になるようなその姿に興味を持つものが少ないはずがない。そう思ったが、それを口に出すことはなかった。祈李は紫雲の言葉に頷くだけに留めたのであった。
祈李はそのことを思い出して、再度考え直す。
紫雲が無関心なだけなのか、ただ単に面倒なのか……。
彼の真意は分からないが、祈李はそう考えるだけにしていた。というのも、それ以上聞いてはいけないような気がしていたからだった。祈李からそれ以上何か聞く勇気はなかったのである。
話は逸れたが、兎にも角にも圧倒的に妖怪についての知識が少ないことを自覚した祈李は、ここ、「あやかし図書館」に通える間、妖怪について学ぶことを決意したのである。
人間の世界にも妖怪について記載されている本があるとは思ったが、せっかくこの図書館に通えているわけだし、何より妖怪の世界で記載されている本のほうが詳しいのではないかと考えたのである。
百聞は一見にしかず。知識を増やして、そのままこの図書館なら、実際に見ることができるだろう。これを好機と考えて、無駄にすることもないはずだ。
祈李は本に集中することにしたのであった。
Ⅱ
「祈李」
紫雲の声が、祈李の耳に届く。祈李は本へ向けていた意識を、浮上させた。そのまま、声のする方向へと顔を向ける。
紫雲はソファの背もたれに腰をかけていた。右手は煙管を手にしている。今日は深緋の着物に、アラバスターの羽織を肩にかけていた。彼は祈李を優しく見つめている。
「熱心だね。何か気になることでもあったのかい?」
「妖怪について知りたくて。ほら、この図書館に通うようになって、たくさんの妖怪を見るようになったでしょ。でも、私は詳しくないから」
「なるほどね。そういうことかい」
紫雲は嬉しそうに笑う。煙管に口をつけ、しばらくして静かに煙を吐き出した。
「確かに、本は知識を得るのに最適だろうね。だが、人間の世界にも、妖怪の本はあるだろうに」
「あるけど、こっちにある本のが詳しい気がしたから」
「そうかい。……しかし、残念だね」
紫雲は残念そうに言いながら、肩を落とした。祈李はその言葉の意味が分からずに、首を傾げていた。
「どういうこと?」
「そりゃあねえ」
紫雲は空いている左手で、祈李の顎に手を添える。そして、くいっと少しだけ上に傾けた。先ほどよりも二人の視線が交じり合う。そして、紫雲は距離をぐっと近づけた。祈李の瞳を覗き込むようにして、見つめ合う。
「図書館にいる理由が、『私に会いに来た』、ではないからね」
祈李はそれを聞いて、目をぱちくりさせた。紫雲は愉快そうにふふっと笑う。
祈李はゆっくりと内容を理解して、それからじとっとした目を紫雲へと向けた。それから、呆れたように、悔しそうに呟く。
「……紫雲って、私をからかうのが好きだよね」
「おや、それは心外だね」
紫雲は楽しそうにくすくすと笑った。確実に楽しんでいる様子だった。詫びる様子はなさそうである。
祈李は静かに息をついた。
紫雲はしばらく笑ってから、背もたれから立ち上がる。そして、定位置である、一階を見下ろすことができる柵まで歩き、祈李を手招きした。祈李は手に招かれるまま、彼の隣に本を持ったまま立つ。
「さてさて、知識は増えたのだろう? 祈李、実際に彼らを見てみようではないか」
紫雲の言葉に、祈李は多少納得がいかないまま、頷くのであった。
Ⅲ
紫雲は煙管を使って妖怪を示しながら、一人ずつ祈李へ紹介した。紹介、というのは語弊があるかもしれない。一方的に祈李が彼らを知るだけなので、「説明」の言葉が正しかった。祈李は持っていた本と照合しながら、紫雲の言葉に耳を傾けた。
「あれが、あまびえ、だね」
「あ、聞いたことある」
「確か、最近は人間の世界で有名になったんだったね。それでかもしれないね。それから、あれがかいなんぼう、と呼ばれる妖怪だ」
「うーん……。意外とイラストだと分からないものだね」
「そうだね。本は確かに知識は増えるし、絵も掲載されているものがあるからね。分かりやすいことは分かりやすい。だが、実際に見ることとはまた違うからね。……祈李もよくあるのではないか、実際に見たほうが理解しやすい、という経験が。知識を増やして、実践して身体に染み込ませる。それが手っ取り早いこともあるからね」
「あー……。紫雲の言うとおりかも。本で学ぶことはできるけど、実際に覚えられているかは分からないもんね」
祈李は開いていた本を閉じて、腕に抱え込んだ。妖怪の世界で作られた本だったが、掲載されているイラストと実際は意外と違いが多かった。妖怪の世界で作られたといっても、本を作るものによって違うのかもしれない。色や形が違う、ということが多かった。これ以上、イラストと照合しようとしても、頭がこんがらがるだけだろう、と祈李は判断していた。
祈李の言葉に、紫雲は満足そうに頷く。
「妖怪の私たちが本を書いているとしても、書き手によって内容も絵も変わってしまう。その知識すべてが間違いだとは言えないが、逆を言えばすべてが正しいとも言えない。せっかく妖怪の世界にいるんだ、実際に見てみるほうが勉強になるだろう」
紫雲の言葉に、祈李は少し引っかかった。そう、以前から気になっていたこと。些細なきっかけから、祈李はこの妖怪の世界に、一部分だとしても踏み込んでいるのである。
ならば、それはいつまで続く時間なのだろうか――。
「……紫雲」
祈李は紫雲の名を呼んだ。紫雲は優しく微笑む。
「どうかしたかい、祈李」
「……私、ずっと気になっていたことが、あるの」
祈李の言葉が予想外だったのか、紫雲の瞳が見開かれた。無言のまま、祈李を見つめている。祈李は顔を俯かせ、スカートを両手でぎゅっと握った。
「その……、紫雲のこともまだ聞けてないこと、多いけど……。その……」
祈李は言いづらくて、なかなか言葉が出せずにいた。迷っている。聞いて大丈夫なのか、分からない。聞いたことによって、何か変わってしまうのではないか。そんな思いから、なかなか言葉として出せずにいた。
対する紫雲は、祈李の言葉を静かに待っていた。急かすこともなく、じっと目の前の少女を見つめている。だが、その視線は先ほどまでの優しくものではない。鋭い眼差しになりつつあった。
「わ、私は――」
祈李の言葉が発せられ、紫雲の瞳がすっと細まった、その時――。
ガッシャアアアン……!
――図書館の中で大きな音が響き渡り、ついで大きな揺れが押し寄せたのであった。
Ⅳ
祈李は先ほどまで考えていた内容を飲み込み、柵から身を乗り出して館内を見渡す。
「な、何っ……!?」
紫雲は少女の姿を目にして、視線が逸れたことに少しほっとしつつ、残念にも思った。だが、すぐに思考を切り替えて、祈李の隣に立ち、同じように館内を見渡す。
「今のは一体……」
「! 紫雲、あれっ!」
祈李は大声を出しながら、ある場所を指さす。紫雲がその指の先を見ると、一階では綺麗に並べられていた本や本棚が四方八方に散らばっており、その中心で土煙が発生していた。どうやら、誰かが壁を突き破って突入してきたらしい。壁が大きく破壊されている。一階にいる周囲の妖怪たちを見てみれば、驚いてはいるものの、幸い怪我人はいないようであった。そのことに、紫雲はほっと一つ息をつく。
ゆっくりと煙が晴れていけば、姿が顕になっていく。紫雲はその姿を瞳で捉え、すっと細めた。
「あれは……」
「紫雲?」
祈李が心配そうに紫雲の顔を覗き込む。だが、紫雲は突入してきた相手から視線を逸らさずに告げた。
「――間違いない。あれは、海牛だ」
「……う、うんむし?」
「牛の妖怪、だね。本来なら咆哮が上がるはずなんだが……。冷静ではなさそうだし、それが原因かもしれないな」
紫雲は長く綺麗な指を自身の顎に添え、ふむと頷く。そして、それから柵に足をかけた。
「祈李。一階にいる妖怪たちを外へ避難させてくれるかい」
「し、紫雲は――」
「私は彼を止める」
紫雲はそれだけ言うと、言い終わるよりも早くに一階に降りていた。相も変わらず、音もなく、静かに降りたっている。それから、前を見て駆け出し始めた。
祈李はそれを二階から見届けると、自分も螺旋階段を使って一階に降り、妖怪たちの避難を開始する。妖怪たちは恐れており、冷静ではない。祈李は何度も呼びかけ、一人ずつ確実に外に出していく。何人、図書館の中にいたかなんて、正確な数字は分からない。とにかく館内を見て、全員を逃がすしかなかった。
「……皆、外に出たかな」
紫雲はどうなったんだろう。そうは思うが、自分が行ったところで、足手まといになるだけだろう。いまだに館内では大きな音が響き渡っている。何が起こっているのか、どんな状況なのかは祈李にはよく分からなかったが、今は紫雲に言われたことをしっかりと行おうと動く。
館内を駆け回りつつ、誰もいないことを確認していく。すると、泣き声が一つ聞こえてきた。祈李はその方向に向かって駆けていく。すると、蹲って泣いている者がいた。棚の間を縫って駆けていき、祈李は声をかける。見れば、以前狐たちと一緒にいた、猫又であった。
「大丈夫!?」
「ね、姉ちゃ……」
泣いているが、怪我はしていなさそうだった。祈李は安堵の息をつく。それから、猫又の前に膝をついた。
「外に避難しよう。皆も避難してるから。大丈夫、紫雲が――」
そこまで言いかけて、祈李は息を呑んだ。本棚や本を倒しながら、海牛がこちらに向かって襲いかかろうとしているではないか。どうやら、見つかってしまっていたらしい。
さっきまで、周囲にもいなかったし、音も遠かったのに……!
まったく気がついていなかった。迂闊であった。こんなにすぐに海牛が自分たちの目の前に現れるとは思っていなかったのである。
逃げられないと判断した祈李は、猫又を抱き寄せて覆い被さる。
紫雲……!
目を瞑り、心の中で彼の名を呼んだ。
その時――。
「――祈李に、触れるな」
ドゴオオオオオオ……ン!
大きな地響きの音を奏でながら、海牛が地面に沈み込んだ。上から押し付けるようにして、海牛を地面に沈めた者がいたのだ。
音がしてしばらくすると静かになった。不審に思った祈李は、ゆっくりと目を開き、周囲を確認する。倒れている海牛の姿が目に入り、次に瞳に映った姿に目を見張る。
そこには――。
人の姿からは大きくかけ離れた、獣の姿がそこにあったのであった――。
Ⅴ
祈李の目の前で、海牛は地に沈んでいる。海牛からゆっくりと手を離した獣は、地に降り立った。静かに足をつけ、海牛に振り返る。
「……冷静でいられなかった理由はよく分からないが、図書館の中で暴れないで欲しいね」
獣の声には聞き覚えがあった。そして、着物の色にも。深緋の着物に、アラバスターの羽織。その姿だったのは、一人しかいない。
祈李は急に思い出していた、紫雲が「犬神」と呼ばれる存在であったことを。
よく見てみれば、確かに犬に近い。犬の耳ではあるが、毛は長く、尻尾の長さはいつもの倍以上あるように見えた。
だが、どこか祈李は確信している部分があった。目の前にいるのは、紫雲だ、と。
予想は当たっているのか。不安には思いながらも、祈李は名前を呼んだ。声が、震えていた。
「……し、おん?」
獣はその声に反応する。そして、振り返ったその瞳はとても悲しそうな色をしていた。祈李はそれを見て、息を呑む。
予想が当たって嬉しいような、違っていて欲しかったような……なんとも言えない感情で、祈李の心はぐちゃぐちゃになっていた。
そんな彼女に、獣は声をかける。
「……祈李。私が、怖いかい……?」
初めて聞く紫雲の悲しそうな声音に、祈李は息を呑み、胸がズキンと大きく痛む音がしたのであった――。
本日、祈李は「あやかし図書館」の中で、二階のソファに腰かけながら読書をしていた。手にしているのは、「妖のすべて」というタイトルの本である。これは、妖怪の世界で作られた本であった。
何故妖怪の本を手にしているかといえば、祈李が妖怪に詳しくないからであった。関わりを少なからず持つ妖怪たちのことは、少しずつだが覚えてきた。だが、いまだに知らない妖怪のほうが数が多いわけである。
ちなみに、特に仲良くなったのは、初対面から話をしている狐と狸だ。今では雑談をするほどの仲である。図書館の中ではなかなか会話ができないため、一度図書館の外に出て入口付近で話したり、紫雲の許しが出れば二階で話すこともあったりした。「許しが出れば」に関しては、狐たちが教えてくれたことであったが、基本的に二階は立入禁止になっているらしい。というのも、紫雲が一人でいることを好んでいるからなようだった。
さらに、紫雲はあらゆる妖怪たちから人気があるようだが、本人はまったく興味がないとのことだった。
祈李は以前一度だけ、紫雲に直接確認をしたが、その時もあっさりと告げてしまっていた。
「私はただこの図書館の主なだけだからね。図書館にいる者として、他の妖怪たちが興味を持っているだけだろう。私からすれば、どうでもいいことなのだが、ね」
紫雲はにこりと微笑んでいた。
祈李は正直に言えば、人気があることには納得していた。物腰が柔らかく、目を惹く整った顔、絵になるようなその姿に興味を持つものが少ないはずがない。そう思ったが、それを口に出すことはなかった。祈李は紫雲の言葉に頷くだけに留めたのであった。
祈李はそのことを思い出して、再度考え直す。
紫雲が無関心なだけなのか、ただ単に面倒なのか……。
彼の真意は分からないが、祈李はそう考えるだけにしていた。というのも、それ以上聞いてはいけないような気がしていたからだった。祈李からそれ以上何か聞く勇気はなかったのである。
話は逸れたが、兎にも角にも圧倒的に妖怪についての知識が少ないことを自覚した祈李は、ここ、「あやかし図書館」に通える間、妖怪について学ぶことを決意したのである。
人間の世界にも妖怪について記載されている本があるとは思ったが、せっかくこの図書館に通えているわけだし、何より妖怪の世界で記載されている本のほうが詳しいのではないかと考えたのである。
百聞は一見にしかず。知識を増やして、そのままこの図書館なら、実際に見ることができるだろう。これを好機と考えて、無駄にすることもないはずだ。
祈李は本に集中することにしたのであった。
Ⅱ
「祈李」
紫雲の声が、祈李の耳に届く。祈李は本へ向けていた意識を、浮上させた。そのまま、声のする方向へと顔を向ける。
紫雲はソファの背もたれに腰をかけていた。右手は煙管を手にしている。今日は深緋の着物に、アラバスターの羽織を肩にかけていた。彼は祈李を優しく見つめている。
「熱心だね。何か気になることでもあったのかい?」
「妖怪について知りたくて。ほら、この図書館に通うようになって、たくさんの妖怪を見るようになったでしょ。でも、私は詳しくないから」
「なるほどね。そういうことかい」
紫雲は嬉しそうに笑う。煙管に口をつけ、しばらくして静かに煙を吐き出した。
「確かに、本は知識を得るのに最適だろうね。だが、人間の世界にも、妖怪の本はあるだろうに」
「あるけど、こっちにある本のが詳しい気がしたから」
「そうかい。……しかし、残念だね」
紫雲は残念そうに言いながら、肩を落とした。祈李はその言葉の意味が分からずに、首を傾げていた。
「どういうこと?」
「そりゃあねえ」
紫雲は空いている左手で、祈李の顎に手を添える。そして、くいっと少しだけ上に傾けた。先ほどよりも二人の視線が交じり合う。そして、紫雲は距離をぐっと近づけた。祈李の瞳を覗き込むようにして、見つめ合う。
「図書館にいる理由が、『私に会いに来た』、ではないからね」
祈李はそれを聞いて、目をぱちくりさせた。紫雲は愉快そうにふふっと笑う。
祈李はゆっくりと内容を理解して、それからじとっとした目を紫雲へと向けた。それから、呆れたように、悔しそうに呟く。
「……紫雲って、私をからかうのが好きだよね」
「おや、それは心外だね」
紫雲は楽しそうにくすくすと笑った。確実に楽しんでいる様子だった。詫びる様子はなさそうである。
祈李は静かに息をついた。
紫雲はしばらく笑ってから、背もたれから立ち上がる。そして、定位置である、一階を見下ろすことができる柵まで歩き、祈李を手招きした。祈李は手に招かれるまま、彼の隣に本を持ったまま立つ。
「さてさて、知識は増えたのだろう? 祈李、実際に彼らを見てみようではないか」
紫雲の言葉に、祈李は多少納得がいかないまま、頷くのであった。
Ⅲ
紫雲は煙管を使って妖怪を示しながら、一人ずつ祈李へ紹介した。紹介、というのは語弊があるかもしれない。一方的に祈李が彼らを知るだけなので、「説明」の言葉が正しかった。祈李は持っていた本と照合しながら、紫雲の言葉に耳を傾けた。
「あれが、あまびえ、だね」
「あ、聞いたことある」
「確か、最近は人間の世界で有名になったんだったね。それでかもしれないね。それから、あれがかいなんぼう、と呼ばれる妖怪だ」
「うーん……。意外とイラストだと分からないものだね」
「そうだね。本は確かに知識は増えるし、絵も掲載されているものがあるからね。分かりやすいことは分かりやすい。だが、実際に見ることとはまた違うからね。……祈李もよくあるのではないか、実際に見たほうが理解しやすい、という経験が。知識を増やして、実践して身体に染み込ませる。それが手っ取り早いこともあるからね」
「あー……。紫雲の言うとおりかも。本で学ぶことはできるけど、実際に覚えられているかは分からないもんね」
祈李は開いていた本を閉じて、腕に抱え込んだ。妖怪の世界で作られた本だったが、掲載されているイラストと実際は意外と違いが多かった。妖怪の世界で作られたといっても、本を作るものによって違うのかもしれない。色や形が違う、ということが多かった。これ以上、イラストと照合しようとしても、頭がこんがらがるだけだろう、と祈李は判断していた。
祈李の言葉に、紫雲は満足そうに頷く。
「妖怪の私たちが本を書いているとしても、書き手によって内容も絵も変わってしまう。その知識すべてが間違いだとは言えないが、逆を言えばすべてが正しいとも言えない。せっかく妖怪の世界にいるんだ、実際に見てみるほうが勉強になるだろう」
紫雲の言葉に、祈李は少し引っかかった。そう、以前から気になっていたこと。些細なきっかけから、祈李はこの妖怪の世界に、一部分だとしても踏み込んでいるのである。
ならば、それはいつまで続く時間なのだろうか――。
「……紫雲」
祈李は紫雲の名を呼んだ。紫雲は優しく微笑む。
「どうかしたかい、祈李」
「……私、ずっと気になっていたことが、あるの」
祈李の言葉が予想外だったのか、紫雲の瞳が見開かれた。無言のまま、祈李を見つめている。祈李は顔を俯かせ、スカートを両手でぎゅっと握った。
「その……、紫雲のこともまだ聞けてないこと、多いけど……。その……」
祈李は言いづらくて、なかなか言葉が出せずにいた。迷っている。聞いて大丈夫なのか、分からない。聞いたことによって、何か変わってしまうのではないか。そんな思いから、なかなか言葉として出せずにいた。
対する紫雲は、祈李の言葉を静かに待っていた。急かすこともなく、じっと目の前の少女を見つめている。だが、その視線は先ほどまでの優しくものではない。鋭い眼差しになりつつあった。
「わ、私は――」
祈李の言葉が発せられ、紫雲の瞳がすっと細まった、その時――。
ガッシャアアアン……!
――図書館の中で大きな音が響き渡り、ついで大きな揺れが押し寄せたのであった。
Ⅳ
祈李は先ほどまで考えていた内容を飲み込み、柵から身を乗り出して館内を見渡す。
「な、何っ……!?」
紫雲は少女の姿を目にして、視線が逸れたことに少しほっとしつつ、残念にも思った。だが、すぐに思考を切り替えて、祈李の隣に立ち、同じように館内を見渡す。
「今のは一体……」
「! 紫雲、あれっ!」
祈李は大声を出しながら、ある場所を指さす。紫雲がその指の先を見ると、一階では綺麗に並べられていた本や本棚が四方八方に散らばっており、その中心で土煙が発生していた。どうやら、誰かが壁を突き破って突入してきたらしい。壁が大きく破壊されている。一階にいる周囲の妖怪たちを見てみれば、驚いてはいるものの、幸い怪我人はいないようであった。そのことに、紫雲はほっと一つ息をつく。
ゆっくりと煙が晴れていけば、姿が顕になっていく。紫雲はその姿を瞳で捉え、すっと細めた。
「あれは……」
「紫雲?」
祈李が心配そうに紫雲の顔を覗き込む。だが、紫雲は突入してきた相手から視線を逸らさずに告げた。
「――間違いない。あれは、海牛だ」
「……う、うんむし?」
「牛の妖怪、だね。本来なら咆哮が上がるはずなんだが……。冷静ではなさそうだし、それが原因かもしれないな」
紫雲は長く綺麗な指を自身の顎に添え、ふむと頷く。そして、それから柵に足をかけた。
「祈李。一階にいる妖怪たちを外へ避難させてくれるかい」
「し、紫雲は――」
「私は彼を止める」
紫雲はそれだけ言うと、言い終わるよりも早くに一階に降りていた。相も変わらず、音もなく、静かに降りたっている。それから、前を見て駆け出し始めた。
祈李はそれを二階から見届けると、自分も螺旋階段を使って一階に降り、妖怪たちの避難を開始する。妖怪たちは恐れており、冷静ではない。祈李は何度も呼びかけ、一人ずつ確実に外に出していく。何人、図書館の中にいたかなんて、正確な数字は分からない。とにかく館内を見て、全員を逃がすしかなかった。
「……皆、外に出たかな」
紫雲はどうなったんだろう。そうは思うが、自分が行ったところで、足手まといになるだけだろう。いまだに館内では大きな音が響き渡っている。何が起こっているのか、どんな状況なのかは祈李にはよく分からなかったが、今は紫雲に言われたことをしっかりと行おうと動く。
館内を駆け回りつつ、誰もいないことを確認していく。すると、泣き声が一つ聞こえてきた。祈李はその方向に向かって駆けていく。すると、蹲って泣いている者がいた。棚の間を縫って駆けていき、祈李は声をかける。見れば、以前狐たちと一緒にいた、猫又であった。
「大丈夫!?」
「ね、姉ちゃ……」
泣いているが、怪我はしていなさそうだった。祈李は安堵の息をつく。それから、猫又の前に膝をついた。
「外に避難しよう。皆も避難してるから。大丈夫、紫雲が――」
そこまで言いかけて、祈李は息を呑んだ。本棚や本を倒しながら、海牛がこちらに向かって襲いかかろうとしているではないか。どうやら、見つかってしまっていたらしい。
さっきまで、周囲にもいなかったし、音も遠かったのに……!
まったく気がついていなかった。迂闊であった。こんなにすぐに海牛が自分たちの目の前に現れるとは思っていなかったのである。
逃げられないと判断した祈李は、猫又を抱き寄せて覆い被さる。
紫雲……!
目を瞑り、心の中で彼の名を呼んだ。
その時――。
「――祈李に、触れるな」
ドゴオオオオオオ……ン!
大きな地響きの音を奏でながら、海牛が地面に沈み込んだ。上から押し付けるようにして、海牛を地面に沈めた者がいたのだ。
音がしてしばらくすると静かになった。不審に思った祈李は、ゆっくりと目を開き、周囲を確認する。倒れている海牛の姿が目に入り、次に瞳に映った姿に目を見張る。
そこには――。
人の姿からは大きくかけ離れた、獣の姿がそこにあったのであった――。
Ⅴ
祈李の目の前で、海牛は地に沈んでいる。海牛からゆっくりと手を離した獣は、地に降り立った。静かに足をつけ、海牛に振り返る。
「……冷静でいられなかった理由はよく分からないが、図書館の中で暴れないで欲しいね」
獣の声には聞き覚えがあった。そして、着物の色にも。深緋の着物に、アラバスターの羽織。その姿だったのは、一人しかいない。
祈李は急に思い出していた、紫雲が「犬神」と呼ばれる存在であったことを。
よく見てみれば、確かに犬に近い。犬の耳ではあるが、毛は長く、尻尾の長さはいつもの倍以上あるように見えた。
だが、どこか祈李は確信している部分があった。目の前にいるのは、紫雲だ、と。
予想は当たっているのか。不安には思いながらも、祈李は名前を呼んだ。声が、震えていた。
「……し、おん?」
獣はその声に反応する。そして、振り返ったその瞳はとても悲しそうな色をしていた。祈李はそれを見て、息を呑む。
予想が当たって嬉しいような、違っていて欲しかったような……なんとも言えない感情で、祈李の心はぐちゃぐちゃになっていた。
そんな彼女に、獣は声をかける。
「……祈李。私が、怖いかい……?」
初めて聞く紫雲の悲しそうな声音に、祈李は息を呑み、胸がズキンと大きく痛む音がしたのであった――。
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