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第七章 青威という妖怪

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    Ⅰ

    青威は意味深ににやりと笑った。一つわざとらしく咳払いをする。それから、ゆっくりと語り始めた。
「――海牛うんむしの暴走は、おそらくそこにいる彼女だろうよ」
「……わ、私?」
    急に指で示され、さらに自分のことがすぐに話に出てくると思っていなかった祈李は目を瞬く。紫雲は何も言わなかったが、視線がやけに鋭くなっていた。無言のまま、ギロリと青威を睨みつけている。祈李はそんな紫雲を見ながら、ごくりと息を呑んだ。今日は紫雲の知らない一面をよく見ていると思う。
    紫雲の妖怪の真の姿であろう、獣の姿を見ても、祈李は怖いと思わなかった。

    だが――。

    何でだろう、今の紫雲のほうが、とても怖く感じる……。

    祈李は無意識のまま、自分の両手を握りしめていた。膝の上で祈るかのように組まれた手に、力が入っていく。手が勝手に震えてしまう。力を入れないと、余計に震えが大きくなってしまうような気がしていた。
    ……紫雲を、悲しませたくないのに。
    先ほどの紫雲の姿が、目に焼き付いて頭から離れなかった。不安そうな、寂しそうな彼の姿を見て、彼の声を聞いて、祈李は紫雲を不安にさせたくないと強く思っていた。だが、思いとは裏腹に、身体の震えは止まらない。勝手に震えてしまう。祈李は震えを押さえつけるかのように、より一層手の力を強くした。
「……祈李?」
    紫雲の声に、祈李はハッと我に返った。気づかれてしまった、そう思ったが、紫雲に心の中まで悟られてはいけないと、すぐに笑顔を作る。手の震えを見せないように、隠すようにして笑いかけた。
「……ごめん、大丈夫」
「……震えている。寒い、わけではなさそうだが。あやつの言葉に耳を傾けなくて良いからな」
「大丈夫だよ、ちゃんと聞くから」
「しかし――」
    紫雲が優しく手を取ってくれる。きつく握りしめた手をゆっくりと解いてくれながら、祈李を心配しているようで、困ったような、悲しそうな顔をした。
    そんな顔、させたくないのにな……。結局、不安にさせちゃった……。
    祈李は気を落としながら、それでも紫雲が言い淀んでいることに気がついた。これ以上、心配させないようにと、再度にこりと笑った。紫雲はそれ以上何も言わなかった。
「過保護も、困ったものだな」
    じっと二人の様子を見ていた青威が、にやにやと笑いながら告げる。紫雲は再度彼をにやりと睨みつけた。旧友である青威は、からからと楽しそうに笑うだけであった。紫雲は唸るように低い声で告げる。
「……いらぬことを言うな。さっさと本題に入れ。祈李を傷つけるなら、私が許さん」
「はいはい。犬神殿に噛まれたら、厄介だしな」
    青威は紫雲の言葉をさらりと躱す。それから、降参とでも言うかのように、両手を上げた。
    再度話に入る彼の言葉に、祈李は耳を傾けたのであった。



    Ⅱ

「そこのお嬢さんは、この場所に来てなんだかんだと長いのだろう?    妖怪の一人や二人、暴走しても何らおかしくはないはずだ」
「……人間だから、ですか?」
    祈李は気になったことを口にする。青威は一つ頷いた。
「まあ、そうだな。簡単に言うと、そこにいる犬神殿のように、歓迎している者ばかりではないということだ」
    青威は至極真面目な表情で告げた。すっと細くなった瞳に、祈李の背筋はぞくりとする。駆け抜けていく悪寒に、身震いしてしまった。青威はそれを見届けながら、言葉を続ける。
「……妖怪の中には、人間を恨む者もいる。人間を好く者、人間を嫌う者……様々だ。両極端に別れて、相容れぬ者もいるほどだからな。海牛もその中に入る者かもしれぬ。――今日のことは、きっとお嬢さんが原因だろうな」
「……っ!」
    祈李は息を呑む。その言葉を聞いて、顔を俯かせた。
    だが、青威の言っていることが、分からないでもなかった。
    人間の中でだって、好き嫌いは発生する。妖怪の中でだって、きっとそんな話があるのだろう。妖怪だって、人間と変わらない、感情だってある。それは、ここ、「あやかし図書館」に来てから知ったことであった。

    妖怪が、人間を嫌う――。

    それだって、ない話ではないはずだ。今まで、祈李がこの図書館に来てから出会っていないだけで、そういう妖怪がいたとしてもおかしくはない。紫雲を始め、狐や狸たちが良くしてくれたとしても、他の者が陰で何か言っているかもしれない。気に食わないと、思われているのかもしれない。

    私……。

    祈李は不安になった。このまま、この場所に、「あやかし図書館」に通うのは良くないのではないかと、そう思ってしまった。
    いつか、この場所に通う日が、終わりを迎えることはあるのだろう。ぼんやりと考えていたことが、唐突に突きつけられ、あっさり終わりを迎えるとは思ってもいなかった。今日が最後の日になってしまうのだろうか、どうしようもなく不安に襲われる。
    ……紫雲は、なんて言うのかな。
    紫雲も、青威の言葉が本当だとするなら、「ここにはもう来るな」と言うのだろうか。あの冷たい、酷く冷えきった声で、唸るように言うのだろうか。想像しにくいことではあるが、可能性としてはないと言いきれないことであった。
    もし、言われたら――。
    先ほど優しく解いてもらった手に、再度力が込められる。考えただけで、怖い。恐ろしい。紫雲にそんなことを言われたら、立ち直れないだろうと思う。ぎゅっと膝の上で拳に力を込めれば、その手に自分より大きく爪の長い手が重ねられる。
「……し、おん?」
    彼の何も持っていない左手が優しく触れる。祈李の手の甲を撫でながら、優しく包み込んでくれる。手が離れることはない。手の動きを見ながら、祈李が視線を上げれば、紫雲は優しく微笑んでいた。先ほどまで青威に睨みをきかせていた者とは思えないほど、とても優しい表情をしていた。彼の体温を心地よく思いながら、祈李はじっと彼を見つめた。自分の瞳が、少しだけ揺らいだのを自覚する。紫雲はいつもの声で祈李へ声をかけた。
「大丈夫だ、祈李。気にすることはない」
「け、ど……」
「何せ――」
    紫雲は言葉を一度区切ると、盛大にため息をつく。それに祈李がびくりと身体を震わせるものの、紫雲の呆れた視線は青威に向けられていた。
「――こやつが言っていることは、基本的に嘘だからな」



    Ⅲ

    祈李は紫雲の言葉に目をぱちくりとした。頭が追いついていかない。そんな中でも、紫雲は盛大に先ほどよりも長いため息をついて、それから煙管を口に運ぶ。次は煙が吐き出された。
「……紫雲、どういうこと」
    ようやく頭の中で理解できた祈李は、戸惑いつつも彼に聞いてみる。恐る恐る聞いた祈李を見つつ、紫雲は呆れたように返すだけだった。
「どうもこうもない。あやつは――青威は、祈李、お前をからかっているのだ」
「からかって……?」
    きょとんとしている祈李を見ていた件の男は、とうとう盛大に吹き出した。大きな笑い声が図書館の中で響いていく。肩を震わせているとは思っていたが、どうやら笑いを堪えていたらしい。盛大に笑い続けている男を、紫雲は呆れて、祈李は呆けてほうけて見つめた。
    ひとしきり笑った青威は、いまだにくっくっくと喉を震わせながら、言葉を紡いだ。
「いやはや、こうも引っかかってくれるとはな」
「……え?」
「貴様の冗談は冗談の域を超えているのだ。青威、祈李を傷つけるなら私は許さんと言ったはずだ」
「紫雲、彼女は面白いな。どれ、俺がその位置変わってやろう」
「誰が貴様に渡すと思うか。引っ込んでおれ」
「え、あ、の……?」
    完全に祈李は二人の会話についていけてなかった。置いていかれている。勝手に話を進めないで欲しい、そう思っていた。
    だが、二人は祈李のことが頭から抜けているのか、はたまた口論することに夢中になっているのか、話はどんどん先へ先へと進んでいってしまう。紫雲は一度煙管に口をつけてから、再度文句を告げた。
「大体にして、わざわざ祈李に関わろうとするところがまた気に食わん」
「紫雲、貴様は自分が変わったことになど気がついておるまい。貴様が変わったとあれば、誰でも見に来るだろうよ」
「興味本位で来るでない。大体にして、原因とやらが分かっていないではないか」
「なんだ、真面目に聞こうとしていたのか。そんなもの、俺が知っていると本気で思ったのか?」
「祈李に何かあっては困るから、一応、だがね。……まったく、真面目に話を聞こうとした私が馬鹿であったな。それと、ここは図書館だ、貴様の笑い声は大きすぎる。少しは考えよ」
「えっと……。紫雲、結局、私が悪いの……?」
    祈李は紫雲の着物の袖をくいっと引っ張る。紫雲は不機嫌そうな顔を緩め、横に首を振った。
「まったく悪くない。すべてこやつの嘘だ。一切気にすることはない」
「からかって悪かったな、祈李とやら。気にするな」
    それは、無理があるのでは……?
    紫雲に続いて、青威も「気にするな」と告げる。祈李は身体から力が抜けてしまった。どっと疲れが押し寄せてくる。そのまま、ソファに背中を預けてしまった。それを見た紫雲は慌てたが、彼女に声をかける前に狛犬に呼ばれてしまった。近づいてきた狛犬は、紫雲に指示を仰ごうと呼びに来たようであった。紫雲は顔を顰めたが、仕方なしに腰を上げる。ギロリと一度青威を睨んでから、狛犬について行った。
    祈李は心配そうな紫雲の視線に気がついていたものの、それに対して何も反応することができなかったのであった。



    Ⅳ

   どっと疲れた祈李はいまだにソファに深々と座っている。背中を背もたれに預け、ぼけっと遠くを見ていた。そんな彼女を見つつ、青威はくっくっくと笑う。それから、笑いを押し殺したまま、祈李へ声をかけた。
「……すまなかったな、祈李とやら。だが、存外嘘ではないということを、知っておいて欲しい」
    祈李は青威の声に反応して、身体を起こす。それから、彼の言葉の意味がよく分からずに首を傾げた。先ほどは嘘だと告げていたが、どういうことなのだろうか。別の意図があるのか、とじっと青威を見つめていれば、青威は肩を竦めた。
「……人の子を良くないと思っている妖怪は、少なからずいる。今の今まで、祈李が出会ってきていないだけでな。妖怪も、人間のように数が多い。これからどんな奴に出会うかなんて分からない。おそらく大丈夫だとは思っているが、頭の片隅には入れておけ。念のために覚えておいて、損はないはずだ」
「……あの」
「なんだ」
「……どうして、大丈夫だと、思うのですか?」
    祈李は青威の言葉が終わるのを待ってから、声をかけた。青威は表情を変えずに彼女に聞き返す。祈李は疑問を口にした。祈李の言葉を聞いた青威は、にやりと笑う。それから、苦笑混じりに告げた。
「――奴がいれば、問題なかろうよ」
    祈李は青威の言葉を聞いて、目を大きく見開いた。青威の言っている、「奴」が誰のことを指しているのかはすぐに分かった。
    煙管を片手にこの図書館におり、獣の姿になれる犬神である、紫雲だということを――。
    祈李は頭の中で理解すると、くすりと笑った。確かに、と思う。紫雲がいれば、何も問題ないように思えた。戸惑うことも、先ほどのように違う一面を見て怖いと思うこともあるが、それでも――。

    ――紫雲がいれば、大丈夫。

    そう思えるのである。
「……そうですね」
    祈李は青威へ返答した。
    それから二人は、紫雲が帰ってくるまで、談笑していたのであった。



    Ⅴ

「さて、そろそろ帰るとするか」
「さっさと帰れ」
    青威が重たそうに腰を上げた。紫雲はそれを見て、ばっさりと返す。今日は紫雲の声が低いことが多かった。
    あの後、戻ってきてからの紫雲はすこぶる機嫌が悪かった。楽しそうに話している祈李と青威を見て、眉をひそめたのである。それを見て、青威がまたもや大笑いしたのは余談であった。
「それではな、紫雲、祈李」
「二度と来るな」
「さよなら、青威さん」
    青威に笑いかけた祈李は、ソファに腰掛けたまま、ひらひらと右手を振る。青威は彼女に近寄り、その手を取ると、軽く口付けを落とした。祈李はそれを見上げているだけだった。
「――次は、邪魔者がいないところでな」
「……はい?」
    祈李がぽかんとしている中、青威はにやりと笑って去っていく。颯爽と去る背中に、紫雲は怒りのまま彼の名を呼ぶのであった。
    対する祈李は自分の手の甲を見つめて、ぽかんとしていた。何が起こったのか、よく分かっていない。何だったのだろうかと首を傾げるが、手の甲から視線が逸れることはなかった。
    旧友に唸り声を上げていた紫雲は、そんな彼女の姿を見て不服そうな顔をした。不機嫌そうに彼女を見つめる。やがて、足を運び、彼女の目の前で片膝をついた。そして、右手を取ると、べろりと手の甲を舐める。先ほど青威が口付けを落とした箇所を舐め取り、それから口付けを落とした。
    祈李はそれもぽかんと見つめている。
「……紫雲?」
    戸惑いながら、祈李は彼の名を呼んだ。名を呼ばれた紫雲は手の甲に再度口付けを落としつつ、呟いた。
「――消毒だ。……祈李、次からは青威に近づかないでおくれ」
    祈李に向けられるアメジストがギラリと煌めく。その瞳に吸い込まれそうな、離して貰えなさそうな気がしてしまった。祈李はその瞳を受け止めつつ、頷くことしかできないのであった。
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