リア=リローランと黒の鷹

橙乃紅瑚

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第二章

31.恋情が持つ力

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 冷たい空気が顔を冷やす。リアは少し身じろぎした後、目を覚ました。ぼんやりとした視界のまま横を見ると、サイドテーブルに飾られた氷晶の花が目に入った。ゼルドリックから贈られた魔法の薔薇は溶けることなく、美しさを保ったまま咲き誇っている。白く透き通る薔薇を見て、リアは口角を上げた。

(寒い……)

 大きな窓から差し込む光は殆ど無く、部屋は薄暗いまま。光の無い窓を見ると尚更身体が冷えるようで、リアは柔らかな毛布を身体に手繰り寄せた。

 隣には、ゼルドリックが眠っている。すうすうと寝息を立てて眠る彼の顔をリアはじっと見つめた。いつも後ろにしっかり撫で付けられている黒髪は、今はさらさらと彼の顔に掛かっている。盛り上がった眉間と跳ね上がった眉、鋭い目つきは彼の顔を厳つく見せるが、寝顔は随分と柔らかなものだった。

 こうして優しい寝顔を見ると、威厳さは殆どない。リアは不思議だった。自分の隣にゼルドリックが居て、その寝顔を見せてくれる。いつも夢の中で黒の王子様と睦み合っているが、彼は自分が寝入ると消えてしまう。こうしてゼルドリックが隣にいるという事実が、昨日の幸せな夜は現実だったのだと教えてくれる。

 そういえば、昨日の夜はあの甘い夢を見なかった。夢を見ないほどに疲れ切っていたのだろうか。夜通し触れ合った身体には、甘い痺れが身体に残っている。リアはこそばゆさと倦怠感を抱えたまま、服を着るためにベッドから降りようとした。

「ん……」

 ゼルドリックが腕を伸ばし、リアの身体を抱き寄せた。逃さないというようにがっしりとした腕で抱え込まれ、リアはベッドから降りられなくなってしまった。

「リア……。おはよう」

 ゼルドリックは掠れた声で挨拶をした。寝起きで焦点が合わない、だがとろりとした青い瞳に見つめられ、リアは顔を赤くした。

「ゼル……おはよう」

 リアが挨拶を返せば、彼は嬉しそうに擦り寄ってきた。柔らかな毛布の下で、リアの身体はゼルドリックの筋肉質な身体にぴたりとくっつけられた。

「素敵な夜だったな」

 落とされる甘さのある低い声に、リアは昨日の情事のあれこれをしっかりと思い出してしまった。羞恥を堪えて、とても素敵だったわと耳元で返せば、ゼルドリックはリアの首筋に口付けを落とした。

「いけないな……。寝起きだというのに。また君が欲しくなる」

 ゼルドリックは随分と甘いように思えた。瞳に甘さを宿し続けているように見える。リアはその瞳を見ると、自分の芯が揺り動かされる気がして、目を瞑ってゼルドリックの頭を優しく抱えた。ちゅ、ちゅ、と首に口付けを何度も落とされ、薄い肌を吸われる。甘い刺激にリアは小さく喘いだ。ゼルドリックは、自分の肌に跡を付けるのを好むように思えた。昨夜も首から肩、胸、腹にまで、彼は赤い跡を残した。

「ゼル……いけないわ。朝の支度をしないと」

「もう少し、もう少しだけ……」

 ゼルドリックは呟いて、リアの胸に手を伸ばしてきた。リアは近寄ってきた黒い肌を押し返そうとしたが、腕からくたりと不自然に力が抜けてしまった。そしてリアは結局、ゼルドリックから口移しで水を飲まされたり、胸を揉まれたりして、甘い刺激に股を情けなく濡らしてしまい、彼のそそり勃った男根を擦り付けられて甘い悲鳴を上げた。





 その日も雪が降っていた。リアはゼルドリックに肩を抱き寄せられながら、ゆっくりと工場への道を歩いていた。歩き辛いとゼルドリックにぼやいたが、彼はリアを放すことはしなかった。通りすがりの者たちがぎょっとした様子で自分たちを見る。それはそうだろうと、リアは視線から逃れるように顔をマフラーに埋めた。顔を蕩けさせた中央政府の役人が、寒くはないかとしきりに聞きながら人目を憚らず女に触れているのだ。

「リア、顔が赤いぞ。冷えるか?」

「私が顔を赤くしている理由は、寒いからじゃないって分かるでしょう」

「膨れるな。君が可愛いのが悪い」

 ゼルドリックは悪びれもせず答えた。リアは小声で彼に抗議をした。

「ゼル、朝からあんなことをして……。着替えている時も、ご飯を食べ終わった後も、家を出る時も……。あんなにキスをされたら唇が腫れちゃうわ。遠慮してよ!」

「心配するな。唇はあの程度では腫れはしないし、もし腫れたとしても俺の魔法で治してやる」

「ゼル……!」

 リアを甘く見つめて、ゼルドリックは彼女の赤い髪を何度も撫でた。彼は上機嫌な様で、口角を上げ顔を安心したように緩ませている。リアが薄く笑みを浮かべれば、彼は抱き寄せる力をなお強めた。

(…………。ゼルは、少し落ち着きを取り戻したのかしら)

 最近、非常に不安定だったゼルドリック。深い海のような昏い瞳を向け、急に激昂したり、急に上機嫌になったり、あるいは泣きそうに縋り付いてきたり。自分はそれが気がかりだった。彼が苦しむ原因は分からないままだが、昨日一緒に過ごしたことで少しは彼の気持ちを楽にさせることが出来たのだろうかとリアは考えた。

(だけどやっぱり……)

 リアは抱き寄せられる力の強さを、素直に嬉しいと受け取ることが出来なかった。

 何も考えずその甘さを享受することが出来なかった。彼の瞳に宿る甘さは強い執着の様なもので、自分のものだと言わんばかりに触れてくる彼の変わりように、警戒心と違和感を抱いた。

 彼は厳格であった筈だ。はずれの村で彼の姿を見た時は、少なくともそう思う部分があった。だが彼は中央政府の役人としての立場などどうでもいいと言い切った。彼は自分に強く執着して、己の立場を全く考えないような行動をする。
 ……このままでは、彼の立場が危うくなるのではないか? 同僚が見に来た程なのだ、ゼルドリックは確実に周囲から注目を集めている。立場を危うくするきっかけが自分でありたくはなかった。

 リアは心の中で溜息を吐いた。

(まだ何も解決していない。ゼルの心を、探っていかないと)

 彼に抱き寄せられながらも、工場の前まで無事に着くことが出来た。リアはほっとした息を吐いて、ゼルドリックにまた、と挨拶をしようとしたが、いきなり強い力で腕を引かれた。

「えっ……ゼルっ!? ……んんんっ!?」

 リアは両の頬をがしりと掴まれゼルドリックに口付けられた。リアはあまりの衝撃に呆け、抵抗することを忘れてしまった。ぬるりとした舌が入り込んでくる。リアは舌を犯され、羞恥に涙を滲ませた。

「はっ……は、あ……リア……」

「ふあっ……むうっ……い、やあっ……あんっ……」

 舌をねっとりとなぞり上げられ、くぐもった喘ぎを出してしまう。銀の糸が引くほどに深いキスをした後、ゼルドリックは名残惜しそうにゆっくりとリアから離れた。

(ゼ、ル……。ここは外よ!? 一体何を考えてるの!?)

 リアが衝撃に口元を押さえると、背後から間の抜けた女の声が聞こえた。

「おーお。こりゃすげえや。朝からすっげえもん見ちゃったわ」

 リアが振り向くと、女のエルフが腕を組みながらにやにやと笑っていた。リアは顔を赤くしながらも、その女の個性的な外見に強く目を奪われた。

(このエルフさん……。あまり見ないようなタイプだわ)

 中央政府の制服を身に纏っているが、その着こなしはだいぶ崩れたものだった。制服には銀をはじめとした様々な色の尖った鋲がたくさん打ち込まれ、踵の高いロングブーツをぴったりと履いている。

 紫色の短髪と片方の耳にだけ付けられたやたらに大きい葡萄葉のピアス。鋭くも綺麗な赤葡萄色の瞳が、珍しいものを見たというように眇められた。中央政府の者らしからぬ外見の女だが、リアはその個性的な力強い女のエルフに興味を抱いた。やたらに艶のある真っ赤な唇が、美しく弧を描いた。

(思わずじっと見てしまうくらい……格好良い……)

「あっついあっついおふたりさんが居るって話題になってたから会いに来てみたけど、想像以上だよ! あんたら羞恥心ってもんはないの?」

 あははと大きく笑いながら、その女のエルフは面白そうにリアとゼルドリックの元へ近づいてきた。

「……君は誰だ? 私より歳下の様だが……。その口調は気に入らぬ。礼儀を弁えたまえ」

 ゼルドリックが低い声を出すと、女のエルフは面白そうにもっと大きく笑った。

「あはははっ! 礼儀ぃ? ウケるんだけど! 説教する前に自分を省みな、ゼルドリックのおっさん。こんな外で見せびらかすようにべろちゅーしてる方が悪いんだろ?」

 正論ではあるが、リアは女のエルフの物言いにぎょっとして急いでゼルドリックを見た。リアはゼルドリックの纏う空気が変わったのをはっきりと感じていた。

「ほう……。もう一回言いたまえ。君は私を何と評した?」

「おっさんって言った。あーあ、そんな怖い顔しちゃってさあ……。図星指されていらついちゃった? 百超えてんだからおっさんって言われても仕方ねえだろ? 何十も下の女に執着して、だっせえの」

 ゼルドリックは女の失礼な物言いに眉を跳ね上げた。その様は非常に恐ろしいものだったが、女のエルフはにやにやとした笑いを崩すことはなかった。怒りから、ゼルドリックの口調が崩れたものになった。

「……お前は俺を知っているようだが。俺はお前如きの存在は知らぬ。所属と名を言え、お前のその態度は矯正される必要がある。上に報告する」

 ゼルドリックの怒りをリアははっきりと感じた。落ち着くようにと裾を引っ張るも彼の身体は動かなかった。

「無駄だよ。あたしはそれなりの立場にいる。あんたが報告したって、相手にされずに終わるわけ」

 女のエルフはなお焚きつけるような言い方をして、それからリアに視線を向けた。

「ね、リアちゃん。そいつマジでやばい気がするよ。そんな嫉妬深そうなおっさんと付き合うのはやめといたら? もっと若くていい男、あたしが紹介してあげよっか?」

「えっ?」

 なぜ自分の名を知っているのか。
 ……なぜそんなことを言うのか。リアは首を傾げた。

「お前……! よくもそんなことを!」

 ゼルドリックがぶわりと魔力を出すと、女は舌を出して挑発した。舌に留められた銀のピアスが、きらりと光るのをリアは見た。

「おー怖。殺されそっ。余裕のねえ男は嫌われっぞ?」

「あの……あなたは……」

 リアが口を開くと、女のエルフはぱちりと片目を閉じた。

「自己紹介はまた今度ね。このおっさんに殺されちゃあたまんねーから、あたしそろそろ退散することにするわ。じゃーね!」

 リアが問う前に、女はその場からすぐさま消えた。リアは呆けていたが、ゼルドリックに腕を掴まれた。驚いて彼の顔を見ると、瞳に昏さが宿った気がした。

「あ、あのエルフさんは……?」

 リアは視線を外しながらゼルドリックに問うも、知らぬと短く言い捨てられた。彼は酷く不機嫌な様だった。

「実に癪に障る女だ、リアに対して俺はやめておけだと? ……もっと、良い男を紹介するだと?」

「ゼル?」

「リアに、リアに触れても許されるのは俺だけだ。俺だけなんだ……。それをあの女、あの女……! よくも悍ましいことを。他の男のもとにリアを行かせてなるものか……!」

「きゃっ……」

 ゼルドリックはリアを勢いよく抱き締めた。ぶつぶつと何やら小さく呟く声が聞こえたが、リアはそれを聞き取れなかった。

 ただ、また恐れていたことが起きてしまった。彼の青い瞳に昏い色が宿る。心の不安定さを表す色。見ると背筋が冷える不気味な色。また彼はしばらくおかしくなってしまうだろう。リアはその色を薄める様に、彼が落ち着くまで声をかけ続けた。

 なぜ人通りのある外でキスをしたのか、ゼルドリックに追及したかったのにそれは叶わなかった。不安定な彼に今それを聞くのは悪手のような気がした。リアの脳裏に、女のエルフの言葉が木霊する。

 ――そいつマジでやばい気がするよ。

 あの紫の髪を持つ彼女は、なぜあんなことを言ったのだろうか。リアは朝起きた時の幸せが霧散し、不安に心が蝕まれていくのを感じた。

 彼のことが好きなのに。一歩近づけた気がするのに。また遠く離れてしまう気がする。
 彼の悩みが分からない。彼が分からない。一体どうすれば……。

 警鐘が、頭の中で強く鳴り響いている。





 リアは悩みを消すように一層鍛冶に打ち込んだ。金を精錬し宝石を磨き、ゼルドリックへの不安を振り払い、また昇華するように装身具を作った。頭の中に、絶えずゼルドリックの姿が出てくる。愛おしい気持ちがあるが、その陰に潜む不安のようなものが強く湧き出で、心を覆い隠していく。

 彼は何故、外でキスなんてした? あんな深いキスを。
 中央政府の役人としての立場も考えずに、人通りが多い道で…。

 リアは額から滴った汗を拭い、一息吐いた。

(私は……ゼルのことばかり考えている。……おかしくなりそうなくらいに)

 リアは気持ちを切り替えるために、一旦休憩を挟むことにした。鍛冶場の大きな窓を開け広げれば、しんしんと雪が降る外から、冷たい空気が一気になだれ込んできた。火照った身体を冬の空気が冷ましていく。

 ほう、と一息つき、リアは雪の降る景色を眺めた。冬は深まり、やがて一年が終わろうとしている。リアは、今年は実に色々なことがあったものだと思った。ゼルドリックとの出逢いは運命的だった。

 はずれの村で初めて顔を合わせた時の彼。村の住民に道徳を説いてまわった彼。村の視察に熱心であった厳格な役人の彼。あの時のゼルドリックは少し……いや、大分怖く、意地悪に思えた。自分の髪や手をよく触り、大きな戸惑いと熱を植え付けた。嫌われていると思っていた分、熱を出して倒れた自分に治療を施してくれたことが嬉しかった。毎週の贈り物も、髪や体型に対しての揶揄も、後にそれが好意的な感情から来るものだと知った時は驚いた。

 彼の為にブローチを贈り、それがきっかけで王都に越すことになり、共に薔薇の美しい屋敷に住み……、そして寒い夜に共に身体を温め合うまでに、彼と距離を縮めた。かつて、彼のことは怖いと思っていたはずなのに。今はあの険しい顔付きの、身体の大きなダークエルフが愛おしくて仕方がない。彼の姿を見ると、身体の芯が熱くなり切なく震える。その感情の変化が、何だかとても不思議なことのように思えた。

 リアはしばらく窓際で、ぼんやりと雪を見ていた。
 悩みが心に影を落とす。一向に治らない自分の身体の熱。
 ゼルドリックの不安定な態度。頭の中の警鐘が、なお強く鳴る。

 ひとつひとつに腰を据えて向き合い、紐解いていく必要がある。そうしなければ、彼と穏やかに過ごしてはいけない。自分は、なるべく長くゼルドリックと穏やかに過ごしたいのだ。笑い合いながら、支え合いながら。
 ……たとえ、恋が叶わなくても。許される限り彼といたい。

 今の生活は甘いが、不安定だ。彼との甘い時間は、堅牢な地盤の上に成り立ったものではない。自分とゼルドリックは恋仲ではないのだ。友情にしては行き過ぎた、けれど恋仲とは言えない曖昧な関係は、砂の城のように何かをきっかけとして、脆くあっという間に崩れ去ってしまいそうな気がする。

 ゼルドリックとの関係を改めて模索したい。曖昧な関係は結局自分を苦しめるのだ。彼に自分の思いを伝えなければ。彼の考えていることを知らなければ……。

(ゼルにもう一度、どんな不安を抱えているのか聞いてみよう。あの光の無い目は怖いけど……。逃げては駄目だ。彼のことが好きだから。好きだから、何とかしてあげたい。もっと不安定にさせることがあっても、嫌がられても、そして時には突き放すことをしてでも……。私は、彼の不安に踏み込みたい)

 リアはそう決めた。
 そして、ぐだぐだと悩むことを止めた。冬の冷たい空気が思考をまとめるのを手伝ってくれた気がした。

 窓を閉め、再び槌を握ろうとした時に、リアに来客があった。それはファティアナとレントだった。ふたりに会うのは久しぶりな気がした。可愛らしい桃色の王女と柔らかな物腰の美しいエルフを見て、リアは顔を綻ばせた。自分の作品を肯定し、喜んでくれる二人に会うことは、悩み疲れた心に栄養を与えるようだった。


 ――――――――――


 ファティアナは忙しい公務の間を縫ってリアに会いに来てくれたようだった。鍛冶場のテーブルの上に並べられたのは美味しそうなベリーのタルトで、ファティアナは三人で食べようと提案した。

「このタルトはね、わたしの大好物なのよ! さっくさくの生地に、滑らかなクリームに、大きなベリー! とっても美味しいんだから。きっとリアも気に入ると思うわ!」

 桃色の髪をふわふわと揺らしながら、ファティアナはにこにこと嬉しそうに笑った。リアは目の前の美しいタルトに目を輝かせた。

「わあ……。とても美味しそうです。私は甘いものが大好きなのです! ファティアナ様、お気遣いくださりありがとうございます」

 リアが微笑むとファティアナは顔を赤らめはにかんだ。そんなファティアナの顔を見てレントはくすくすと笑った。

「ファティアナ様も可愛らしいことを仰る。ご自分の大好物をリアさんにも好きになってもらいたいからと、自らこのタルトを買いに行ったのですよ」

「まあ……! 本当ですか? ファティアナ様、とても嬉しいです!」

「喜んでもらえて嬉しいわ! わたしね、ずっとあなたにお礼をしたかったの」

「お礼ですか?」

「ええ。作品のお礼よ。あなたの作ってくれた物に毎日触れているわ。あなたが作品に込めた感情は宝石のようにきらきらしていて、だけど複雑な輝きがあって……。凄くね、惹かれるのよ」

 ファティアナは頬を紅潮させ目を潤ませた。リアはまるで恋する乙女のような表情だと思った。だが、ファティアナが喜色を浮かべたのは僅かな間で、やがて寂しそうな顔をしてぽつりぽつりと呟いた。

「リア。王女って大変よ。とっても疲れるの。自由にさせてもらっているようで……。皆、わたしを監視してる。忙しない毎日も、気疲れする公務も、時々重圧に押しつぶされそうになって、全て放り投げたくなる。わたしには、たくさんの見目が美しい作品が捧げられるけれど、その裏にある感情が綺麗だとは限らなくて……悪意や、悲しみや、焦りのような感情を読み取って苦しくなる時があるの。ごめんなさいね、こんなことを言って」

「いえ……」

 ファティアナは寂しく笑った。歳下の少女が抱く閉塞感を、リアは僅かながらも汲み取った。

「そんな風に過ごしている中で、リア、あなたの作ってくれたアクセサリーたちが本当に支えになったのよ。あなたが作品に込めた感情は綺麗だった。決して手離せなかった。嬉しくて、悲しくて、楽しくて。心が温かくなったり、時々締め付けられたり……」

 王女は、自分の耳に留まった薔薇石英の耳飾りに手を添えた。目を閉じ丁寧に触れるその様は、本当に耳飾りを大事にしているようだった。

「あなたの作品に触れて、その中に込められた感情を探っていくのが楽しかったわ。毎日色を変えるあなたの感情は迷路みたいで。その迷路の中に入っていくことは、気の抜けない毎日の中の大きな楽しみだった。明日なんて来なければいいのに、そう思うこともあったわたしを変えてくれたの。ああ、明日もこの感情に触れられるのね。楽しみだわ、って……」

「ファティアナ様……」

「リア、あなたとずっとお話がしたかった。どうしたら、こんな綺麗で複雑な感情を込められるのか知りたいの……。ねえ、教えて。あなたが作品に込めてきた感情の正体を」

「それは……」

 リアは目を閉じた。今なら、作品に込めた感情が何かはっきりと分かる。
 自分はそれを自覚し、芯まで思い知っているのだから。

「ファティアナ様。私が作品に込めた感情は……。恋、です」

「恋?」

 ファティアナはリアの答えを聴き、目を見開いた。そしてみるみる桃色の美しい瞳を潤ませ、ぽろりと涙を流した。

「えっ……? ファティアナ様、どうかされましたか?」

 リアは失礼があったのかと思い焦りながら尋ねたが、ファティアナは首を横に振った。ファティアナは答えを得られた安心感からか、微笑みながらも寂しくしゃくり上げた。

「そう……。これが、恋なのね。これが……」

 レントから差し出された布で涙を拭い、ファティアナはリアに問いかけた。

「リア。恋って、何なのかしら?」

 やや漠然とした王女の問いに、リアはどう答えようかと考えた。だが脳裏にゼルドリックの姿を思い浮かべれば、自分の感情が湧き上がり、口からどんどんと溢れ落ちていった。

「恋とは……。誰かを、強く強く想うことです。喜んだり、悲しんだり、苦しんだりして、自分の感情を大きく揺さぶられることです。時には、相手のことが分からなくて不安になったり、際限無く溢れる自分の欲にうんざりすることもありますが……。煌めいていて、それなしでは生きていけなくなるほどに、自分の心の奥底に根ざしたかけがえのない感情です。相手を大切にしたい、ずっと共にいたい、身体を寄せ合いたい、手を繋ぎたい、笑い合いたい……。それが、恋です」

 冗長な答えだっただろうかとリアは不安になったが、ファティアナはリアの答えに満足したようだった。涙を次々と流し続けるも、嬉しそうに笑った。

「答えてくれてありがとう、リア。恋とは、恋とは本当に素晴らしい感情なのね……。そう、これが恋。わたしの慰みになり続けた、この迷路のような感情の正体、これが……恋。ねえリア、恋をしているあなたが羨ましい。羨ましくて、たまらない……」

「ファティアナ様……?」

「エルフはね、滅多に恋をしないのですって。わたしは王女だから、いずれ望みもしない誰かと番うことになるかもしれない。そして恋を知らぬまま、長い長い生を忙しなく過ごしていくのかもしれない……。そう考えると苦しい。わたしも、あなたのように胸をときめかせてみたい。この複雑で美しい感情を、自分の心で味わってみたい。リアの作品に毎日触れて、恋に憧れてしまったわ」

 ファティアナは感情が溢れるままに言った。

「リア。あなたの好きな方は、どんな方なの?」

「私の好きな方は……。王子様のような方です。私にとても優しい方です」

 リアはゼルドリックを想い、顔を赤らめながらそう言った。ファティアナはリアの答えに目を輝かせた。

「そう……。そうなのね。リアが好きになるのだから、きっととても素敵な方なのでしょうね。リア、気付いてる? あなたは会う度に綺麗になっていくわ。きっとその王子様に恋をしているからなのよね。恋って、不思議だわ。なんだか魔法のようなものね」

 綺麗になった。その言葉にリアは一層顔を赤くした。ファティアナはくすくすと笑い、頬の涙をすっかり拭い去った。

「リア。でも、最近のあなたは苦しそうだわ。作品から伝わってくる感情が、何だか少し苦い時があるの。あなたは恋のせいで、悩んでいるのかしら」

 リアは眉を下げた。ゼルドリックとの関係に悩む気持ちが、作品に入り込んでしまったのだと思った。

「……はい。お恥ずかしながら……。大変申し訳ありません」

 リアが頭を下げると、ファティアナは慌てて顔を上げるように言った。

「謝らないで。あなたの作品の輝きに陰りはないわ。むしろ一層強くなるばかり。苦くてもかけがえのない感情には変わりない。リア、どうかあなたの恋が叶いますように。王子様と一緒になれますように。これからもよろしくね。私に、もっと恋を教えてね……」

「はい……ありがとうございます、ファティアナ様」

 リアとファティアナは微笑みあった。リアは、どうかファティアナの恋への憧れがいつか叶いますようにと願った。重圧に苦しむずっと歳下の王女。彼女の寂しげな笑いは哀しかった。いつまでも天真爛漫な笑みを振りまいてほしい。ファティアナに、幸せになってほしかった。

「ねえ、リア。気になったのだけど、あなたの首元のそれ……。それも……」

 ファティアナはリアのチョーカーを躊躇うように指し、そしてその後首を静かに振った。

「……いえ、何でもないわ。ごめんなさい」

 ファティアナは誤魔化すように微笑み、席を立った。そろそろ時間だと、ファティアナとレントは鍛冶場を後にした。リアは二人を見送り、そしてまた作りかけの作品に向き合うのだった。





(リアさん。あなたは……やはりゼルドリック様のことが好きなのですね)

 レントは胸を軋ませた。

 恋とは何かファティアナに語ったリア。彼女はあの時、ゼルドリックの姿を思い浮かべたのに違いないのだ。

 あの顔を、見たことがある。毎朝書き置きを残してくれるのだと笑った顔。ゼルドリックの庭は花に溢れて綺麗なのだと言った顔。恋人かと市場のオークに聞かれた時の照れた顔。

 彼女はゼルドリックに強く焦がれている。友人の恋だ、心から応援したい。しかし、リアのためを思えば絶対に応援する訳にはいかない。

 レントは苦しんだ。善良な彼女の恋は叶わない。

 その綺麗な恋心は、狡猾なダークエルフに利用されて、貪られて、朽ち果てて、最後には彼女自身の命を奪うことになる。自分の未来視は、その断片を得た。ゼルドリックと共にいてはリアが危ないのだ。

 彼女をゼルドリックと引き離す準備は、秘密裏に進められている。もどかしい。早く完了させなくてはならない。

 どうかあの未来がすぐ近くまで来ていないように。あの未来が訪れる前に、彼女を救い出すことができるように……。レントは強くそう願った。そして善きハーフドワーフの恋心を摘み取らなければいけないことに、酷く心を苦しませた。
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