ポーリュプスの籠絡

橙乃紅瑚

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Rubra's Birthday - 2

 海老のサラダ。白身魚のカルパッチョ。深海魚とハーブのパスタ。鰯のピザ。タコの白ワイン蒸し。ココナッツクリームを添えたオレンジのケーキ。貝のスープ。
 魚人たちから聞き取ったレシピを思い出しながら、ラズリはルブラに贈るシャツをちくちくと縫っていた。
 
(タコの白ワイン蒸しか。タコは共食いみたいで嫌だから、イカで代用しよう。それにしても中々いい案じゃないの。彼らに相談して正解だったわね)

 魚人たちは主を喜ばせるためならと、熱心に知恵を出してラズリの期待に応えてくれた。新鮮な魚介は彼らが獲ってきてくれるらしい。それ以外の材料はマーシュに頼むつもりだ。海鳥が急ぎでマーシュに便りを届けてくれたら、何とかルブラの誕生日までに食材を調達できるはず。

(ルブラは喜んでくれるかな? あなたのために頑張ったのって伝えたら、ルブラは茹で蛸みたいに顔を赤くしてくれるかも!)

 ルブラが驚くところを想像すると頬が緩むのを抑えきれない。にこにこ笑いながら縫い物をしていたラズリだが、寝室の扉が開く音を聞き、慌てて作りかけのシャツを放り投げた。

「らーずり。風呂出たぜ!」

 ルブラが腰布一枚で飛び込んでくる。縫いかけのシャツを枕で隠し、ラズリはぎこちない笑みを浮かべた。

「っ、ずっ、随分と早かったじゃない」

「ん? 別に、いつも通りじゃねえか。俺の風呂が早えのは知ってんだろ」

「あはは。そうね、そうだったわ」

 ルブラの言う通りだ。彼は熱い湯がとにかく嫌いで、体が茹で上がってしまいそうだからという理由ですぐに入浴を済ませてくる。彼の入浴時間が短いのは分かり切っていたことなのに。

「で、でも! たまにはゆっくりしてきてもいいじゃない。ね? お風呂上がりに夜風に当たるのは気持ちいいわよ!」
 
 いつもらしくない妻の言葉にルブラが片眉を上げる。夫の空気が変わったことに気が付き、ラズリは冷や汗が出てくるのを感じた。
  
(……まずい。シャツを隠したいあまり話の振り方を間違えてしまった)

「なあ。お前、なんか変だぞ。やけに落ち着きがねえけど」

 ルブラが怪訝な顔で見つめてくる。妻の様子に敏感なルブラは、今のラズリが平時と違うことにすぐ気がついた。男の屈強な体躯が揺らめき、下半身が蛸の姿へと変化していく。ルブラはラズリの傍らまでゆっくりと這い寄り、金の瞳をすっと細めた。

「怪しい。ラズリ、何か隠し事してんだろ」

「えっ? 何言ってるの。そんなことないわ!」

「へぇ、おかしいな。お前、俺と目を合わせようとしねえし、さっきから笑い方がすげえ不自然だ。これは絶対に何かあるぜ」

 長方形型の瞳孔に疑念の色が宿る。ルブラは荒々しくも端正な顔を近づけ、ラズリの周囲をぐるりと蛸足で取り囲んだ。

「ラズリちゃーん? いい子だからさあ、俺に何を隠してるのか教えてくれよ」

 手首を掴まれ、ベッドの上に優しく押し倒される。しっとりと濡れた男の逞しい体に捕らわれ、ラズリは顔を赤くした。

「ちょっ、ルブラ、近い!」

「はん、照れてんのか? 素直に言えば優しくしてやるぜ」

 ルブラはラズリの唇を奪い、色気たっぷりに微笑んだ。彼の金髪が垂れ下がり、ラズリの肌を柔らかくくすぐる。蛸足がラズリの腕にくるくると絡みつき、身動きできないようにベッドに縫い付けた。

「ひ、卑怯よ! 足で私をぐるぐる巻きにするなんて!」

 ラズリは焦った。縫いかけのシャツを見られたら自分の企みがバレてしまうのに、この体勢ではもうルブラから逃げられない。
 
 なんてことだ、すぐに怪しまれてしまった……。隠し事が下手な自分をラズリは心の中で嘆いた。

「もう、迫ったってなんにも出ないよ」

「ひひっ、どうかな? ラズリの全身をまさぐったら何か出てくるかもしれねえし……。素直に教えてくれねえならあの手を使うぞ」

「わっ!? ちょっ、ちょっと! やっ……。んふっ……!」

 ルブラは楽しそうにラズリの全身をくすぐった。触腕がラズリの脇腹や足の裏にまとわりつき、吸盤が敏感な場所をちゅうちゅうと吸い上げる。こそばゆい場所を執拗に愛撫され、ラズリは甲高い声を上げた。

「ほーれ、こちょこちょ。こちょこちょ! かわいいラズリちゃぁあん、正直になりましょうねえ。おら、何を隠してるのか早く言っちまえ!」

「あっ、あはっ、あははっ……! もうやだ、くすぐったいってば! ふふっ、あっ、るぶらっ、それ以上はやめへっ……!」

「じゃあ教えろよ。そこに隠してるもんはいったい何だ?」

 ルブラの触手が枕を摘み上げる。
 丸められたリネン生地を目にしたルブラは、ぱちぱちと金眼を瞬いた。

「ん? なんだこれ」

「それは……。私のシャツが擦り切れてたから、新しく作ろうと思ったの」

「シャツぅ? んだよ、言ってくれたら俺が縫ってやるのに。そもそも何でこんなもん隠してんだ?」

「えっ、ええと……。あ、あなたに見られるのが恥ずかしかったから。ほら、私って木を加工するのは得意だけど、それ以外はあんまりでしょ? 不器用だって思われたくなくて!」

 嘘に嘘を重ね、ラズリはにっこりと笑った。怪訝な表情を浮かべていたルブラの顔が和らぐ。何とかこの場を切り抜けられそうな雰囲気に、ラズリはほっと胸を撫で下ろした。

「別にそんなこと気にしねえのに。ほら、貸してみろ。俺が仕上げてやる」

「ああああああああああっ、駄目! 待って! それだけは私にやらせて頂戴! ここで投げ出すわけにはいかないの!」

 ルブラの手から布をひったくる。必死な形相をする女に、再度怪しむ視線が向けられた。

「……おい、ラズリ」

「お風呂行ってくる! ゆっくり入ってくるから先に寝てて! おやすみなさい!」

(チャンスよ、このままシャツを縫い進めよう。何としてもルブラの誕生日までに完成させるのよ……!)

 ラズリはぎゅっと布を握りしめ、性急に寝室を後にした。




「風呂場にまで持ってくことねえだろ?」

 ひとり残されたルブラは、ベッドにぴしゃりと蛸足を打ち付けながら妻の焦り顔を反芻した。

(あいつ、あんなに縫い物に熱を入れる奴だったか? よく分からねえけど、シャツが必要なら素直に俺を頼ればいいじゃねえか)

 それにしてもあの布、女物の服を作るには大きすぎる。ラズリは本当に自分のシャツを作るつもりだろうか? 正しい作り方が分からないのなら、手取り足取り教えても良かったのだが……。

「っち、寝る前に可愛がってやろうと思ったのに。あの調子じゃしばらく戻ってこなさそうだ。ああ、くそ。明日はぜってぇ抱いてやるからな」
 
 ラズリが隣にいなくて寂しい。
 花の残り香がするベッドに潜り込み、ルブラは溜息を吐いた。


 *


 ラズリはルブラに隠れて着々と誕生日の準備を進めた。
 朝は彼よりも早く起き、夜は彼よりも遅く寝てひたすらシャツを縫い続けた。
 
 マーシュからの荷物が届いていれば、ルブラに開けられる前にこっそりとキッチンの棚に仕舞っておき、彼が海にいる間は魚人と共に料理の修行をした。

 隠れて何かをしている妻を不審に思ったルブラは、ラズリを問い詰めてその企みを知ろうとしたが、ラズリは決して口を割らなかった。

(ここで話しちゃったら今までの準備が台無しよ。頑張って誕生日まで隠し通さなきゃ!)

「おいラズリ、最近のお前変だぞ? 何を隠してるのかいい加減に言えって!」

「何も隠してないって言ってるでしょうが。あっちょっと、耳くすぐるのだめっ……。やめなさいルブラっ、しつこいわよ!」

 触手で全身をくすぐられても、追いかけ回されても、ルブラの誕生日を祝う準備は決してやめない。ただし人外の眼球で監視されることだけは避けたかったので、ラズリは目玉を生み出さないよう夫に頼み込んだ。

「ねえルブラ、目玉は生み出さないでね。それは禁じ手よ」

「……禁じ手って何だよ」

「とにかく、駄目なものは駄目! 私には目玉が二つしかないのに、あなただけ百も二百も目玉があるのは不公平でしょ?」

「不公平って何だよ! だったら素直に何を隠してるのか教えてくれよ!」

「ああもう、それはいずれ分かるから。と、に、か、く! 私のことが知りたいからって、目玉で監視するのは絶っ対に駄目よ。いいわね!?」
  
 ルブラの戸惑いは日毎に強くなっていく。
 むしゃくしゃした気持ちとムラムラする性欲を持て余しながら、ルブラは毎夜ひとりで眠った。
 

 ********


 ある日のこと。
 大蛸の姿に化けたルブラは、ふよふよと海中を漂いながらラズリのことを考えていた。
 
(なーんか、あいつおかしくね?)

 ルブラはとても不機嫌だった。六つの金眼はどろりと濁り、体色は困惑の緑と怒りの赤に明滅している。ルブラは夕飯用の魚を足で薙ぎ倒し、鬱憤を発散するために岩に向けて貝殻を投げつけた。

 近頃、ラズリが自分に隠れてこそこそと「何か」をしている。

 例えば、自分がいない時を見計らって下僕と頻繁に会話をしている。そしてこちらの姿を見つけると慌てて話を切り上げ、気まずそうに視線を逸らす。

 マーシュとのやり取りも急に増えた。ラズリは彼に何か頼み事をしているらしく、頻繁にこの島に荷物が届けられる。大きな包に「随分と気合いが入っているね」というメモが挟まっているのも見た。
 
 そしてこの前、海鳥が届けた荷物を開けようとした時のことだ。ラズリは慌てふためいて自分の手から荷物を奪い取り、これはまだ開けては駄目と言い張った。何を隠しているのか正直に言えと迫っても、ラズリはぎこちない笑みを浮かべて逃げるだけ。
 
 隠し事をされるのはいい気分ではない。
 宇宙一大好きな妻ならば、特に。

(んだよ、ラズリ。欲しいものは全部俺が手に入れてやるって言ったろ? なのに俺を放ってあの眼鏡野郎を頼るだなんて、いったい何を考えてんだ!?)

 一日で一番楽しみな時間――ラズリとの触れ合いも失った。ラズリは入浴の際にあの布を必ず持っていき、数時間後に戻って来る。そして戻ってきたらすぐに寝入ってしまうのだ。

 いったいなぜ。今まで自分との触れ合いを喜んでくれていたのに、どうしていきなりこちらを避けるような真似をするのだろう?
 
 考えても考えても思い当たる節がなく、ルブラは悶々とした。

(目玉でラズリを監視してぇけど、それは禁止って言われちまったんだよな。それなら下僕をしばいて無理やり吐かせるか? あるいは神らしくラズリの脳を覗くか? ……いや、乱暴なことをするなって怒られちまうし、あの眼鏡野郎からも余裕がない男は格好悪いって馬鹿にされちまう)

(いっそ、口を割るまであいつの体をどろぐちょに……ああ、それは駄目だ。俺はラズリのために優しく生きる、もう無理やりなことをしてラズリを傷付けねえって決めたんだ。ここで暴れたら元に戻っちまうぞ。……くそ、俺はいったいどうしたらいいんだ!? イライラムラムラしておかしくなりそうだ!! これだから人間ってのは分からねえ!!)

 ぶくぶくと墨を吐きながら考えた末、ルブラはある名案を思いついた。

 そうだ。人間のことが分からない時は、人間に聞くのが一番だ。
 こういう時はをするしかない!

 ルブラは捕まえた魚を浜に置いた後、急いで海底を目指した。


 *


 海とは自らの領域であり、力の源泉であり、そして自身そのものだ。
 水神であるルブラは、己の精神を海に同調させることができた。
 
 自分の精神を海と一体化させることで、海の中で起きていることを全て把握できる。また、海の底に沈んだ人間の骨に触れることで、その者が生きていた時の記憶や知識を、丸ごと獲得することさえ可能だった。

 ラズリと出逢って以来、ルブラは彼女との距離を縮めるために貪欲に人間の知識を吸収してきた。言語、習慣、常識、人の営み、女を愛撫する方法、夫婦の在り方。ラズリとのやり取りがうまく行かない時は、人間とは違う自分に苛立ちながら熱心に骨を転がした。

 今、ルブラの目の前には二つの頭蓋骨がある。
 男と女、夫婦の骨だ。
 
 蒐集品である骨の中から番だった者を探り当てたルブラは、暗い海の中、目を閉じながらころころと頭蓋骨を転がした。
 
 契りを結び、多くの時を共に過ごした二人。彼らのことを知るならば、ラズリの不可解な行動の意味が分かるかもしれない。

 ころころ。
 ころころ。
 
 生前の記憶が、ルブラの中に流れ込んでくる――。
 



 ぼんやりと揺らぐ視界の向こう、小綺麗に粧した若い女が見える。女は優しく微笑み、漁から帰った夫を温かく出迎えた。
  
 ――おかえりなさい、あなた。晩ご飯の準備ができているわよ。

 ――ただいま。ああ、早く会いたくて仕方なかったんだ! おまえのために真珠を獲ってきたよ。

 ――まあ、綺麗な真珠! とっても嬉しいわ! さあ、今日の海はどうだったか話を聞かせてちょうだい。
 
 最近結婚したばかりの、幸せそうな夫婦の光景が浮かび上がる。甘い雰囲気を漂わせる彼らの目には、お互いに対する愛情がはっきりと浮かんでいた。

(こういうの、何度見てもいいもんだな)

 ルブラは夫婦に自分とラズリの姿を重ね合わせ、六つの金眼をうっとりと細めた。
 
 愛する存在と共にいられることの尊さ、一緒に過ごす日々がもたらしてくれる幸福。自分はそれがかけがえのないものだと知っている。ルブラはこの夫婦が感じていた幸せを、手に取るように理解できた。

 夫婦は愛し合っていた。男は女のためにたくさん働き、女も男のために懸命に働いた。だが、代わり映えのしない暮らしの中、少しずつ綻びが見えてくる。
 
 男は漁の最中に負った怪我が原因で家に籠りがちになり、やがて酒に溺れるようになった。そんな夫に妻は呆れ、昼夜問わず飲んだくれる男に対し冷たく当たるようになった。
 
 僅かなすれ違いが積み重なり、夫婦は互いの存在を鬱陶しく思うようになる。嘲りと怒鳴り声が、彼らの間で頻繁に交わされた。


 そして、数十年後の光景が現れる。


 ――ちょっとあんた、またァ!? いい加減にしてよ、飯の準備をしているのが見えないのかい!?

 恰幅のいい中年の女と、それに後ろから抱きつく男が見える。鍋を掻き回していた女は、纏わりつく夫を至極嫌そうに振り払った。

 ――この愚図、昼からサカるんじゃないよ! ほら、そんなことしている暇があったらさっさと手伝いな!

 男に大皿が押し付けられる。眉を下げた男は、けたたましい声を上げて怒る妻におずおずと視線を向けた。

 ――つれないじゃないか。若い時のおまえは淑やかで優しかったのに、どうしてそんな風になってしまったんだ?

 ――はあ? ふざけたこと抜かしてんじゃないよ! あたしがこうなったのは、あんたが働かずに酒ばかり飲んでるからだろうが! それに最近、お向かいの夫婦を見てると腹が立ってくるのさ。奥さんったらいつも素敵な服着て、それに引きかえあたしときたら……!

 女は手にしたレードルを鍋に叩きつけるように落とした。妻の怒りに男の顔が青ざめる。
 
 ――わ、悪い。でも俺だって一生懸命やってるんだ……。

 ――うるさいうるさいうるさい! ただの酒浸りのくせして何が一生懸命だ! もうあんたなんか嫌になっちまったよ。昨日会った漁師の方が、よっぽど男らしくて素敵だったね!

 怒声がルブラの耳を穿つ。激しく怒鳴り散らす女の勢いに圧倒されてしまったルブラは、慌てて骨を手放した。




(……なんだこれ)
 
 ルブラは呆然とした。
 
 この夫婦には夢も甘さもない。尻に敷かれる夫は妻の顔色を窺い、妻は稼ぎの悪い夫に腹を立てている。夫婦の姿に自分とラズリを重ね合わせ、ルブラは蛸足のひとつを額に置いた。

(恐ろしい。悲惨だ。愛し合って結婚してもいつかはこうなっちまうのかよ? 恐ろしくてもう見たくねえ)

 女の怒声がまだ頭の中でがんがんと響いている。ルブラはすっかり嫌な気分になっていた。続けて骨を転がしたいような、もう転がしたくないようなそんな気持ちだった。

 彼らの記憶を続けて探ったところで、果たしてラズリの行動の意味が分かるのだろうか?

(……はぁ。仕方ねえ、やるか。まだ俺は何も分かっちゃいねえからな)
 
 ルブラは疑いつつも、またころころと骨を転がした。




 鏡の前で、真っ赤な口紅を塗りたくる女が見える。
 皺んだ肌に粉をはたく妻に、夫は酒臭い嘔気を出しながら声をかけた。

 ――最近やけにめかしこんでるじゃないか。市場に行くだけなのに、そんな化粧をする必要があるのか?

 ――ふふん、今日は漁に出ていた男たちが帰ってくる日さ。しっかりお洒落しないとね!

 女は上機嫌な笑い声を上げ、その恰幅のいい体にたっぷりと香水を振りかけた。鼻をつまんだ男が、ぎょっとした顔で妻を問い詰める。

 ――おい、浮気か!? 旦那がいるのに堂々と他の男に会いに行くなんて許さないぞ!

 ――うるさいね。あんただってこの前、若い女の尻ばっかり眺めてただろ。どんなに止められようがあたしは行くよ。あんたみたいな男と一緒にいたら女が枯れちまう!

 床に置かれた酒瓶を蹴り倒し、妻は夫に指を突きつけた。

 ――はっきり言ってやる。あんたにはもう愛想が尽きたんだよ! つまらない抱き方一辺倒の、女の悦ばせ方も知らない木偶の坊にはうんざりだ!

 ――なんだと!? おまえ、俺を捨てて別の男に乗り換えるつもりか!? だから俺に隠れてどこかに出かけたり、こそこそと便りを出すような真似をしていたんだな!

 ――はん、気が付いてたのかい。そうだよ、あたしはこの家を出ていくのさ。粗末なチンコをしばくのは今日で終わりだ! あんたにゃ飽きたんだよ!!




『飽きっ……!?』
 
 飽きた。
 その言葉に衝撃を受けたルブラは、ぱっと頭蓋骨を手放した。
 
 女の声が頭の中で反響し、めまいのような感覚が押し寄せる。夫に向けて叩きつけられた恨み言が心に突き刺さり、ルブラの不安を掻き立てていく。

(も、もしかして……。考えたくねえが、ラズリは俺に飽きたのか? だから俺に隠れて下僕と話したり、眼鏡野郎と頻繁にやり取りをしてたのか?)

 砂の中に沈んでいく二つの骨を、ルブラは呆然と見つめた。

(そういや、ラズリが持ってたあのシャツ。あれはどう見ても男用だ。女物の大きさじゃねえ! あいつ、シャツを誰に渡すつもりなんだ? 俺じゃねえよな。俺だったら別に隠す必要がねえし、素直に渡してくれたらいいもんな。……となると、やっぱりあのクソ眼鏡か!?)

(いやいや。待て、早まるな。あのラズリが浮気なんてする訳ないだろ。可愛い声で毎朝愛してるって言ってくれるんだぜ? ここは落ち着いてあいつと話すべきだ! でもよ、俺が話しかけたって最近のラズリは逃げ回るばかりだし……つまり、もう俺と話す気さえないってことか?)

(この前転がした骨からは、女の心は変わりやすいって学んだ。ラズリが短期間で態度を変えるのも、別におかしなことじゃねえのかも。なんだ? 俺の迫り方がしつこかったのか? いや、反対に物足りなかったのかもしれねえ)

 心臓がばくばくと脈打つ。不安に取り憑かれたルブラは、嫌な想像をどんどん深めていった。

(こ、ここは冷静に他の奴らの記憶も探ってみよう)

 縋るように他の頭蓋骨も転がす。
 骨の山から夫婦だった者を探し当て、ころころ、ごろごろ、ころんころんと執拗に転がす。
 
 だがルブラは、運悪くも、同じような光景を続けて見ることになってしまった。骨は倦怠期の夫婦の有り様をルブラに伝え、彼の絶望をなお深めさせてしまったのだった。

 幾つもの骨を転がした末に、ルブラは妻の様子がおかしくなった理由をこう結論付けた。

 ラズリは自分に飽きたのだ、と。

(た、確かに。俺はラズリに飽きられてもおかしくねえ抱き方をしていたかもしれない。畑仕事で疲れてるだろうからって、あえて優しい抱き方をしてきたのは事実だ。いつも同じ触り方で、同じように抱きしめて、同じように愛撫して、中に挿れる触手だって控えめな形にして……)

(だけどそれはラズリのことが大切だったから! 本音を言えば、俺だって一晩中ラズリをどろぐちょにしてやりてえ。俺の肉の中に閉じ込めてひとつになりたいし、海が溢れるくらい俺の仔をたくさん産んでほしい! 忘れるなよラズリ、俺は何千本だって触手を生み出せるんだぜ!)

 金の瞳に狂気が満ちていく。
 ルブラは激しく体色を変化させながら、暗い海の底で唸り声を上げた。
 
『そうか。ラズリは俺に飽きちまったのかもしれないんだな。ああ、そんなの駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ! ラズリは俺のものだ。どこにも行かせない。絶対に、絶対に、絶対に……! 俺に飽きたなんて言わせねえぞらずりいぃぃぃぃッ!! うっ……うぅ、ううアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!』

 水神の慟哭が海中に響き渡る。
 ルブラの凄まじい叫びは海面にまで伝わり、各地に高波を引き起こした。




「なんだか、急に海が荒れ始めたわね」

 窓から外の景色を見つめ、ラズリはぽつりと呟いた。
 
 ルブラに何かあったのだろうか。もしかしたら夕飯用の魚に逃げられて、悔しさのあまり雄叫びを上げているのかもしれない。

「よし、これでシャツは完成。あとは料理を作るだけ!」

 やっと縫い終わったシャツを両手で広げ、ラズリは満足げに頷いた。純白の布地に、襟元にある赤い刺繍のアクセント。丁寧に作ったリネンのシャツはそれなりに格好良く仕上がった。
 
 編み込まれた金の髪とがっちりした体躯、浅黒い肌に施された海の刺青……この白いシャツは、ルブラの魅力を更に引き立ててくれるに違いない。

(ふふ、明日はいよいよルブラの誕生日! 早くこのシャツを着せたいわ!)

 ラズリは充実感を味わいながら鼻歌を紡いだ。
 海底にいるルブラが、今どんな気持ちでいるかも知らないで。

 
  *


 ルブラが夕方になっても戻ってこない。
 胸騒ぎを覚えながら、ラズリは消えた夫を捜し回った。

「ルブラぁーー! どこーーー!?」

 砂浜を駆けながら叫ぶ。一生懸命呼びかけても、どこからも返事がない。いったい自分の夫はどこに行ってしまったのだろう。

(いつもなら陽が沈む前には戻ってくるのに、いったいどうしたの? もしかして溺れてしまった? ……いや、まさかね。ルブラは水神だし、海で何かあったとは考えにくいわ。それにしても、どうしてこんなに海が荒れているの?)

 ざぶん、ざぶんと砂浜に打ち付ける波の勢いは、いつもよりもずっと強い。先程まで晴れていたのに、天気まで曇ってきたようだ。
 
 海のざわめきから、ルブラの精神状態の悪化を感じ取る。何があってこうなったのかは分からないが、一刻も早く彼を見つけてあげなくては。

「ルブラーーー! 聞こえてたら返事してーーーー!」

 どんなに声を張り上げてもルブラの声は聞こえない。途方に暮れていたラズリだったが、ふと倉庫の扉が半開きになっているのを見つけた。開いた扉から、微かな光が漏れ出している。

(あっ……。もしかして、あそこにいるかも!?)

 急いで倉庫に駆け寄り扉を開け放つ。中は暗くてよく見えなかったが、鼻を突く強烈な酒精のにおいにラズリは呻いた。

「うっ! さ、酒くさっ。……何?」

 ぴちゃぴちゃ、ずりずり、ぬるぬる、くちゃくちゃ。
 水の音と、何かが這いずる音がする。ラズリがおそるおそるランプをかざすと、そこには幾つもの酒樽に足を突っ込んだ大蛸がいた。

『ひっく。いよぅ、ラズリちゃぁあああん。遅かったじゃねえか』

 ……ルブラだ。
 
 彼は酷く酔っ払っているようで、繰り返ししゃっくりのような音を立てながらゆらり、ゆらりと体を揺らした。絡み合う蛸足がふらふらと宙を泳ぐ。吐き気を堪えるように触腕のひとつを口元に当て、ルブラは目の焦点が合わないままラズリに近づいた。
 
 倉庫の床は酒で水浸しで、空の大樽があちこちに転がっている。どうやらルブラは、樽に詰めておいたヤシ酒を全て空けてしまったらしい。茹で蛸のような真っ赤な体色が、頭の天辺から足先まで酒精漬けであることを示していた。
 
「あっ、あああああああ! ヤシ酒に足を突っ込むなんて! だめよルブラ、あなた弱いんだから!」

『うるせぇな、もう酔わなくちゃやってられねえんだよ!!』

 蛸足が水浸しの床にばしゃりと叩きつけられる。大樽を持ち上げたルブラは、残っていた酒を勢いよく自分の頭に浴びせた。
 
 六つの金眼が恨めしそうにラズリを見つめる。
 酒まみれの蛸から据わった目を向けられ、ラズリは首を傾げた。

「ねえ、やけ酒なんかしていったい何があったの? というか機嫌悪い?」

『ああ、とってもな!!』

 一際大きなしゃっくりをし、ルブラはラズリに向けてぴんと足先を伸ばした。

『単刀直入に聞くぜ。ラズリ、お前は俺に飽きたのか!?』

「え、何? どういうこと?」

『とぼけんじゃねえ! お前っ、俺に隠れて他の男とこそこそやり取りしてただろうが! 俺がどんなに気を揉んだか分かるか!? それにあのシャツ、どう見ても男物だろ! いったい誰にやるつもりなんだ!!!』
 
 ルブラは怒りのあまりバランスを崩し、そのまま横にどしゃりと倒れ込んだ。彼の体色が赤から青、緑へと目まぐるしく変化する。六つの金眼が不規則に瞬き、それぞれ別々の方向を向いていた。

「はあ……。もう、こんなに酔っ払って。ほら、介抱してあげるから人間の姿になって頂戴。立てる?」

『ひぃっく。らぁぁぁぁずうぅぅぅりぃぃいいいいいッッ……。話を逸らすな、俺の質問に答えろおおおお……!!』
 
 床にびたんびたんと激しく蛸足が打ち付けられる。ヤシ酒の飛沫を浴びながら、ラズリはまず怒る夫を落ち着かせようとした。

「ああ、ルブラが何を気にしてるのか分かった。あのね、ちょっと誤解があるみたいなんだけど……。まずその話は一旦置いといて、私と帰ろう? あなたすっごく酔っ払ってるから、話をするなら落ち着いてからの方がいいでしょ」

『ぬあああああああああああああっ、もう!! 誤魔化すんじゃねえ! こうなったら俺の愛がどんなに強いか証明してやるッ!!』

「うわっ!?」

 ラズリの全身にぐるぐると蛸足が巻き付く。彼女を抱き寄せたルブラは、眼をかっ開きながらおどろおどろしい声で囁いた。

『いいか、ラズリ。お前が俺に飽きてもな、俺がラズリに飽きることは絶対に絶対にぜえっっっったいにねえんだよ!! お前はどこにも行けねえぞ、今からそれを思い知らせてやる!!!』

「えっ、え、ちょっと!」

 濡れた床が緑色の肉塊に変わる。
 ルブラの姿が蛸から人間に戻りかけた後、すぐさま異形に変化する。ラズリの眼前に現れたのは、緑の肌を持つ怪物だった。
 
 瘤がある醜悪な顔と、顎から生えた髭のような触手。鋭い鉤爪、水掻きのある手、蝙蝠に似た翼、どろどろとした粘液を纏う肌。

 どうやらルブラは人間の姿を保てないほどに怒り狂っているらしい。久しぶりに見た禍々しい邪神の容貌に、ラズリは驚きの声を上げた。

 いくつもの触手に全身をぎゅうぎゅうと締め付けられる。熱烈な抱擁をされたラズリは、ルブラによって海底へと引きずり込まれてしまった。
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