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第六話:氷の虚像、剥き出しの心
しおりを挟む第六話:氷の虚像、剥き出しの心
1. 擦れ違う指先
カイルの執務室を辞したエルセは、重い扉が閉まる音を背中で聞きながら、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。
(……不快にさせてしまった。殿下を、あんなにも激昂させてしまった)
あの日、冷え切った礼拝堂で誓ったはずだ。死んだように静かに、彼の邪魔をせず、ただ家族を救うための楔(くさび)として生きると。それなのに、街の喧騒に浮かれ、若き騎士たちの親切に甘え、自分自身の立場を忘れてしまった。
カイルの瞳の奥に渦巻いていたあの暗い色は、自分への失望に違いない。エルセは奥歯を噛み締め、自分を律しきれなかった甘さを深く呪った。
「失礼いたしました……」
震える声でカーテシーを捧げ、逃げるように部屋を出ようとしたその時、背後から再び低い声が呼び止めた。
「……待て」
エルセが立ち止まり、恐る恐る振り返ると、カイルは視線を泳がせながら、ぶっきらぼうに言い放った。
「……明日の午後、時間を空けておけ。城下に……一緒に行く」
その瞬間、カイルの頬が微かに赤らんだのをエルセは見逃さなかった。だが、彼女はそれを「監視」の強化だと受け取った。自分一人では不埒な真似をするから、自らが見張るという意味なのだと。
「……それと、今日買ってきた物を見せろ。お前が何を買ったのか、報告する義務がある」
(報告……。やはり、不信感を抱かせてしまったのだわ)
本当は、カイルはただ知りたかっただけなのだ。彼女が何を見て微笑み、何を愛おしいと思ったのかを。しかし、不器用な彼はそれを「義務」という冷たい言葉でしかコーティングできなかった。
カイルはエルセが去った後、深く、重い溜息をついた。
窓の外を見つめながら、自分の胸に手を当てる。心臓が、まるで戦場にいる時のように激しく脈打っている。
「……俺は、一体どうなってしまったんだ」
彼女の笑顔を独占したいという醜い渇望。彼女の隣にいたいという、柄にもない期待。戸惑いと熱が混ざり合い、カイルを未知の混乱へと突き落としていた。
2. 完璧な「人形」の帰還
自室に戻ったエルセは、泣き出しそうなのを堪えながら、今日買ってきた品々を机に並べた。
花の刺繍が施されたポーチ、淡い青色の便箋。そして、街で食べたお菓子の数々。
(食べ物はもう、お腹の中……。リストにするしかないわね)
彼女は震える手でペンを走らせ、事務的な報告書を作成した。
「どこの店で何を買い、誰と、どのような会話をしたか」。
まるで罪人が尋問に備えるような、無機質な羅列。カイルの前でこれ以上、人間らしい「隙」を見せてはいけない。完璧な王妃、完璧な契約相手として振る舞わなければ、家族の命が危うい。
再び執務室のドアを叩く時、エルセの鼓動は体全体を揺らすほど激しかった。
ポーチの可愛らしさに微笑む余裕などない。便箋の美しさを愛でる心も、今は氷の下に隠した。
「入れ」
平静を装ったカイルの声に応じ、部屋に入る。カイルは書類から目を離さずにいたが、その耳はエルセの足音、衣擦れの音、そして彼女の呼吸にまで全神経を集中させていた。
「……報告は終わったのか」
「はい。こちらが本日求めた品、および消費したもののリストでございます。……ご確認ください、殿下」
エルセの言葉には、一欠片の感情もこもっていなかった。
カイルは書類から目を上げ、彼女を、そして机に置かれた品々を盗み見た。
可憐なポーチ、上品な便箋。彼女が選び、彼女が触れたもの。それだけで胸が温かくなるのを感じた。
「……それで? 何を買ってきたのだ。お前の口から聞かせろ」
カイルの声は、無意識のうちに期待を帯びていた。彼女がどんなに目を輝かせて店を選んだのか。お菓子を食べて、どんなに美味しいと言ったのか。それを彼女自身の言葉で、彼女自身の温度で聞きたかった。
だが、返ってきたのは、能面のような無表情と、侍女のように冷徹な声だった。
「このポーチと、便箋を求めました。その他、食品に関してはリストに記した通りでございます。……以上でございます。他にご不明な点は?」
(……なんだ、これは)
カイルの心臓が、ズキンと痛んだ。
目の前にいるのは、あの庭園で「いけなかったでしょうか」と素直に問いかけてきた少女ではない。ただ命令を遂行し、自分との間に分厚い氷壁を築き上げた、感情のない「人形」だった。
自分の嫉妬が、自分の傲慢な言葉が、彼女をここまで追い詰め、心を閉ざさせてしまったのだ。
3. 剥き出しの激情
「……ご不明な点、だと?」
カイルはゆっくりと立ち上がり、エルセの元へ歩み寄った。その一歩一歩が重く、部屋の空気を圧迫する。
エルセは逃げなかった。ただ、感情を消した瞳で、じっとカイルを見据えている。その静寂が、かえってカイルの焦燥を煽った。
カイルは思わず、彼女の顔を両手で包み込んだ。
「……っ!」
エルセの体が強張る。カイルは無理やり自分の方を向かせ、その瞳の奥に隠された真実を探ろうとした。
「お前は……本当にそれでいいのか? 本当に何も感じていないのか! 俺が、お前をどれだけ傷つけたか、分かっているのか……!」
カイルの声は震えていた。かつてないほどに、彼は狼狽していた。
「俺は、お前を叱りたかったわけじゃない! お前が笑うことが罪だなんて、微塵も思っていないんだ!」
カイルの指先が、彼女の目元に触れる。そこが微かに、真珠のような涙で潤んでいることに気づいた瞬間、彼のダムは決壊した。
「……すまない。俺は、お前を傷つけた。俺の愚かな感情を、お前に押し付けてしまったんだ」
カイルは堪らず、エルセを強く、そして壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
彼の腕は、エルセがこれまでに見たどの姿よりも激しく震えていた。
王子の鎧を脱ぎ捨てた、一人の男としての、剥き出しの告解。
「……もう、そんな顔をするな。お前は……お前らしくいてくれればいい」
カイルは彼女の髪に顔を埋め、消え入るような声で呟いた。
「……俺の傍で、ただ、笑っていてくれれば、それだけでいいんだ。頼む……エルセ」
カイルの耳は真っ赤に染まり、彼の心臓の音は、密着したエルセの体を通して、彼女の鼓動を上書きするほど激しく打ち鳴らされていた。
エルセは、彼の腕の中で凍りついたままだった。
カイルの熱い吐息と、震える声。自分を「エルセ」と呼ぶ、その切実な響き。
(殿下……? あなたは、一体、何を仰っているの……?)
冷酷な処刑執行人の心臓が、こんなにも激しく、自分一人のために鳴っている。
心を閉ざしたエルセと、愛を知って心を晒し始めたカイル。
二人の温度差は、今、最も激しく、そして最も近くで火花を散らしていた。
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