嫌われ令嬢と冷酷王子の契約結婚​~氷の檻に、春を隠して~

エイプリル

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第五話:白刃の誓いと、氷塊の融解

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第五話:白刃の誓いと、氷塊の融解


1. 嵐の前触れ 

予定よりも半日早く城へ戻ったカイルは、旅装も解かぬまま執務室へと籠もっていた。
報告を聞くたびに、彼の真紅の瞳には昏い火が灯っていく。
「奥様は、若い護衛騎士たちと毎日城下へ……。市場で流行りのお菓子を召し上がったり、ハンス騎士の案内で小間物を買われたりと、それは楽しそうに……」
報告する使用人の声が、カイルの耳には鋭い棘となって突き刺さる。
ハンス? あの、笑うと片方にエクボができるという、血気盛んなだけの若造か。
自分には一度も向けたことのない、陽だまりのように無垢な笑顔を、名もなき騎士たちに向けていた。その事実が、カイルの心臓を冷たい手で握りつぶされるような、激しい不快感へと変えていた。
(死んだように静かにしていろ、と言ったのは俺だ。だが、あいつは……)
カイルは執務机の端を、指が白くなるほど強く握りしめた。
感情の濁流。それが「嫉妬」という、最も醜く人間らしい感情であると認めるには、彼はあまりにも孤独で、あまりにも愛という概念に疎すぎた。幼い頃から戦場と権力闘争の中に身を置き、誰かを慈しむことも、誰かに焦がれることも知らずに生きてきた男にとって、この胸のざわつきは正体不明の「敵」でしかなかった。
「……王妃を呼べ」
地を這うような低い声。それは、戦場で作戦を命じる時よりも冷徹で、抑えきれない殺気が滲んでいた。

2. 決死のカーテシーと、掲げられた白刃

エルセは、執務室の前で一度深く呼吸を整えた。
カイルが戻ったという知らせを聞いた瞬間から、指先は氷のように冷たくなり、心臓は早鐘のように打ち鳴らされている。
(……失敗したわ。あんなに羽目を外すべきではなかった)
けれど、彼女の後悔は自分の身を案じてのものではない。共に街を歩き、自分を救ってくれた若き騎士たちの身を案じてのものだった。彼らはカイルの部下であり、エルセの「わがまま」に付き合わされただけに過ぎない。もし自分の軽率な行動のせいで、彼らの輝かしい未来が閉ざされるようなことがあれば――。
コンコン、と控えめなノックを響かせる。
「……参りました」
「入れ」
重厚な扉の向こうから、凍てつくような声が返る。
部屋に足を踏み入れると、カイルが腕を組み、仁王立ちで彼女を見下ろしていた。窓から差し込む夕陽が彼の輪郭を鋭く縁取り、その真紅の瞳には、かつて見たことがないほどの激しい感情が渦巻いている。
「楽しかったか? 城下での散策は」
カイルは、獲物を追い詰める捕食者のようにエルセの前まで歩み寄った。
「俺は『護衛をつけて出かけろ』とは言ったが、『毎日若い男共と城下をうろつけ』とは言っていない。お前は俺の妻だ。書類上とはいえ、王子妃という立場を理解しているのか?」
「……っ」
カイルの威圧感に、エルセは思わず一歩後ずさりそうになった。だが、ここで引けば騎士たちが罰せられる。彼女は潤んだ瞳でカイルを真っ向から見見据えた。
「……若い男共、ですって? 私の名節を汚すおつもりですか、殿下。彼らはあなたの、優秀な部下ではないのですか? それとも、私が……それほどまでに不埒な人間だと仰りたいのですか?」
言葉を紡ぐほどに、悔しさと情けなさが涙となって溢れ出す。
「楽しい時に笑うことが、美しいものを見て笑顔になることが罪だと言うのなら……最初からそう仰っていただければ、私はあの日から一歩も部屋を出ませんでしたのに!」
彼女の瞳からこぼれ落ちた一滴の雫が、カイルの心臓を射抜いた。
泣かせたかったわけではない。ただ、知らない男の横で、自分の知らない顔をして笑う彼女が許せなかった。だが、その言葉にできない「独占欲」が、彼女をここまで傷つけ、追い詰めてしまった。
「……ともあれ、私がすべて悪いのです。殿下のご指示を、正確に汲み取れなかったのですから」
エルセは決然とした表情で、室内に立てかけてあったカイルの愛剣――重厚な装飾が施された大剣を、細い腕で精一杯持ち上げた。重い。指が食い込み、腕が震える。だが、彼女はそれをカイルの前に、音を立てて跪いて掲げた。
「……ご処分ください。私が、すべての責を負います。その代わり……騎士たちには、どうか寛大な御心を」
その姿に、カイルは激しい衝撃を受けた。
彼女は弱々しいだけの令嬢ではなかった。家族を救うために自分を売った時のように、今回もまた、自らが盾となって周囲を守ろうとしている。
その芯の強さ、高潔な自己犠牲の精神。 

3. 氷塊の融解と、不器用な誓い

「……っ、何をしている!」
カイルは我に返り、慌ててエルセの手から剣を取り上げると、それを乱暴に床へ置いた。そのまま彼女の細い肩を掴み、強引に立ち上がらせる。
掴んだ肩が小刻みに震えている。自分が何をしたのか、ようやくカイルは理解した。
「……お前は、本当に何も分かっていないな」
カイルはエルセの肩を掴んだまま、彼女の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、今まで見せたことのない複雑な感情――切なさ、戸惑い、そして自責の色が渦巻いていた。
「護衛たちに罪はない。お前にも罪はない。悪いのは……俺の、この感情だ」
カイルは自分の胸を拳で軽く叩いた。まるで、そこにある得体の知れない熱を鎮めようとするかのように。そして、視線を逸らしながら、震える声で続けた。
「俺は……お前が他の男と笑っているのが、許せなかった。お前が楽しそうにしているのを聞いて、その相手が俺じゃないことが……耐えられなかった。これが何なのか、俺にも分からない。だが……」
カイルは再びエルセを見つめた。
「お前は、もう部屋に閉じこもる必要はない。城下にも行っていい。だが……次からは、俺も一緒に行く。俺が……お前を護衛する」
言い終えてから、カイルは自分の言葉に驚愕した。
(何を言っているんだ、俺は……公務を放り出して、妻の買い物に付き合うなどと)
しかし、口に出してしまった言葉は、もう取り消せない。何より、彼の本心がそれを求めていた。彼女の隣に立ち、その笑顔を誰よりも近くで見ていたいという、猛烈な欲望。
「……これは命令だ。断ることは許さん」
そう言いながらも、カイルの声にはいつもの強制力がなく、むしろ「隣にいさせてくれ」という懇願にすら聞こえた。
カイルの耳は真っ赤に染まり、彼は慌ててエルセの肩から手を離した。動揺を隠すように顔を背け、彼は激しく早鐘を打つ己の心臓を、必死に抑え込んでいた
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