嫌われ令嬢と冷酷王子の契約結婚​~氷の檻に、春を隠して~

エイプリル

文字の大きさ
5 / 7

第四話:氷の城、陽だまりの逃避行

しおりを挟む

第四話:氷の城、陽だまりの逃避行


1. 束の間の安らぎ

カイルが隣国との会談のために城を発ってから、二日が過ぎた。
主(あるじ)の不在という事実は、広大で冷淡な城の空気をわずかに緩ませていた。
「王妃様、お茶が入りましたわ」
侍女のナタリーが、恭しく、それでいてどこか親しみを込めて声をかける。カップに注がれた紅茶からは、柑橘系の爽やかさと花のような甘い香りが立ち上った。
エルセがそっと一口口に含むと、ふくよかな香りが鼻を抜け、凝り固まっていた心身が解きほぐされていく。
「……とても美味しいわ。ナタリー、あなたは紅茶を淹れるのが本当に上手なのね」
「お褒めに預かり光栄です、王妃様」
照れたように微笑むナタリーを見ながら、エルセはサクサクと音を立てる焼き菓子を口にした。バターの芳醇な香りと繊細な歯ざわりが心地よい。この城のコックは腕がいいようだ。政略結婚という重圧、反逆者の娘という十字架――それらを一瞬だけ忘れさせてくれる、穏やかな昼下がりだった。
「殿下は……もう、ご出立されたのよね?」
ナタリーが頷くのを見ながら、エルセはカイルが去り際に残した言葉を反芻していた。
『城の外に出る時は必ず護衛を連れていけ。……これは命令だ』
(そうだわ。殿下は、外出を禁じるどころか、護衛を連れろと『命令』してくださったのだわ)
エルセの瞳に、好奇心の火が灯った。
家門の没落以来、彼女は常に何かに追われ、息を潜めて生きてきた。この城に来てからも、カイルの領域を侵さぬよう、隅で死んだように過ごすのが自分の務めだと信じていた。
けれど、今なら。彼がいない今この瞬間だけなら、ずっと窓の外から眺めるだけだったあの街の空気を、肌で感じることができるかもしれない。
「ナタリー、準備をして。街へ出かけたいの」
エルセはナタリーに、ある「条件」を出した。
「護衛は、地元の者で、私と年が近い方をお願いしたいわ」
それは不純な動機からではない。ただ、今の街の流行りを知っていて、気兼ねなく話せる相手が欲しかっただけだ。カイルのような圧倒的な威圧感を持つ騎士ではなく、隣り合って歩ける「普通の若者」という存在に、彼女は飢えていた。
馬車の用意が整い、玄関へ向かうと、そこには四人の護衛騎士が控えていた。
皆、二十歳前後だろうか。鎧の硬さはあるものの、その表情にはどこか幼さが残り、爽やかな笑顔を浮かべている。
ナタリーが気を利かせて選んだ彼らを見て、エルセは心の中でグッと小さくガッツポーズをした。

2. 琥珀色の逃避行

馬車が城門をくぐり、喧騒に包まれた城下町へと足を踏み入れた瞬間、エルセの視界は一変した。
目に飛び込んでくるのは、色とりどりの屋根、軒先に吊るされた果実、行き交う人々のはつらつとした声。
「王妃様、ここは今、街で一番人気の小間物屋ですよ。俺の妹も、ここのリボンが一番だってうるさくて」
笑うと片方にエクボが出る騎士、ハンスが案内してくれた店に入り、エルセは感嘆の声を漏らした。
無機質で豪華なだけの自室には、自分の「好き」という感情が介在する余地などなかった。しかし、この店に並ぶ可愛い便箋やポーチ、繊細なレースのハンカチは、彼女の心の空白を埋めていく。
「素敵……こんなにも、世界は彩りに溢れていたのね」
自らの財産をすべて失い、空虚な日々を過ごしてきたエルセにとって、それは魔法のような時間だった。
ハンスたちが勧めてくれる可愛らしい小物を選んでいる間、彼女は「王妃」ではなく、ただの一人の少女に戻っていた。
そして、街歩きの一番の楽しみは――食べ歩きだ。
カイルがいれば、「はしたない」と一喝されるに違いない。けれど、今は彼がいない。
「王妃様、これが今流行りの『シュガースポンジ』です! 串に刺してあるから食べやすいですよ」
優しい紳士的な雰囲気を纏った騎士が差し出したのは、砂糖とバターでコーティングされた、ふわふわのスポンジケーキだった。
一口噛めば、外側はパリッとしていて、中は驚くほど柔らかい。
「……美味しい! こんな食べ物、初めてだわ!」
エルセは騎士たちと一緒に、街角で声を上げて笑いながらそのお菓子を頬張った。
久しぶりに、自分の中から自然に溢れ出す笑い声。
気分一つで、これほどまでに世界は明るく、優しく見えるものなのか。
今は、今だけは、重苦しい宿命から逃げ出したかった。
あまりの楽しさに、時折、チクリと胸に罪悪感が刺さる。
自分を楽しませようと一生懸命な護衛の若者たちに、遠い空の下にいる弟・レオの姿を重ねてしまうからだ。
(レオも、こんな風に笑えているかしら……)
不安が過るたびに、彼女は首を振った。
(いいえ、今は考えない。この幸せな時間を、彼らへの不義理にしてはいけないわ)
結局、カイルが不在の三日間、エルセは毎日彼らと共に街を巡った。
彼らはエルセの気品を敬いながらも、一人の少女として大切に扱い、守ってくれた。彼女にとって、それは氷河期に訪れた、束の間の奇跡のような陽だまりだった。

3. 氷の王子の帰還

三日後、カイルは予定通り城に戻ってきた。
隣国との会談は成功し、政治的な地盤はより強固なものとなった。だが、馬車に揺られるカイルの心は、なぜか一向に晴れなかった。
脳裏に浮かぶのは、あの冷え切った礼拝堂でのエルセの姿。
そして、庭園で見せた、震える手でハンカチを差し出す健気な仕草。
(あいつは、大人しくしているだろうか。慣れない城で、怯えてはいないか)
そんな思考を巡らせている自分に、カイルは激しい困惑を感じていた。興味などないはずなのに。
城に到着するなり、カイルは重厚な扉を乱暴に開けた。
本来なら執務室へ直行すべきところを、彼の足は無意識のうちにエセルの居室へと向かっていた。
だが、部屋はもぬけの殻だった。
「……王妃はどこだ」
通りがかった使用人に問いかけるカイルの声は、低く地を這うようだった。
「は、はい! 奥様は、護衛を連れて城下へお出かけになられております」
「……城下に?」
カイルの表情が一瞬にして険しくなる。
確かに護衛を連れて出かけろと言った。だが、それはあくまで形式上の命令であり、実際には彼女が自分を恐れて、部屋に閉じこもっているだろうと高を括っていたのだ。
「……いつからだ」
「殿下がご出立された翌日から、毎日……。いつも同じ、若い騎士たちを護衛につけて、大変楽しそうに過ごしておられます」
その報告を聞いた瞬間、カイルの胸の奥で、経験したことのない「黒い感情」が爆発した。
「毎日……だと?」
脳裏に、見知らぬ男たちに囲まれて、自分には一度も見せたことのない屈託のない笑顔を振りまくエルセの姿が勝手に描かれる。
それが「嫉妬」という醜くも熱い感情であることに、彼はまだ気づいていなかった。ただ、得体の知れない苛立ちが、血管を灼くように熱い。
「……その護衛の名前を言え」
カイルの声は、極北の氷山が軋むような、危険な響きを帯びていた。
使用人が震えながら四人の騎士の名を告げると、カイルは即座に彼らを呼び出すよう命じた。
「……俺の命令通り『護衛』をしたというわけか。結構なことだ」
カイルは自室――エルセの部屋の対角にある、冷え切った執務室へ戻り、窓の外を睨みつけた。
夕闇が迫る中、彼らの帰りを待つ。
握りしめた拳は白く震え、その真紅の瞳には、かつて戦場で敵を殲滅した時以上の、禍々しいまでの殺気が宿っていた。
彼が望んだのは「死んだように静かにしている妻」だったはずだ。
だが今、彼の心を狂わせているのは、自分以外の男たちの前で「生きて、笑っている」エセルへの、言いようのない独占欲だった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

好きすぎます!※殿下ではなく、殿下の騎獣が

和島逆
恋愛
「ずっと……お慕い申し上げておりました」 エヴェリーナは伯爵令嬢でありながら、飛空騎士団の騎獣世話係を目指す。たとえ思いが叶わずとも、大好きな相手の側にいるために。 けれど騎士団長であり王弟でもあるジェラルドは、自他ともに認める女嫌い。エヴェリーナの告白を冷たく切り捨てる。 「エヴェリーナ嬢。あいにくだが」 「心よりお慕いしております。大好きなのです。殿下の騎獣──……ライオネル様のことが!」 ──エヴェリーナのお目当ては、ジェラルドではなく獅子の騎獣ライオネルだったのだ。

愛されないはずの契約花嫁は、なぜか今宵も溺愛されています!

香取鞠里
恋愛
マリアは子爵家の長女。 ある日、父親から 「すまないが、二人のどちらかにウインド公爵家に嫁いでもらう必要がある」 と告げられる。 伯爵家でありながら家は貧しく、父親が事業に失敗してしまった。 その借金返済をウインド公爵家に伯爵家の借金返済を肩代わりしてもらったことから、 伯爵家の姉妹のうちどちらかを公爵家の一人息子、ライアンの嫁にほしいと要求されたのだそうだ。 親に溺愛されるワガママな妹、デイジーが心底嫌がったことから、姉のマリアは必然的に自分が嫁ぐことに決まってしまう。 ライアンは、冷酷と噂されている。 さらには、借金返済の肩代わりをしてもらったことから決まった契約結婚だ。 決して愛されることはないと思っていたのに、なぜか溺愛されて──!? そして、ライアンのマリアへの待遇が羨ましくなった妹のデイジーがライアンに突如アプローチをはじめて──!?

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。

汐瀬うに
恋愛
目が覚めたら、そこは獣人たちの国だった。 元看護師の百合は、この世界では珍しい“ヒト”として、狐の婆さんが仕切る風呂屋で働くことになる。 与えられた仕事は、獣人のお客を湯に通し、その体を洗ってもてなすこと。 本来ならこの先にあるはずの行為まで求められてもおかしくないのに、百合の素肌で背中を撫でられた獣人たちは、皆ふわふわの毛皮を揺らして眠りに落ちてしまうのだった。 人間の肌は、獣人にとって子犬の毛並みのようなもの――そう気づいた時には、百合は「眠りを売る“やわはだ嬢”」として静かな人気者になっていた。 そんな百合の元へある日、一つの依頼が舞い込む。 「眠れない狼隊長を、あんたの手で眠らせてやってほしい」 戦場の静けさに怯え、目を閉じれば仲間の最期がよみがえる狼隊長ライガ。 誰よりも強くあろうとする男の震えに触れた百合は、自分もまた失った人を忘れられずにいることを思い出す。 やわらかな人肌と、眠れない心。 静けさを怖がるふたりが、湯気の向こうで少しずつ寄り添っていく、獣人×ヒトの異世界恋愛譚。 [こちらは以前あげていた「やわはだの、お風呂やさん」の改稿ver.になります]

溺愛王子の甘すぎる花嫁~悪役令嬢を追放したら、毎日が新婚初夜になりました~

紅葉山参
恋愛
侯爵令嬢リーシャは、婚約者である第一王子ビヨンド様との結婚を心から待ち望んでいた。けれど、その幸福な未来を妬む者もいた。それが、リーシャの控えめな立場を馬鹿にし、王子を我が物にしようと画策した悪役令嬢ユーリーだった。 ある夜会で、ユーリーはビヨンド様の気を引こうと、リーシャを罠にかける。しかし、あなたの王子は、そんなつまらない小細工に騙されるほど愚かではなかった。愛するリーシャを信じ、王子はユーリーを即座に糾弾し、国外追放という厳しい処分を下す。 邪魔者が消え去った後、リーシャとビヨンド様の甘美な新婚生活が始まる。彼は、人前では厳格な王子として振る舞うけれど、私と二人きりになると、とろけるような甘さでリーシャを愛し尽くしてくれるの。 「私の可愛い妻よ、きみなしの人生なんて考えられない」 そう囁くビヨンド様に、私リーシャもまた、心も身体も預けてしまう。これは、障害が取り除かれたことで、むしろ加速度的に深まる、世界一甘くて幸せな夫婦の溺愛物語。新婚の王子妃として、私は彼の、そして王国の「最愛」として、毎日を幸福に満たされて生きていきます。

悪役令嬢だとわかったので身を引こうとしたところ、何故か溺愛されました。

香取鞠里
恋愛
公爵令嬢のマリエッタは、皇太子妃候補として育てられてきた。 皇太子殿下との仲はまずまずだったが、ある日、伝説の女神として現れたサクラに皇太子妃の座を奪われてしまう。 さらには、サクラの陰謀により、マリエッタは反逆罪により国外追放されて、のたれ死んでしまう。 しかし、死んだと思っていたのに、気づけばサクラが現れる二年前の16歳のある日の朝に戻っていた。 それは避けなければと別の行き方を探るが、なぜか殿下に一度目の人生の時以上に溺愛されてしまい……!?

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

処理中です...