走れ公田寺商店街

ダイナマイト・キッド

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雨の公田寺商店街

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 眠れずに夜が明けた。
 結局何も言えず、何も変わらず家に帰った。振り返ってみると、彼女が俯きながら自宅でもあるお店の中へ入って行くところだった。俺は黙ってその場を立ち去ることしかできなかった。そして、それからずっと下を向いて過ごした。
 風呂も食事もぼんやりしたまま済ませて、あとはひたすら自分の部屋でじっとしていた。音楽を聞こうにも、本を読もうにも、筋トレをしようにもちっとも集中できなかった。時間だけがじわり、じわりと過ぎてゆく。時計の針の音が急に大きく聞こえたり、外を吹く風の音がやけに耳についたりして、布団に入ってからも落ち着かないまま、いつまでも起きていた。
 夜更けにさらさらと雨が降り出して、やがて窓を強くたたき始めるころ。俺はこれまでの自分と今の自分の有様を比べて、一人で惨めな気分になっていた。恋をして、浮かれて、そうしてその想いを持ち続け、いずれ打ち明けることだけに躍起になっていた毎日が懐かしかった。思えばあの時も何か深く考えたわけじゃなかった。彼女にしてみれば突然やってきた男に、突然好きだと言われただけのこと。彼女に愛するひとが居ることも、自分の告白が失敗に思わる事さえも、俺は微塵も考えずに文字通り突っ走った。そして、盛大に蹴躓いて転び、今もめそめそ泣いている。これほど惨めな気持ちになったのは生まれて初めてだった。
 何度も何度も浮かび上がる情景を振り払おうと、そのたびにベッドを軋ませて寝返りを打つ。そのキイキイ鳴る音さえも癪で、何もかもが俺をバカにしているような、見えない所で常に誰かに嘲られているような感覚で心がいっぱいだった。

 無性に、雨に打たれてみたくなった。騒がしい音を立てて降り続いている、12月の冷たい雨に。雨か、と意味もなくぼそっと呟いて、俺はベッドから立ち上がって部屋を出た。店と家を仕切る引き戸をカララと開けると、姉が作業場で修理を続けていた。そういえば晩飯もロクに食べていなかったような気がする。
「なんだよ」
 手にモンキーレンチを持って、こちらに背中を向けたまま姉が言った。
「いや」
「寝ろよ」
「うん」
「……」
 姉はこちらを振り向きもせず、ずっと原付のエンジンと格闘している。外に出る気がすっかり失せてしまった俺がその場を立ち去りもせず、ものも言わずに立ち尽くしている事にも、お構いなしといった感じだった。
「なんだよ」
 姉はもう一度、より深いトーンで言った。
「なんでもない」
 そう答えて、俺は作業場を後にした。もう、雨の事は気にならなくなっていた。

 部屋に戻ると、明かりも点けずにまだ少しぬくもりの残っている寝具にもぞもぞと潜って、もう寝てしまおうと決めた。ベッドの布団はなんだか湿っぽく、窓が少し開いていることに気が付いた。カーテンをめくりながらスパン!と音を立てて窓を閉め、俺はごろっと横向きになって目を閉じた。そうして、そのままろくすっぽ眠れずに夜明けを迎えたのだった。

 朝になっても、雨はやまなかった。
 いつもより少し早く支度をして朝ご飯もちゃんと食べた。熱い白飯に、昨夜の残り物をチンして、小さな片手鍋に残ったお味噌汁も温め直した。台所のテーブルに置いてあったので室温に冷えたお茶を飲みながら、もそもそ食べた。いつも通りの味なのに、ちっとも美味しくなかった。
 着替えても、靴を履いても、雨はやまないし気分も晴れない。今日ほど学校へ行きたくないと思ったことはなかった。重い気分とは裏腹に、玄関の引き戸はカララと軽快に開いた。俺は傘をさして往来に出て、公田寺駅へと向かう色とりどりの傘の群れにすい、と乗って、極力下を向いて歩きはじめた。
 
 ふと、後ろから歩いてくる足音に気が付いた。濡れたアスファルトの上を、だるそうにサンダルを引きずる音。姉だ。
「ふん?」
 俺は言葉になるかならないか、ごく曖昧な音を出して後ろを振り返った。足は完全に止めず、ゆっくりと歩いたままだ。
「おい」
 背の低い姉が下から俺をにらみながら、ぶっきらぼうに右手に持った弁当箱を差し出した。そうか、今日は給食がないんだった。
「ああ。ありがとう」
「ん」
 少しの間、気まずい沈黙が流れた。姉が不機嫌なのはいつもの事だ。本来ならこんな時間に起きることなど滅多になく、特に寝起きの姉は地上で最もタチの悪い生き物だと思う事さえある。そうでなくとも愛想の良い方じゃないし、色白できりっとした顔たちが余計に冷たそうな印象を与えるのだろう。だが、よく見るとテレビでよく見る庶務課のOL役の女優に少し似ていて、なかなか美人だ。もっとも口は悪いし、その口よりも先に手が出ることも多いので、実は俺は、この姉がちょっと苦手だったりする。
「あんなあ」
 先に口を開いたのは姉だった。
「あんなあ。お前が誰に惚れてどんな振られ方したか知らねえけどな」
「……」
「それを一々持ち込むんじゃねえよ。うちん中によ」
「うん」
「無邪気に惚れて好きだ好きだ言うぐらい、どこの馬鹿にだって出来るんだよ」
 俺が【馬鹿】という言葉に反応して、少しムっとしたのを感じ取った姉は、ずい、と顔を近づけてとどめを刺すように言った。
「お前は誰かに惚れてんのが楽で、それを周りにいじられたりひけらかすのが楽しかっただけだよ。ほんとのほんとに誰かをどんだけ好きだったかなんて関係ねえな」
 ぽた、ぽた、ぽた、と傘を打つ雨粒が俺の頭の中にまで降ってきて、脳味噌から背筋を通っていくような感覚になった。足元がぐるぐる回って、俺は少しめまいがした。
「図星かよ。情けねえ」
「いや、だって」
「ああ?」
 行き交う人々が怪訝な、そして迷惑そうな顔をして俺たちの横を通り過ぎてゆく。俺と姉の大きな傘が少しひび割れて年季の入った歩道の大部分を塞いでいることに気が付いたが、今身動きをするのも憚られるような気がして、結局俺は同じ場所に立ち尽くしていた。
「とにかくよ、もう忘れろ。いいじゃねえか、所詮なんでもないまま終わったんなら、もう関係ねえだろそんな奴」
「忘れらんないから悩んでるんじゃないか!」
 俺は思わず怒鳴ってしまった。
「うるせえ! あーもうガキだな。結局お前はどこまでも自分が可愛いんじゃねえか。そうやっていじけるだけいじけたら、またすぐ違う奴に惚れて浮かれてりゃいいんだろ。誰かに惚れて、誰かに好かれなきゃ生きてらんねえのかよ。めんどくせえ」
「でも」
「心底悩んでんのは認めてやるよ。でも、ぜんぶ、すげえ小せえことだ。それじゃいつまでたってもお前はガキのまんま。いつまでも他人のせいにしてうじうじすんな」
 姉は言うだけ言うとぷいと振り向いて帰ってしまった。
 相変わらず迷惑そうな、少しだけ好奇の混じった眼差しを向けながら人々がゆく。俺もすっかり濡れた弁当箱を抱えて、商店街に向かって歩き出した。

 大きな交差点で信号待ちをしていても、信号が青に変わり、何時にも増してけだるい通りゃんせのメロディに乗って横断歩道を渡っても、いつもの公田寺商店街のアーケードの下を歩いても。姉の言葉が頭の中でぐるぐる回って、いつまでも離れなかった。
 自分が可愛い、なんて、思ったこともなかった。考えもしないことだった。だけど、今朝までの自分の振る舞いを顧みるに、言われてみると確かにそうかもしれない。
 彼女の姿が見られたら、それで満足していたし、彼女が好きだから、学校へ行く楽しみもあった。だけど、それ以上の事を、果たして考えたことがあっただろうか。告白をして玉砕したのだって、自分で後先考えずに突っ走ったからじゃないか。
 俺は惚れこみ、囃し立てられて、浮かれていただけだったのか。でも、それで済むなら、本当に唯それだけなら、こんなに頭や心臓が重く、いつまでも痛むなんてことはないんじゃないか。下を向いて歩くたびに、雨で濡れたクリーム色と濃いブラウンの四角いタイルがテクテクと後ろへ流れてゆく。ほとんどのお店が顔見知りなので、こんな心境の時はなるべく誰とも顔を合わせたくなかった。傘をさしたまま歩こうかとも考えたが、それだと余計に注意を引きそうで、やめておいた。畳んで手の先で揺れる傘から、さっき降った雨がぱらぱら飛び散って消える。
「いってくる」
 小さな、か細い声。
 マユズミさんだ。
 俺はいつの間にか、彼女の家のすぐ手前に差し掛かっていた。幸か不幸か、マユズミさんは俺に気付かずに、学校に向かってとぼとぼ歩き始めた。俺はその少し後ろを、彼女に追いつかないようにゆっくりと歩いていた。それがまた辛いような気まずいような。俺が勝手に辛がって気まずく感じているだけだと頭の後ろの方でわかっているけど、でも、やっぱり。ねえ。

 距離を詰めないように、気付かれないように、誰にも話しかけられないように俺は歩いた。このアーケードの下をこんなに後ろめたい気分で歩くのも、この商店街に居るすべての人々をこんなに避けたくてたまらないのも初めてだった。どうして俺はこんなになっちゃったんだろう。

 商店街はもうじき北口に差し掛かる。
 この屋根を抜ければ雨の中。この分だと信号待ちで彼女に追いつくだろう。あの信号はやたらと長くて、今しがた歩行者用の信号機が点滅を終えたばかりだったから。どうしよう……。俺は歩幅を変えずゆっくりと歩いた。彼女の青と緑のツートンカラーの傘が12月の冷たい雨の中でゆらゆら咲いているのをどうしようもなく苦しい胸の中に焼き付けるように。でもなんだか少し、昨日までと見え方が違うような気もして俺は戸惑っていた。横に並んで声をかけたいとすら思わなかったのだから、やっぱり何かが違う。そのまま俺は商店街を抜け、彼女から少し後ろに離れて立っていた。
 俺の後ろでは大将が元気に店開きをしているが、傘のおかげか気付かれていないようだった。俺はうまく商店街をやり過ごしたことに、ちょっとだけ満足していた。このまま学校まで行って、今日は何をして一日やり過ごそうか。今度はそれを考えようとした矢先。
 俺の肩を、ぼん!と叩くグローブのような分厚い手。
「たっちゃん、元気が無いどお! 朝飯食ったか!?」
 やっぱり見つかったか。だけど今日は俺にも言い分がある。
「大将おはよう。でも、今日はちゃんと食べたよ!」
「ほうかあ! じゃあ気ぃ付けてな!」
 大将は手に持ったお皿から白いおにぎりを一つ掴んで頬張ると、前、前、という仕草をした。信号がいつの間にか青に変わっていて、すでに彼女は横断歩道の中ほどを歩いていた。
「ありがと。じゃあ!」
 俺は大将に手を振りながら、横断歩道の白い線だけを踏むように走り出した。彼女の背中がぐんぐん近づいてくる。傘に描かれた鮮やかな青と緑の模様がゆらゆらと左右に揺れて、彼女が歩くのに合わせて雨粒が地面やスニーカーの踵に消えてゆくところまで克明に見ることが出来た。雨粒が傘もささずに走る俺の顔をパチパチ叩き、目の中にも容赦なく浸み込んでくる。鼻の頭が少し冷たくなってきた。だけどそれ以外の器官は一様に熱を持ってきて、俺の身体は早くも赤らんできて、うっすら湯気を出していた。まるで大将のおにぎりだ。

 横断歩道を渡りきる前に彼女を追い越した。中央分離帯ではツバキの花が少し萎れながらいくつか咲いていた。その萎れたツバキと彼女を重ねて追い越すとき、彼女の方を見ようか一瞬だけ迷った。どんな顔をして、何を考えているんだろう。昨日まで、いや今朝がたまでこの世のどんな物事よりも気になって仕方がなかった事だった。だけど俺は彼女の方を見ずに、そのまま学校まで止まらずに走った。走って、走って、濡れた並木道も大きな水たまりも飛び越えてやろうと思った。
 それで、少しだけ何かを忘れられるような気がした。だからひたすら走った。
 どんどん、どんどん走った。

おしまい。
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