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16.光と闇
しおりを挟む「ルクレシアの森…」
鮮やかな緑の挿絵を指で撫でながらポソリと呟いたその時、ちょうど専属の侍女が入室してきた為ジルバードは大袈裟に肩を揺らして慌てて本を閉じた。
バサバサと上から隠すように重ねた本の中には『転移魔法の心得』も混ざっていたが、もちろん侍女は気づかない。
───僕は今日の夜、ルクレシアの森の湖に向かう。
本当は、ちゃんと兄上にお話しして湖での訓練のお許しをいただこうと思ってた。
ガゼボで書類仕事をする兄上を見かけるたび、遠くの窓の向こうで廊下を歩く兄上を見るたび、魔法鍛錬室から兄上の魔力を感じるたび、僕は今日こそお話するんだと1歩踏み出す。
けれど、微かに感じることの出来る兄上の呼吸のリズムを1度意識してしまうと急激に心臓の鼓動が早まって出した足が1歩下がった。
それに、もしかしたら僕が兄上の知らない間に魔法を上達させたらまた『よくやった』って褒めてくれるかもしれない。
また、僕に触れてくれるかもしれない。兄上のお手を煩わせずとも僕は、きっと『使える駒』になってみせる。
もちろん昼間は兄上が組まれたカリキュラムをこなす必要があるし、休憩時間やカリキュラム終了後は常に専属侍女が付いているため皆が起きている時間に抜け出すのは無理。
となればもう自分に関わる人間が寝静まっている夜に行くしかない。
「転移魔法…はじめてやるけど…できるかな」
小さく呟いた声は誰にも気づかれずに空気に溶けて消えた。
───
「それではおやすみなさいませ。ジルバード様。」
「はい、おやすみなさい。」
頭にはぽんぽん帽子を被って鼻先まで布団を被って目を擦って見せた。
柔らかい音を立てて閉まったドアを確認すると、ぱちぱちと2回瞬きしてみる。サイドテーブルに置かれたランプをつけて、布団の中に予め隠しておいた『転移魔法の心得』を開いて58ページ。
───転移先の座標を明確に思い描き、意識を保ちつつ
滞りなく魔力を巡らせる。時空が歪む際の反動による負荷と必要魔力量から推奨年齢は18歳からとされている。
ベットから起き上がり、ふかふかの絨毯に足を下ろした。
クローゼットを開いて、パジャマから防寒着に着替えてひとつ深呼吸をした。
「兄上…行ってきます」
兄上のジャケットに抱きついてからクローゼットから離れていよいよ転移魔法前の瞑想に入る。
深く底に沈んでいくような感覚に身を委ねて、ただひたすら澱みのない魔力の流れだけを意識する。情報から拾ったルクレシアの森の座標を思い浮かべた。
「ぅ、な、なに…」
熱い。身体から発する熱が骨の髄まで突き刺さっているようだった。頭ごと激しく揺さぶられているかのような感覚に、ジルバードは床が傾いたのかと思った。
魔道士における才能に関してはジルバードはまさに近年稀に見る天才だ。
けれど、身体機能や肉体そのものはただの5歳児に変わりない。転移魔法の身体にかかる負荷が、想像を遥かに超える力でジルバードを蝕んでいる。
意思が飛びそうになり、必死に歯を食いしばると足元に光る稲妻のような閃光が走る。
「っわああ!」
思わず頭を抱えてしゃがみ込んだジルバードはしばらくそうしていた気がする。
やがて、頬に触れていく切り込むような冷たさと、木が揺れ動く音にそっと目を開いた。
「ぁ、………本で見た、ルクレシアの森だ…」
ざわめく木々に守られるように静かにそこにあるのは月を反射して輝く湖。今日はほとんど風も吹いていないため水面もすやすやと寝ついてるみたいだ。
湖のほとりにしゃがみこんで人差し指をぽちょんと付けてみると指先から凍りそうな冷たさだった。と、いうか所々水面は既に凍っている。
「僕ならできる…兄上のためだもん…入るんだ」
まず自分が入るための準備として既に小さく塊で凍ってしまっている部分を溶かすイメージで湖に魔力を流し込んだ。
じんわりと、染み込ませるようなイメージを忘れずに巡らせるとパキパキと少しずつながら水面が元の状態に戻り始めた。
大きく深呼吸をする。冷たい空気が肺に入り込んで思わず咽せてしまい、大きく頭を振るった。
「よおし!いくぞ!」
自分で自分の頬を叩いてからジルバード用に作られたモコモコのコートを脱いで丁寧に足元に置くと、両膝を曲げて一気に飛んだ。
全身をきつく締め上げるかのような冷たさが一気に襲いかかり、水が肺を潰す感覚に息が漏れそうになる。
勢いで飛び込んだため思わず体を丸めてしまったが、恐る恐る足を伸ばすと、しっかりと地に足が着いたことに心の底から安堵した。
ちゃんと立つと大体ジルバードの唇より少し下あたりまでの高さだ。
こんな所に素体で10分も入っていたら凍死してしまう為急いで魔力を身体中に巡らせて体温を上げる。それでも毛穴の全てから入り込んでくるような冷たさが貫いて痛かった。
「まず、半径10メートルから」
水面に両手をつけて、5cm程度の薄さで膜を張るようなイメージで均等に凍らせるイメージで魔法を発動する。
自分を中心に円を描くように湖が凍てついていく様にジルバードは思わず口角を上げた。
10メートルから20メートル、今度は外側から自分の周りまで凍らせてまたすぐに溶かすを何度も何度も繰り返す。今度は頭のてっぺんまで浸かり、水と一体になる感覚を覚えて水中の一部分だけを凍らして、溶かす。
1時間ほど色々なパターンの訓練を行ったところで、体が痺れるような感覚がした。
「さ、さむい…」
魔力の緻密な操作に加えてその間に体温を調節するタイミングもある。
どんどん体温が下がっていく。その度に意識してまた魔力を巡らせてもやはり追いつかない。
──けど、まだできる。
兄上の役に立ちたい人間なんて、この先腐るほど湧いて出てくるだろう。
その中でも僕が1番使える人間にならなければいけない、僕をそばに置くメリットを兄上に感じていただかなければならない。
「まだ…」
もう一度、魔力を巡らせて湖をスケートリンクに仕上げて全体に魔力を染み込ませるようにして溶かす。いや、溶かそうとした。
「とけ、ない…なんでっ、なんで、溶けない…」
バクバクと心臓が暴れ出す。それは寒さからなのか、焦りからなのか、ジルバードには判別できない。
けれどひとつ分かるのは体を巡る魔力の流れが弱まっていることだけだった。
焦りと混乱が心を掻き乱して体温調節が乱れる。さむい、さむい、早くここから出なければ───
「はっ、はっ、…体が、動かないっ」
水面だけを凍らせているとはいえ5cm程度の厚みがある。体で押し切って氷を割りながら湖を出るのは不可能。
「だれか、!だれかぁ…っ!助けてください、だれ、か、」
足の先が凍って動かない、息が乱れる、目の前が霞んでだんだんと身体から力が抜けた。
ピンと立っていた足がへにゃりと膝から弛緩して、崩れ落ちるようにして頭まですっぽりと湖に落ちていく。
─── 月が見える。青色に輝く大きな月。
自分の目から出た涙が泡となって上に上がっていく。いや、僕が下がっているんだ。
月が青いや。
会いたい、会いたい、会いたい……兄上に。
霞む視界の中で手を伸ばす。ごめんなさい、と一言呟いてゆっくりその瞼を下ろそうとしたその時。
「ね、ねえ!!ちょっと、だいじょうぶ!?」
急な力で引き上げられて息荒く氷の上に横たわる僕は閉じかけていた目をそっと開ける。
頭の上から降り注ぐ青白い光を反射する金髪と、蜂蜜のような甘い色をした瞳が怯えと焦りを灯している男の子が僕の手を握っていた。
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