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「甲斐に行くぞ。人集めだ。川向こうの愛川や厚木に甲斐から人が移り住んでいる。愛川や厚木に住むのなら、ここにだって住む。甲斐に行って人を集める」
いくら北条方に頼み込んでも一向に開発者はやってこない。
ならば、自分の手で人を集めるしかない。忠良を連れて、甲斐深くに入り、人を呼ぶしかない。それが河井の決意だった。
出発する矢先、出発を予定していた前日に予想外のことが起こった。突然、開発者がやってきた。出発は、延期となった。
夏の日差しが和らぎ始めた夕刻、開け放たれた河井の家の板戸から顔を覗かせ、河井様はおられますか、と男は言った。
男は広川小助と名乗った。粗末だが袴を履いていて、折烏帽子を被っていた。背は低いが、頑丈そうな体つきだった。帽子のわきから白髪が覗いていた。
忠良は、随分と河井より年上だろうなと思った。
広川の後ろには隠れるように、小柄な女が立っていた。女の左右には痩せて貧相な、子どもが立っていた。
河井より年上はありえなかった。子どもが幼すぎる。若しかしたら、思ったより、はるかに若いのかもしれない。広川はすさまじい苦労をしたに違いない。それが広川を甚だしく老けさせてしまった……。
広川は藤沢の出身で、藤沢の材木屋、山角惣兵衛の紹介でここに来たと言った。山角の紹介状を持っていた。そこには、開発者を幸田村に送るのが遅れた謝罪と、今後も材木を頼むということが書かれていた。広川については何も書かれていなかった。
河井は広川に感謝の気持ちを伝えた。そして、家にあげるとすぐに、酒を持ってくるように奥方に指示した。
宴が始まった。忠良は宴につき合わされた。
忠良は河井の横に座った。
広川は河井の正面に座って、盃を受けた。
広川の子供たちは甚助が面倒をみた。女はそばにいて、その様子を見ていた。
河井は言った。
今後のことは心配ない、ここにいる忠良の家の傍にかつてここに住んでいた土民の家があるから、先ずはそこに住むと良い、今は忠良の家の物置となっているが、住めないことはないだろう、そのうちに、家を建てるに相応しい、気に入った場所を探したらいい。食べ物は気にしなくて良い、我が家の畑から、好きなだけ持っていっていい。
広川は河井が話すたびに何度も頷いた。安堵しているのがよく分かった。
一通りの説明が終わると、広川一家は河井の案内で、忠良の家の前の、かつての住人が住んでいた、土民の家に移動した。忠良が物置として使っていたその場所は、床はあるが、穴だらけで使える状態ではなかった。土間には雑然と農具が置かれている。一家が住むには相当の整備が必要だったが、よほど厳しい生活をしてきたのだろう、広川は全く不満を漏らさず、「この筵を使ってもいいかねえ。あと、藁も。これだけあれば、煮たり、焼いたりできるからねえ」と言った。
こうして広川一家の生活が始まった。誰の手も借りず床を張り替え、家の中を綺麗に整え、実に楽しそうに暮らし始めた。叺をほどいて板間に敷き詰め、叺に潜り込んで寝ているようだった。蚤や虱に苦しめられているのだろう、小助は絶えず、体のあちこちを掻き毟っていた。
広川一家が移り住んだとはいえ、河井の気持ちは変わらなかった。甲斐への出発はひと月遅れただけだ。出発が取りやめとなることはなかった。住人がさらに増えることは全く考えられないからだ。
河井と忠良は最初に八菅に向かった。甲斐には八菅の山伏の一行に紛れていくのだ。
甲斐は相模川の奥の奥だ。遠くはない。八菅の山伏が甲斐の岩殿権現に修行に行く。その一行に合流する、話はついている、と河井は言った。八菅がどこにあるのか忠良は知らなかった。
裏山を越えて、蓼川にでた。人家は疎らだった。道も狭かった。しばらく歩くと海老名に出た。そこに相模川はあった。
川沿いの道を上っていく。
忠良は小田原から幸田村まで歩いた、相模に足を踏み入れた、あの最初の日を思い出した。暑い日だった。
あの時と季節は変わらなかったが、今年の夏はあの夏ほど暑くはなかった。
相模川は上流に行けばいくほど、小石が多くなり、その石も一つ一つが大きくなった。水量も豊富なうえに、流れも急で、徒歩で渡る者はいなかった。
座間から下溝に入り、当麻の手前で渡し船で相模川を渡った。
そこから、ひたすら川沿いをかなりの距離を歩いた。その後、山側に向い、相模川から離れた。
すぐにまた川にぶつかった。それが中津川だった。鬱蒼とした、背丈ある葦の群生が両岸に広がっていた。
中津川は相模川の半分ほどの川幅だった。流れは速いが、渡るのは可能だった。それでも、胸の辺りまで、水に浸かった。
河井も忠良も腰を低くし、流れに耐え、首まで浸かって、川を渡った。荷物は頭の上で抱えた。
中津川に沿って暫く行くと、左手に急に山が迫って来た。そこに七社権現はあった。
八菅山の麓には人家が幾つもあった。
周辺には一つも田畑はなかった。この村はどうやって暮らしをたてているのだろうと忠良は不思議に思った。中津川の周辺は葦ばかりで、開発どころか、川に入ることすら難しく感じた。
麓には山伏の宿坊が幾つもあった。構えの大きな家が続いた。そのうちの一軒に河井と忠良は入った。
板敷きの間に筵が敷き詰めてあり、その上に7~8人の山伏が車座に座って、談笑していた。
「河井です。明日はよろしくお頼み申し上げます」と河井は山伏の前に立ち、言った。
白髪交じりの長い顎鬚をたくわえた、河井の真向かいに座っていた山伏が「随分、細いのを連れているなあ。大丈夫か」と言った。
「大丈夫。足手まといになると思えば連れてこない」と河井は答えた。
いくら北条方に頼み込んでも一向に開発者はやってこない。
ならば、自分の手で人を集めるしかない。忠良を連れて、甲斐深くに入り、人を呼ぶしかない。それが河井の決意だった。
出発する矢先、出発を予定していた前日に予想外のことが起こった。突然、開発者がやってきた。出発は、延期となった。
夏の日差しが和らぎ始めた夕刻、開け放たれた河井の家の板戸から顔を覗かせ、河井様はおられますか、と男は言った。
男は広川小助と名乗った。粗末だが袴を履いていて、折烏帽子を被っていた。背は低いが、頑丈そうな体つきだった。帽子のわきから白髪が覗いていた。
忠良は、随分と河井より年上だろうなと思った。
広川の後ろには隠れるように、小柄な女が立っていた。女の左右には痩せて貧相な、子どもが立っていた。
河井より年上はありえなかった。子どもが幼すぎる。若しかしたら、思ったより、はるかに若いのかもしれない。広川はすさまじい苦労をしたに違いない。それが広川を甚だしく老けさせてしまった……。
広川は藤沢の出身で、藤沢の材木屋、山角惣兵衛の紹介でここに来たと言った。山角の紹介状を持っていた。そこには、開発者を幸田村に送るのが遅れた謝罪と、今後も材木を頼むということが書かれていた。広川については何も書かれていなかった。
河井は広川に感謝の気持ちを伝えた。そして、家にあげるとすぐに、酒を持ってくるように奥方に指示した。
宴が始まった。忠良は宴につき合わされた。
忠良は河井の横に座った。
広川は河井の正面に座って、盃を受けた。
広川の子供たちは甚助が面倒をみた。女はそばにいて、その様子を見ていた。
河井は言った。
今後のことは心配ない、ここにいる忠良の家の傍にかつてここに住んでいた土民の家があるから、先ずはそこに住むと良い、今は忠良の家の物置となっているが、住めないことはないだろう、そのうちに、家を建てるに相応しい、気に入った場所を探したらいい。食べ物は気にしなくて良い、我が家の畑から、好きなだけ持っていっていい。
広川は河井が話すたびに何度も頷いた。安堵しているのがよく分かった。
一通りの説明が終わると、広川一家は河井の案内で、忠良の家の前の、かつての住人が住んでいた、土民の家に移動した。忠良が物置として使っていたその場所は、床はあるが、穴だらけで使える状態ではなかった。土間には雑然と農具が置かれている。一家が住むには相当の整備が必要だったが、よほど厳しい生活をしてきたのだろう、広川は全く不満を漏らさず、「この筵を使ってもいいかねえ。あと、藁も。これだけあれば、煮たり、焼いたりできるからねえ」と言った。
こうして広川一家の生活が始まった。誰の手も借りず床を張り替え、家の中を綺麗に整え、実に楽しそうに暮らし始めた。叺をほどいて板間に敷き詰め、叺に潜り込んで寝ているようだった。蚤や虱に苦しめられているのだろう、小助は絶えず、体のあちこちを掻き毟っていた。
広川一家が移り住んだとはいえ、河井の気持ちは変わらなかった。甲斐への出発はひと月遅れただけだ。出発が取りやめとなることはなかった。住人がさらに増えることは全く考えられないからだ。
河井と忠良は最初に八菅に向かった。甲斐には八菅の山伏の一行に紛れていくのだ。
甲斐は相模川の奥の奥だ。遠くはない。八菅の山伏が甲斐の岩殿権現に修行に行く。その一行に合流する、話はついている、と河井は言った。八菅がどこにあるのか忠良は知らなかった。
裏山を越えて、蓼川にでた。人家は疎らだった。道も狭かった。しばらく歩くと海老名に出た。そこに相模川はあった。
川沿いの道を上っていく。
忠良は小田原から幸田村まで歩いた、相模に足を踏み入れた、あの最初の日を思い出した。暑い日だった。
あの時と季節は変わらなかったが、今年の夏はあの夏ほど暑くはなかった。
相模川は上流に行けばいくほど、小石が多くなり、その石も一つ一つが大きくなった。水量も豊富なうえに、流れも急で、徒歩で渡る者はいなかった。
座間から下溝に入り、当麻の手前で渡し船で相模川を渡った。
そこから、ひたすら川沿いをかなりの距離を歩いた。その後、山側に向い、相模川から離れた。
すぐにまた川にぶつかった。それが中津川だった。鬱蒼とした、背丈ある葦の群生が両岸に広がっていた。
中津川は相模川の半分ほどの川幅だった。流れは速いが、渡るのは可能だった。それでも、胸の辺りまで、水に浸かった。
河井も忠良も腰を低くし、流れに耐え、首まで浸かって、川を渡った。荷物は頭の上で抱えた。
中津川に沿って暫く行くと、左手に急に山が迫って来た。そこに七社権現はあった。
八菅山の麓には人家が幾つもあった。
周辺には一つも田畑はなかった。この村はどうやって暮らしをたてているのだろうと忠良は不思議に思った。中津川の周辺は葦ばかりで、開発どころか、川に入ることすら難しく感じた。
麓には山伏の宿坊が幾つもあった。構えの大きな家が続いた。そのうちの一軒に河井と忠良は入った。
板敷きの間に筵が敷き詰めてあり、その上に7~8人の山伏が車座に座って、談笑していた。
「河井です。明日はよろしくお頼み申し上げます」と河井は山伏の前に立ち、言った。
白髪交じりの長い顎鬚をたくわえた、河井の真向かいに座っていた山伏が「随分、細いのを連れているなあ。大丈夫か」と言った。
「大丈夫。足手まといになると思えば連れてこない」と河井は答えた。
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