イケメン男子とドキドキ同居!? ~ぽっちゃりさんの学園リデビュー計画~

友野紅子

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◆体の変化と心の変化

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 未来君が我が家にやって来て一カ月近くが経った。
「ふぅ~、今日もよく走ったぁ」
 私は夕食後のジョギングから戻ると、庭先で大きくひと呼吸ついた。
 最初は苦労したけれど、今ではすっかり体も慣れた。開始直後とは比べものにならないくらい足取りが軽くなっていた。
「お疲れ。今日はすごくペースが速かったね」
 未来君がポンッと私の肩を叩いて労う。
 いつもはパパも一緒に三人で走っているが、珍しくパパの都合がつかず今日は未来君とふたりだった。自然な流れでされた『ポンッ』にこそばゆいときめきを感じながら見上げる。
「へへへっ。なんかね、前より足が楽に上がるの。それで頬に風切って走るのが、ちょっと気持ちいなって思えるんだ」
「いい傾向だね。明日からは学校も始まるけど、この時間のジョギングは続けていこう」
 私の答えに、未来君は優しげに目を細くした。
「もちろん! この一カ月ですっかり習慣になったんだもん、止める気なんかないよ」
「変わったね、里桜ちゃん」
「え?」
「今の里桜ちゃん、一カ月前とは別人みたいにすっごく前向きになってる。それに、可愛くなった」
 ドクンと胸が大きく跳ねる。
 未来君が口にした『可愛くなった』の一語が、胸の中に反響していた。
「明日、学校に行ったらクラスメイトはビックリするだろうね」
 私と未来君は、明日から新学期が始まる。未来君にとっては転校初日でもある。
 ちなみに、学校側からの知らせで、未来君が私と同じクラスになることが既に伝えられていた。
「えー、このくらい痩せただけじゃ、皆気づかないよ」
 バランスの取れた規則正しい食事に、運動と半身浴。たまのご褒美に、未来君お手製のヘルシーなスイーツも食べる。
 私のダイエットは順調に進んでいるが、もともと『無理のない健康的なダイエット』で計画が組まれており、劇的な体重減少とはなっていない。
 体重が減り傾向の今は、毎日体重計に乗るのが楽しい。だから本音を言えば、少しずつしか出ない結果が、じれったくもあった。
「そんなことないと思うけど。とにかく明日、学校で皆の反応を見てごらん。きっと、見違えた里桜ちゃんに、皆驚くよ」
 月明かりを受け、未来君が柔らかに微笑む。その立ち姿を眺めながら、やっぱり皆は私の変化には驚かないだろうと思った。
 だって皆の目は、きっと未来君に釘付けになる。
 皆の興味も関心も、私に向く隙なんてない。かっこよくて素敵な転校生のことで持ち切りになるだろう。特に女子生徒たちは頬を染め、色めき立つに違いない。その様子を想像したら、なんだか胸がもやもやした。
「そうかなぁ」
 曖昧に答え、手早くストレッチを済ませると玄関に滑り込んだ。
「未来君、今日もありがとう。お疲れ様」
「うん、お疲れ様」
 私は逃げるように自室へと階段を駆け上った。胸のもやもやはさておき、足取りは一カ月前とは比べ物にならないくらい軽快だった。


 翌日。
 未来君に付き添って職員室に立ち寄ったために、私が教室の扉をくぐったのはホームルーム開始の直前だった。未来君は職員室で学年主任や他の先生たちに挨拶をしていて、教室には後から担任の先生と来ることになった。
 普段なら仲のいい友人らにあいさつのひとつもするところだが、今朝は時間が押していたから、足早に窓側の後ろから二番目の自分の席を目指した。
「おはよう田中君」
 隣の席の田中君にいつも通り挨拶をして席に着く。すると彼が、ギョッとしたように私を見た。
「お、おはよう。って、細井さん一体どうしたんだよ!?」
 あいさつを返す田中君の声は、不可解なくらい上擦っていた。
「え? どうってなにが?」
 さらに不可解なことに、ざわついていた教室内は静まり、皆の視線が私に集まっていた。
 なになに? 駆け込みギリギリの登校って、そんなに注目浴びちゃう? たしかにこれまでは、毎日余裕を持って席に着いていたけれど……。
「だって、その変わ――」
 田中君の声に重なるようにホームルーム開始の鐘が鳴り、担任の先生と未来君が連れ立って教室に入ってくる。
「おはよう。よーし、皆揃ってるな」
 担任の先生は教室内を見回すと、未来君を促して一緒に教壇に上がる。
 ふたりの登場によって田中君の言葉はうやむやになり、皆も一斉に教壇に向き直った。
「今日は皆に、転校生を紹介する。大門寺未来君だ」
「大門寺未来です。今日から皆さんと同じクラスで学ぶことになります。学校内のことにはまだ不慣れで、色々教えてもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします」
 全員の目が、未来君に注いでいた。彼はそれを物ともせず、はきはきとした声で流れるように転入の挨拶をした。
 教壇に先生が立っている時に私語は厳禁。そんな徹底されたルールの中にあって声こそ上がらなかったが、女子生徒らを中心にクラス内が色めき立ったのを肌で感じた。
「皆、大門寺が困っていたら助けてやってくれ。それじゃあ、ホームルームを始めるから、大門寺は空いている窓側の一番後ろに座ってくれ」
「はい」
 先生の指示を受け、未来君が颯爽と教室内を歩く。すると、クラスメイトが一斉に身を乗り出し、首を巡らせて未来君の姿を追った。
 後方の席にいると、良くも悪くも教室内の様子がよく分かる。皆が彼にどれほど興味関心を抱いているのかが知れた。
「二学期最初の登校でまだ夏休み気分が抜けない者も多いだろうが、新しいクラスメイトも迎えて心機一転、今日からまた気を引き締めていくように。課題は後で学級委員が回収し、職員室に運んでくれ。それからこの後は、講堂で九時から始業式が――」
 担任の先生が連絡事項の伝達をはじめ、教室内はいったん平静を取り戻した。けれど教室内には、どこか浮き立った空気が充満していた。
 かく言う私も、うしろの席に未来君がいると思うとそわそわして落ち着かない心地がした。
 あんまりだらしないところを見せないようにしなくっちゃ……あ! 授業中にお腹、鳴らないといいなぁ。
 そんなことを考えながら、いつもよりも姿勢を正して、気もそぞろに担任の先生の話に耳を傾けた。


 案の定、ホームルーム終了のチャイムと同時に、未来君の席にドッと人が集まった。
 男子生徒らは好奇心を隠そうともせず、未来君を囲って矢継ぎ早に質問を投げかける。未来君は物怖じせず、その全てに感じよく答えていく。
 未来君はあっという間に打ち解け、会話の合間に笑い声まで上げていた。
 ……やっぱり未来君、コミュニケーション能力高いなぁ。私がこの人数で詰め寄られたら、間違いなくたじたじになってまともな受け答えなどできなくなってしまう。
 すぐ後ろの席で繰り広げられるやり取りを背中越しに聞きながら、私は内心でうなった。
 するとここで、盛り上がる未来君と男子生徒らのやり取りを一歩分の距離を置いて見つめていた女子生徒たちの中から、三人組が飛び出して未来君の元に駆け寄った。三人の中心にいるのは、クラスいちの美少女で芸能活動もしている森重さんだった。彼女はなぜか未来君の前ではなく、私の前で立ち止まった。
 え?っと思って見上げたら、可愛らしく小首をかしげた森重さんに「細井さん、そこの席ちょっと借りてもいい?」と尋ねられた。
「……あ、どうぞ」
 突然の台詞に一瞬驚くも、たしかにここに座って後ろを向けば、未来君と向かい合ってゆっくり話ができる。なにより、森重さんの可愛らしい笑顔からジワジワとにじむ「さっさとその席を空けろ」の圧力はすさまじく、このまま座っている選択は選べない。
 ……うん。ちょっと早いけど、講堂に移動しよう。
 私はいそいそと、居心地の悪くなった席を譲った。
「待って、里桜ちゃん」
 扉に向かう背中に声をかけられて振り返ると、席を立った未来君が私の後を追ってくる。
「講堂に行くなら僕も一緒にいいかな?」
 爽やかに微笑む未来君の後ろから、みんながポカンとしてこちらを見ていた。
 まぶしいほどの存在感を放つ転校生が、地味で冴えない私のことを親し気に下の名前で呼びかけたのだ。皆が驚くのも無理はない。
 その時、ふいに視界の端に森重さんたち女子生徒の姿が映る。彼女らは、一様に苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そこには驚きだけではない、私への敵意のようなものが感じられた。
「それは、もちろん構わないけど……」
 ……けど、これからまさに未来君と話をしようと意気込む森重さん以下、女子生徒らを置いてきてしまっていいのか?
「よかった。それじゃ、行こうか」
 私が言外に目線で問うが、未来君はまるで気にしていない様子で私を扉へ促す。
 わわわっ。
「そうだ、里桜ちゃん。集合時間まで余裕もあるし、ついでに校舎内も少し案内してよ」
「う、うん」
 痛いくらいの視線を背中に感じながらが、私は未来君に押し切られるように並び立って教室を後にした。
「未来君、森重さんたちが話をしたそうだったよ。私と来ちゃって、よかったの?」
「よかったもなにも、あの場に残る選択はあり得ない。僕と話したいと思ってくれたことはありがたいけど、そのために誰かをどかそうとするなんていうのは論外だ」
 私が廊下を少し進んだところで遠慮がちに切り出すと、未来君はキッパリと答えた。しかも未来君は、私と森重さんのやり取りを驚くほど詳細に把握していた。
「僕は、こうして里桜ちゃんに校内を案内してもらっている方がずっと楽しい」
「未来君……」
 未来君の言葉は、いつだって私の胸をドキドキと熱くする。未来君との会話が、他の誰と話していても感じないときめきを呼び起こす。
 まるで魔法にでもかかったみたいに、私はいつだって有頂天になってしまう。
「それにしたって、同じクラスになれただけでも嬉しいのに、まさか里桜ちゃんと席まで前後だなんて本当にツイてたよ」
「うん。私もだよ」
 私は未来君の言葉に心地よく耳を傾けながら中央校舎内を効率よく案内し、集合時間に間に合うように講堂に向かった。
 先に整列していた森重さんから向けられるとげどげしい視線には気づいていたけれど、未来君と一緒だからかこの時はさほど気にはならなかった。

 新学期初日の今日は始業式だけで、授業はない。
「大門寺、すまんがもうひとつ提出してもらう書類が出てきてしまってな。一緒に職員室まで取りに来てもらえるか」
 帰りのホームルームが終わると、担任の先生が未来君に個別に声をかけた。
「はい、すぐ行きます」
 未来君は鞄を手に取って席を立つ。
「里桜ちゃん、ごめん。今日は先に帰ってて」
「うん、分かった」
 未来君は私の横を通りざまに言い残し、先生と教室を出て行った。
 彼の姿が見えなくなり、帰宅しようと私も鞄を掴んだ。そうして椅子から腰を上げかけたところで、私の進路を塞ぐように女子たちが立ちふさがった。
 見上げると、森重さんを中心にした例の三人組が立ちはだかり、私をぐるりと囲っていた。
「ねぇ細井さん、あなた大門寺君と個人的に親しいの?」
 第一声は中心に腕組みして立つ森重さんから発せられた。
「……え?」
「分からない? なら率直に聞くけど、あなた大門寺君とお付き合いしているの?」
 突然の質問に固まる私に、森重さんは不満もあらわに畳み掛けるように問いかけた。
「ま、まさかっ! 付き合ってなんて、ないよ……っ」
 私が真っ赤になって答えたら、森重さんは目に見えてホッとした顔をした。
「なぁんだ、それもそうよね! 大門寺君があなたみたいなみっともない子を相手にするわけないって思ってたのよ」
 耳にして、怒りで肌があわだつ。胸も不快感でキリリときしんだ。
「よかった、安心しちゃったわ。さしずめ、遠い親戚とか親の知り合いとかそんなところでしょ?」
「……ははっ。そんなところ」
 悪びれもなく続ける森重さんに、愛想笑いで答えた。
 ……なんで私は、こんな失礼な言い方をされてまで笑っているんだろう。
 これは、今まで幾度となく繰り返してきた自問自答だった。嫌だなって思うなら、たったひと言「失礼ね」と言い放ち、横をすり抜けて帰ればいいのだ。
 だけど結局、私は心の声に口を噤み、俯き加減でへらへらと愛想笑いを浮かべている。
 自分自身への不甲斐なさに、握りしめた拳が小刻みに震えた。
「……お、おい。その言い方はないよ」
 その時、隣の席の田中君が小さく声を上げた。森重さんたちの視線が、一斉に彼に向いた。
「なによ田中、あんたなんか文句あんの?」
 森重さんが、田中君に食ってかかる。さらに他の二人も、揃って田中君を睨みつける。
「いや、だからさ……」
 元来物静かで優しい気質の田中君は、森重さんたち三人にすごまれて言い淀んだ。
「田中君、ありがとう! 私、急いでるからもう帰るね。さよなら!」
 田中君の気持ちはありがたかった。だけど、彼が詰め寄られてたじろぐ姿を見ていると申し訳なくて、なんとも苦しい思いがした。
 これ以上この場に留まっているのがいたたまれず、私は逃げるように教室を飛び出した。


 帰宅する私の足は、未来君やパパとするジョギングがうそだったみたいに重かった。
「ただいま」
「おかえりなさい。あら、里桜ちゃんひとり? 未来君と一緒じゃなかったの?」
 玄関を開けると、出迎えてくれたママが首をひねった。
「うん。未来君は提出書類があるとかで、職員室に寄ることになって。私だけ先に帰ってきた」
「そうだったの。……ねぇ里桜ちゃん、なんだか元気がないんじゃない? 学校でなにかあった?」
「やだな、なんにもないよ。久しぶりの学校で、ちょっと疲れちゃっただけ」
「そう? それならいいけど」
 私の言葉でママは一応納得したようで、首を縦に振った。
「それよりママ、これからどこか出掛けるの?」
 ママはエプロンを外し、手にはトートバックと日傘を持っていた。
「そうなの、お醤油を切らしちゃって。ママちょっとスーパーに行ってくるから、お留守番を頼んじゃっていいかしら?」
「もちろん。いってらっしゃい」
 ママが扉の向こうに消えた瞬間、ここまでなんとか貼り付けていた笑顔の仮面はもろくも剥がれ落ちた。
 家の中にひとりになった私は、玄関を上がると真っ直ぐにキッチンに向かった。
 ……むしゃくしゃしていた。どうしようもなくイライラして、胸の中にはいっぱいの悪感情がとぐろを巻いていた。
 それらにつきうごかされ、私はダイエットを始めてから一回も開けたことのなかった、キッチンの奥のお菓子収納棚に手をかけた。
 夏休み中も、この中に詰まっているお菓子を食べたい衝動に駆られたことはあった。その度に、私はちょっとの我慢で食事時を待った。そうしていざ未来君や皆と一緒に食事を取れば、ひとりでお菓子をむさぼるよりもずっと美味しくて、お菓子を食べたい思いを吹き飛ばすくらい心も体も満たされたのだ。
 だけど今は、ささくれだった心がどうしようもなくお菓子を欲しがっていた。
 この行動が未来君をはじめ、パパやママを悲しませることは分かっていたけれど、まるでコントロールがきかなかった。
 ……今日はもう、無理だよ。
 ギュッと瞼を瞑り、悲しそうな皆の顔を脳内から追い出して、私は泣く泣く扉の取っ手を引いた。
 扉を開けた私は、棚の中身を見て衝撃に固まった。
「……うそ。なんで?」
 てっきり、買い置きのお菓子が入ったままになっていると思っていた。だけど棚の中に、想像していたメーカー品のお菓子はなかった。
 代わりに、可愛らしい瓶や袋に入った未来君の手製のお菓子が入っていた。
 手前の瓶を取り上げると、未来君の手書きのラベルが貼られていた。ラベルには【おからクッキー】とだけシンプルに中身が書かれていた。
 もうひとつの瓶には【オーツ麦のグラノーラ】が、さらに袋入りの【コンニャクチップス】と【パリパリワカメせんべい】もあった。それらは、これまで幾度か作ってもらったことのあるお菓子の中で、私が特にお気に入りの物ばかりだった。
「あ、これ……!」
 お菓子の下に手紙を見つけ、はやる思いで便箋を広げる。
【里桜ちゃんへ どうしてもお菓子が食べたくなった時は、約束通り我慢しないで召し上がれ。ただし、ポテトチップスとチョコチップクッキーはちょっとお預け。僕の手作りお菓子で、里桜ちゃんが満足してくれるといいんだけど…。まぁ、まずは食べてみて! 未来より】
 簡素に綴られたメッセージを目にした瞬間、じんわりと目頭が熱くなる。
 私は手紙を抱きしめて、ズルズルと床にしゃがみ込んだ。
「……すごいや。未来君には私の行動がお見通しなんだな」
 小さくつぶやいて、濡れた目元を手の甲でぬぐう。
 ……いつの間に、用意していたんだろう? あるかないかも分からない私の盗み食いを見越し、これだけのお菓子を準備するのはさぞ骨が折れたろう。
 未来君はここまで、食事から運動、私のダイエットを万全にサポートしてくれている。
「それに比べて私、なんでこんなに意思が弱いんだろう……」
 未来君の目を盗んで食べようとなんて、するんじゃなかった。
 この棚は勝手に開けるんじゃなく、未来君の手で引き開けてもらうべきだった。そうしたら、私はこんなに自分を嫌にならずに済んだのに。
「もうやだ、……私、最低だよ」
 ――カタン。
 その時、背後から小さな物音が上がる。
「里桜ちゃんは最低なんかじゃないよ」
 ことのほか強い口調で言い切られ、ハッとして振り返る。
「未来君……」
 すぐ後ろに未来君が立っていた。
 ここまでの行動を見とがめられた気まずさと、泣いているのがバレてしまった恥ずかしさ。さらには、未来君の言葉に対する戸惑いも、ありとあらゆる感情がごちゃまぜになっていた。
 私が固まったまま言葉を発せられずにいると、未来君がスッと腰を低くした。
「僕はここまで一カ月間、君が弱音ひとつ吐かずに頑張ってきたのをちゃんと知っている。環境の変化で、今はそのバランスが少し崩れてしまったんだ。そんな時は無理せず、『ガス抜き』をしていいんだよ」
 隣にしゃがみ込み、目線の高さを同じにした未来君は、真っ直ぐに私を見つめて口にする。
「ちなみに、これは里桜ちゃんだけじゃない。どうしても耐えられないって時は、誰にだってある。人間なんだもの、完璧に欲求を制御なんて、できるわけがないんだ」
「……それは、うそだよ」
 長い間を置いて、私はしぼり出すように声にした。
「なにがうそなの?」
 私の言葉が予想外だったのか、未来君はちょっとだけ驚いた顔をした。
「だって、未来君はいつだって完璧だもの。自分の感情がコントロールできないなんてこと、未来君には絶対ないもの」
 断言したら、未来君は二、三度パチパチと目をまばたいた。そうしてスッと目を細くして、表情を引きしめた。
 柔和に微笑んだいつもの彼とは違う、別人みたいに研ぎ澄まされた姿を前にして、ドキンと胸が跳ねる。一気に、そわそわと落ち着かない思いになった。
「絶対? ……里桜ちゃん、分かってないのは君だよ」
 いつもよりワントーン低い彼の声も、これまで聞いたことのないものだった。
 どぎまぎと見つめる私に、未来君はゆっくりと唇を開いた。
「素直で頑張り屋な君は可愛い。そしてダイエットに一生懸命取り組む前向きな姿勢は、僕の気持ちまで明るくさせてくれる」
 ……私が、可愛い? 未来君は、本気で言っているの?
 未来君の言葉が頭の中を反響していた。意思とは無関係に頬に熱が集まり、心臓は早鐘のように鳴る。
 彼に全身の感覚が集中していた。
「そんな君を前にして、僕はいつだって精一杯の理性を寄せ集めて紳士的に接しているよ」
 未来君が続けて語った台詞が、さらに私を混乱させる。
 のぼせてしまったように心と体がふわふわして、未来君の言葉の意味を突き詰めて考える余裕はなかった。未来君がフッと笑み、彼の美ぼうが鼻先が触れそうな近さに迫る。
「ただいまー」
 玄関先からママの声がして、未来君は寄せていた顔をスッと引いた。
「里桜ちゃん、僕が最初の日に『ガス抜きしながら健康的な体形を目指したい』と言ったのを覚えてる? 今日は『ガス抜きの日』だよ。それにそのお菓子は低カロリーで、全部食べたって大丈夫だから」
 未来君は腰を上げながら、私の耳もとでささやく。さらに、伸ばした指先で私の目尻に残る涙のしずくを拾う。
 掠めるようにほんの一瞬触れただけで、指はすぐに離れていったけれど、私の目もとから彼の感触と温もりが消えることはなかった。
「さぁ、お母さんが来る前に。……これは、部屋でゆっくり食べて」
 未来君はそう言って私の手にお菓子を握らせると、玄関の方に向かっていく。
 私がママに泣き顔を見せないで済むように、そんな気遣いが言外ににじんでいた。
「おかえりなさい、お母さん。重そうですね、手伝いますよ」
 私は身をひるがえし、慌てて階段を駆け上った。
「助かるわ。あら? 里桜ちゃんはいなかった?」
「部屋にいます」
「そう。帰って来た時も、なんだか疲れた様子だったのよね。まぁ、夏休み明け最初の登校だもの、疲れもするわね。それより未来君は転校初日、どうだった?」
「いい雰囲気の学校で、うまくやっていけそうです。なにより、里桜ちゃんと同じクラスなのは心強いですね」
 タッチの差でママをかわして二階に上がりきった私は、階下から聞こえてくるふたりの会話にホッと胸を撫で下ろし、部屋にそっと身をすべらせた。
 音を殺して扉を閉めて、机の上に未来君にもらったお菓子を並べて置く。ストンと椅子に腰を下ろし、目の前のお菓子を眺める。
 私はお菓子が大好きで、中でも未来君の作るお手製のお菓子は、大大大好きだ。
 だけど、そんな大好きなお菓子を前にして、私の心は別のことでいっぱいだった。
 ……未来君の言葉と態度が、気になって仕方なかった。
 もし、あの時ママが帰ってこなかったら……。
 もし、ママが帰ってくるのがもう少し遅かったら……。
 あの先に、どんな展開が待っていたんだろう? 答えの出ない「もしも」の想像が、目の前のお菓子より、もっともっと私の心を高鳴らせた。
 結局、お菓子を開けるタイミングを逃したままお昼を迎え、階下からお昼ご飯に呼ばれた。私は手つかずのお菓子をそっくり持ってダイニングに下り、昼食後にママと未来君と三人で分け合って楽しんだ。
 当然ながら、みんなで分ければひとり当たりの割り当ては少なくなる。だけど、以前のように、ひとりでひと袋を食べ切らずとも物足りなさは感じなかった。
 むしろ、ひとりで全部食べるよりも美味しいし、ずっと気持ちが満たされていた。
「ふふふっ」
 おからクッキーの最後の一枚を頬張ると、自ずと笑みがこぼれた。
「どうしたの里桜ちゃん?」
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「ううん! みんなで食べると美味しいなって思ったの!」
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 私の言葉にママが笑顔を弾けさせ、同意する。未来君もやわらかな笑みを浮かべて、私を見つめていた。
 視界の端に映る彼の存在を意識すれば、ますます鼓動が駆け足で刻む。体の温度も上がり、ほてったようになった。
 お菓子ひとつにしても、私の中で以前の当たり前は、いつしか当たり前ではなくなっている。同じように、私と未来君の上にも変化は訪れているのかもしれないと、穏やかな午後のひと時には不釣り合いにドキドキと落ち着かない胸を押さえながら感じた。
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