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第四章 大空を夢見る姫君
しおりを挟むグルンガの街を出て辿り着いた隣町で、ふと思い立ってセリシアに尋ねる。
「乗馬はできるか?」
人の口に戸は立てられない。彼女の能力が吹聴されて広まる前に、できるだけグルンガから離れたかった。チナと二人なら乗合馬車の移動でもよかったが、三人での移動はなにかと目立つ。馬車でも悪くはないが、乗馬の方が小回りが利く。セリシアが馬に乗れれば、ここからは馬で移動するのがいいかもしれん。
「はい。教会に引き取られる前、両親と暮らしていた頃は家で馬を飼っていましたから」
俺の問いかけにセリシアが即答する。
「そうか。では、ここからは馬で……ん?」
袖を引かれて見れば、チナが所在なさげに見上げていた。その目には薄く涙の膜が滲んでいた。
「どうした、チナ?」
驚いて尋ねると、チナは顔をクシャクシャにして口を開いた。
「私、馬に乗ったことがないの。だけど、これから頑張って覚えるから……! だから、置いていかないで!」
チナがしゃくりあげながら告げる。彼女の不安や心細さが痛いくらい伝わってきて、胸が苦しくなった。俺はしゃがみ込むと、チナと目線を合わせて告げる。
「馬鹿なことを。俺がお前を置いていくはずないだろう?」
「本当!?」
「ああ、本当だ。もとよりチナをひとりで乗せる気などない、相乗りするつもりだった」
「よかったぁ!!」
チナは、まだ五歳というのを忘れそうになるくらい賢く、言動もしっかりしている。しかし今、俺の肩にしがみ付いて安堵の表情を浮かべる彼女は年相応に幼げで、守るべき存在なのだと再認識させられる。チナを抱き上げるのと逆の左手で、細い背中をあやすようにトントンと撫でた。
俺たちはその足で厩舎を抱える町人を訪ね、さっそく馬を二頭譲り受けた。セリシアの旅装も全て買い揃え、この晩の宿を取った。客室はふた部屋取って、ひと部屋をセリシアが、もうひと部屋をこれまで通り俺とチナが二人で使うことになった。
「次の行き先はもう決まっているのですか?」
食堂で夕食を取りながら、セリシアが尋ねてきた。
「とりあえず、ギルドのある街に行きたい」
グルンガの街にギルドはなかった。ギルドは、次元獣の出現情報の提供、就労斡旋から次元獣の素材の買取、装具の販売まで一挙にこなす冒険者や守備隊員の活動拠点だ。当然、次元獣が現れない場所にギルドはない。
「なるほど。グルンガとその隣接領にギルドはありませんから、少し足を伸ばさなければなりませんね」
「なぁセリシア、君はどうしてグルンガにギルドがないか分かるか?」
「ええっと、ギルドの利用者は冒険者や守備隊員です。次元獣が出ない場所に冒険者や守備隊といった方たちは来ませんから、ギルドを置く必要性がないのだと思います」
「では、なぜグルンガに次元獣が現れないと言い切れる? 次元獣はその名の通り、次元を割ってどこからだって現れるはずだろう?」
この質問に、セリシアは目を見開いた。
「たしかにそう言われると……」
セリシアは俯き加減になって考え込んでいたが、ふいになにかを思い出したように目線を上げた。
「おそらく、私は魔導士たちの会話を聞いて、無意識のうちに知っていたんだと思います。教会がこの街の守りとなっていることを……。もちろん、当時は次元獣から守られているとは思ってもみませんでしたが」
「魔導士らは、なんと言っていた?」
「彼らはよく『この地は我らのおかげで脅かされることなく平穏な日々を過ごせている』とこんなことを話していました。そして、ふたつ隣の町が寄付金の打ち切りを伝えてきた時には『我らを蔑ろにするから加護を失くすのだ。これからあの地は苦しむことになる』とこんなふうに。……思い返すと、その町は翌年、次元獣が現れて甚大な被害を被っています」
「……『加護』か。俺はここまで要所要所で幾度かこの単語を耳にしてきた。教会はこの『加護』というのを用い、次元獣の襲来場所のコントロールが可能なのだろう」
セリシアとチナは困惑した様子で顔を見合わせた。
「けれど、どうして教会が……? 決して庶民の味方とは言えませんが、グルンガ地方教会でいえば聖女の派遣をしていますし、他の教会も災害などの有事には魔導士を派遣して早期収束に務めています。人々の暮らしを守る立場の教会が、なぜ次元獣の襲来場所に関与など……」
「セリシア、これはまだ俺の想像の域を出ない。だが、教会は次元獣の襲来場所に関与しているのではなく、次元獣の襲来そのものに関与しているのではないかと考えている。もっと言うと、教会は何某かの意図を持って次元獣に人を襲わせている」
「そんな!?」
「……いや、教会と一括りにするのは正しくない。セリシアの言うように、日々魔力の研究と研鑽に励み、災害時の救済や支援を率先して行う魔導士がいるのも事実だ。教会に所属していた俺の両親も、そんな善良な魔導士だった。……だが、ふたりは教会が秘しておきたい重大な秘密に気づき、葬られてしまった」
俺の告白を受けて、セリシアとチナの顔つきが引きしまる。眉間にクッキリと皺を寄せ、チナが震える唇を開く。
「お兄ちゃんの両親にそんなひどいことをしたのは、教会の悪い人なの?」
俺が生前の両親について知る唯一の手掛かりは、ふたりが残した日記。この日記には、ふたりが赤ん坊の俺を連れて父の故郷に移った日から亡くなる前の日まで、一日も空くことなくその日行った魔力実験の内容や俺の様子などが事細かに綴られている。
「間違いなく、実行したのは教会内部の人間だ。俺の両親は実験中に魔力を暴走させ、次元の狭間に落ちて死んだ。要は魔力実験の失敗による事故死だ。……だが、これは事実ではない」
二人が残した日記を見れば、生前の両親の慎重で思慮深い人柄がよく分かる。実際、二人は小規模な魔力暴走を端から想定していた。周囲への被害を考えてわざわざ実験用の小屋まで建てる念の入れようで、実験はその小屋でのみ慎重に順を踏みながら行われた。
そうして実験中に幾度か小規模な魔力暴走を起こしているが、その都度、二人は適正に対処していた。そんな二人が、手に余るほどの魔力実験をそもそも行うはずがないと、俺は確信していた。
「魔力暴走を装って、両親は口封じをされたのだ」
同時に、祖父母が俺に両親の死について「次元獣に殺された」と伝えていた理由について、今は一定の理解をしていた。日記の存在を知り、二人の死の真相を追及する俺に、祖父は「こうなることが怖かった。お前まで失いたくなかったのだ」と、こう口にした。
祖父母はおぼろげながら両親の死に教会が関わっていることに気付いていたのだろう。最弱のセイスの俺が復讐に走ることを危惧し、真実を秘したのだ。
だが、今となってはその心配こそが杞憂だ。新魔創生を手にした俺が、教会の悪しき勢力なんぞに負けるものか――。
「魔力暴走を装って二人の魔導士を次元の狭間に……。そんなことができるのは、教会でも相当な実力者だけ。大魔導士、もしくは上級魔導士か。かなり、限られてくるのではありませんか?」
「その通りだ。おそらく、これを命じたのは聖魔法教会の長である教祖だ」
「教祖様が直々に動くというのはただごとではありません。セイさんのご両親が知った教会の秘密とは、いったいなんだったのですか?」
一拍の間を置いて、俺はゆっくりと口を開いた。
「両親は"新魔創生"と呼んでいた」
「新魔創生……?」
耳慣れない単語に、セリシアとチナが首を捻りながらたどたどしく反復する。
「複数の魔力を掛け合わせ、既存の六属性とは別の新たな魔力を生み出すことだ。俺の次元操作、チナの錬金術、そしてセリシアの再生快癒は全てこれに相当する。この新魔力の存在こそ、聖魔法教会が世に伏せておきたいタブーなのだ」
「けれど、より大きな魔力を得ることは、次元獣などの被害抑制にも繋がる慶事ではありませんか? どうしてこれが、秘しておきたいタブーなのでしょう」
「うん! わたしもお兄ちゃんの次元操作で次元獣から助けてもらったもの! みんなのためになる力だわ!」
「社会全体でみれば、たしかに有益となろう。だが、国内外に最強の魔力保有を謳い、階級ピラミッドの頂点で胡坐をかくウノの教会幹部たちはそうは考えなかった」
俺の言葉で二人はピンときたようだった。
「これが明るみになれば、単一属性のウノをピラミッドの頂点とする階級社会が覆る。しかも、教会の有する特権が脆くも崩れるだけでなく、最下層と蔑んできたセイスが最強の力を有するのだ。教会としては、この秘密を知った両親をなんとしても葬り去る必要があったのだろう」
「……そんなの、ひどすぎる」
目に涙を溜め、唇を噛みしめるチナの頭をポンポンッと撫でて慰める。
「セイさんは、どのようにこの事実を知ったのですか?」
「両親が残した日記からだ。両親は共にトレスだったが、たまたまふたりで六属性が揃う組み合わせだった。死亡の前夜に父の筆で綴られた【明日、再び六属性の新魔創生に挑む。大分感覚は掴めてきている。きっと明日こそ成功する――】という一文が、日記の最後だった。新魔創生の実証実験の成功を確信しながらも、両親は万が一の事態もまた想定していたのかもしれない。彼らの日記は、単なる日常の記録というには不可解なほど詳細だった」
「下働きとして長く教会にいましたから、私も魔導士たちのある種異様なほどの特権意識はよく知っています。彼らの特権意識は凄まじく、そして、それを侵されることにはひどく敏感です。彼らなら、やりかねない。……いえ、彼らは間違いなくやったのでしょう。けれど、魔力によって民草の生活をよりよく導くのが、本来の教会の在り様です。これでは教会の存在意義とはなんなのでしょう……」
セリシアは膝上で拳を握りしめて、やるせなさを滲ませる。
「……ねぇお兄ちゃん、わたし、なんだがスッキリした」
俯いていたチナが、顔をあげてこんな台詞を口にした。
「孤児院ではずっと、先生たちから『教会のおかげで私たちの生活が成り立っている。教会への感謝を忘れるな』って言われてきたの。だけど、たまに視察にやって来る教会の人たちは態度も横柄で怖かった。孤児院がいっとう大切に預かっていたウノの子も、シンコのわたしを特にバカにしていじわるばかりしてきた」
チナは真っ直ぐに俺を見つめ、更に言葉を続ける。
「そんな教会っていらないよね!? 偉ぶって、肝心の魔力だって貧しい人たちには出し渋って。その上、ずっと見下してきた属性数を多く持つ人たちがもっと強い魔力を使えるとなったらそれを隠して。……そんな教会、わたしはいらない!」
チナの率直な物言いに、思わず目を瞠る。
……なるほど。教会がいらない、か。
俺はこれまで両親の仇を取ることを目標にしており、その達成後について具体的に考えたことはなかったが……。
たしかに、腐敗しきった今の教会組織はチナの言うように失くしてしまってもいいのかもしれん。そうして、真に社会のためを思い、魔力の研鑽と研究に励む魔導士らによる新しい組織として作り直す――。
「チナ、やはりお前は賢い」
「え?」
「未来の展望は明るいぞ」
「わわわっ!?」
水色の髪をワシャワシャとかき混ぜながら白い歯をこぼす俺を、チナはもちろんセリシアも不思議そうに見つめていた。
ここで一旦会話は途切れ、俺たちは少し冷めてしまった夕食を口に運んだ。
「あの、ひとつお伝えしておきたいことが」
粗方食べ終えたタイミングで、思い出したようにセリシアが声をあげた。
「教会の中にもまた、階級のピラミッドは存在します。教会の頂点にいるのは、ご存知の通り教祖様です。しかし、教祖様の上にもっと強力な権力者が存在するのかもしれません」
「もしかして、それは『デラ様』か?」
「ご存知なのですか!?」
「いや、分かっているのは名前だけだ。それが何者かは分らん。もし、君がデラについて知っているなら教えてほしい」
加護と同様に、デラについても、両親の日記に記載はなかった。
教会所属とはいえ、両親は下級魔導士だ。それらについて知る立場になかったのか。あるいは、当時はまだ加護もデラも存在しなかったのか。幾度となく考えを巡らせてきたが、いまだ答えには行き着けていない。
「いえ、私も詳細については分からないのです。ただ、イライザ様のことを聖女様とお呼びするようになったのは、イライザ様が治癒の力を備えてからのことで、比較的最近のことなんです」
「それについては夕食に招かれた時に、イライザ本人から治癒の力は生まれつきのものではないと聞いている」
「そうでしたか。シンコの私は下働き、イライザ様は魔導士候補と立場は違いましたが、共に両親を亡くし同時期にグルンガ地方教会に引き取られました。当時のイライザ様は私にも親切で、身の回りの品を何も持たない私に自身のリボンを譲ってくれたこともあったんです……。ただ、治癒に関しては今のような力はなく光属性の魔力を注ぎ回復力の促進を図るのがせいぜいでした。ところが十五歳になったばかりのある日、教会長と共にオルベルの聖魔法教会を訪問したイライザ様は、現在の治癒の力を備えて帰ってきました。この時からイライザ様は、別人のように変わりました」
俺は、イライザがセリシアに暴力を揮っているのを実際に目にしている。そのイライザが『親切だった』というのは、にわかには信じられなかった。
「意外ですよね。ですが実際に、それまでイライザ様はウノである事実を誇りにはしていましたが、特権意識はさほどお強くなかったのです。少なくとも、シンコを理由に私を蔑むようなことはありませんでした。それが、オルベルの聖魔法教会から戻って以降は事ある毎に私がシンコという事実を嘲笑するようになりました」
「イライザがオルベルの聖魔法教会で『デラ』から祝福を受け、治癒の力を授かったことで特権意識に目覚めたのは間違いないな。……だが、見方を変えればデラ一味としても強大な力を授けることはリスクだ。だから、勝手な使い方をされぬよう、徹底した意識改革を施したと考えるのが妥当だろう」
「ふーん。でも、あの聖女様、高笑いでセリシアお姉ちゃんを叩いていたよ?」
「……まぁ、そうだな。教会の意識改革に加え、彼女がもともと苛烈な性質を持ち合わせていたのは否定できんな」
チナの率直かつ的確な指摘に、反論の余地なく頷く。
「よし、明日も早い。そろそろ休むとするか」
こうして、この日は夕食を終えるとそれぞれ客間に戻り、明日に備えて早々に床についた。
宿を発って一週間が経った。
移動手段に馬を用いたことで、俺たちの進行スピードは各段に速まっていた。
しかし、噂話というのもまた馬脚にも劣らぬ速度で広まっていくことを、俺は驚きを持って体感していた。
「どこもセリシアお姉ちゃんの話題で持ちきりね」
チナも、道行く先々から聞こえてくる真の聖女に関する話題に驚きを隠せない様子で、手綱を握る俺の両腕の間から呟く。
「ええ、まさか私の姿絵まで出回っているなんて。……正直、少し恐ろしさも感じてしまいます」
並走するセリシアは戸惑い混じりに答えた。
「富権力に関わらず、民草を無償で癒した。このインパクトは、どうやら俺たちが考える以上に大きかったようだ」
ひとまずギルドのある大きな町を目指していた俺たちだったが、予想外に知れ渡った真の聖女の噂によって迂回を余儀なくされていた。セリシアの再生快癒の奇跡を求め、多くの人がやって来たためだ。
実は、宿を出発した直後に、セリシアはひとりの赤ん坊に再生快癒を施している。俺たちの足取りを追い、真っ先に助けを求めてきただけあって症状が重篤だったこともあり、その場で母親の腕に抱かれた赤ん坊を治療した。
すると、目にした人々がほんの小さな切り傷や風邪症状の治療を求めて列成してしまったのだ。
それ以降、俺たちはできる限り人の往来を避けて進み、夜も宿への宿泊をせずに野宿で過ごしていた。道中にふたつあったギルドを有する町にも立ち寄らず、今に至る。
蛇足だが一週間の移動中、二回ほど次元獣と遭遇したが、どちらも小型だったため難無く討伐を果たしている。別次元に収納しているため急ぎではないが、こちらもギルドに行き次第換金しておきたかった。
「……そのようです。この調子だと隣町のギルドにも立ち寄るのは難しそうですね。……すみません」
先ほども、街外れで農夫らが畑仕事をしながら真の聖女についてああでもない、こうでもないと話しているのを耳にしたばかり。
セリシアの言うように、次のギルドも避けるのが無難だろう。
ちなみに、現在、俺たちがいるのは地方有数の大都市・ウェールの街の外れ。ウェール領主の直轄地でもあるこの街は、王都オルベルに肩を並べるほど栄えている。そうしてウェール家といえば数代前には王家の姫も降嫁し、オルベルにも名を馳せる名門中の名門でもある。
ただし、この街が近隣の町村と比べて突出して豊かなのは、次元獣の襲来がないことも理由のひとつなのだと、今の俺は認識していた。事実、ウェールの街から西に進んだ先にある隣町は、町民一丸となって綿栽培から機織りまでを行う織物の町として有名な町だが、度重なる次元獣出現への対策・守備隊の雇用などで財政は破綻寸前なのだという。
「なに、セリシアが謝ることはない。織物の町でなくとも、全土にギルドはある。また次に進めばいいだけのことだ。むしろ、君の力がそれだけ得難い力だということだ、誇っていい」
「セイさん……」
セリシアは感じ入ったように目を細め、馬上の俺を横から見つめていた。
「さて、そうと決まれば進路を少し南に変えるぞ。たしか、西南に進んだ先にもギルドを有する町があったはずだ」
緩めていた馬脚を上げようと、手綱を引こうとしたその時――。
「もし! お待ちくださいませ!!」
背ろから制止の声をかけられた。
振り返ると、揃いの隊服に身を包んだ騎馬の一個隊が列を成していた。
「何用だ?」
俺の誰何に隊列の中央でリーダーと思しき男が無駄のない所作で馬から下り、俺の……いや、俺の隣のセリシアの前まで進み出た。
「突然のご無礼をお許しください。私はウェール領主付きの護衛部隊長・カエサルと申します。この度は、我が主の願いを聞き入れていただきたく、参った次第です。そちらにおわすのは、奇跡の治癒能力を持ち、真の聖女と謳われるセリシア様とお見受けいたします。どうか不治の病に苦しむ領主様の末のご子息をお助けくださいませ! 薬師らに匙を投げられ、この上は聖女様だけが頼りでございます! なにとぞ、お願いいたします!」
カエサルはセリシアに向かい、頭を下げて懇願した。
「……不治の病?」
「左様でございます! 七歳の末のご子息・マーリン様は生まれつき心臓の機能が弱く、成長と共に症状は悪化の一途を辿っております。薬師にはもういくらも生きられないだろうと言われております。しかし、マーリン様はこの瞬間も生きようと必死なのです。ご自身が切れ切れの苦しい呼吸を繰り返しているというのに、枕辺で泣き明かす両親を、逆に『大丈夫だ』と力づけておられます」
セリシアがカエサルの語った一語に反応し反復すれば、彼はさらに言葉を重ねた。
馬上のセリシアが、手綱を握る拳をギュッと握り締める。そうしてセリシアは、ゆっくりと隣の俺に首を巡らせた。
セリシアと俺の目線がぶつかる。
「セイさん……」
その眼差しの強さに、俺は彼女がみなまで言う前に大きく頷いた。
「領主の屋敷に立ち寄っていこう」
「ありがとうございます! ……カエサルさん、領主様のお屋敷に案内してください」
セリシアは俺に感謝を告げ、カエサルに向き直った。
「おお!! 領主様もお喜びになります! 聖女様、ありがとう存じます」
「あの、私のことはセリシアとお呼びください。それから、注目を集めるのは避けたく、お屋敷までできるだけ人目に付かずに移動をしたいのですが」
「承知いたしました、セリシア様。屋敷は敷地南にある果樹園と庭で繋がっております、そちらからまいりましょう。こちらでございます」
カエサルは素早く馬に跨り、俺たちの一歩前へと進み出る。
「ねぇねぇ隊長さん、領主様のお屋敷には大きなお風呂、ある?」
「はい! ここウェール領には源泉が湧いており、屋敷には専用の温泉と温水プールがございます。皆さまで使っていただけるよう、主に伝えましょう」
チナが馬上から聞けば、カエサルが答えた。
「本当!? やったぁ!」
俺たちは行き先を領主の屋敷に変更し、先導するカエサルに続いた。
……ほう、古い時代の監視塔か。
前方に仰ぎ見る領主の屋敷は重厚な石造りで、ひと目でかなりの年代物としれた。しかも屋敷の裏手には、これまたかなり年季が入った監視塔まで残っていた。
「今の時代に監視塔を残したままにしているとは珍しい」
十五年前に国家主導で領境を明確に定め、登記を行って領地とそこからの税収管理をするようになってから、近隣領との小競り合いは劇的に減った。それに伴い、近隣領の監視を目的にした通称監視塔は不要となり、取り壊す領がほとんどだった。
「……あ、いや。そうですね、たしかに少し珍しいかもしれませんね……」
なぜかカエサルは、物凄く歯切れ悪く答えた。
「さ、さぁ! こちらからお入りくださいませ!」
そうして柵で囲われた果樹園の入り口に差し掛かったのをこれ幸いというように、俺たちを中へ招き入れた。
カエサルの挙動を若干訝しみながらも、この時はさほど気にせず案内されるまま果樹園を進んでいった。
果樹の間を突っ切って屋敷の庭に出れば、玄関は目前だった。
先導していたカエサルは玄関に立つふたつの人影を認めるや、驚きの声をあげた。
「あ、あちらにおられるのが領主ご夫妻でございます」
通常、領主夫妻が自ら玄関先に立って客人を出迎えることは稀だ。そのことからも、セリシアに対する期待の大きさが窺えた。
「おお、あなたが聖女様ですな! 姿絵で拝見したとおり、なんとも神秘的な佇まいでいらっしゃる!」
姿絵などで事前に情報を得ていた領主は、手放しでセリシアを誉めそやした。
「本当に、シンコというのが信じられないほどお美しくて……いえ。聖女様は本来、ウノとして生まれるべきところ、神様の手違いでシンコとして生まれついてしまったというだけね。天はちゃんと見ていて、本来のあなたに相応しい力を開花させたのだわ!」
「そうだな! 儂も聖女様がシンコと聞いた時は大層驚きましたが、聖女様だけは既存の物差しでは測ってはならんのだ。属性すら凌駕した稀有な存在であられる!」
「え……」
興奮気味にまくし立てる夫妻の勢いに、セリシアはすっかり押されてしまっていた。
「あら、あなた。いつまでも聖女様を玄関に立たせていては失礼ですわ。まずは応接間にてウェルカムティーでひと息ついていただきませんと」
「おぉおぉ、そうじゃったな! ささっ、聖女様。どうぞお入りくださいませ。詳しい話は、そちらで」
……治療を乞う立場でありながら姦しくまくし立て、人の話をまったく聞かぬ唯我独尊の様は、まさに高位貴族といったところか。俺はやれやれと若干の呆れを滲ませて夫婦を見つめていた。
その時、セリシアの後ろに続く俺とチナに、はじめて領主が目を向けた。どうやら領主は、興奮のあまりここまで俺たちの存在に気づいていなかったらしい。
「ん? その者らは……」
胡乱気に俺の頭から舐めるように見下ろしていき、左手の甲に目を留めた瞬間、領主はビクリと肩を跳ねさせて叫んだ。
「っ!! そなた、下賤なセイスか!! 連れの小娘もシンコではないか……! なぜセイスがここにいる!? セイスの分際で儂の敷居を跨ごうなど――」
「お待ちください! こちらのセイさんとチナツちゃんは私の連れで、恩人でもあります! このふたりが屋敷に上がることを許されないのなら、私もお屋敷に上がることはできません」
「な、なんと……セイスのこの者が恩人と? それは、正気でおっしゃっているのですか……」
「もちろん正気です! 重ねてになりますが、ふたりに退去を求めるのなら、私もこの場を去らせていただきます」
凛と背筋を伸ばし、一歩も譲らずに言い放つセリシアに、領主は引き結んだ口の端をヒクヒクと震わせながらも即座に頭を下げた。
「と、とんでもない。聖女様の恩人とは露知らず、ご無礼をお許しください。もちろん、皆様ご一緒にお入りいただいてかまいません。ですので、なにとぞ聖女様には息子の治療をお願いしたく」
……ほう。頭でっかちのウノの高位貴族が、息子の治療のためとはいえ俺たちに頭を下げたか。
領主の頭頂部を見るともなしに眺めながら、ふと横に立ったカエサルがひどく落ち着かない様子で俺たちを交互に見ているのに気づき、少し不思議に思った。
……領主の行動に罪悪感でも覚えているのだろうか。護衛部隊の隊長というだけでこの家の者でもないのに、随分と義理堅いことだ。
「領主様、頭を上げてください。もちろん、息子さんの治療もさせていただきます」
「ありがとうございます!」
「それから、どうか私のことはセリシアとお呼びください」
「承知いたしました、セリシア様。で、ではどうぞ皆様、お入りくださいませ」
ひと悶着あったものの、俺とチナもセリシアに続いて屋敷に上がる。
その際、カエサルが俺の耳もとで「父が大変失礼を申しました」と低く謝罪を口にした。
……父? なにかの聞き間違えか?
先ほどの失態を取り戻そうとでもするようにセリシアの左右を固め、歓待するのに必死の領主夫妻は、後ろの俺たちなど気にも留めていなかった。
そんな領主夫妻を余所に、カエサルは聞き間違いかと訝しむ俺に苦笑して、ウェール領主一家の秘密をそっと打ち明けた。
セリシアは領主夫妻が勧めるウェルカムティーを断り、真っ直ぐに子息の元へ向かった。
そうして明るい陽光が注ぐ広い子供部屋で、セリシアは子息の枕辺に立ってスッと手のひらを翳す。
――フワァアアアアッッ!
眩いほどの光の渦が、寝台の上で苦しげに呼吸を繰り返す少年をふうわりと包み込む。
すると見る間に少年の呼吸が落ち着き、青褪めた頬にも血色が戻る。
「おお……! ずっと寝台に伏したままであったマーリンが起き上がったぞ!! ……これは、まさに奇跡だ!!」
セリシアの再生快癒に、歓声が沸き上がった。
「……あれ、僕、どうしたんだっけ。……え、お父様? 泣いているの?」
自ら身を起こしたマーリン本人は、状況に理解が追いつかない様子できょとんと首を傾げる。子供らしい声には張りが戻り、その表情にも苦痛の色は見あたらない。
大きな出窓から差し込む陽光に消えかかった光の粒子がキラキラと反射して、まるで室内は夢の中にでもいるかのように幻想的だった。
「マーリン!!」
父である領主はマーリンを胸に抱き、男泣きしていた。
母親の領主夫人も目に涙を滲ませて、夫の腕の中から困惑気味に周囲を見渡すマーリンに愛おしそうに頬を寄せる。さらに寝台から一歩分距離を置いた俺の脇では、カエサルが感じ入った様子でその様子を見つめていた。
「え? 母様に兄様まで、どうしちゃったの?」
マーリンは母親とカエサルを順に眺め、戸惑いの滲む声をあげた。
ちなみに、なぜマーリンがカエサルに対し『兄様』と呼び掛けたのか――。それはカエサルが領主の長男で、マーリンの実の兄だからだ。
いくら隊長とはいえ家臣でありながら俺たちと共に子供部屋に入室しようとするカエサルの行動を訝しむ俺に、彼自身が明かした。
彼は家臣に甘んじるこの状況について子細こそ語らなかったが、たったひと言「自分はドスですから」と寂しげに補足したのが印象的だった。
重ねてになるが、ウェールは地方領ではあるものの王家からの覚えも目出度く、広大な領は土地が豊かで、古くからヴィルファイド王国の穀倉庫との異名でも呼ばれている。そんな名門ゆえ、代々の領主は皆ウノの者が務めている。
カエサルがドスであることを理由に後継者を辞退して、護衛部隊員を志願したであろうことは瞭然だった。
個々の家庭の事情に口を出すつもりなど更々ない。しかしウノ至上主義の階級社会に対し、無意識のうちに喉元に苦いものが込み上がってしまうのは、俺自身セイスを理由にこれまで辛酸をなめ尽くしてきたからに違いない。
「あぁ、よかったわマーリン。あなたったら、見違えたように元気になって」
「本当だ! 僕、もう胸が苦しくないよ!」
マーリンは母親に告げられて初めて気付いたように、目を丸くして心臓に手をあてた。
「よかったなマーリン、ここにいるセリシア様がお前を治してくださったんだ」
カエサルがセリシアを示せば、マーリンは枕辺に立つ彼女を見上げてパチパチと目を瞬いた。
「あなたが僕を治してくれたの?」
「ええ。マーリン様が元気になってよかったわ」
「そっか、どうもありがとう!」
「どういたしまして」
ここで領主は抱擁を解くと、セリシアに向き直って深々と頭を下げた。
「セリシア殿、本当になんとお礼を申し上げたらよいか。息子共々、心より感謝申し上げます。また此度の謝礼につきましては侍従に申し伝え、客間の方に運ばせて――」
「い、いえ。治療に対して金品の一切は不要です。領主様のお気持ちだけ、頂戴させていただきます」
「そんな。どの薬師にも匙を投げられ、儚くなるのを待つしかなかったマーリンを治していただいたのです。なんの礼もせずにお返しするなど、それこそ私どもの気が済みません!」
「……でしたら、今宵ひと晩の宿泊をお願いしてもよろしいですか? それから、領主様が屋敷内に造らせたという温泉を使わせていただけたら嬉しいです」
セリシアは領主の勢いにたじたじになりながらも、ふと思い出したように先ほどチナが口にしていた要望を伝えた。
「そんなのはお安い御用です! 客間を用意しますので、温泉も皆様方で自由にお使いください」
「えー、いいなぁ。僕も一緒に入りたいたいよ」
すっかり回復したマーリンは、無邪気に訴えた。
「これマーリン! 恩人のセリシア殿に無礼を言うんじゃない!」
領主が息子を窘めるのを、セリシアがそっと制す。
「いえ。よかったらマーリン様も一緒に入りましょう。みんなで入った方が絶対に楽しいわ」
「やったぁ! ありがとう、……ええっと、セリシアお姉ちゃん!」
「まぁっ、ふふっ。マーリン様に『お姉ちゃん』と呼んでいただけるなんて光栄です」
マーリンはセリシアに満面の笑みを向ける。
「ちょっとちょっと! セリシアお姉ちゃんのことは『お姉ちゃん』って呼んでもいいけど、お兄ちゃんのことは『お兄ちゃん』って呼んじゃダメなんだからね!」
「え?」
突然のチナの言葉にマーリンは、ポカンとした顔をしていた。
「こら、チナ」
俺が苦笑してチナの頭をクシャクシャと撫でれば、チナは見せ付けるようにその腕にキュッと抱きつく。子供らしい独占欲を前面にするチナに対し、同席していた領主夫妻が不服の声をあげることはなかった。
ふたりの関心はチナの小さな無礼よりなにより、病床に伏していたのが嘘のように精気溢れるマーリンただひとりに注がれているようだった。ただし、それは領主夫妻に限ったことではなく、子供部屋に集った皆の顔に微笑みが浮かんでいた。マーリンだけは、いまだ「よく分からない」という顔をしていたが。
俺たちは、カエサルの案内で客間へ向かう廊下を進んでいた。
堅牢な石組みの建築は決して華美ではないが、なんともいえぬ趣があった。言うなれば、それは先祖代々繋いできた歴史の重みということになるのだろう。
代々この領と領主館を守り繋いできた古人の息吹が感じられるようだった。
「この屋敷は随分と古い時代の物のようだな」
俺は重厚な造りの廊下をぐるりと見回しながら、カエサルに水を向けた。
「ええ。増改築を繰り返しておりますが、屋敷の基幹の部分は千年も前に建造されているそうです。古くからある部分は水回りなどで不便な点も多いのですが、それもまたこの家の歴史と思いうまく付き合っております。……あ、皆様にお入りいただく温泉についてはご安心ください! あれは祖父の代に造ったものですので、状態もよく使い勝手もよくなっております」
「ははは、それはありがたいな。……ところで、先ほど果樹園から見た監視塔。あれも千年とはいかないまでもかなり古いのだろう? 素人の俺が言うのは心苦しいのだが、若干傾斜しているようにも見えた。あれは取り壊しておいた方が安全かもしれん。今はもう誰も使っていないのだろう?」
俺が『監視塔』の一語を口にした瞬間、カエサルの表情が目に見えて強張ったのが分かった。
「先ほども思ったのだが、もしかしてあの監視塔にはなにかあるのか?」
「……セイ様、あなた方一行にだから打ち明けます。俺の話を聞いていただけますか」
折よく、俺たちが一夜を過ごす客間の扉の前に到着したところだった。
「もちろんだ。続きは中で聞かせてもらおう」
俺たちは客間の手前にある応接セットに腰を下ろした。俺を真ん中にして長ソファの左右にチナとセリシアが座り、小さな卓を挟んだ向かいのソファにはカエサルがひとりで座った。
「俺は先ほど、『この家の長男で、マーリンの兄だ』と言いましたね」
カエサルは膝の上で緩く手を組んで、重く口を開いた。
「ああ。そうだったな」
「けれど、俺にはもうひとり『きょうだい』がいるのです。そして、その『きょうだい』――もうじき十六歳になる妹はあの監視塔でひとり家族や使用人たちからも隠れるように暮らしています」
俺が予想外の切り出し方を怪訝に感じつつ同意すれば、カエサルはさらに衝撃的な事実を告げた。
あの監視塔に人が暮らしているのか!? しかも、カエサルの妹ならば領主の姫君。古びれて傾きかけたあの塔で、うら若い姫君がひとりで暮らしているとは、到底信じられなかった。
「どうしてそんな事態になっている? ……率直に聞くが、それは本人の意思に反した監禁などではないのだろうな?」
「この決定をしたのは父ですが、妹のアルテミア自身、塔での暮らしを了承しています。それに、衣食をはじめ妹の身の回りは不足なく整えられていますので、一般的な意味での『監禁』には当たらないかと」
カエサルは一旦言葉を区切ると、しばしの間を置いて再び唇を開いた。
「ですが、俺自身ドスを理由に後継者を辞退した身です。領主の娘でありながらシンコとして生まれたアルテミアは、両親が嘆き悲しみ、そして世間の目からなんとかしてその存在を隠そうと躍起になっている姿を幼少期から見てきています。父から『塔に移れ』と言われれてしまえば、あの子に反論の選択肢がないのは分かりきっています」
「お姫様はシンコなの!? じゃあ、私やセリシアお姉ちゃんと同じよ!」
チナは、お姫様との共通点に喜びの声をあげた。
「セリシア様は尊き治癒の力を、チナツ様とてその年齢で凄腕の冒険者であるセイ様の右腕なのだと聞き及んでおります。市井でお力を発揮しておられるおふた方とアルテミアを同列には語れません。そもそも、アルテミアにはそのような力はございませんし……」
「えー? 同じシンコなのに……」
カエサルの答えに、チナは分からないというようにコテンと首を傾げていた。しかし、俺にはカエサルの言わんとしていることがよく理解できた。
カエサルが口にした『市井』という単語から始まる下り……。それは暗に『貴族社会では、事はそう簡単ではない』と示しているのだ。
ウノを頂点とした階級ピラミッドは国内外に広く浸透しているが、貴族社会において一層顕著だ。ドスのカエサルですら後継者を辞退した状況からも分かるように、ヴィルファイド王国の上位貴族はほぼウノで占められており、ドス以下の者が貴族当主となれば社交界での嘲笑や冷遇は避けられない。
そんな魔力数の階級至上が浸透しきった貴族社会にシンコとして生まれたアルテミアは、チナやセリシアの比ではない肩身の狭さであったろう。
俺は納得いかない様子のチナの頭をポンポンッと撫でて慰めると、真っ直ぐにカエサルを見据えた。
「俺にそれを告げながら、君は『監禁ではない』という。ならば、俺に助けを求めるのもおかしな話。……君は、俺になにを望む?」
「実は、俺自身どうするのが正解なのか分からないのです。ただひとつ、アルテミアは『自分はシンコだから』と幼少期から全てを諦め、受け入れてきました。来月、十六歳の誕生日を迎えたら、あの子は四十も年の離れた下級貴族に後妻として嫁ぐことが決まっています。もちろん、アルテミア自身も了承した結婚話です。ですが、いくらまともな縁談がないからといって、父よりも年上の男に望んで嫁ぎたい娘がいるでしょうか」
これには、幼いチナよりもセリシアが大きく反応した。声こそ出さなかったが、彼女は眉間に深く皺を刻み、堪えるように膝の上で両手をきつく握り締めた。
「アルテミアが望めば、俺は両親に破門されたっていい。なんとしたって、この縁談を破談にしてみせます。……ですが、俺が何度尋ねてもあの子は、決して心の内を明かしません。『私には若さしかないのだから、もらってくれる人がいるうちに』などと冗談混じりに笑っていますが、そんなのはこの家に残ることで将来領主を継ぐマーリンの負担になることを恐れての発言だと分かりきっています。なんとなくですが、あなた方にならアルテミアは心を開くのではないかと、そんな気がしています。現時点で俺が望むのは、あの子と腹を割って話をしてもらいたいと、この一点です。その上でアルテミアがどんな結論を下すのか、それはあの子次第です」
真っ直ぐに俺を見返して、カエサルはこんなふうに締めくくった。
……正直な男だ。
「塔に鍵などは?」
カエサルはこの質問に、首を横に振る。
「そうか。すぐに向かいたいところだが……」
「でも、領主様がお茶とお菓子を客間に運ばせるって言ってたよ!」
チナがニコニコと訴える。その目は期待感にキラキラと輝いており、思わず苦笑が浮かぶ。
とはいえ、たしかに俺たちが到着早々、客間を不在にしたとあっては大ごとになってしまうか……。
「急を要するものではありませんから、どうかまずはお茶で一服されてください。それに今はまだ日も高く、人目にもつきやすいですし」
「なるほど。では、夕刻あたりに折を見て訪ねてみよう。案内はいらん、場所は分かっているから俺たちだけで十分だ。あまり大人数で動いても、目立つだろうからな」
「お気遣い、感謝いたします」
――コンッ、コンッ。
カエサルが俺たちに深々と頭を下げて席を立つのと同時に、扉が外から叩かれた。彼と入れ替わるように茶道具一式を手にした使用人たちが入室し、卓に香り立つ紅色の紅茶と溢れんばかりの菓子を並べはじめた。
給仕を断った三人だけの茶会は、肩肘張らない楽しいものだった。
俺たちは紅茶と多種多様な菓子に舌鼓を打ちながら、久しぶりに寛いだ時間を満喫した。
そうして卓の上の皿が粗方空になり窓の外を一瞥した俺は、カップに残っていた最後のひと口を飲み干すと、カップをトンッとソーサーに置いた。
「さて、そろそろ行ってみるか」
「うん」
「はい」
俺がスッと腰を浮かせれば、チナとセリシアも揃ってカップを置いて席を立った。
アルテミアの居住スペースは、気が遠くなるくらい階段を上って辿り着いた塔の最上階のフロアが丸々あてられていた。カエサルの言葉通り古びてはいたが、年頃の娘が好みそうな調度で整えられていて、居心地はよさそうだった。元来監視を目的として建てられただけあって、円錐形の塔内360度ぐるりと等間隔に窓が設えられており、眼下の景色が一望できるのもよかった。もちろん、自ら望んでここで暮らしたいのかと聞かれれば、それはまったくの別問題だが。
そして初対面したアルテミアは、何故か、俺たちの突然の訪問に驚かなかった。
「まるでわたしたちが来るのが分かっていたみたい!」
「そうよ。私は自由にここを出るわけにはいかないから、見下ろす景色が全て。あなたたちがやって来ることは、窓から見て知っていたもの」
薄っすら微笑みを浮かべてこう口にするアルテミアは、流れるような銀の髪に新緑を思わせる鮮やかなグリーンの瞳が印象的な美しい少女だ。しかし、その美しさは大輪に咲き誇った花のようなそれではなく、蕾を思わせる楚々とした美しさ。初々しいこの少女が、来月には還暦も近い男の妻になる現実は、生理的に受け入れ難かった。
「この塔に家族と使用人以外の人が訪ねてきたのは初めてよ、嬉しいわ!」
さらに、外部との接触を極限まで避けて過ごしてきたからか、高位貴族の姫君にしては言動が率直というか……やや優美さに欠く印象を受けた。
「改めてアルテミア姫、突然訪ねてきた無礼をお許しください。俺はセイ、冒険者を生業として次元獣を倒しながら各地を旅しています」
「わたしはチナツです」
「セリシアと申します」
「あら、だったらあなたたちは領の外のことをいっぱい知っているのね。よかったら、私に自由な外の世界のことを色々教えてくださいな。もちろん、あなたたち自身についても。……あ、私のことはアルテミアとだけ呼んでちょうだい。姫だなんて呼ばれると落ち着かなくていけないもの。それから、畏まった態度も不要よ。この塔内にあっては、まどろっこしいだけだもの」
アルテミアに招き入れられ、俺たちはフロアの一角に設えられた毛足の長い絨毯が敷かれたスペースに直接腰を下ろした。
「ほぅ。東方の国ならいざしらず、この国でこんなふうに床に直接座って寛ぐというのは珍しいな」
「いいでしょう? 書物を読むことも、私の日々の慰めなのよ。東方の国の生活習慣について書かれた本を見て、いいなって思ったの。屋敷でやったらお行儀が悪いって批判されてしまいそうだけれど、ここは私だけのお城だもの。私がしたいように自由にするのよ」
……果たして、彼女は気づいているのだろうか。ここまでに、三度も『自由』という単語を口にしていることに。
「そうねぇ、まずはあなたたちがこれまで旅してきた場所とそこであった出来事を教えてちょうだい。ここに地図があるわ!」
アルテミアが広げた大判の地図を四人で囲む。俺はこれまで旅してきた場所を指差して、その土地であったこと掻い摘んで説明していく。
俺の話にアルテミアだけでなく、チナとセリシアも目を輝かせて聞き入った。
「――そうしてグルンガ地方教会を出て、ここに至るというわけだ」
「なんて素敵なのかしら。私も鳥のように大空を羽ばたいて、自由にいろんなところに行ってみたいわ」
俺が地図を辿り、最後にトンッとウェール領を示したら、アルテミアは胸の前で両手を組んで窓の外に目線を向け、ホゥッと熱い吐息を零す。
「ならば、自由に行きたいところに行けばいい」
「え?」
「鳥のようにというのは無理かもしれん。だが、君は自分の足で行きたいところに行ける。さっき『見下ろす景色が全て』と言ったな? それは、君自身がそう錯覚してしまっているだけだ。君の世界は、この塔の外にだって無限に広がっている」
俺の言葉が余程に予想外だったのか、アルテミアはパチパチと目を瞬いて俺を見つめていた。
「……不思議ね。あなたが言うと、まるで自分が自由なのだと、本当にそんなふうに思えてくるわ」
「おかしなことを。事実、君は自由だ」
アルテミアは眩しい物でも見るように目を細くした。けれど次の瞬間には、スッと瞼を閉じてしまう。
再び瞼を開けた時、彼女の瞳から先ほどまでの煌きはなくなっていた。諦めることに慣れてしまった、寂しい目だと思った。
「ねぇセイさん、あなたはひとつ根本的な部分を見落としている。私はシンコなのよ。シンコの私に自由などないわ」
ゆっくりと開かれた唇から紡がれる台詞も、それを口にする能面のような彼女の表情も全てを諦観しているかのようだった。
シンコだからと諦め、端から期待しないことで、アルテミアは十五年間心を守ってきたのだろう。それをポッと出て来た俺が、どんなに言ったところで彼女には響かない。
そうして彼女が己の意志で考えを改めようとしない限り、虚構の檻に囚われたまま本当の意味での自由はない。
……さて、どうしたものか。
「どうして!? わたしとセリシアお姉ちゃんもシンコだし、お兄ちゃんはセイスよ。だけど、わたしたちは三人で自由に旅をしているよ?」
「今、セイさんが言っていたじゃない。チナツちゃんは錬金術を身に着けたって。セリシアさんは再生快癒、そしてセイさんは次元操作。なんの力も持たない私と、チナツちゃんたち三人を同列に語るのはおかしいわ」
「っ、そんなことない! アルテミアお姉ちゃんの馬鹿! 分からずや!」
チナは叫ぶと、あろうことか小さな拳でポカポカとアルテミアの膝を叩きだす。
「お、おい! チナ、いい加減にしないか」
チナのまさかの行動にギョッとして、慌てて小さな肩を掴んで止める。
「……いいえ、セイさん。叩くという行動はともかく、私も今回はチナツちゃんの言い分に賛成です」
なっ!? セリシアからチナを擁護する声があがったことにも、驚きが隠せない。
「アルテミアさん、私も両親の死後は寄る辺もなく、ずっと『シンコだから仕方ないのだ』と自分に言い聞かせて堪え忍んできました。ですから、あなたの思いはよく分かります。けれど、私に言わせればそんなのは甘えです!」
「待ってちょうだい! 今のはさすがに聞き捨てならないわ。どうして初対面のあなたにそこまで言われなくてはならないの!?」
ピシャリと言い放つセリシアに、アルテミアも憤慨を隠さなかった。塔内に半ば軟禁のような形で暮らしているとはいえ、そこは領主の姫。彼女に対し、こうも率直に物を言う者などいないのだろう。
「そんなの、アルテミアお姉ちゃんが分からないことばっかり言うからじゃない!」
「お黙りなさい!」
輪になって火花を燃やす三人は、今にも取っ組み合いの喧嘩を始めそうな勢いだ。三人の様相にハラハラしながら、俺はこの場を穏便に取り持つべく声をあげる。
「おい、三人ともいい加減にしないか」
「「「セイさん(お兄ちゃん)は黙っていて!」」」
まさか、三人はギロリと俺を睨みつけ、声を揃えた。
良かれと思っての行動に返ってきた三人からの予想外の反応に、俺は衝撃で岩のように固まった。
その間も三人は矢継ぎ早に言葉の応酬を続けていたが、動揺冷めやらぬ俺に内容の仔細まで把握する余裕はなかった。
「アルテミアさんの頑固者! あなたが分かってくださるまで、絶対に引きません。いつまでだってここにいて、何度だって繰り返します!」
「わたしも!」
「どうぞご自由に。幸い、ここはスペースだけは広くありますもの。好きなだけ、滞在していただいて構いませんわ」
俺の存在など無いもののように、三人は互いに顔を突き合わせ激しい舌戦を繰り広げる。
俺はただただ圧倒され、そんな三人の様子を呆けたように眺めていた。
「では、そうさせていただきます!」
突然、セリシアが俺を仰ぎ見る。
……なんだ? 決着(?)がついたのか?
なんとか内心の動揺を治め、セリシアを見返して目線で先を促す。
「セイさん! そういうことですので、私とチナツちゃんは今晩ここに泊まらせていただきます!」
「……あ、あぁ。分かった」
俺は二、三度瞬きを繰り返した後、こんなふうに間が抜けた返事をするのが精一杯だった。
「そうと決まれば、下から毛布を持ってこなくっちゃ!」
「チナツちゃん、毛布は必要ありませんわ」
意気揚々と声をあげるチナに、アルテミアが待ったをかける。
「……ほら、ここには寝具の替えも多く置いてあるの」
スッと立ち上がったアルテミアが、フロアの端に設置された大きな収納棚を開ければ、中には寝具やリネン類が潤沢に収納されていた。
「これを敷いて、今夜は三人で並んで寝ましょう」
「わぁーい!」
「まぁ、素敵。しかもここなら、きっと満天の星々が見られるのでは?」
「ええ! ここは色々窮屈で不便だけど、景観だけは他に負けないわ。もちろん、星々が煌く空はその筆頭よ」
なにがどうしてこうなったのかは分からない。しかし、一発触発の様相が嘘のように、今は三人が満面の笑みを浮かべて楽しそうにしていた。
その後、俺たちは一旦塔を下り、領主らと夕食を共にした。
夕食を終えて客間に戻ると、チナは嬉々として寝間着などを纏めはじめた。
「なぁチナ、本当に行くのか?」
小さな背中に問いかける。
「もちろん! セリシアお姉ちゃんとアルテミアお姉ちゃんと約束したんだから!」
「……だが、ちゃんと眠れるのか? 寂しくはないか?」
これまで幼いチナは、宿屋でも野宿でも常に俺の傍らで眠りについていた。その彼女が、果たして俺の目の届かぬ場所で眠れるのか……。
「えー? 変なお兄ちゃん、もちろんよ……あっ、分かったー!」
心配で仕方なくついつい質問を重ねてしまう俺に、振り返ったチナは怪訝そうに答え、途中でなにかに気づいたみたいに叫んだ。
「わたしがいないと、お兄ちゃんが寂しくって寝られないのね? そうなんでしょう!?」
なっ!? まさか、こんな解釈をされようとは思ってもみなかった俺は、咄嗟に言葉が出なかった。
すると、その様子になにを思ったか、ニコニコ顔のチナが荷物を纏める手をとめて、トコトコと俺の元にやって来る。
チナの「屈んで」のジェスチャーを受け、俺が腰を低く落とせば、彼女がキュッと俺に抱き付いた。
「ふふふっ。お兄ちゃん、ひと晩だけのことよ。いい子だから、今夜だけ我慢してねんねして」
チナはいつも俺がするように、小さな手を俺の頭にのせると、ナデナデと往復させた。
「それから、これは特別よ。パパとママがしてくれた、よく眠れるおまじないよ」
――チュッ。
ふんわりとした温もりが、額に落ちる。
幼い心遣いが胸にじんわりと染みていく。同時に、彼女の言い分もなまじ間違いではないのだと気づかされる。
……どうやら俺こそが、チナの健やかな寝息を聞きながら眠りにつくことに馴染みきっていたのかもしれんな。
「ありがとう、チナ。おまじないのおかげで、ひとりでも眠れそうだ」
俺の答えにチナは満足気に微笑んだ。
――コン、コン。
「チナツちゃん、準備できたかしら?」
直後、セリシアがチナを迎えにやって来た。
「あ、セリシアお姉ちゃん! 今行く!」
チナは元気よく飛び出して、セリシアと足取り軽く塔へと向かっていく。
俺もふたりの後ろに続き、最上階を目指して上っていくふたりの姿を階段の下から見送った。
「おやすみなさいお兄ちゃん!」
「セイさん、おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ。三人ではしゃぎするなよ」
「はーい!」
喉元まで「俺も護衛として同行する」と出かかったが、男が女子会に押しかける無粋を自覚して、呑み込んだ。
なにより護衛部隊が隈なく領内の守りを固めているのだから、俺が護衛を買って出るというのもおかしな話だ。カエサルたち護衛隊員にも失礼にあたる。
結局、反響するふたりの足音が聞こえなくなってから、俺はひとり屋敷へと取って返した。
長い夜が明け、翌朝。
俺は早々と塔の階段下に向かい、チナとセリシアが下りてくるのを待った。ところが、ふたりはなかなか下りてこない。
……いかん。そろそろ戻らんと、領主夫妻との朝食に間に合わんな。
その時、階段を下る足音が聞こえてきて、ホッと胸を撫で下ろす。いくらもせず、チナとセリシアが姿を見せた。
「お兄ちゃん! 昨日ね、アルテミアお姉ちゃんがふわふわーって飛んでたの!!」
階段を駆け下りてきたチナが、俺を見るや口にした第一声に、思わず頬が緩む。
「そうか。ずいぶんといい夢を見たな。ゆっくり休めたようでなによりだ」
「セイさん、違うんです!」
チナばかりでなく、セリシアまでもが朝の挨拶もなしに、勢い込んで告げる。
「違うとは?」
「私もこの目で見ました。アルテミアさんは、本当に宙に浮き上がっていたんです!」
「なんだって!?」
「アルテミアお姉ちゃん、ふわふわーって、ぷかぷかーって、とにかく、すっごいの!!」
チナは、興奮に目を丸くして語る。
セリシアもそれに、いまだ興奮冷めやらぬ様子でうんうんと頷いた。
風属性のウノならば、物体の浮遊をなせる者は多い。自身の跳躍に、風魔力で推進力を加えることも可能だ。とはいえ、自身が長時間宙に浮かんでいられるほどの力を持つ者はいない。
「アルテミアはどのように浮遊をなしていた?」
俺はできるだけ冷静に、アルテミアが飛んでいたという状況について尋ねる。
「どのようにもなにも、眠りに落ちてすぐに、ふわりと体が浮いたかと思えば、ゆらゆらと気持ち良さそうに室内を漂って。そのまま明け方近くまで飛んでから、何事もなかったかのように同じ場所に下りてきたんです。ほんとうに驚いてしまいました」
「アルテミアには尋ねたか? 彼女自身は、それについてなんと言っている」
「朝一番で尋ねたのですが、笑いとばされました。どうやらアルテミアさんは、夢の中の出来事だと思っているようで、自身が実際に飛んでいる自覚はないようなんです」
「お布団をひらひらはためかせてね、とっても気持ち良さそうだった!」
……布団を?
「アルテミアは布団を掛けたまま飛んでいたのか?」
「うん! 掛けてた毛布もなんだけど、敷いてた毛布まで一緒にぷかぷか~ってしてた!」
チナの答えは、大きな衝撃をもたらした。
……なんということだ。
アルテミアは自身が飛んでいただけではなかった。触れているものごと一緒に浮遊させていたならば、それは彼女が重力を操作しているということだ。
ゴクリとひとつ、喉を鳴らす。
彼女が行っているのは新魔創生――重力制御だ。
無意識下で新魔創生を成し遂げる者がいようとは、これまで露ほどにも考えたことがない。だが、アルテミアはそれを実際にやってしまったのだ。
「お兄ちゃん? どうかした?」
「いや、なんでもない」
内心の動揺をなんとか抑え、やっとのことで返した。
……重力制御。
俺たちは遠からず教会組織……デラ一味と相対することになるだろう。その時に、アルテミアに重力制御の能力で援護をしてもらえたら、どんなにか心強いことか。
率直に言えば、喉から手が出るほど欲しい能力だ。
「ところで、ふたりが泊まり込むに至った当初の目的の方はどうなった?」
「……それは、駄目だった。アルテミアお姉ちゃん、どんなに言ったって『お嫁に行く』の一点張りなの」
「婚姻に関し、アルテミアさんの決意は固く……。アルテミアさんは『理由はどうあれ、先方は私を望んでくださってる。そこで、幸せになれるように努力する』とおっしゃって、最後まで譲りませんでした」
アルテミアの結婚相手は、前妻が生んだ子供が幾人もいる高齢の貴族男性だという。既に後継者も決定しており、後妻には子供を産ませる必要がない。だから後妻には、属性数に関係なく、若く美しい女を望む。
俺に言わせれば、相手の男は傲慢以外の何ものでもなく、碌でもない政略結婚だ。しかし、それを決めるのは俺ではない。
アルテミアがこの結婚に、幸せな夫婦関係を望み、嫁ごうとしているのならそれを止める権利はない。事実、政略による結婚だろうが年の差や身分差があろうが、円満な夫婦は世に多くいる。
「そうか。ならばこの後、朝食の席でカエサルに会ったら『アルテミアの結婚の意思は固い』とそう伝えよう」
「え!? お兄ちゃん、アルテミアお姉ちゃんを説得しに行かないの!?」
「セイさん、たしか浮遊は風属性のウノでもなかなかなせない技ですよね!? セイさんから改めて浮遊の事実を伝えたら、アルテミアさん自身、自分の能力の可能性に気付き、結婚について考え直してくださるかもしれません!」
「まず、説得ならばチナとセリシアがもう十分にしただろう? それでもアルテミアの結婚への意思は固く、覆すには至らなかった。決意がそこまで固まっているのだから、これ以上俺が彼女に伝えるべき言葉はない。次に浮遊の一件は、アルテミア自身自覚していない能力だ。それについて他人が土足で踏み入り、強引に自覚を促す必要があるとは思えない。なにより彼女の能力と結婚は、切り離して考えるべきだ」
俺の言葉に、チナとセリシアは眉間にクッキリと皺を寄せ、互いに顔を見合った。
「それは……」
「ふたりがアルテミアを心配しているのはよく分かる。アルテミアにも、ふたりの思いはきっと伝わっている。だが、後はアルテミアが決めることだ。……さぁ、これ以上は領主夫妻を待たせてしまう。一旦、朝食に向かおう」
ふたりは不満そうではあったが、理に適った俺の主張に反論できず、唇を引き結んだ。
俺はチナとセリシアを伴い、足早に屋敷に向かう。ふたりは、とぼとぼと重たい足取りで俺に続いた。
「……今は行かんが、出発前にもう一度彼女の元を訪ねよう。煮詰まった物事などが、少し時間を置くと予想外の展望をみることは多いからな」
「「!!」」
途中で俺がポツリと零せば、チナとセリシアは揃って表情を明るくする。その足取りも、一気に軽くなっていた。
朝食を終え、客間に戻って身支度を整えた俺たちは、玄関先で領主夫妻の見送りを受けていた。
「セリシア様、もっと長く当家に滞在してくださればよろしいのに」
「そうですわ。それに昨夜は、結局、温泉にも浸かっていただけなかったようですし。やはり今晩もう一泊して、ゆっくり温泉に浸かって行かれては?」
ふたりの横にはすっかり元気になったマーリンもいて、夫人の言葉にうんうんと頷きながら、セリシアの滞在を熱望するように見つめていた。
「いえ。マーリン様もすっかり回復しておりますし、長く一所にいて噂が広まってしまっては先の移動に差し障りますから。私たちはこれでお暇させていただきます。温泉はまたの機会に」
セリシアは領主夫妻からの再三の誘いを丁寧に辞した。
「そうですか。それは残念だ」
「どうか近方にお越しの際は、必ず当家にお立ち寄りくださいませ。お待ちしておりますわ」
「ありがとうございます」
ここでマーリンが、セリシアに向かってトンッと一歩踏み出した。
「セリシアお姉ちゃん、約束だよ! それで、その時は絶対一緒に温泉に入ろうね!」
「え、ええ。今回は、一緒に温泉に入れなくてごめんなさい。次にお屋敷に寄らせてもらった時は、一緒に入りましょうね」
マーリンの『約束』に、セリシアは一瞬だけ困惑の色を滲ませ、すぐに微笑んで答えた。
「では、セリシア様、セイ様、チナツ様。街道までお送りさせていただきます」
俺たちは訪れた時と同じように、カエサルたち護衛隊員と共に屋敷を後にした。
しばらく経ったところで、前を行くカエサルに訴える。
「すまんが、最後に監視塔に立ち寄らせてくれ。アルテミアにひと言別れを告げたい」
「承知しました」
カエサルには既に、アルテミアの結婚への意思が固いことを伝えてあった。彼はたったひと言「そうでしたか」とだけ答え、静かに頭を下げた。
カエサルらに馬を預け、塔には俺たちだけで上った。
「チナ、俺におぶされ」
「わーい。やったぁ」
最初に上った時のように、長い階段の途中で疲れを見せ始めたチナを背負った。
「……昨日の夜はひとりで大変だったろう?」
「ううん! 楽ちんだった」
ふと思い至って俺が尋ねれば、チナは軽い調子で答えた。
「もしかして、セリシアに背負ってもらったか?」
「違うよ~」
首を傾げる俺に、セリシアが横から声をあげる。
「実は、途中でチナツちゃんの足の疲れを回復させました。その時に細胞を活性化させたら、その後は疲れ知らずのようで。私自身、これは新発見でした」
「なんと!? 事前に施しておくことで疲れにくい体をつくったか!」
「ええ。結果的にではありますが、そうなります」
「セリシアお姉ちゃんってば、すごーい!」
これは、再生快癒の応用のようなもの。俺の背中で声を弾ませるチナにしても、錬金術をますます進化させている。ふたりの能力はどんどん磨かれており、これには俺も舌を巻かずにはいられなかった。
――コン、コンッ。
そうこうしているうちに階段を上りきり、最上階のフロアに続く扉を叩く。
「セイとチナツ、セリシアだ。出発前の挨拶に寄らせてもらった」
「はーい」
俺が名乗ると、すぐにアルテミアがパタパタと駆け寄ってきて、自ら扉を開けた。
「こんな塔の上にまで出立の挨拶に寄ってくれるなんて、本当に律儀なんだから」
俺たちの訪問に、扉から顔を覗かせたアルテミアは嬉しそうだった。
「俺たちは君に挨拶もせず行ってしまうほど不義理ではないぞ」
「まぁ、ふふふっ。本当言うとね、セリシアさんとチナツちゃんは、私が結婚するって言い張ったから気を悪くしちゃったかなって。正直、不安に思っていたの。こうして、最後にまた会いに来てくれて嬉しいわ」
「えー、なにそれ!? そんなことあるわけないよ!」
「そうです! 結婚のお話とアルテミアさんと私たちの友好は、まったく別の問題です! そんなふうに思われていたとは心外です」
チナに続き、セリシアも不満を隠そうとしなかった。
「い、いえ。誤解しないで! 決して、ふたりのことを疑っていたわけではないのよ!」
アルテミアはそれに慌てた様子で言い募る。
どうやら三人は、昨夜、俺のいぬ間に固い友好の絆を結んでいたらしい。この絆は、きっとアルテミアが嫁いだ後も絶えずに繋がっていくのだろうと、微笑ましい思いで見つめていた。
――ドガーンッ! ガッシャーンッ!!
なんだ!? ドーンと突き上げるような衝撃と共になにかが倒壊したような音が響き渡る。高さのある塔は、地震の時みたいに大きく揺れた。
「きゃあっ!」
「チナツちゃん、掴まって!」
「な、なにが起こっているの!?」
手を取り合って揺れを堪えるチナたち三人を横目に、俺は窓に向かって駆け出す。
――うわぁあああっ!! ――キャアアーッ!!
俺が窓から眼下を覗くのと、人々の悲鳴が方々からあがるのは同時だった。
「まさか、何故次元獣がここにいる!?」
階下の光景を認めた瞬間、カッと目を見開いて叫んでいた。
ザッと見で、次元獣は四体。しかも四体全てが中型から大型の抜きんでた攻撃力を持つ強力な個体だ。
「なんですって!? 次元獣が!?」
アルテミアはチナとセリシアと繋いでいた手を解いて、いまだ揺れの治まらない中を走って俺の横までやって来る。
ウェール領主は王家とも所縁ある高位貴族で、加護を持つ他町村よりも手厚く守られているはずだ。そんな領に、何故複数体の次元獣が現れる!?
「……まずいな。この領は次元獣への備えも、応戦する人員もいない。このままでは、領が壊滅してしまう」
加護を過信していたことが、今は裏目に出ていた。次元獣に瘴気をぶつけられたところから、家屋がなす術なく倒壊していく。それに巻き込まれた人々の痛ましい悲鳴も響き渡っていた。
「あぁ、嘘でしょう。街が……、街の人たちが……。私はいったいどうしたら……っ」
横に立って窓下を見下ろしていたアルテミアが震える唇で声にして、ガクリと力なく頽れる。
俺はアルテミアが床に倒れる前に腕をしっかりと掴み、彼女と目線を合わせる。
「ここは君を塔に閉じ込めている両親が治める領だぞ。さらに君は他所へ嫁いで行く身だ。それでもこの領を、領民を助けたいか?」
「当たり前よ! 両親のこととか嫁いで出ていくからとか、そんなのは関係ない、ここは私の生まれ育った大切な故郷よ! 助けたいに決まっているじゃないの!!」
試すような俺の物言いにアルテミアは不快感を滲ませ、語気を強めて叫んだ。
「ならばアルテミア、ここから飛んで助けに行くぞ」
「え、セイさんはそんなことができるの!? ならばどうか、どうか領を助けてください!!」
アルテミアは先ほどとは一転し、期待の篭もった目を俺に向け、懇願した。
「いいや。飛ぶのは君だ」
「っ、馬鹿言わないで!? どうして私が飛べると思うの!? ……もういいわ! あなたを頼ろうとしたのが間違いだっ――」
「聞くんだ!!」
掴んだままの俺の手を振り払おうとしながら喚き散らすアルテミアに、俺は声を大きくし一喝した。
「アルテミア、君は今朝チナとセリシアのふたりから聞いたはずだ。眠りながら宙に浮き上がっていたと」
アルテミアは思い出したようにハッとした表情をした。
「で、でも! あれは……」
「あれはなんだと言うんだ? 君は無意識のうちにシンコの五つの魔力を掛け合わせ、新しい魔力を生み出しているんだ。君が開花させた能力は、重力制御。君自身と、君が触れた物の重力をゼロにできる。その能力で、俺たちと一緒に浮いてくれ!」
「本当に、そんな能力が私に……?」
アルテミアは信じられないといった様子で、忙しなく瞬きを繰り返す。
「なぁアルテミア、俺の言葉が信じられなくても、友となったふたりの言葉なら信じられるのではないか。ふたりは君に嘘を吐いて物笑いのネタにするような人物なのか?」
「いいえ! チナツちゃんとセリシアさんはそんなことしない!」
アルテミアは断言し、チナとセリシアを振り返る。
「アルテミアお姉ちゃん! わたしが断言するわ。アルテミアお姉ちゃんは、大空だって自由に飛べる!」
「ええ! アルテミアさん、あなたはたしかに飛んでいました。私もこの目でしっかりと見ています。だからどうか、自信を持って!」
「チナツちゃん、セリシアさん……。だけど私、飛んでいる体感がないの。あるのは、気持ちよく飛んでいる夢の残像だけ。どうやって飛んだらいいかも分からないのよ……」
「大丈夫だアルテミア! 俺の言う通りにするんだ」
今は一刻すらも惜しまれた。言うが早いか、俺はアルテミアを横抱きにした。
「きゃっ」
「夢で飛んでいる時と同じだ。目を瞑り、その時の気持ちを思い出すんだ」
アルテミアは疑心暗鬼なふうではあったが、俺の指示通り瞼を閉じた。直後、体から重みが消え、俺の足がふわりと宙に浮き上がる。
「「「飛べているぞ(わ)!」」」
俺とチナ、セリシアは声を揃えた。
「本当!?」
「っ!」
ところが、アルテミアがパチッと目を開いた瞬間、体に重力がかかり足は床に逆戻りした。
「……あら?」
「よし、今はこれで上出来だ! 細かな訓練は次元獣を片付けてからだ! アルテミア、推進力は俺が担う。君はひとまず目を瞑って、空を飛ぶ想像だけしていろ!」
「え? ええ!」
アルテミアが再びキュッと瞼を閉じるのを確認し、後ろのチナとセリシアに指示を出す。
「チナは俺の肩に乗るんだ! セリシアは俺の腰に掴まれ! このまま窓から行くぞ!!」
「うんっ!」
「は、はい!」
ふたりがしっかりと俺に掴まるのと同時に、ふわりと体が浮き上がった。俺たちは大窓から飛び出した。
「うわぁ~、すごい!」
「風を切って飛ぶなんて、まるで鳥にでもなったようですね」
「……なんで!? せっかく空を飛んでるのに、その景色を私だけ見られないって、なんかおかしいわよー!」
初めての空中浮遊にあがった三者三様の呟きに苦笑を浮かべながら、意識を目の前の次元獣に向ける。
……よし、まずはあの灰色の中型からだ! あいつの弱点は、目だ!
俺はアルテミアの体勢を変え、左腕一本で片腕抱きにすると、次元操作で推進力となる魔力を噴出させ、一体目の次元獣に狙いを定め急接近する。
そこだ――!!
急降下して死角から一気に魔力を打ち放つ。
――バシューンッ!!
『グァアアアア……ッッ』
まさか空中から攻撃を受けるとは思ってもいない次元獣は、急所の目を打ち抜かれ、断末魔の叫びをあげながら呆気なく倒れた。
「お兄ちゃん!! 右よっ!!」
安堵したのも束の間、チナの鋭い声が響く。
――ズガーンッ!! ズガーンッ!! ズガーンッ!! ズガーンッ!!
俺が右に向き直るのと同時に、頭上のチナが右腕を伸ばし魔力砲を撃ち放つ。なんとチナは、前方に聳え立つ大型次元獣に向かって、右手で握ったリボルバー式小型拳銃から連続で四発をお見舞いした。
「あれの弱点は首の後ろ、だったよね? ちょうど後ろを向いてたから、今だって思ったの!」
……なんということだ! たしかに、倒れ込んだ次元獣はチナが孤児院で倒した個体と同じ種類だ。とはいえ、まさかチナが撃ち倒すとは思ってもみなかった俺は、頭上のチナを見上げてしばし愕然とした。
なにより、チナが錬金術で生みだした素材がここまでの耐久性を有していようとは――!
俺の魔力の連続発砲を物ともせぬ新素材。……これは、これまでの既成概念を打ち砕く凄まじい成果だ。
「でかしたぞ、チナ! お前の魔力は無敵だ!」
「え? 無敵って……撃った魔力はお兄ちゃんのだよ?」
一拍の間を置いて俺が労いを告げれば、チナは怪訝そうに首を捻った。
「いいや。チナの技があれば俺の魔力を溜め、俺以外の者でも自在に使うことができる。これまでの戦闘体形を根幹から覆す大手柄だ」
同じ物をセリシアとアルテミアにも持たせれば、護身にも役立つだろう。万が一他者に奪われても、俺がひと手目かけてストッパーを付加しておけば、意に反した使われ方をすることもない。
「だからお前の創生した新魔力――錬金術が無敵で間違いない」
俺の言葉に、チナがキュッと俺の頭を掴む力を強くした。
「よかった、よかったよぉ! セリシアお姉ちゃんの再生快癒が凄すぎて、正直言うと焦ってたの。だけど、ここまでの旅でお兄ちゃんと一緒にコツコツ練習してきてよかった! わたしの錬金術が役に立てて、本当によかった!」
肩車しているチナの表情を見ることは叶わない。しかし彼女の心の吐露が、幼い胸がいっぱいの悩みや葛藤を抱えて苦悩していたことを、俺に痛いほど伝えてくる。
そんな彼女に、『練習熱心で偉いな』としか言ってやれなかった、道中の己の不甲斐なさが悔やまれた。
「そうだったのか。気づいてやれなくてすまなかったな」
「ううん! こうしてわたしもお兄ちゃんの役に立てたから! ……それからお兄ちゃん、錬金術の練習は約束通りお兄ちゃんとしてたけど、的あての練習はひとりでやってたのよ。だから、どんどん撃って次元獣をやっつけちゃうんだから!」
……恐れ入ったな。俺の頭上で一転し、晴れやかに言い切るチナに尊敬の念が募る。
たったの五歳とは思ぬ思考力と行動力に、俺はすっかり感服していた。だからといって幼いチナにばかり攻撃させているのは、俺の矜持が許さない。
魔法世界エトワール最強の冒険者は、セイスのセイ。俺だ――!
「セリシア、監視塔に上るチナにかけたのと同じ活性化の魔力を俺にもかけてくれ」
「え?」
突然呼び掛けれたセリシアは、俺の腰にしがみ付いたまま窺うように小さく身じろぎした。
「君の細胞活性化の魔力で身体能力を向上させ、一気に叩く!」
「分かりました!」
直後、着衣越しにセリシアと触れ合った部分から、ぽかぽかとした温もりが染み込んでくるのを感じた。
その温もりは触れ合う表層から体の芯へと広がっていき、血の流れにのるように再び全身の細部にまで巡っていく。
「いかがでしょう?」
施術を終えたセリシアが、ホゥッとひと息ついて尋ねた。全身の体温が上がり、体中に新鮮なパワーが漲っていた。
「完璧だセリシア! ありがとう!」
『グァアアアアアア――ッッ!!』
セリシアの魔力によって身体強化が叶ったまさにその時、残る大型と超大型の二体の次元獣が怒りの咆哮をあげる。そうかと思えば、対角にいた二体が俺たちを挟み討ちするように同時に瘴気を吐き出した。
同時攻撃とは、上等だ! これまでならば、二体の同時攻撃を真正面から受けるのを避け、一体分の瘴気の波動を飛行位置をずらして躱していただろう。
しかし今、俺はあえてその場にとどまって二体の次元獣が吐き出す瘴気の渦を受け止めた。
次元操作を体得したとはいえ、体は生身の人間。これまで一度に大量の瘴気を受けるのは、多少なり体に負荷がかかっていた。
それがどうだ!? セリシアの身体強化のおかげで、無理なくどんどん瘴気を吸い上げられた。
……さすがだな。俺は内心で、改めてセリシアの能力に唸った。
そうして二体の瘴気を吸収しきると、そのまま次元空間に蓄積した。
吸収した瘴気は、そのまま俺の攻撃魔力となる。これで魔力は潤沢に蓄えた。奴らを打ち倒すのに、一切の不足はない!
「お兄ちゃん、すごい! 次元獣の攻撃を全部吸い取っちゃった!」
頭上でチナが感嘆の声をあげた。
「チナ、お前の『カチコチ』を借りるぞ」
「え? もちろん、いいけど。だけど、あんなのどうするの?」
「まぁ見ていろ」
俺は不敵に笑むと、残る二体の次元獣のうち超大型の方に狙いを定め、奴の上空へと飛行する。そうして次元の狭間からチナが錬金術の練習過程で生み出した金属の大塊――通称・カチコチを引っぱり出して、眼下の超大型の次元獣に浴びせかけた。
超大型はその体格に見合うパワーを有するが、反面、俊敏さには劣る。
案の定、頭上から大量のカチコチを食らった次元獣は怯んで身動きが取れなくなっていた。
……そうなのだ。このカチコチは錬金術の練習中に出た失敗作と侮れない。自然界に存在するどんな鉱物よりも重く、硬い、新魔力の集合体だ。
「わー。次元獣がベコベコ……」
チナが漏らした言葉通り、次元獣は甲冑のように黒光りする体表のそこかしこに窪みを作り、痛ましい有様になっていた。
しかも、こいつの弱点は頭頂部。急所の脳天に大量のカチコチを食らった奴は動くことができず、巨体をビクビクと痙攣させていた。
「とどめだ」
俺がデコボコになった奴の頭頂部に次元魔力を打ち放てば、超大型次元獣は呆気なく地面に沈んだ。
巨体が倒れ、周囲に地響きと砂埃が上がる。さらに風に舞う砂埃に混じり、奴から真っ黒な瘴気が噴き出す。
俺は体格に見合った大量の瘴気を余さずに吸収すると、そのまま最後に残った有翼型の大型次元獣に狙いをつけて打ち放つ。
「チッ! 躱されたか!」
最後に残った大型次元獣は機敏な動きで飛び立って、すんでのところで俺の攻撃を躱した。
さらに、三体の仲間をやられたことで、相当殺気だっていた。俺を威嚇するように長大な尾っぽを振り回し、街の中央に建つ公会堂の一角を崩壊させた。
その時、ガラガラと崩れていく公会堂の奥の方に小さく蠢く人影を認める。
「……まずいな! 公会堂裏手の屋外休憩所に誰かがいるぞ!」
さらに目を凝らせば、立ち昇る土煙の向こうに赤ん坊を抱いてしゃがみ込む母親らしき女性の姿がしっかりと確認できた。休憩しに屋外に出たところを次元獣の襲撃に遭い、逃げ遅れてしまったようだった。
「え!? ほんとだ! ……お兄ちゃん、あの次元獣の弱点はどこ!?」
ワンテンポ遅れ、母子の姿を視界に捉えたチナが俺に問う。
「翼の付け根の、内側だ」
「……内側?」
この手のタイプは無作為に攻撃しても、翼で覆われてしまうから、倒すにはかなりやっかいな部類だった。
「ああ。倒すには、二重攻撃の構えが必要になる。最初の攻撃で翼を広げさせて急所を晒させ、次の攻撃で急所を打つしかない」
「ふーん、分かった! 翼を広げさせればいいんだね!? わたしに任せて!」
言うが早いか、チナは握り直した小型拳銃を大型次元獣に向かって構える。
なっ!? 次の瞬間、チナツは片翼に狙いを定め、集中砲弾を浴びせかけた。その数、実に十発!
通常のリボルバー銃とは異なり、弾倉部分には次元獣から回収した黒水晶をセットしてある。この黒水晶には、俺が次元操作で吸収し、蓄えた魔力を放出できる性質があった。要は、いちいち魔力を装填せずとも、多くの発砲が可能となったのだ。それにしても、彼女のこの応戦力は予想外だった。
さらにチナは母子に被害が及ばぬよう、事前に次元獣の動きを予測していたのだから驚きだ。
大型次元獣は、集中砲弾を食らった片翼をバサバサとはためかせてのたうった。しかし、咆哮をあげながら奴が向かう先は、休憩所と対角にあるステンドグラスの礼拝所の方向だった。
なるほど。光る物に寄っていく習性を利用したか……! この習性は次元獣らにとって本能的な行動だ。傷を負わされて理性を欠き、目に入ったステンドグラスに引き寄せられているようだった。
っと、いかん。感心している場合ではない。チナが作ってくれた好機を逃すわけにはいかん!
俺は翼がバサリと開かれた瞬間を見逃さず、急所である付け根部分に渾身の魔力を打ち込んだ。
有翼の大型次元獣も断末魔の叫びと共に地面に倒れ、そのまま二度と起き上がることはなかった。
一瞬の静寂の後、街が震えるほどの拍手喝采が沸き起こる。次元獣の突然の襲来になす術なく兢々と屋内に身をひそめていた領民らが、次々と外へ飛び出してくる。その全員が上空の俺たちを見上げ、涙ながらに感謝を口にしていた。
「……あ! あちらに怪我をした人たちが! セイさん、あちらに向かっていただけますか!?」
「よし!」
セリシアが示す先に、家屋の倒壊に巻き込まれたのだろう負傷者らの姿を認め、一気に加速する。
「アルテミア、ゆっくりと――」
「いえ、このまま飛んでいてください。上空から治療します!」
十人ほどの負傷者が集められた一角に辿り着き、アルテミアに着地のイメージを伝えようとしたら、セリシアがそれに待ったをかけた。
セリシアは俺の腰に回していた右腕を外し、眼下に翳す。
次の瞬間、セリシアの右手のひらから生じた煌く光の粒子が、シャワーのように負傷者に降り注ぐ。光の粒子は負傷者を優しく包み込み、ふわっと発光を強くする。
そうして徐々に発光が弱くなり、完全に消えた時、負傷者全員が見事な回復を果たしていた。血を流し痛みに呻いていた人も、瓦礫に肺を押し潰されて呼吸苦に喘いでいた人も、傷が癒えて穏やかな呼吸を繰り返している。
広域に発動された再生快癒の魔力――。
奇跡を目の当たりにして、俺も周囲で見守っていた人々も、全員がしばし言葉を失くした。
「セ、セイさん! 私、もう限界です!」
その時、悲痛なアルテミアの声が静寂を割る。
「ずっと意識して目を瞑っていたら、瞼がピクピクして……っ! 目を開けてもいいですか!?」
「なっ!? 少し待て!!」
「だめ、もう限界っ!」
俺が即座に負傷者が集う一帯から場所を移った直後、限界に達したアルテミアがパッチリと目を開き、一気に重力がかかる。
「っ!! チナ、セリシア、俺から離れろ!! 縺れるように落ちては、逆に危険だ!!」
緩衝材の代わりにするべく、反射的に地面に向かって次元操作を発動する。同時に、アルテミアを抱いていた手を放し、しがみ付こうとするセリシアとチナにも離れるように指示を出す。この状況下ゆえ難しいかとも思ったが、セリシアとチナは俺が指示した通り、咄嗟に手を放した。
そんな落下の最中、俺の視界の端をあるモノが掠めた。
ん? 奴は……!
「「「きゃああっ!!」」」
俺たちは次元魔力にバフン、バフンッと幾度か弾みながら、最終的に尻から地面に着地した。
「っ、助かった!」
「ちょこっとお尻ぶつけたぁ」
「ええ。ですが、あの高さから落ちて無事だったのですから、十分おつりがきますわ」
次元魔力のこんな使い方は初めてだったが、目論見通り落下の衝撃を和らげるのに十分な貢献をしてくれたらしい。三人の無事を確認した俺は、安堵の胸を撫で下ろした。
ひと息つくとすぐに、落下の最中に見た"ネズミ"を捕まえるべく動き出す。
「三人とも、しばらくここにいてくれ!」
俺は三人に言い残し、ウェール領を背に一直線に駆けていくネズミの後を追った。
次元操作を用いれば、ネズミの捕獲など造作もないこと。
俺は次元障壁で身動きを封じたネズミと対峙していた。
「ここまでずっと俺たちを付け回していたな。ずっと気配は感じていた。誰の指示だ?」
「そんなの答えるわけが……っ! 言う、言うからやめてくれ!」
次元障壁でギリギリと絞め上げていくと、ネズミ――間者の男は早々と音を上げた。
「お前たち一行の同行は、逐一聖魔法教会のマリウス大魔導士に上げていた!」
息も切れ切れに、男が白状する。
マリウス大魔導士といえば、教会のナンバーツー。教会の長たる教祖の最側近だ。となれば、俺たちの監視は教祖からの指示と考えてまず間違いない。
「お前は水属性のウノだな? たしか、マリウス大魔導士も水属性……連絡は水鏡を介して行っているのか?」
「そうだ」
水鏡とはその呼び名の通り、水面を鏡に見立てたもので、そこに映る映像を相手の水鏡と共有することができる。水属性のウノの中でも能力に優れた者同士でしか使えない技だが、タイムラグなしに情報共有が可能だった。
「……ウェール領に俺たちが滞在していることは既に伝えてあったのか?」
「あぁ。お前たちが滞在を決めた直後に報せた」
「マリウス大魔導士は俺たちがいるこの地に次元獣を差し向けたのか? 加護があるにもかかわらず、俺たちを倒さんがために!?」
俺が怒りで戦慄く声でしたこの質問に、男は心底分からないといった様子で眉間に皺を寄せる。
「な、なんだって? 次元獣を差し向ける? 加護? ……いったい、なにを言っている?」
男の口振りに嘘はなさそうに見えた。どうやらこの男は能力にこそ優れているが、マリウス大魔導士や教会の内部情報にはあまり精通していないのかもしれない。
「お前は教会所属の魔導士ではないのか?」
「もちろん教会所属の魔導士だ。元は冒険者をしていたが、水属性のウノ中でも高い能力を買われて先月引き抜かれた」
無意識だろうが、これを告げる男は誇らしげだった。
……なるほど。教会に所属して日も浅いため多くの情報を持たず、指示通り従順に動くこの男は、間者にはうってつけ。
そしてこの男は、マリウス大魔導士にとって所詮は捨て駒。マリウス大魔導士は俺に見つかって殺されようが、どうでもいい存在をあえて選んだのだろう。
「……行け」
「は?」
俺が次元障壁を解いて告げれば、男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして見返した。
「ネズミの尻尾を切ったところで意味はない」
続く言葉で俺の真意に思い至った男はクシャリと顔を歪め、わなわなと肩を震わせた。
「セイスのくせに、馬鹿にし腐りやがって……」
「ほぅ、命が惜しくないのか。見上げた忠誠心だ」
俺は次元操作を発動すべく、再び男に向かって手をかざす。
「っ、チクショウ! チクショーッ!!」
次の瞬間、男は捨て台詞を叫びながら一目散に駆け出した。
教会に引き抜かれたことは、男にとって誉れだったのだろう。しかし、教会にはもう間者の役目を失敗した男の居場所はない。
……見誤るな。目の前の栄誉は所詮、空中の楼閣。
教会はお前が命を懸けるに足る崇高な組織ではない。同様に、お前の能力を真に活かせる場は教会ではなく他にある。
「弄されるなよ。正しい道は、心眼でもって見極めろ」
小さくなる背中に向かって零した呟きは、きっと男の耳には届いていないだろう。
一見しただけの男ではあったが、前途ある優れた能力者でもある男の未来を祈らずにはいられなかった。
チナたちと合流し、俺たちは再び領主の屋敷へと戻った。
「おおお! 我が領を次元獣よりお守りいただき、感謝申し上げます! セイ様たちの速やかな討伐によって被害は最小限、その上、セリシア殿の治癒により負傷者はゼロ。それなのに儂ときたら、セイスやシンコを理由にセイ様とチナツ様に随分と無礼な態度を……っ、なんと詫びを申し上げたらよいかっ!」
興奮冷めやらない様子の領主は矢継ぎ早に言葉を重ね、最後はガバッと床に伏したかと思えば、平身低頭で己の振る舞いを詫びた。
「やめてくれ。あなたの思いはもう十分に伝わった。これ以上の礼も謝罪も不要だ」
打って変わったような領主の態度に苦笑しつつ、その肩をトンッと叩いて立ち上がるように促す。
「それから領主、肝心なことを忘れているぞ。あなたの娘、アルテミアが重力制御をなし、俺たちの空中攻撃を可能としたんだ。アルテミアがいなかったら、ここまでの早期討伐はなし得なかった」
「……まさか、娘がこんな能力を持っていようとは想像もしませんでした。これまで世間から隠すことにばかり必死で、儂は父親でありながら娘の本質をなにひとつ見てはいなかったようです」
セリシアに腕を取られて身を起こしながら、領主はしっかりと彼女の目を見て告げる。
領主の隣では、領主夫人が夫の言葉に賛同して頷きながら、その瞳を熱く潤ませていた。
「お父様、お母様……」
「アルテミア、儂はお前を誇らしく思う。そして『貰ってくれる男があるうちに』などと、手前勝手な結婚話を推し進めた自分が恥ずかしい。この結婚は、儂から先方に断りを入れる」
「え? 来月に迫った結婚話を破談になど、そんなことをしてはお父様の評判が――」
「そんなのは問題にならん。これはもう、決めたことだ」
領主はセリシアの言葉を遮り、きっぱりと言い切った。
「っ、お父様。……ありがとございます」
目に薄っすらと涙を滲ませて小さく感謝を伝えるアルテミアの頭を、領主が不器用な手つきでそっと撫でる。アルテミアの眦から膨らみきった涙がホロリと頬を伝っていった。
「それにしてもセイ様はなんと寛大でいらっしゃるのか。嘘か真かもしれぬ加護を付与しにやって来る教会の魔導士とはなんたる違いだ」
思わず本音が口を衝いて出た、そんな様子で領主が漏らした。
「今、教会の魔導士と言ったな?」
「えぇ。彼らは態度も横柄なら、金銭にも恐ろしいほど強欲だ。加護の対価についても寄付や心づけを際限なく要求するものだから、最終的には言い値の倍にもなっている。その上、今となっては加護の守りそのものが紛い物と知れ、まったくやり切れません。まぁ、冷静に考えれば『加護があれば次元獣に襲われない』というのもおかしな話で、所詮、気休めのまじないだったのだ。高い勉強代にはなりましたが、こうしてセイ様に救っていただけたことを思えばおつりがきますな」
領主は俺を見やり、感じ入った様子でこう口にした。
「領主、教会の加護について……いや、教会について知っていることがあれば教えて欲しい。奥で聞かせてもらえるか」
「もちろんでございます。とはいえ、王家と外戚にありその縁で教会の加護を付与していただくに至りましたが、儂とて教会そのものについてそう多くを知っているわけではありません」
「かまわん。今は少しでも情報が欲しい。……領主夫人、よかったら俺たちが話している間に、チナツたちを温泉に案内してやってくれんか。もちろん、約束していたマーリンも誘ってな」
俺の申し出に、領主夫人は一も二もなく頷いた。
「お兄ちゃんは入らないの?」
「話が終わったら、合流させてもらう」
「それじゃあ、セリシアお姉ちゃんたちと先に入って待ってるわ! 必ず来てね、約束よ!?」
「あぁ、約束だ」
夫人に伴われて温泉に向かうチナたちを玄関から見送り、俺は領主と共に奥の応接室に移動した。
そうして遅れること十分。俺もチナたちに合流し、久方ぶりの温泉に飛び込んだ。
「お兄ちゃん、こっちこっち!」
チナに呼ばれ、湯けむりを割って石組みの広い露天風呂の奥へとざぶざぶと進む。
領主の屋敷の温泉は、想像以上に広さがあった。脱衣所から続く内風呂には、複数の洗い場が設置され、奥の窓に面して十メートル四方のヒノキの湯舟が。さらに内風呂から外に繋がる扉を出て、渡り廊下を進むと、今俺たちが浸かっている石組みの露天風呂がある内庭の一角に出る。こちらは屋外ということもあり、ヒノキの内風呂以上に広々として開放的だった。
全員が薄い素材の肌着を身に着けて入浴していたが、すのこのような目張りがかかって、ほどよく周囲から遮られているのはよかった。
「意外と早かったのね!」
「そうだな」
嬉しそうなチナに、俺も笑顔で答える。
こんなに早くに温泉に合流できたのは、事前に申告していた通り、領主が教会についてそう多くの情報を持っていなかったためだ。だが、少ないながら有益な情報もあった。
……これらの情報を持って一度アルバーニ様と合流したら、オルベルに向かおう。
今回の次元獣襲来とその後に捕まえたネズミの話から、俺たちの動向が教祖らデラ一味に筒抜けになっていることが分かった。そして周到な彼らのこと、子飼いのネズミは当然あの一匹だけではないだろう。
そうなれば、今後俺たちが行く先々では次元獣襲来のリスクが発生する。
情報はもう十分に集まった。これ以上、リスクを犯して旅を続ける意味はない。
俺は両親の仇……デラを討つ――!
――パシャッ!
「っ!?」
俺が脳内に今後の道程を描き、決意を新たにしていたら、突然顔面に飛沫が浴びせかけられた。
手の甲で乱暴に目元を拭って目を開くと、チナが俺に両手のひらを向けてニンマリと笑っていた。
「ふふふっ、ボーっとしてるからよ!」
ほーう。理由はどうあれ、無抵抗の人間に湯を浴びせかけるとはいい度胸だ。
「やったなチナ!? よし、お返しだ!」
俺も手のひらでお湯を掬い上げ、チナに向かって浴びせる。
水礫は陽光に反射して、キラキラと眩しいほどに輝いた。
「きゃーっ!」
「うわぁっ!? セイさん、こっちにまでかかって……って、もーう! こうなったら、僕だって負けないぞ!」
盛大に巻き上げた水しぶきがチナの隣にいたマーリンにもかかってしまったようで、それがマーリンのスイッチを入れてしまった。
「おい、マーリン。お前はつい先日まで病人だったんだ、ほどほどにしておけ」
「病人って誰のこと? 僕はセリシアお姉ちゃんのおかげですっかり元気さ! ……みんな、セイさんに集中放水だ!」
「まぁ、面白そう!」
「微力ながら、私も加勢しますわ!」
なぜか、マーリンの言葉にアルテミアやセリシアまでが賛同した。
「待て!? 四対一はおかし……っ」
「「「「そーれっ!!!!」」」」
――バッシャァアアアアッッ。
「っ、うぷっ!!」
四人から一斉に湯を浴びせられ、一歩後ろにたたらを踏む。
「お前たち、やったな!?」
「きゃーっ!」
「わあぁっ!!」
午前中から入り始めていたというのに、賑やかな俺たちの声は太陽が一番高いところを過ぎてもまだ、やむ気配がなかった。
夕刻前。
風呂を上がって旅支度を整え直した俺たちは、屋敷玄関で再び領主夫妻とマーリンの見送りを受けていた。
「どうか道中、お気をつけて」
領主から深々としたお辞儀と共に丁寧な別れの言葉をもらう。
見送りの光景だけを取って見れば、今朝と同じ。ただし、俺たちを送る夫妻の目には敬服と深い信頼が滲み、今朝とはまるで別人のようだった。
「あぁ、世話になったな」
「セリシアお姉ちゃん、次元獣の襲来を嬉しいなんて言ったらバチがあたっちゃうかもしれないけど、僕は約束が叶って嬉しかった。お姉ちゃんと一緒に温泉に入れて、すっごく楽しかった!」
「ええ。私もとっても楽しかったわ。ありがとう、マーリン様」
両親の間からひょっこりと顔を出したマーリンが告げれば、セリシアも笑顔で答えた。
「それからアルテミア姉様」
「……ふふ、なんだか『姉様』だなんて呼ばれるとくすぐったいわ」
監視塔で過ごしていたアルテミアは、実の姉弟でありながら、ほとんどマーリンとの交流がなかったのだという。
「これまでカエサル兄様から、塔で暮らす姉様のことはよく聞いてた。でも、本当はちゃんと会って話がしたかったよ。これでやっと姉様と屋敷で一緒に暮らせると思ったら、セイさんたちと一緒に行くんだって聞いて、本音を言うと寂しいんだ。……だけど、これが別れじゃないんだよね? またウェール領に、この屋敷に帰ってくるんだよね?」
「ええ。今はセイさんたちと行くわ。重力制御の能力をもっともっと磨いて、セイさんの役に立ちたいの。でも、全部終わったら帰ってくる。だってここが、私の家だもの!」
「うん! 僕、待ってるよ!」
アルテミアとマーリンは固く抱き合い、その後ろでは領主夫妻が人目を憚らず号泣していた。
「こんな光景が見られようとは……。セイ様、チナツ様、セリシア様、全てあなた方のおかげだ。俺からも、心から感謝申し上げます」
「お前までやめてくれ」
腰を直角に折って頭を下げるカエサルに苦笑しつつ、その背をポンポンと叩いて顔を上げさせる。
「そう言えばカエサル、風呂でマーリンが面白いことを言っていたぞ。彼は初めて入った温泉にいたく感動したようで、この感動を広く国中の人々にも伝えていきたいそうだ」
「え?」
俺が耳元で囁けば、カエサルは意図が掴めぬ様子で小さく首を傾げた。
「国中の源泉湧出位置を調べ、各地で温泉リゾートの開発をするのだと張り切っていた。……そうなると、領主としてこの地に留まることは難しいかもしれんな」
カエサルは呆気に取られたみたいに、俺とマーリンを交互に見つめていた。
「なに、領主夫妻はまだまだ元気だ。将来のことは、急がずゆっくり決めたらいい。それに、今後は領主夫妻も腰を据え、じっくり話し合うことができるだろうからな」
「……そうですね」
カエサルは俺の言葉に少しの間を置いて、重く頷いた。
そうして俺から視線を外すと、カエサルはアルテミアに向かってトンッと一歩踏み出した。
「アルテミア、セイ様たちが一緒だから道中の心配はしていない。だが、お前は塔の中での生活しか知らん。雨風や寒暖の差に十分注意して、くれぐれも健康には留意をするんだぞ」
「ええ、分かったわ。ありがとう、兄様」
アルテミアはカエサルの忠告に笑顔で答え、固く握手を交わす。
「アルテミア、無事に帰ってくるのを待っている」
「どうか気を付けて。……なにを今さらと思うでしょう。ですがこの地から、あなたの無事を心から祈っています」
「姉様、いってらっしゃい!」
「ありがとう。お父様、お母様、マーリン。みんな、いってきます!」
アルテミアは他の家族とも順番に別れの握手を交わすと、高らかに手を振りながら屋敷に背中を向けた。
領主一家にとってここは新たなスタートになるのだろう。そして俺たちも、ここから新しいフェーズに進む。
それぞれの思いを胸に、俺たちはウェール領を後にした――。
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