レッドシスルの毒の波紋

夢草 蝶

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2,ハミリア家の内情

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 ハミリア伯爵家は現在、家族関係が大変冷えきっている。

 ハミリア伯爵は前妻との間に二人の子供をもうけていた。

 それが長男・リベルト・ハミリアと長女・リゼ・ハミリアである。

 長男のリベルトは少し長めの黒髪に藍色の瞳をした父親譲りの整った顔立ちに、長身で筋肉質な恵まれた体格をした青年であった。
 学問にも秀で、頭の回転も速いリベルトは、伯爵家の優秀な跡取りと世間での評判も良い。

 リベルトの妹であるリゼは、亜麻色の真っ直ぐで柔らかな腰まで届く長い髪と若葉のように明るい緑の瞳をした少女で、顔立ちは社交界で可憐だと褒めそやされた母親そっくりの愛らしさがある。
 礼儀正しく屈託のない性格のリゼは周囲からよく好かれ、こちらも社交界では人気者の娘だった。

 兄として妹を大切にしているリベルトと、妹として兄を尊敬しているリゼは幼い頃から非常に仲の良い兄妹であり、今まで喧嘩らしい喧嘩などしたことがない程だった。

 しかし近年、ある問題においてのみ、仲の良い兄妹は毎回意見をぶつけ合い、何度話し合いを試みても全く解決しない事態に陥っていた。

 それは、三年前にハミリア伯爵の後妻となった女性と共にハミリア伯爵家に住むこととなった二人の異母妹──モニカのことだ。

 リベルトはモニカのことを心の底から嫌い、徹底的に無視をしている。

 というのも。

 リベルトは二十二歳、リゼは十七歳──そして、モニカは十四歳なのである。

 リベルトとリゼの母親が亡くなったのは、リベルトが十歳、リゼが五歳の時だった。

 つまり、モニカは当時ハミリア伯爵が浮気相手との間につくった娘だったのだ。

 リベルトとリゼの母は、リゼを出産した直後に体調を崩し、寝込みがちになった。
 相手を出来ない妻に興味を失くしたハミリア伯爵は、外に愛人をつくり、その女性こそが後妻に入ったモニカの母親である。

 リベルトとリゼの母親が亡くなった九年後の再婚であったが、その時差の理由は別にハミリア伯爵が妻を思って喪に服していたなどではなく、後妻の実家の事業が成功し財が膨れ上がったためであった。

 後妻は男爵家の分家筋に当たるも、実家自体は爵位を持っておらず、ハミリア伯爵も遊び程度で母娘を迎え入れる気は毛頭なかったが、彼女の実家は商売をしており、四年程前から業績をぐんぐん伸ばしている。
 それを知ったハミリア伯爵が、責任を取るという今更かと思うような大義名分を掲げて婚姻を申し入れたのであった。

 これを知った時のリゼは、父親の節操の無さにただただ呆れ返っただけだったが、リベルトはそれだけでは済まなかった。

 母を慕っていたリベルトは、母を裏切った父親にも、父親を誘惑した女にも酷く憤っており、絶対に許さないと心に誓っていた。
 愛人がモニカを妊娠・出産したことを知った母が、ますます体調を悪くしたのを見ていたため、直接の非は無くとも、リベルトにとってはモニカも父たちと同罪の憎むべき相手だった。

 そのため、リベルトはモニカがハミリア伯爵家に来てからも彼女の存在を認められず、いないものとして扱っている。

 そのことを嘆いたのがリゼだった。
 リゼとしては、モニカも父親の火遊びの被害者という認識だったし、それに腹違いと言えど、自分の妹に変わりなかった。
 それに、毎日無視されても諦めることなくリベルトに挨拶の言葉を掛けるモニカがとてもいじらしく不憫に思えて、リゼは何かとモニカを気に掛け、リベルトにはせめて無視するのはやめて欲しいと何度も頼み込んでいた。

 それでもリベルトは頑として首を縦に振ることはなく、二人はもう三年も同じ押し問答を続けている。

 平行線を描き続けるこの議題は、今日も取り上げられ、兄妹はテーブルを挟んでそれぞれ神妙な顔で話し合っていた。

「リベルトお兄様、いい加減モニカを無視するのはやめてあげてください。毎日お兄様に挨拶を返されずに落ち込んでいるあの子が可哀想でなりません」

「何故そこまでアレに肩入れする? あの女がアレを産んだと知って俺達の母上がどれ程悲しんだか忘れたのか!? 母上は結局心労が祟ってそのまま召されてしまった! 可哀想だと? 本当に可哀想なのは死んでしまった母上だ! 父上は母上の死に目にも来なかった! あの時父上がどこにいたのかなんて、お前だって知っているだろう!」

 リゼの言葉に、リベルトは拳をテーブルに叩きつけ、語気を強めて反論する。
 リベルトの全身からは怒気が迸っていたが、この話題でリベルトが感情的になるのはいつものことなので、右から左に聞き流し、こちらも喋るタイミングを作るために咳払いを一つした。

「お兄様もお気持ちもわかります。正直、お母様が亡くなられた時のお父様には呆れを通り越して失望しましたし──」

 二人の母親が亡くなった当時、ハミリア伯爵が愛人の下にいたのはリゼも気づいていた。
 ハミリア伯爵は妻が亡くなった日の朝に出掛けたが、ハミリア前夫人はその前日から容態を崩しており、命に関わると医者に告げられていたのだ。生死の境を彷徨っている妻を放って愛人とその娘に会いに行っていた父の行動には、リゼも軽蔑の気持ちを隠せなかった。

 けれど、リゼはリベルトよりも物事を切り離して考える性格のため、父とその愛人がどんな人物にせよ、モニカが責められるべきでも、冷遇されるべきでもないと思っていた。

「でも、それらは一切モニカに責はないでしょう。子は親を選べないのですから、たまたまあの子が私たちの異母妹として生まれたからといって、あのように扱うべきではありませんわ」

 リベルトとは対照的に、冷静な声で真っ直ぐ相手を見つめて自分の意見を話すリゼ。そんな妹相手に居心地の悪さを覚えつつも、リベルトは腕を組んで背凭れに体重を掛けながら口を開いた。

「リゼ、お前の言っていることはとても清廉で高尚な説法だ。けどな、それを別の言葉で表したらなんて言うか知ってるか? 綺麗事だよ、お前の言っていることは。
 俺はお前みたいな考え方は出来ない。俺からしてみれば、父上とあの女とアレが母上を殺したも同然にしか思えない。そんな奴と同じ屋根の下で暮らしてまともに相手をしろと? それが出来るとでも?」

「そんな、ほんの少しでいいのです。リベルトお兄様があの子にほんの少し歩み寄ってくれれば──」

「なら、お前はあの女をお母様と呼べるのか?」

「──それは」

 畳み掛けるように投げ掛けられたリベルトの問いにリゼは言い淀んだ。
 あの女とはいわずもがな、モニカの母親のことである。

「父上が再婚して、あの女が正式にハミリア夫人になって三年だ。けれど、お前は一度もあの女を母とは呼んでいないだろう?」

「確かに、そうですが・・・・・・」

「別に呼ぶ必要はないぞ。俺だって呼んでいない。再婚早々にあんな台詞を吐くような女を誰が母と呼ぶものか。思い出すだけで吐き気がする! 本当にあの頃の俺はよくあの女を八つ裂きにしなかったものだ! はははっ」

 リベルトは笑ったが、それは面白いや楽しい気持ちだからではなく、臓腑から染み出して全身に回るような怒りの感情を制御するためだった。でなければ、今頃リベルトはその長い足で目の前のテーブルを蹴倒していたことだろう。

 父の再婚後、新しい母がハミリア邸に移ってきてから最初にリベルトとリゼに言ったことを思い出し、リゼも胸を悪くした。

 ハミリア伯爵の後妻である旧姓ヴィリカ・エンプションは、リベルトとリゼを見て開口一番にこう言ったのだ。

 ──初めまして。私はヴィリカ・エンプションよ。今日から貴方たちのお母様になるの。貴方たちも早く死んだ人のことは忘れて、私をお母様と呼んでちょうだいね?

 あまりにも配慮のない言葉だった。
 あの時、リゼは一瞬何を言われたのか理解出来なかったし、リベルトは神経を逆撫でどころかやすりで削り取られたようなぞっとする感覚に襲われ、頭に血が上りすぎたのか、眩暈まで起こしていた。しかし、そのおかげでヴィリカを殴り飛ばさずに済んだのでリゼとしてはほっとしていたが、リベルトは今でもあの時に殴って屋敷から叩き出さなかったのを後悔している。

 それ以来、リベルトのヴィリカに対する態度はモニカに対するよりもあからさまで、とにかく視界に入れたくなく、決して会わないようにしている。幸い、ヴィリカ自身も常に夫にくっついているか、外で買い物をしたり、パーティーに参加したりで屋敷にいる時間は少ない。
 これには第一印象で彼女に苦手意識を持ったリゼも、内心あまり会いたくないと思っているためほっとした。

「ヴィリカ様のことは確かに苦手ですが、今はモニカの話をしていたでしょう? リベルトお兄様はひょっとして、私の苦手な話題を出して話を逸らそうとしてますの?」

「いや? リゼ、俺が言いたいのはな、お前があの女を母と呼べないように、俺もアレを直視出来ないし、声を掛けられないってことだ。心の底から受け入れられない。それにこれでも俺は平静を保っているんだぞ? その証拠に俺は何もしていない・・・・・・・だろう?」

 頬杖をついて、リベルトが目をすがめながら唇に酷薄な笑みを乗せて言う。

 リベルトが言葉の影に潜めた棘の正体をいち早く察知したリゼは厳しい顔をした。

「リベルトお兄様、もうあんな事はしないでくださいませね?」

 リゼはモニカがハミリア邸で暮らし始めたばかりの頃、リベルトがモニカ対して行った暴挙を思い出して眉を潜めた。
 兄のすることなら、大抵のことなら受け入れフォローしてきたリゼだったが、あの時のことだけはどうあっても許せないし、弁護も出来ないと考えている。

「なら、精々アレが俺に近寄らないようにすることだな。平穏を守りたいのであれば、俺を説得するより、アレをどうにかした方が早いぞ」

 自分は絶対に意見を変えないと宣言したリベルトは、ようやく話に区切りがついたと判断し、部屋から出ていった。

「・・・・・・アレではなく、モニカですってば」

 一人取り残されたリゼは、悔しげにぽつりと漏らしたが、その呟きを聞く者はいなかった。
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