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芋半

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 市兵衛が初めてでん留に立ち寄ったのは中秋を過ぎた頃の事だから、その日はそれからひと月程が経った有る晩である。市兵衛はいつもの様にでん留の引戸を開いた。
「御免」
「あれっ、どうしたのですか三村さん、昨日いらしたばかりなのに」
 銅壷どうこから銚釐ちろりを引き上げながらお春は驚いた様な顔をした。
「少し、嬉しい事がありましてね。いつものを頼みます。お春ちゃん、でんがくは、芋半いもはんにして貰えるかね」
 そう云いながら、市兵衛は笊に波線を五枚入れた。
「はい。今お支度をします。芋半ね」
 そう云いながらお春は市兵衛を手招きをして、耳元で囁く。
「三村さん、後ろ見て。おじさん達もびっくりしているわ、三日に一度の三村さんが二日続けてお見えになったので」
 市兵衛は、あの日以来、きっちり三日に一度の割合ででん留に来る様になり、いつの間にかお春殿はお春ちゃんと、三村様は三村さんと、二人の距離も少し近づいてきている様だ。
 おじさん達とは、そう、飾り職の長次郎と奥州屋伊之助のことである。
 七つの鐘で仕事を上がり、日当を貰って木場の荷揚げ場から五本松に着くまでに約半刻はんとき、まだ日の出ている時分のためか、客はおじさん達二人だけで、大工の金助親子も現れていない。
 市兵衛は刀掛けに差料を置いてから、彼らの座る長床几の向かい側の定位置に腰を下ろした。
「これは又どうした風の吹きまわしでござんしょう、三日に一度の三村さんが、二日続けてお見えだよ」
 長次郎は揶揄からかう様に言った。
「実は、日雇ひようの日当が五十文上がりまして、本日より二百文いただける様になったのです。いやこんな些末な話を自慢げにいうのは真にお恥ずかしいのだが、なんだか嬉しくて、帰りについ、寄ってしまいました」
「それは目出度いじゃございませんか。よく、頑張りましたねえ」
 奥州屋伊之助が銚釐と猪口を持って市兵衛の隣にやってきて、洗杯の代わりに猪口を土間に向けてひと振りしてから、まずは一献と勧めた。
「では遠慮なく」
 と屈託なく杯を受けた市兵衛は、暫く猪口の中の酒をみつめていたが、意を決した様に一口で飲み干し、
「旨いっ」
 と唸った。
 煙草を呑みながらその様子を見ていた長次郎が、大袈裟に頷きながら、
「五本松へ越して来られてからふた月余り、色々ご苦労されましたでしょう。本当に良かったですねえ。しかし、つい嬉しくて立ち寄ったのがこのでん留という所が嬉しいじゃねぇか、なあ伊之さん」
 と、既に涙ぐんでいる。下町の年寄りは涙もろい。
「さあさあ、今度は俺の晩だ、ぐっといって下せえ」
 そういうと、長次郎は己の銚釐をぐいと持ち上げた。
「忝い、遠慮なく頂戴します」
 市兵衛はそう言うと、長次郎が注いだ酒を、これ又暫く見つめて動かなくなったが、思い出した様にこれ又一息で飲み干した。
 そこへ、
「三村さん、出来ましたっ」
 調理場からお春が声を掛ける。
 市兵衛がお春から折敷を受け取り席に戻ると、長次郎が中を覗き込んでにやっとした。
「お、でんがくは芋半ですか、もうすっかりご常連でございますねえ三村さん」
「皆さん、旨そうに召し上がっておられるので、一度頼んでみたいと思っていたのです」
「ここのでんがくを芋半で頼む御仁はもう常連だよ、ねえ伊之さん」
 伊之助はいつも通り、まんまるな顔を笑顔にして頷いている。
 芋半とは、味噌でんがくが豆腐と芋の二種類になる時分、即ち芋が江戸市中に出回る八月以降に、通常は半切りの芋が二個で一串、四半丁の豆腐で一串のそれを、芋、豆腐の量をそれぞれ半分にして一串で芋と豆腐の両方を味わえる様にしたもので、訳知りの常連が頼む品であった。
 市兵衛は銚釐から酒を注ぎ、左手で猪口を持ち、そのまま猪口の中の酒をじっと見つめたまま、動きを止めた。
 あの大宮宿での一件、組頭鬼頭の憎々しい赤ら顔、対照的に青ざめて市兵衛から顔を背ける岡本や、己を守る事に汲々としていた小頭の杉田への恨みや憤りなどは、やはり猪口を見ると心の中から湧き上がってくる。しかし、その時に感じる切なさや苦しさは、日に日に薄れてきている様にも感じていた。
 市兵衛は、五本松へ来て以来、酒はでん留でしか飲んでいない。その最初の手酌の一杯目は、いつも酒を満たした猪口をじっと見つめる癖がついていた。知らず知らずのうちの癖で、恐らく気が付いていないのは本人だけであろう。
 暫く、猪口の底を眺めていた市兵衛は、一息で酒を飲み干し、言った。
 「木場の、西田屋さんという材木問屋で荷揚げ人足をさせて頂いているのですが、番頭さんから、今日から平人足分の日当として二百文を払うと云っていただきました。見習いは追廻しと云って日当が五十文安いのです。五十文あれば、此処で酒一本にでんがく、それに飯を食べられる。有難いことです」
「ああ、西田屋さんですか。あそこの先代には、頼まれて一度象嵌入りの銀煙管を拵えたことがありますよ」
 長次郎はそう言うと、煙草盆へ煙管の灰を落とした。よく見るとこれも良い拵えが施されている銀煙管である。長次郎自身の作品であろうか。
 提げ物に煙管を仕舞いながら長次郎はそう言うと、酒のお代わりの注文をする為に、空の銚釐を持って立ち上がった。
「三村さん、ご自分のことを、初めて仰いましたね。勿論言いたくないことは何も喋らなくて結構なのですよ。手前どもに他人様の苦労話を種に酒を飲む悪い趣味はございませんから。ただね、何と申しますか、少し嬉しいのですよ、あたしは」
 そんな台詞を吐くのが少し気恥ずかしいのか、伊之助も猪口に目を落としながら呟いた。
 そこへ長次郎がお代わりの銚釐を持って帰って来た。お春は長次郎の酒を飲む調子を弁えていて、予め燗を付けていたのだ。
 長次郎が席に戻るのを待っていたかの様に、市兵衛が切り出した。
「御両所とは、たったのひと月の間のお付き合い、この店で三日に一度、半刻程の時間お目に掛かるだけでしたが、拙者、お二人にどれだけ救われたかわかりません。三日に一度、ここでお春ちゃんの笑顔に迎えられ、御両所に気さくに話し掛けて頂き、暖かい酒、暖かい豆腐汁を頂く事が出来たから、それがしは自棄を起こさずに毎朝木場まで行けたのだと思います」
「三村さん、いや市兵衛さん。俺のことは長さん、こっちぁ伊之さんで良い。なあ、伊之さん。御両所なんて言われると尻が痒くなっていけねえよ」
 伊之助はそうだそうだと、相変わらずにこにこと丸い顔で相槌を打っている。

「暗い話ですが、少しお付き合いください」
 そう切り出して、三村市兵衛は、この数か月の間に己に起きたことを語りだした。大宮宿での出来事。理不尽なお裁きで自分だけが放逐処分にされた事。命を救った朋輩や上役にも見放された絶望感。それらを毎晩毎晩、夢に観てはうなされている事。
 人足仕事の休憩中に、荷揚げ場にやってくる八丁堀の高積見廻り同心を見かけるだけでも、国元でぬくぬくとしているであろう彼らを思い出し、どん底の自分と見比べてやりきれなくなって叫びたくなる事があることなど。
「こちらでお春ちゃんや皆さんと御一緒すると、やりきれない気持ちが少し、落ち着くのです」
 長次郎と伊之助は一言も無く酒を飲んだ。二人は唯黙って聞いていた。
 鼻をすする音が聞こえたので長次郎は振り返ると、調理場で市兵衛の話を聞いていたお春が前垂れを顔に当てて肩を震わしていた。

 四人しかいない店に暫く静寂が流れた。はっと気が付いた様にお春は銅壷から銚釐を引き上げ、折敷に乗せて市兵衛の前に運んできた。
 「日当上がって良かったですね三村さん。これからはもっとでん留ここに寄ってくださいね、約束ですよ。これはあたしから」
 そういうと、お春は市兵衛に酌をした。もう、あのいつもの笑顔に戻っている。
「お春ちゃん、忝い……」
 市兵衛はそれを一息で飲み干した。市兵衛が飲み干すのを見届けたお春は、いつもの様に頬を紅色に染めた笑顔で踵を返し、調理場へ戻っていった。

 長次郎は提げ物から煙管を取り出し、刻みを詰めて旨そうに呑み始めた。
「市兵衛さん、この銀煙管、良い出来でしょう。自分で言うのはなんだが、これぁ十五年前ぇにあっしの弟子が拵えたんですよ」
 一面に細かい花模様の象嵌の入った銀煙管を慈しむ様に、長次郎は何故か煙管の話を始めた。
「丁度四十の歳のことです。あっしぁ弟子も二人ばかり抱えておりましてね、蔵前のお大尽や、木場の旦那方から、ぽつぽつと名指しでお仕事を承れる様になってきた頃でした。木場のさる旦那から、ご自分の煙管に女将さんや娘さんの簪、帯留やらの、纏まった仕事を戴きましてね、皆で精を入れて拵えたんです。中に入った小間物屋さんが是非にとあっしを推してくださいましたから、何としても、その期待に応えたい、そんな一心でした」
 煙草を呑み終わり、長次郎は煙管を左手の上で打ちつけて灰を落とした。
「これを作ったのは、弟子の二人の内、年かさの利八って野郎でしてね。当時二十歳はたちで、腕が良いからそろそろ独り立ちさせようか、なんて言っていたんです。こいつがいよいよ明日、小間物屋さんに納めるというその晩に、出来上がった品を一切合切持ち逃げして消えたんです」
 市兵衛は相槌の代わりに、お春が運んできた銚釐で長次郎の猪口を満たした。
「あの時の事は忘れられません。もう、悔しくて悔しくてねえ、手前てめえの子の様に可愛がって、独り立ちする時には銭も持たせてやろう、客も付けてやろう、なんて話を女房としていたばかりの頃ですよ。そいつが隠れて博奕に嵌って居やがったなんて夢にも思いませんでした」
 長次郎は当時を思い出してでもいるのか、酒で満たされた猪口に暫く目を落としていたが、それを一気に呷って話を続けた。
「奴さん、悪い賭場に引っかかっていましてね、十五両の博打のお足(借金)を詰めるのに窮して持ち出したって訳です」
「その話はあたしも初耳です。長さん大変な思いをなさいましたな……」
 伊之助も銚釐を上げ、長次郎の猪口を満たした。
「お客様には大変申し訳ないことをしたんだが、中に入ってくれた小間物屋さんのお怒りが解けなくてねえ、出入りを禁じられた挙句に、損料含めて前金の二十両、耳を揃えて返すということになったのですが手元にはもう五両の銭しかなかったんでさぁ」
 市兵衛も伊之助も黙って聞き入っている。
「誰から聞き付けたのか、お春坊のおとっつあん、私の幼馴染の留蔵が、女房のおいねさん連れてうちへやって来たんです。留の野郎、うちに来るなり、おいねさんに抱えさせて来た風呂敷包みを開けさせたんです。そこにはねえ、夫婦でこつこつと蓄えたお宝が、都合十五両。小判なんざあ一枚もねえ、小粒がほとんどで、真新しい銭差ぜにさしに差したばかりの銭の束も有りました。贅沢もしねえで儲けも薄くして、客に旨いと言われるのだけが喜びだと、額に汗して稼いだ銭を、あの馬鹿全部俺んとこ持ってきてくれたんですよ。おいねさんもこれっぽっちも嫌な顔をしなかった。あのお宝を見て、俺は腐らずにもう一度やってみようって思ったんです。銭も信用も失った俺に、何も言わずにけてくれた留蔵の、あの気持ちにこそ、救われたんです」
「留蔵さんは、長さんにとっては幼馴染という言葉では片づけられない存在であったのですね……」
 市兵衛がそう呟くと、
「市兵衛さん、聞いてほしいのはここからなんです」
 長次郎がそういい、話を続けた。
「幸いな事に、故買をした質屋から芋ずるに足がつきまして、利八は直ぐにお縄になりまして、この煙管も含めて粗方の品は戻って参りました。その時、留蔵はあっしに、『抜け』をしてでも利八の命を助けてやれと、こう云ったんです」
 伊之助が驚いて目を丸くして聞いている。
「あたしゃ聞く耳を持ちませんでしたよ。あんなに可愛がっていた弟子に、恩を仇で返されて地獄の底へ突き落されたんだ。何故そんな奴の為にあちこちに銭をばらまいてまで『抜け』をして助けてやらねばならねえのか、さっぱり判らなかった」

 十両盗めば首が飛ぶ。これが盗犯に関してのお裁きの基本である。『抜け』とは、本来盗まれていた品物を調書から抜いて貰い、被害総額を下げる事、およびこれを町方の役人に銭を払って依頼する事を云う。
 この場合、幾つかの品物を盗まれていない様に調書を改竄して貰い、被害総額を十両以下にして利八の罪を一等下げ、死罪ではなく遠島にして貰う為の工作を指す。
「留は、こう言いました」
 長次郎は続けた。
「なあ長さん、許せない気持ちはわかるよ。俺が長さんの立場でも許せないと思う。だがね、許さなくて良い、憎み続けていいんだ。でも利八が生きていなければ恨むことすらできないじゃあないか。遠島になったら、島の生活も相当に苦しいらしいし、仮に御赦免になったとしても、腕に墨を入れた島帰りが江戸で暮らすのは決して楽じゃない。生き続けさせて憎み続けたらどうかね。万々が一、長さんの気持ちが、十年後、二十年後、三十年後に融けてさ、あいつも辛かったんだろう、なんて思える時がもし来たとしたら、今度は、何故あの時利八を助けてやらなかったんだっていう、己の気持ちに責めたてられる様になる。俺は何度も苦しむ長さんだけは見たくないんだ」
 市兵衛は体に稲妻が走った様に感じた。そして、訊ねずにはおられなかった。
「お許しになって、抜けをなさったのですか」
「あっしゃ絶対に許さない積りでした。お恥ずかしいが、他人事だからそう言えるんだと、有り金を全部出して救ってくれた留蔵にすら、そう思ってしまった程です。でもうちの嬶が言ったんです、許してやってほしいと。出来の悪い息子と同じだって。それに恩人がそう言ってるんだから、従わない法はないと。まあ、そんな所です」
「その、利八さんってのは、御赦免は未だ?」
「ええ、もう十五年、利八も三十五です。千代田のお城で大旦那様の御代替わりでもあれば、ひょっとしたらひょっとするかもしれないねえ……」
「おじさん、利八さん戻ってきたらどうするの?」
 いつの間にか銚釐を二本折敷に載せてお春が運んできていた。
「お、済まねえなわざわざお運びまで」
 と言い、慌てて笊に二本分の酒の代金を入れに行った長次郎は、新しい燗をお春の酌で呑んでから、お春の問いに答えた。
「一発ぶん殴るね。でも、もし、もう一度飾り職をしたいと言ったら、俺から仕事を廻しても良い、かな。……ねぇ、市兵衛さん」
「はい」
「その、芋半みたいなもんで良いのではないでしょうかね。人の心をその串に例えればさ、許そうとする思いが丸い芋で、憎んだり、呪ったりする心が四角い豆腐。そのどちらにも刺さっちゃうんだね、人の心にはさ。旨い豆腐を敵役にして気の毒だけど物の例えだから」
「……」

 理屈では判るが、その様な境地になれる自信のない市兵衛は黙り込んでしまった。

「おじさん何それ、例えになっているの?」
 お春は明るく笑い、思い出した様に市兵衛に言った。
「三村さん、今日のお話、家主の佐治さんが聞いたらきっと喜ぶわ。あのお爺さん、時折昼間に店に寄って、三村さんの事、根掘り葉掘り聞いていくんです。飯は喰っているか、酒は増えていないかって。いつもおじさん達に見守って貰っているあたしが言えた柄ではないけど、自分の事を思ってくれている人って、意外に居るものですよね、自分じゃ気が付かないけど」

「お春ちゃん……」

 市兵衛は、今日は帰りにでんがくを土産にして、福禄寿の爺さんの家に顔をだそうか、と考えていた。
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