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第0195話「優しい犬」
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カレンの眼前にホーフェン男爵の姿が浮かび上がった。
老人自身も慌てふためいているようだ。
高齢者から見れば、このページまで読み進めたカレンは邪神「悪魔」に取り憑かれているとしか思えない。
ホーフェン男爵の「感情」を理解できるのはカレンだけではない。
ケビンの封印下にあるのは確かに悪神だ。
その悪神がペット状態に素早く変化し、ドアを開け閉めするような技能は生まれつきのもので、自分自身だけでなく術法も提供しつつプーアルに乗り回される存在だった。
しかしカレンは決してそれを自分のわんこと見なさない。
この金毛犬がどれだけ温かく優しいように見えるほど、その内面には怒りと不満が蓄積されているのだと人間心理から推測するのだ。
それでもカレンはケビンに封印を解くことを決意した。
慈悲や感情ではなく、自分のチームが小さい以上、賞罰分明でなければ隊伍がまとまらないからだ。
封印が重層的なら自分も段階的に解除していく。
その上で自身が常に制御できるようにすればいい。
ケビンの身分が露見すれば正教会からの無慈悲な弾圧を受けるだろうが、わんこが壁を乗り越えて密告する可能性はないとカレンは判断した。
そこに座っているケビンも何かを感じ取ったようだ。
視線が書机に向けられつつも温かなゴールデンレトリーバーの笑みを保ち続けている。
具体的な封印解除方法は第二段階から始まる九つの手順だった。
ホーフェン男爵がカレンに与えた公式通り、解き方を一つずつ適用していくだけだ。
各段階の終わりにはホーフェン男爵のコメントが添えられていた。
「第二段階……本当にそれでいいのか?」
「第三段階……もう少し考えてみる価値があるだろう?」
「第四段階……彼は悪神なのだ!」
「第五段階……今こそ醒めよ!」
……
「第九段階……本当にその覚悟なのか?」
「第十段階……悪魔の檻を開ける準備だぞ!」
全てを読み終えたカレンが伸びをすると、ついでに最後のページを開いた。
ホーフェン男爵からのメッセージだった。
「ラネダルが封印される前、ディースはあなたの胸から掴み、彼の胸から引き出した。
その魂……いや存在媒体と私が封印した際に、どうしてもインメレーズ家の匂いを付着させてしまった。
そこで良い知らせがある。
小カレンよ、この陣はインメレーズ家系に属する者だけが解除できるように設計されている。
ディースの血祭儀式の影響も考慮すると、この世で悪神様の封印を解くのはあなたとディースの二人だけだ」
当然、特殊な存在も例外なく封印を解くことは可能だが、問題は邪神様がその存在に助けを求めることに躊躇するかどうかだ。
「この文書を見せてやろう」そうだろう。
既に部分的な封印解除を許可した以上、文字理解能力があるはずだ。
最後に、
邪神様へ挨拶する
『一生忠実に仕えること、それが貴方の唯一の救い道だ』と。
カレンは鼻を撫でながら茶を飲んだ。
この文書をケビンに見せるのは犬にとって酷な行為だと感じたが、
人生も狗生も試練を通じて成長するものだ。
困難なくしてどう成り立つか。
そこでカレンはそのページのメモを指した。
アルフレッドが近づきノートを受け取り、カレンが頷くとケビンの前に置いた。
ケビンの頭部(犬)が左右・上下に揺れながら真剣に読んでいる様子が見て取れた。
最後の一文を読み終えると目を瞬かせた後、舌を出し鈍い笑みを見せつつ尻尾を振っていた。
アルフレッドはケビンの前にしゃがみ込んで言った。
「本心からなのか演技なのかは分からないが、伝えたいのは貴方が人生で最も重要な機会に直面しているということだ。
偉大な存在は貴方への仁慈と広大な胸襟を示すだろう。
金毛種かラネダール種か、野良犬であろうともこの席に座ればその光が全身に降り注ぐ。
空や地面も非情で全ての生物を草結びの狗として扱っている」
「……」ケビンは黙った。
「その言葉の深意を感じ取れたか?」
アルフレッドが尋ねた。
ケビンは頷きつつ首を横に振った。
アルフレッドは笑みを浮かべて言った。
「それほど重要ではない。
ただ伝えたいのは、貴方の忠誠心や我慢強さ、裏切りや不満など、偉大な存在にとっては関係ないということだ。
貴方の行動がどんな結果を生むとしても、その光はより輝き続けるだろう。
重要なのは貴方の選択が未来の地位にどう影響するかだ。
永遠に虚無の闇に放逐されるのか、それとも聖なる壁画の一隅で貴方だけの場所を得られるのか?」
ケビンはアルフレッドを見つめたままだったが、彼は立ち上がりカレンの方を向いた。
「お主様、材料は準備済みです。
明日から始めることにしますか、それとも今すぐですか?」
「今すぐだ」カレンが答えた。
「終わったら休むことにする」
睡眠はカレンにとって重要な時間だった。
彼は新鮮な精神で次の日を迎えられるよういつもそうしていた。
「分かりましたお主様、一刻も早く準備を始めます」
「うん」
アルフレッドは書斎から倉庫へと向かった。
カレンは立ち上がり寝室に向かった。
プールが毛布をかぶって横たわっている。
その寝顔は深く、安らかな呼吸で毛布の端を持ち上げていた。
「今日はアルフレッドが回復したばかりの能力を使ってボイラーを燃やし切ったんだよ」
カレンはその情景を想像しながら口角が緩む。
すぐに書斎から音が聞こえてくる。
彼女は戻ると、アルフレッドが儀式環境を整え終えていた。
ケビンが中央の椅子に座り、笑みを消して真剣な表情で緊張していた。
その前に背もたれ付きの小板凳があり、これはアルフレッドがカレンのために用意したものだった。
カレンは板凳に腰掛け、アルフレッドがさらに二つの小さなテーブルを持ってきた。
左側にはノートブック、右側には氷水の入ったグラスと黒いチョコレート、クリームシフォンケーキを置いた。
「時間がかかるだろうから」という配慮でアルフレッドは準備を整えていた。
カレンがノートブックを持ち、第二段階から手順に従って作業を始めた。
するとケビンを取り巻く陣法が輝き出す。
彼女は左手でノートブックを持ち続けながら右手で指先を動かし、ケビンの方向へと探り出した。
「公式や手順は与えられたとしても、生々しい接触を避けて基礎的な計算を行う過程では、どうしても時間がかかる」
カレンが深く侵入するにつれ、ケビンの周囲に原理の光輪が現れた。
その一角で光明余党の老者の姿が浮かび上がる。
アルフレッドは初めてこの存在を見たが、既知の存在だったため頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
老者も同様に会釈した。
「お初にお目にかかります」
すると老者は儀式に近づき黙って観察し、アルフレッドもそばまで進んで並んだ。
「貴方の影響は及ばないでしょう。
安心して下さい。
私は思想のみで存在します。
貴方が彼をどうするか?」
老者が指差したのは、陣法作業に没頭しているカレンだった。
「貴方は貴方の幸福です」
「不純なものだ」老者は遮ることなく言った。
「私は疑っている」
「貴方が神々と呼ばれる存在を指導し、未来への明確な道を見せるのは貴方の機会です」
「私は思想の烙印に過ぎない。
私ではない。
私の本体にも影響できない」
「空と大地は残酷で、全てのものを草人形の犬のように扱っている」
アルフレッドは語録の一節を口ずさめたが、これは言葉尽くしではなく、その言葉自体が適切だったからだ。
以前は犬に向けたものだが、今回は思想の烙印に向けた。
どちらも人間ではないし、後者は生命すらない存在だった。
「草人形の犬とは何ですか?」
「私の解釈では、特定の文化圏で神々を祀る際に用いられる……犠牲品です」
「犠牲品か。
それなら空と大地は神々でしょうか?」
「はい、でも私はむしろ、神よりも偉大な呼び名だと信じています。
少なくとも、それは諸神の意志を集めたものでしょう」
「分かりました、この言葉は味わい深いですが、同時に破壊的です。
なぜなら各神教が自らの神と信者を一種の親密関係で結びつけるプロパガンダを行っているからです
原理神教の人々が研究した『神性を点と面に分類する』という理論よりも、貴方の説は一つ段階が高い」
「うむ、私は非常に快適です。
なぜなら私も本体と同じように『草食動物』呼ばれる存在になったからだ」
「ああ、私の信仰が剥離し、同時に私の自己認識も消えつつあることを感じています」
「あなたを生み出したのは主人の意志であり、自我を持たせたのも主人です」
老い先知はアルフレードを見つめ、驚きを隠せない。
直感的に危機を感じた。
なぜなら自分が未来にこの赤いスーツの男になるかもしれないという予感があったからだ
そこで老人は話題を変え、儀式の中心にあるケビンを指して尋ねた
「その犬の中に封印されているのは何か?」
「うむ」
「何が封じられている?」
「一尊の邪神です」
「えっ?」
「邪神ラネダルです」
「おお……」
老人の表情が驚愕に歪んだ。
自分が最初に登場した際の冷静さを忘れ去った
「では現在行っていることは?」
「主人が自ら邪神の封印を解いているのです」
「聞き間違いですか?」
「いいえ」
「狂気ではありませんか?」
老人は再び尋ねた。
表情が驚愕から固まったまま
「あなたとこの邪神、主人の目には『草食動物』です」
「おお……」
老人は呆然と答えた。
その姿形が歪みだし声も乱れ始めた
「私は依然として……偉大なる光……光の神を信じています」
アルフレードは笑って返した
「しかし光の神はあなたから遠く、主人だけが常に眼前にいるのです」
「そうだね……」
老人の姿形が徐々に消えていく。
現れる時間は短くなりつつも受ける衝撃は増していく
その時、カルンがケビンへの封印解除を最終段階へと進め始めた
同時にケビンと彼の体内の存在もカルンに対して完全な信頼を開いた
距離が近い場合、強い方の魂は相手の深層記憶を見ることができる。
職業的習慣からカルンはその機会を拒まずに受け入れた
「バシャーッ……」
「バシャーッ……」
波の音が連続して響く
カルンは自分が砂浜に立っていることに気づいた。
目の前の岩場に男の姿があった。
近づき岩場に上がり、その隣に並んだ
カレンは、岩場の向こう側に広がる港を見やった。
そこには無数の海賊船が停泊しており、その上では人々が密集して立っていた。
すると、白い長衣をまとった女性が群衆から現れた。
彼女は一人で小舟に乗り込み、港の端へと向かう。
岸辺では女性たちが彼女の前に膝まずき、讃美の歌を口ずさめた。
周囲の恐ろしい海賊たちも一斉に静寂に包まれた。
その船は深海へと進み、女性の体から優しい白光が発せられ、月のように降り注ぐように輝いた。
突然、海底から壁のようなものが現れ、日没を遮るように高くなり始めた。
しかし彼女の光はそれを取り替え、巨大な口がその中に形成された。
船はその口の中に漂い、瞬間的に閉じられた。
すると空に雨が降り出し、港では女性たちの悲しみの声が響いた。
カレンの隣にいた男が海に向けて叫んだ。
「私は約束する。
いずれかの日、海神教を滅ぼし、海神その人を堕ちさせる!」
記憶の映像はそこで途切れた。
カレンの視界には十二個の光輪が浮かび上がり、それは十二重の封印を象徴していた。
彼女は最初の光輪に手を伸ばすとすぐに消えた。
意識を取り戻したとき、金毛のアルフレッドではなく、頭を爪で隠し涙をためているケビンがいた。
何も言わずにカレンはアルフレードに撤去を指示し、浴室へ向かった。
温水が身体を包むにつれ、彼女は先ほど見た映像を思い出すのだった。
小船に乗った女性はミルス神であるのか? ラネダールの恋人はミルス神なのか?
調べた資料によると、彼女は海辺の売春婦たちを守るため深海へ赴き、大海に飲み込まれて海神の愛人となった。
それ以来、海賊団には「妓女への支払いを滞らせれば船が沈む」という規則が生まれた。
これはミルス神と海神の約束だ。
無法な海賊たちを恐れさせる唯一の存在は大海だったのだ。
フローラス神は厳密には主神ではないし、正統教会も彼女を真の神として認めない。
海神に依存する派生神のような存在だ。
しかし原教旨主義的海神教が崩壊した後、正統海神信仰が分裂し、かつては支流だったフローラス神が台頭していった。
彼女の信者はもはや海島の船乗りたちに奉仕する売春婦だけではなく大陸全域に広がった。
海神教崩壊は自家の問題だったのか?
しかしなぜ秩序神教から邪神と烙印を押され封印されたのか?
シャワーを済ませたカルンが洗面所を出るとベッドへ向かい、プールが毛布の端を持ち上げた。
彼は電気をつけず目を閉じた。
夜空に、葬儀屋の屋根に犬が座り月を見上げていた。
首を伸ばし口を開けたが、遠吠えも狂犬のような乱暴な鳴き声もなく、爪で天高く掴みかかったものの何もつかめなかった。
諦めて横になり、体を反らせて月と並んで寝そべる。
目の中に憎悪と不満が溢れ、次第に深い落胆と疲れへと変わった。
最後に爪を伸ばし、家で誰かが夜の猫にかけるように。
空の月に毛布の端を持ち上げて「ワン」と優しく呼んだ。
老人自身も慌てふためいているようだ。
高齢者から見れば、このページまで読み進めたカレンは邪神「悪魔」に取り憑かれているとしか思えない。
ホーフェン男爵の「感情」を理解できるのはカレンだけではない。
ケビンの封印下にあるのは確かに悪神だ。
その悪神がペット状態に素早く変化し、ドアを開け閉めするような技能は生まれつきのもので、自分自身だけでなく術法も提供しつつプーアルに乗り回される存在だった。
しかしカレンは決してそれを自分のわんこと見なさない。
この金毛犬がどれだけ温かく優しいように見えるほど、その内面には怒りと不満が蓄積されているのだと人間心理から推測するのだ。
それでもカレンはケビンに封印を解くことを決意した。
慈悲や感情ではなく、自分のチームが小さい以上、賞罰分明でなければ隊伍がまとまらないからだ。
封印が重層的なら自分も段階的に解除していく。
その上で自身が常に制御できるようにすればいい。
ケビンの身分が露見すれば正教会からの無慈悲な弾圧を受けるだろうが、わんこが壁を乗り越えて密告する可能性はないとカレンは判断した。
そこに座っているケビンも何かを感じ取ったようだ。
視線が書机に向けられつつも温かなゴールデンレトリーバーの笑みを保ち続けている。
具体的な封印解除方法は第二段階から始まる九つの手順だった。
ホーフェン男爵がカレンに与えた公式通り、解き方を一つずつ適用していくだけだ。
各段階の終わりにはホーフェン男爵のコメントが添えられていた。
「第二段階……本当にそれでいいのか?」
「第三段階……もう少し考えてみる価値があるだろう?」
「第四段階……彼は悪神なのだ!」
「第五段階……今こそ醒めよ!」
……
「第九段階……本当にその覚悟なのか?」
「第十段階……悪魔の檻を開ける準備だぞ!」
全てを読み終えたカレンが伸びをすると、ついでに最後のページを開いた。
ホーフェン男爵からのメッセージだった。
「ラネダルが封印される前、ディースはあなたの胸から掴み、彼の胸から引き出した。
その魂……いや存在媒体と私が封印した際に、どうしてもインメレーズ家の匂いを付着させてしまった。
そこで良い知らせがある。
小カレンよ、この陣はインメレーズ家系に属する者だけが解除できるように設計されている。
ディースの血祭儀式の影響も考慮すると、この世で悪神様の封印を解くのはあなたとディースの二人だけだ」
当然、特殊な存在も例外なく封印を解くことは可能だが、問題は邪神様がその存在に助けを求めることに躊躇するかどうかだ。
「この文書を見せてやろう」そうだろう。
既に部分的な封印解除を許可した以上、文字理解能力があるはずだ。
最後に、
邪神様へ挨拶する
『一生忠実に仕えること、それが貴方の唯一の救い道だ』と。
カレンは鼻を撫でながら茶を飲んだ。
この文書をケビンに見せるのは犬にとって酷な行為だと感じたが、
人生も狗生も試練を通じて成長するものだ。
困難なくしてどう成り立つか。
そこでカレンはそのページのメモを指した。
アルフレッドが近づきノートを受け取り、カレンが頷くとケビンの前に置いた。
ケビンの頭部(犬)が左右・上下に揺れながら真剣に読んでいる様子が見て取れた。
最後の一文を読み終えると目を瞬かせた後、舌を出し鈍い笑みを見せつつ尻尾を振っていた。
アルフレッドはケビンの前にしゃがみ込んで言った。
「本心からなのか演技なのかは分からないが、伝えたいのは貴方が人生で最も重要な機会に直面しているということだ。
偉大な存在は貴方への仁慈と広大な胸襟を示すだろう。
金毛種かラネダール種か、野良犬であろうともこの席に座ればその光が全身に降り注ぐ。
空や地面も非情で全ての生物を草結びの狗として扱っている」
「……」ケビンは黙った。
「その言葉の深意を感じ取れたか?」
アルフレッドが尋ねた。
ケビンは頷きつつ首を横に振った。
アルフレッドは笑みを浮かべて言った。
「それほど重要ではない。
ただ伝えたいのは、貴方の忠誠心や我慢強さ、裏切りや不満など、偉大な存在にとっては関係ないということだ。
貴方の行動がどんな結果を生むとしても、その光はより輝き続けるだろう。
重要なのは貴方の選択が未来の地位にどう影響するかだ。
永遠に虚無の闇に放逐されるのか、それとも聖なる壁画の一隅で貴方だけの場所を得られるのか?」
ケビンはアルフレッドを見つめたままだったが、彼は立ち上がりカレンの方を向いた。
「お主様、材料は準備済みです。
明日から始めることにしますか、それとも今すぐですか?」
「今すぐだ」カレンが答えた。
「終わったら休むことにする」
睡眠はカレンにとって重要な時間だった。
彼は新鮮な精神で次の日を迎えられるよういつもそうしていた。
「分かりましたお主様、一刻も早く準備を始めます」
「うん」
アルフレッドは書斎から倉庫へと向かった。
カレンは立ち上がり寝室に向かった。
プールが毛布をかぶって横たわっている。
その寝顔は深く、安らかな呼吸で毛布の端を持ち上げていた。
「今日はアルフレッドが回復したばかりの能力を使ってボイラーを燃やし切ったんだよ」
カレンはその情景を想像しながら口角が緩む。
すぐに書斎から音が聞こえてくる。
彼女は戻ると、アルフレッドが儀式環境を整え終えていた。
ケビンが中央の椅子に座り、笑みを消して真剣な表情で緊張していた。
その前に背もたれ付きの小板凳があり、これはアルフレッドがカレンのために用意したものだった。
カレンは板凳に腰掛け、アルフレッドがさらに二つの小さなテーブルを持ってきた。
左側にはノートブック、右側には氷水の入ったグラスと黒いチョコレート、クリームシフォンケーキを置いた。
「時間がかかるだろうから」という配慮でアルフレッドは準備を整えていた。
カレンがノートブックを持ち、第二段階から手順に従って作業を始めた。
するとケビンを取り巻く陣法が輝き出す。
彼女は左手でノートブックを持ち続けながら右手で指先を動かし、ケビンの方向へと探り出した。
「公式や手順は与えられたとしても、生々しい接触を避けて基礎的な計算を行う過程では、どうしても時間がかかる」
カレンが深く侵入するにつれ、ケビンの周囲に原理の光輪が現れた。
その一角で光明余党の老者の姿が浮かび上がる。
アルフレッドは初めてこの存在を見たが、既知の存在だったため頭を下げた。
「お初にお目にかかります」
老者も同様に会釈した。
「お初にお目にかかります」
すると老者は儀式に近づき黙って観察し、アルフレッドもそばまで進んで並んだ。
「貴方の影響は及ばないでしょう。
安心して下さい。
私は思想のみで存在します。
貴方が彼をどうするか?」
老者が指差したのは、陣法作業に没頭しているカレンだった。
「貴方は貴方の幸福です」
「不純なものだ」老者は遮ることなく言った。
「私は疑っている」
「貴方が神々と呼ばれる存在を指導し、未来への明確な道を見せるのは貴方の機会です」
「私は思想の烙印に過ぎない。
私ではない。
私の本体にも影響できない」
「空と大地は残酷で、全てのものを草人形の犬のように扱っている」
アルフレッドは語録の一節を口ずさめたが、これは言葉尽くしではなく、その言葉自体が適切だったからだ。
以前は犬に向けたものだが、今回は思想の烙印に向けた。
どちらも人間ではないし、後者は生命すらない存在だった。
「草人形の犬とは何ですか?」
「私の解釈では、特定の文化圏で神々を祀る際に用いられる……犠牲品です」
「犠牲品か。
それなら空と大地は神々でしょうか?」
「はい、でも私はむしろ、神よりも偉大な呼び名だと信じています。
少なくとも、それは諸神の意志を集めたものでしょう」
「分かりました、この言葉は味わい深いですが、同時に破壊的です。
なぜなら各神教が自らの神と信者を一種の親密関係で結びつけるプロパガンダを行っているからです
原理神教の人々が研究した『神性を点と面に分類する』という理論よりも、貴方の説は一つ段階が高い」
「うむ、私は非常に快適です。
なぜなら私も本体と同じように『草食動物』呼ばれる存在になったからだ」
「ああ、私の信仰が剥離し、同時に私の自己認識も消えつつあることを感じています」
「あなたを生み出したのは主人の意志であり、自我を持たせたのも主人です」
老い先知はアルフレードを見つめ、驚きを隠せない。
直感的に危機を感じた。
なぜなら自分が未来にこの赤いスーツの男になるかもしれないという予感があったからだ
そこで老人は話題を変え、儀式の中心にあるケビンを指して尋ねた
「その犬の中に封印されているのは何か?」
「うむ」
「何が封じられている?」
「一尊の邪神です」
「えっ?」
「邪神ラネダルです」
「おお……」
老人の表情が驚愕に歪んだ。
自分が最初に登場した際の冷静さを忘れ去った
「では現在行っていることは?」
「主人が自ら邪神の封印を解いているのです」
「聞き間違いですか?」
「いいえ」
「狂気ではありませんか?」
老人は再び尋ねた。
表情が驚愕から固まったまま
「あなたとこの邪神、主人の目には『草食動物』です」
「おお……」
老人は呆然と答えた。
その姿形が歪みだし声も乱れ始めた
「私は依然として……偉大なる光……光の神を信じています」
アルフレードは笑って返した
「しかし光の神はあなたから遠く、主人だけが常に眼前にいるのです」
「そうだね……」
老人の姿形が徐々に消えていく。
現れる時間は短くなりつつも受ける衝撃は増していく
その時、カルンがケビンへの封印解除を最終段階へと進め始めた
同時にケビンと彼の体内の存在もカルンに対して完全な信頼を開いた
距離が近い場合、強い方の魂は相手の深層記憶を見ることができる。
職業的習慣からカルンはその機会を拒まずに受け入れた
「バシャーッ……」
「バシャーッ……」
波の音が連続して響く
カルンは自分が砂浜に立っていることに気づいた。
目の前の岩場に男の姿があった。
近づき岩場に上がり、その隣に並んだ
カレンは、岩場の向こう側に広がる港を見やった。
そこには無数の海賊船が停泊しており、その上では人々が密集して立っていた。
すると、白い長衣をまとった女性が群衆から現れた。
彼女は一人で小舟に乗り込み、港の端へと向かう。
岸辺では女性たちが彼女の前に膝まずき、讃美の歌を口ずさめた。
周囲の恐ろしい海賊たちも一斉に静寂に包まれた。
その船は深海へと進み、女性の体から優しい白光が発せられ、月のように降り注ぐように輝いた。
突然、海底から壁のようなものが現れ、日没を遮るように高くなり始めた。
しかし彼女の光はそれを取り替え、巨大な口がその中に形成された。
船はその口の中に漂い、瞬間的に閉じられた。
すると空に雨が降り出し、港では女性たちの悲しみの声が響いた。
カレンの隣にいた男が海に向けて叫んだ。
「私は約束する。
いずれかの日、海神教を滅ぼし、海神その人を堕ちさせる!」
記憶の映像はそこで途切れた。
カレンの視界には十二個の光輪が浮かび上がり、それは十二重の封印を象徴していた。
彼女は最初の光輪に手を伸ばすとすぐに消えた。
意識を取り戻したとき、金毛のアルフレッドではなく、頭を爪で隠し涙をためているケビンがいた。
何も言わずにカレンはアルフレードに撤去を指示し、浴室へ向かった。
温水が身体を包むにつれ、彼女は先ほど見た映像を思い出すのだった。
小船に乗った女性はミルス神であるのか? ラネダールの恋人はミルス神なのか?
調べた資料によると、彼女は海辺の売春婦たちを守るため深海へ赴き、大海に飲み込まれて海神の愛人となった。
それ以来、海賊団には「妓女への支払いを滞らせれば船が沈む」という規則が生まれた。
これはミルス神と海神の約束だ。
無法な海賊たちを恐れさせる唯一の存在は大海だったのだ。
フローラス神は厳密には主神ではないし、正統教会も彼女を真の神として認めない。
海神に依存する派生神のような存在だ。
しかし原教旨主義的海神教が崩壊した後、正統海神信仰が分裂し、かつては支流だったフローラス神が台頭していった。
彼女の信者はもはや海島の船乗りたちに奉仕する売春婦だけではなく大陸全域に広がった。
海神教崩壊は自家の問題だったのか?
しかしなぜ秩序神教から邪神と烙印を押され封印されたのか?
シャワーを済ませたカルンが洗面所を出るとベッドへ向かい、プールが毛布の端を持ち上げた。
彼は電気をつけず目を閉じた。
夜空に、葬儀屋の屋根に犬が座り月を見上げていた。
首を伸ばし口を開けたが、遠吠えも狂犬のような乱暴な鳴き声もなく、爪で天高く掴みかかったものの何もつかめなかった。
諦めて横になり、体を反らせて月と並んで寝そべる。
目の中に憎悪と不満が溢れ、次第に深い落胆と疲れへと変わった。
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絶望の果てにたどり着いた辺境の村で、レイナはひっそりと薬を作り始める。だが、彼女の薬はどんな難病さえ癒す“奇跡の薬”だった。
やがて重病の王子を治したことで、彼女の正体が王家の“隠し子”だと判明し、王都からの使者が訪れる――
「あなたの薬に、国を救ってほしい」
導かれるように再び王都へと向かうレイナ。
医療改革を志し、“薬師局”を創設して仲間たちと共に奔走する日々が始まる。
薬草にしか心を開けなかった少女が、やがて王国の未来を変える――
これは、一人の“草オタク”薬師が紡ぐ、やさしくてまっすぐな奇跡の物語。
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
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突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ハズレスキル『自動販売機』を授かって婚約破棄されましたが、 実は回復薬も魔力食も出せる最強スキルでした
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十八歳の成人儀式で授かったのは、誰も聞いたことのない《自動販売機スキル》。
役立たずと嘲られ、婚約者レオンには即座に婚約を破棄され、人生が崩れ落ちたように思えた。
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倒れた母を救い、王都の名門・ヴァルセイン伯爵夫人を救ったことで、カミーラは“呪詛”という闇の存在を知る。伯爵邸で出会った炎の力を持つ公爵家次男レグナスとの出会いが、彼女の運命を大きく変えていく。
やがて王都全体に“謎の病”が蔓延。カミーラは治癒スープの炊き出しを行い、人々を次々と回復へ導く。
一方、病の裏で糸を引いていたのは………。
“無価値”と嘲られたスキルが、いま世界を癒し、未来を照らす光となる――。
主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから
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安藤舞は、専業主婦である。ちなみに現在、三十二歳だ。
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「我々が召喚したかったのは、そちらの世界での『学者』や『医者』だ。それを『主婦』だと!? そんなごく潰しが、聖女になどなれるものか! 役立たずなどいらんっ」
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初対面の見た目だけ美青年に暴言を吐かれ、舞はそのまま無一文で追い出されてしまう。腹を立てながらも、舞は何としても元の世界に戻ることを決意する。
「主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから」
※※※
専業主婦の舞が、主婦力・大人力を駆使して元の世界に戻ろうとする話です(ざまぁあり)
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
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