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第2話、ビッチング

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「ああ、勿論そんなものは着けていない。だが〝能力〟を解放している時だけは赤茶色に変色する。それを踏まえて最後の質問だ。お前はさっきから何秒間俺と視線を交わしていると思う?」
 ——能力を解放しているとなれば、ビッチングは既に始められている⁉︎
 ゆっくりと首元に手をかけられているような妙な息苦しさと怖気を覚えて腕を摩る。
 今更視線を逸らせずに碧也は男を見つめ続けた。
「な、に?」
「その強気な態度が裏目に出たな。お前、俺の行動を見逃さないようにずっと見ているだろう? 俺のビッチング完了までの時間は、僅か十秒だ」
 弾かれたように碧也は目を瞠った。
 今の話が真実ならばもう既に完了し、十分以上は経過しているからだ。
 流石に動揺が生まれる。心音が忙しく鳴り響き、血が沸騰したように全身を駆け巡っていた。
 が、それが仇となる。全身の血流が良くなるのと同時に効用が早まったからだ。
「は……っ、クソが」
 己の心臓のあたりを鷲掴みにし、ハッハッと短く息を吐き出す。男は喉を鳴らして、引き攣った笑い声をこぼした。
「くくく、そろそろだとは思っていたが、その様子じゃ始まったか」
 足早に近付いてきた男にもう一度ソファーの上に投げられようとしたが、その隙を狙い男の喉元に向けて新しくナイフを握り込んだ手を突き上げた。
 一撃必殺の暗殺術の内の一つだ。
 こちらの考えや動きを読んでいたような俊敏さで男に手を弾かれる。ナイフは空を舞い、落ちて床の上を滑っていった。
 なす術もなく男にソファーへと投げられる。
「く……っ、う、ぁ!」
 まるでタチの悪い薬物でも注入されたように体が熱くて仕方なかった。
 主に下っ腹が疼いて内部を直に掻き回されているような鋭い痛みと、腰が砕けそうな甘い感覚がせめぎ合っている。
「体が完全に出来上がるまでに最短でも一時間はかかる。俺が帰ってくるまでそのまま大人しく良い子で待っていろ」
 男はオートロックの部屋を出て、更に外側からも別の鍵をかけると何処かへ出掛けて行った。


 ***


 時は西暦にして三千五十九年、場所はかつて日本と呼ばれていた場所……ニホンになる。
 過去最大級の災害とも言える大津波が突然押し寄せた事により、日本の六割以上が海に沈んでしまった。
 それまで平和しかなかった都市や街は今や見る影も無く、スラム街が広範囲に渡って並んでいる。碧也はそんな中で生を受けた。
 スラム街から少し離れた場所に小さな拠点を置いている寝部屋で、碧也はノートパソコンを操作している最中だ。
 消灯した後の暗闇の中、舞い込んできた暗殺依頼書を無表情で眺め、視線で文字を追っている。
 今回のターゲットは、西音寺正宗《さいおんじまさむね》という名の同業者だった。
 相手もアルファだという事で、報酬金額がずば抜けて高かったというのと、この斯界でよく名を耳にする正宗自身に興味があり依頼を受けた。
 傲岸不遜極悪非道冷酷無比で有名な正宗は至る所から恨みを買っていたが、一度交わした約束は破らない事でも有名で、その点だけは周りから絶対的な信頼を得ていた。
 パソコンに表示されている正宗のデータを自分に言い聞かせる様に読み上げる。
「独特なカリスマ性を有しアルファの中でも頭ひとつ分以上は能力が抜きん出ている。それも相まって、相手が自ら志願して配下に降る事が多く、崇拝する者も後をたたない……。ハッ、何処の教祖様だよ」
 まるで作られたように出来過ぎている。
 このご時世でそんな完璧な人間など聞いた事がない。
 しかし肝心な正宗の住処や生い立ちも合わせて一切不明となっていて、何処にもデータは残っておらず捜査は難航した。
 ——あり得ない。
 こんな事は初めてだった。
 裏の仕事をしていたとしても、幼少期の記録や他者からの記憶、闇医者を含めた通院履歴、その他の何かしらの手掛かりは必ず出てくるものだからだ。
 だが正宗にはそれが一切ない。
 あるのは誰が目にしても差し障りのない物ばかりで、本当にこの世に存在しているのかどうかも疑わしいくらいだ。
 一介にAというコードネームだけが広がっていて、首を傾げる羽目となった。
「何でAなんだ……?」
 ボソリと呟く。正宗という名の頭文字を取ったMや苗字から取ったSならまだ分かるが、Aだ。
 しかもこれは本人自らつけたコードネームだという。調べた性格から判断してみても適当なコードネームを付ける男とは思えずに、碧也は逡巡した。
 ——異名?
 そう考えてみたが、正宗には今のところ異名があるとの情報はない。
 アルファのA? あまりにも安直すぎて却下した。いくらアルファが少ないとはいえ、世の中には正宗の他にもアルファはいる。実際に碧也もアルファだ。
 ここまでしてデータを入手出来ないのは初めての経験で、碧也は正宗という男に更に興味を抱いてしまった。
 それから何度か正宗を尾行していると、事務所らしき場所を突き止める事に成功した。
 ——ここ、か。
 夜なのもあり暗くて良く見えないが、敷地はそれなりに広そうだ。
 二階建てになっている作りは質素で、飾り立ててはいなかった。パッと見の憶測でしかないが、大部分が打ちっぱなしのコンクリート造りになっているだろう。
 遠目に見た限りでも生活感がまるで無く、生きている印象をまるで受けないのは異様だった。
 都内の一等地のこんな目立つ所にあるにも拘らずに、何故今まで誰も見つけられなかったのだろうか。
 ——いや、違う……。ダメだ。
 三十メートル以上は前にいる正宗が事務所へ入っていくのを眺めつつ、碧也は足を止めた。
 ——恐らくこれはフェイクであり、罠だ。一旦引こう。
 自分で思っていた以上に気が昂っていたらしい。不自然に足を止めてしまったのを後悔し後退りする。
 下調べしていたのにも、尾行にも気付かれている可能性が高い。
 思い至った時には既に遅く、月明かりで出来た己の影にもう一つの体躯の良い影が重なっていた。
 推測二メートル近くはある高身長でガタイの良い肉体は記憶の中に一人しかいない。
 ——前方にいたのにどうして背後にいる? さっきまでのは影武者か?
 空気圧で全身を押さえ付けられているような嫌な息苦しさを感じながらも、振り返りざまにナイフを振り回した。
 余裕綽々といった態度で避けた男が、口元に笑みを浮かべている。
「ここ最近俺を探り、つけ回しているのはお前だな? せっかくだ。事務所内も見て行け。歓迎しよう」
 低音の笑い声と共に肩に手を置かれ、逞しい腕の中へ引き寄せられる。ここまで近付かれていたというのに気配すら感じ取れなかった。


 今に至るまでの経緯を思い返していた碧也は、怠い体を動かして出入り口の死角部分に身を潜めた。
 意識していなくても息は上がり、心音も早いままだ。それどころか体に訪れている変化にも戸惑っていた。
「う……」
 オメガ特有の愛液が溢れ出て下着どころかボトムスまでもどんどん湿らせていく。太ももまで伝ってきて気持ちが悪い。
 信じたくは無いが、本当にバース変更されているようだ。それに加えてヒートに入っているのだろう。下っ腹が甘い疼きを訴えていて、触れられてもいないのに性欲を煽られていた。
「ん……ぁ」
 自分でも驚く程に甘ったるい吐息が溢れ、左手で己の口を塞いだ。
 オメガは子を成せる特異体質ゆえに男でも子宮があり、ヒートと呼ばれる発情期が来るようになっていた。
 数ヶ月に一度訪れるヒートに入れば、己の意思とは関係なしにアルファを引き寄せるフェロモンを放出し、相手の性的興奮を煽る。そして女の膣液に似た粘液を溢して性行為の手助けをする。
 今までは遠目から見る側だったオメガのヒートを、自ら体験するとは思ってもみなかった。
 このままでは帰ってきた正宗の憂さ晴らしとして、性的な欲求を満たす玩具にされるのは目に見えている。
 帰ってきた瞬間を狙って、今いる死角から攻撃を仕掛けて逃げ出そうと碧也は思考を巡らせた。
 ——アイツに通じるのか?
 先程のやり取りを考えてみても、悔しいが正宗は自分より何枚も上手だ。また捕まる可能性の方が高い。戦闘が長引けば長引く程、不利になる。だからこそ一撃必殺にかける。
 何もしないよりマシだった。
 バース変更された件に関してはそれから考えよう、と碧也が逡巡していると、微かな足音と共に覚えのある気配が近付いてきた。

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