雨が乾くまで

日々曖昧

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着信

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 柳の家を出てしばらく、私たちはそれぞれに傘を開いて、横に並ぶようにして歩いた。雨のおかげで人通りは少なく、加えて傘の中で暗みを帯びた雪の顔に気づく人間もいなかった。
 皮肉なことに、今日ほど雪と長い時間一緒に外を歩いたのは、映画を観に行ったあの日以来だった。

「だんだん寒くなってきたね」
「はい。でも俺、まだ大丈夫です」
「ははっ、私の方が負けちゃいそうだ。大人の矜持ってやつの見せ所だね」
 歩みを再開してから、少しだけ会話に余裕が出たような気がした。雨の強弱の合間を縫って言葉を交わすのは、なんだか子供の頃の通学路を思い出して懐かしかった。何より、微かにでも笑っている雪の顔を見ているだけで、今はただそれだけで十分だった。先行き不安定な足取りは、案外軽やかに進んだ。

 雨の中を進んで十五分程経った頃、歩道沿いに人気のない広場があった。公園というほどのスペースではなかったが、広場の隅には屋根付きのベンチが置かれていた。
「雪、あそこでちょっと休もう」
 傘を差しているとはいえ、雨の中歩き続けた体はかなり濡れていた。見た通り、ただ屋根があるだけのベンチだったが、ひとまずの雨宿りにはちょうどよかった。

 私たちは早足でそこに避難し、濡れた服の端を絞ってから、できる限り近くに座って体温が下がらないようにした。
「ちょっとだけ……すみません」
 雪はそういうと、私の返答も待たずに、私の肩に頭を乗せてきた。柔らかい頬から私より高い体温が伝わってきて、寄りかかられた私の方が安らかな気持ちになってしまいそうだった。
 彼の顔を覗き込むと、普段から白い肌が一層青白くなっているようだった。私が思っているよりもずっと、雪は自分の感情を抱え込んでいるのだろう。

 一定の間隔で繰り返される雪の呼吸を聞きながら、私はふと思った。
 そろそろ、限界なのかもしれないと。少なくとも、このまま逃げ続けるだけでは状況が好転しないことは明白だった。
 私は雨で肌に吸い付いたズボンのポケットの中からスマートフォンを取り出し、あのポスターに書かれていた電話番号を打ち込んだ。勿論、私の肩に頭を預けている雪の目にも一連の動作は映った。
「それ、誰ですか」
 当然、疑問に思った様子の雪はそう尋ねた。私は自分の中の不安も晴らすように、なるべくあっけらかんと答えた。
「私達の、最後の望みってとこかな」
「答えになってません」
 私の言葉が投げやりに聞こえたのか、雪は少し表情を曇らせた。やはり私は場の雰囲気を変えるのが下手らしい。柳に抱いた敗北感は、どうやら正しかったようだ。「ごめんごめん」と平謝りしてから、私は会話を続ける。
「雪はさ、お父さんのことってどれくらい覚えてる?」
「父親……ですか?」
 雪は暫く考える素振りをした後、苦い顔で首を横に振った。彼の髪の先から透明な粒が飛び散る。
「すみません。父親の事は本当に何にも覚えてなくて……」
 なんの引っ掛かりもないといった彼の返答に、私は僅かな違和感を感じた。雪は記憶を失っていても、母親との思い出を完全には失っていなかった。いくら一年前から別居をしていたとはいえ、雪が肉親との思い出を根こそぎ忘れてしまっているというのはおかしく思えた。

 もう少しだけ考えてみた方が良いのかもしれない。
 私が押しかけていた緑の通話ボタンから指を離そうとした瞬間、突然私のスマートフォンが着信を受けて震え始めた。画面に表示された電話番号を見て、反射的に私は電話に出てしまった。
「もしもし?」
 自分の声が、自分の耳に吸い込まれるような感覚に陥った。というのも、実際に私の発した四文字が、私達二人の背後から聞こえてきたのだ。
「楓さん!」
 雪の警告するような叫び声で私は後ろに振り向く。視覚情報に脳が追いつくまでの一瞬の内に、私の頭に何かが振り下ろされた。激しい痛みと、頭蓋骨が唸ったような鈍い音が頭を埋めた。アスファルトの地面に体が倒れるが、打撲の痛みはどこか遠くの方に感じた。
 現状を理解する思考すらも許されないまま、私の意識は奪われた。
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