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1話
しおりを挟む「“伯爵令嬢”シャーロット・フォン・オルト・エクアとの婚約を、ここに破棄する」
どれだけ言葉を尽くしても、届かない相手がいる。理解する気のない人間に、理解は生まれない。私はそれを、婚約者から教えられた。
何を言おうとも私からの言葉はすべて侮辱に感じるそうだ。
一定のスピードで過ぎ去っていく木々と、生い茂る緑。その合間を抜けて降り注ぐ陽光が、まだ昼にもなりきらない森の空気を淡く照らしている。草と土の匂いが鼻腔をくすぐり、揺れる馬車の中で、私はぼんやりと目を細めた。
何故、私が森を抜けて王都から遠く離れた地へ行くことになったのかを。思い返さない方が楽だと分かっているのに、記憶は勝手に昨日へと引き戻される。
――前日。王城、式典会場。
王城の大広間は、普段でも十分すぎるほど荘厳なのに、今日はさらに別格だった。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、昼間だというのに無数の灯りをともされ、光の粒を床へと降らせている。磨き上げられた白大理石の床は鏡のようで、歩くたびに靴音が軽く反響する。柱には精緻な彫刻が施され、絡み合う蔓草や翼を広げた聖鳥が、まるで今にも動き出しそうなほど生々しい。
これまでも幾度となく参加した式典とは、空気の感じが違う。なんと言うか重いというか張り詰めているような感じがする。
人の数はそこまで多くはないけれど。視線の密度。ここにいる誰もが、この場の意味を理解している。失敗は許されない。軽口も、無意味な笑顔も許されない。正直、こういう雰囲気はあんまり好きじゃない。
今日の式典は、ただの儀式ではない。
ここ、オルトラン王国の王であるプルーデンス王のたった一人の子供であるルクス殿下が、正式に王太子となる日。
王から王太子へ、王笏が引き継がれる。この国での王笏とは象徴ではなく、実際に王権を代行する資格を得る証。つまり、名実ともに「次の王」になる日だ。何処かの国では金の判子だったりするみたい。
そして。
その王太子の妃として、私が王家へ嫁ぐ日程が発表される予定だったりする。
王になる事が確定していて陽光を溶かしたような柔らかな金髪に、大きく澄んだ瞳と整った小さな顔立ちが、愛らしさと王族の気品を同時に感じさせている。 そんな人との結婚。
最大限の玉の輿とも言える未来。
逃げ場のない、確定した未来。
式典会場の裏手にある控え室で、私は一人会場を覗きながら立っていた。
壁には淡い金の装飾。窓から差し込む光が白い床に四角く落ちている。外のざわめきが遠く聞こえる。準備はすべて整えられている。
苦しい。
胸が、ではない。胸もだけれど、それを含めた胴体全体が締め付けられていて息をするのもキツいのだ。
コルセット。
今朝、侍女たちにこれでもかというほど強く締め上げられた。理由は簡単。「ドレスを美しく見せるため」。
美しさのために呼吸を犠牲にするのは、貴族の嗜みらしい。
正直、意味がわからない。
息を吸うたび、肋骨が内側へ押し込まれる。肺が広がりきらない。浅い呼吸を繰り返すしかない。
しかも、朝食は抜きだった。
「お腹が膨らむとラインが崩れますので」
にこやかに言われた。にこやかに。さも悪意はないですよという顔で。
……悪意があった方が、まだ納得できたかもしれない。
ぐぅ。
控えめに、でも確実に、腹が鳴る。
やめて。ほんとにやめて。今だけは空気読んで。
自分のお腹に心の中で必死にお願いする。こういう時に限って元気なのはどうしてだろう?
あぁ、焼きたてのパンが食べたい。バターがじゅわっと染み込んだやつ。スープもほしい。まずは塩気のあるもの。そのあとに甘いものも食べたい。
「……食べたい」
小さく呟いた瞬間。
「何をだ?」
背後から声がした。振り返るまでもなく、分かる。
ルクス殿下。
振り返ると、殿下は扉にもたれかかるように立っていた。完璧に整えられた金髪。宝石をあしらった礼装。誰が見ても絵になる姿。
けれど、目だけが笑っていない。
「随分と余裕があるようだな、シャーロット」
口元が歪む。笑みの形をしているのに、そこにあるのは明らかな嘲りだった。
「まぁ、いい。伯爵の小娘のくせに、次期国王である俺に説教じみた戯言を並べ立て侮辱行為を繰り返してきたとはいえお前にとっても晴れの舞台だ」
ああ。
やっぱり、まだそれを気にしているんだ。
「殿下、私は……」
「黙れ」
ぴしゃり、と遮られる。
「忠告のつもりか? 助言のつもりか? 笑わせるな。身の程を知れ。お前は俺の隣に立つ資格を与えられているだけの存在だ」
言葉は静かだった。怒鳴りもしない。けれど、だからこそはっきりとした軽蔑が滲んでいる。
呼吸が、うまくできない。コルセットのせいか、言葉のせいか、分からない。殿下は私の様子を上から下まで見て口元を歪めた。
「苦しそうだな」
楽しそうに。
「今さら後悔しても遅い」
そう言い残し、殿下は踵を返した。扉が閉まる音がやけに大きく響く。残された空気が、重い。
……後悔?
何を?忠告したことを?
それとも、ここにいることを?
答えは出ないまま、侍従が呼びに来た。
「シャーロット様、入場の時間です」
頷き歩き出す。お腹が鳴る。足を前に出す。また、お腹が鳴る。
静かにするようにお腹を叩く。ウェッ、強すぎた……いたい。
廊下を抜け、大広間の入口へ。扉が開かれる。
光が頭上から降り注ぐ。広いホールには無数の灯り。
そして、人、人、人。
最奥には三段高くなった場所。その頂に王と王妃の玉座。
そして今日は、最上段ではなくその二段目に王と見慣れない人物が座っていた。
ソレイユ国の使者様。
宗主国ソレイユ。
この国の上に立つ大国。その代表が、王の隣に座っている。
一番上が空席なのはソレイユ国から使者様が来ているからだと思う。一番上はソレイユの王様ということ。
さらにその使者様の背後には、タリウス外交官の姿。
オルトラン王国が建国する時に付き従った六つの家の一つ外交を担う寛容のクレメンティア家その当主が自ら対応している。
場の格が、理解できる。
視線を動かす。貴婦人たちの身につける宝石がキラキラ光って目がいたい。
会場にちらほらと明らかに周りと違うオーラを纏う人達がいる。その中心の人達を見るとわかる。
オルト六家。
建国以来、この国を支えてきた六つの家。
寛容のクレメンティア家。
勤勉のエルセリア家。
節制のテンペラ家。
純潔のカスタ家。
誠実のヴェイル家。
均衡のエスタ家。
王家と並び立つ存在。
王家のみが名乗ることを許された、オルトラン。
建国時に付き従った六つの家に感謝と共に贈られた"オルト"の名を持つ六つの家。
大きな功績を上げた家が名乗ることを許される"オル"の名前。
このようにこの国では身分とは別に明確な名による差がある。
そして、この場にはオルト名前を持つ当主達が勢ぞろいしていた。
それぞれが、ただ立っているだけでどこにいるのか分かる。
重みが違う。
空気が違う。
私の実家であるエクア家も、その一つ。
そんなすごい家のさらに当主達みずから集まる式典。
ことの重大さがわかってもらえただろうか?
失敗をせずにしっかりと務めなくちゃいけない。そのはず……だったのに。
ふと、別の匂いが鼻をくすぐる。香ばしく焼かれた肉の匂い。小麦とバターの芳醇な香り。
甘い果実を咲き誇る花のように並べてある大皿。芸術品かと思うほど繊細な盛り付けをされた料理。会場の端に並べられた豪華な料理の数々。
……お腹、空いたなぁ。
ほんとに空いた。やばいぐらい空いた。
朝から何も食べてない。昨日の夜もほとんど食べてない。ここ数日ずっと制限されてた。ドレスのために。見栄えのために。
日頃から一口は小さく。ゆっくり噛んで。食べ過ぎないように。貴族らしく。
……もう、いいでしょ、それ。
あんな美味しそうなものが目の前にあるのに、食べられないとか拷問では?
口の中に唾液が溜まる。だめ、ほんとにだめ、垂れそう。必死に飲み込む。
式典は、続いていく。
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