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一、寄進と噂 一
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春の朝、裏長屋の四畳半。天井から小判が何枚か落ちてきた。床に落ちてはちゃりんちゃりんと音をたて、一枚は膳の味噌汁に入った。
「うわぁっ」
箸を放りだして、銅吉は床を両手でついた。三十路が近づく五尺七寸(約百七十一センチ)の長身が、みっともなく縮む。自分以外にそんな姿を見られてないのが、まだしもの幸いか。
銅吉は、味噌汁の滴る小判を拾った。震える手で残りも全て数えると、十枚ある。わずかに墨がついてしまったものもあった。書いては消した紙が、床に散らばっているからだ。墨汁の香りも室内からは消えてない。
「こ、こんな額……馬鹿な」
この銭は、必ず危機を連れて来る。右手が首筋をなぞった。二年前、ヒゲをそっていて手元が狂ったところだ。出血が酷く、十日ほど寝こんでしまった。そして、床には天井からやってきた一分判が落ちていた。
「銭霊……またか」
銭霊は、書物によれば、善行を銭で称えてくれるあやかしだ。善行とは世間一般の基準による。しかし、銅吉の場合はどうも勝手が違う。
あの傷跡が、またぞろうずく。カミソリが入った小さな箱つき鏡台へと、視線が走った。
箱つき鏡台の脇には、自分の手になる既刊本の戯作が置いてある。銅吉はただの戯作者であり、聖人君子のつもりはない。にもかかわらず、銭霊は様々な危機への警告として、相応の銭を与えてくる。銭霊自体が危機をもたらすのか、危機を見こして『善意』で銭を渡してくれるのかは分からない。だからこそ始末が悪い。
十両はとりあえず置いて、銅吉は戯作に近よった。軒先に止まったスズメの鳴き声が、別世界のように聞こえる。
戯作を箱つき鏡台にどけると、不覚にも滑り落ちてしまった。かまわず下にある日記を手に取り、ぺらぺらめくる。日常ではなく、銭霊の記録だけがつけてある物だ。五年ほど前に始めた。日常が影で銭霊に乗っとられているという皮肉めいた自嘲をこめて、日記としている。せめて、記録でも律儀につけるのがささやかな『抵抗』だ。
銭霊と一口にいっても、金額によって危機の内容はまちまちだった。
さかのぼる限り、規則性らしきものはある。金額が高いほど、深刻な危機に見舞われる。また、銭を得てから危機を抜けるまでの期間も、高いほど長い。一番簡単なものだと、一文と引きかえに、部屋の柱に蹴つまずいた。表紙の端についた赤黒いシミは、首をケガした時のもので、日記もその記述が最後となっている。
十両ときたら、一分判の四十枚にあたる。盗んだ額なら首が飛ぶ。吉原で太夫を揚げても一両ほどか。行ったことはないが、話にはそう聞く。
ただ、過去の記録にはいずれも『寄』とつけ加えてある。
ちょうど、遠くからかすかに鐘の音が聞こえてきた。朝五つから昼四つに変わる時刻(午前九時頃)だ。鐘の所在は品川の北はずれに位置する、松森寺。ここからなら、北へ半刻(約一時間)も歩けば着く。
銅吉は、ぼんやりと北に位置する壁を眺めた。これまでと同じ要領で寄進すれば、功徳になるだろう。日記にある『寄』とはそういう意味だ。松森寺は、銅吉が幼い頃にお百度参りをした寺である。少なくとも彼にいわせれば、それがきっかけで銭霊に憑かれた。寄進で銭霊が消えたり手を緩めたりしたことはないが、世のため人のためにはなる。せめて、そういう形で納得したかったし、ずっとそうしてきた。
壁から膳に視線を戻しかけたとき、不自然な影が床にあった。天井を見あげると、明かりとりの脇に一匹の三毛猫がいた。床に散らばる没の数々を見おろしている。目があったとたん、ガリッと天井を引っかいてどこかに消えた。
とにかく朝食の残りをかきこんだ銅吉は、小判をまとめて部屋を出た。髷も地味なら衣服も洗いざらしの青い小袖。野暮ったいにも程がある。
「あら、銅吉さん。おはようございます」
路地ですぐ、一人の少女に声をかけられた。頬骨の浮いた輪郭に、簪の一つもさしてない髪。背丈も、銅吉の胸くらいまでしかない。
そんな彼女が、自分の身体よりも長い傘を何本かまとめて背負っていた。矢に射られたスズメさながらだ。
「おはよう、おみなちゃん。これから納品かい」
さっきまで恐怖に振りまわされているし、一刻も早く寺へ行きたい。反面、他所でみっともない様子は出せない。そこは、銅吉にも意地がある。精いっぱい涼しい顔を演じた。
幸か不幸か、路地には他に誰もいない。早朝のひとときが終わり、働きに行ったり家で繕い物をしたりしている。銅吉は、井戸端会議の類が面倒なので、わざと家から出る時間帯をずらしてもいた。
「はい」
おみなは、銅吉と同じ裏長屋にいる浪人、上坪 源太郎の一人娘である。父娘二人で傘張りをしている。七、八年ほど前に引っこして来た時から母はおらず、銅吉もそうした話題を避けていた。
「次のご作品、いつ出るんですか」
少し恥ずかしそうに笑いながら、おみなは聞いた。背負っている傘が、かしゃかしゃとかすかに揺れた。背負い紐を握る両手からは糊の匂いが漂い、関節が少し白ばんでいる。
「う、うん。まぁその内ね」
言葉を濁しつつ、さっきの三毛猫の姿が頭の中をよぎった。明らかに、没を観察していた。ひょっとしたら、銭霊は三毛猫を遣わして警告したのかもしれない。ここ数ヶ月間、筆が止まったままだ。
書けなくなった戯作者は、鼻紙一枚の値打ちもない。家賃も払えず追いだされ、あるいは夜逃げし、そのうちどこかの路上でじわじわと餓死していく。負の注目にも当たらないという点では、獄門さらし首にすら劣る。
いやいやいや。発想が飛びすぎている。というより陳腐だ。
「きっと、毎日ねじり鉢巻きでもして打ちこんでらっしゃるんですよね」
銅吉の内心を察してか察せずか、おみなは大げさに表現した。
「い、いや、それほどでも」
「冗談ですよ」
ほんの少しだけ、おみなは唇を尖らせた。
「あ、ああ」
我ながら、十両で頭がいっぱいになっている。
「私、この前お金を溜めてやっと銅吉さんの本を買いました。とても面白かったです」
早ければ親が夫を見つけてくるような歳で、紅や櫛より戯作とは。
「えっ、貸本屋じゃなしに、買ったのかい」
貸本屋は、一件一件家を訪れて一冊単位で安く本を貸す。本好きだが銭のない人間に重宝されており、この裏長屋にもたまに来る。
「はい。本当に……その、好きな本は……買います」
頬を赤く染めて、おみなは小さな身体を余計に小さくした。
「そりゃ嬉しいな。でも、お父さんの勘気は大丈夫かい」
「もちろん。内緒の隠し場所がありますから」
おみなが笑うと、表通りの雑踏や馬のいななきが一瞬ながらも遠ざかる気がした。十両の恐怖も、短い時間にせよ遠のいた。
突然、どこかの部屋で、乳飲み児が派手に泣き声を上げた。銅吉は、おみなと二人そろってびっくりした。
おみなの傘が、がしゃっと大きな音をたてた。何本かの先端が地面に向けて滑り落ちかける。
「うわっ、大丈夫か」
「あっ、すみません。失礼しました」
「後ろを向いてくれ」
「で、でも……」
「いいから」
黙っていう通りにしたおみなの荷物を、銅吉はまとめ直した。その時、まっすぐ立っているかに思えたおみなの両足が、かすかに震えているのが分かった。毎晩遅くまで働いていて、体もぎりぎりということか。
この十両だけでなく、銭霊からの銭を……上坪父娘だけといわず……裏長屋の人々に配るのは最初から考えてない。変な噂が立つに決まっているし、あとあと当てにされるのも困る。それに、理由もなく他人から銭を受けとるような人間は、ここにいない。というのは筋として正しい反面、何ともいえないもどかしさを覚えもした。
「これで大丈夫」
「ありがとうございます」
また振りかえったおみなの返事に、乳飲み児をなだめすかす母親の声が、わずかに重なった。
「元気いっぱいだな。男の子なら、将来、火消しにでもなるかもよ」
火消しは江戸の男衆の代名詞である。
「そ、そうですね」
おみなは、助けられた気恥ずかしさでか、目に見えて顔を赤くしていた。同じ赤面でも、本を買った話とはまるで動機が違った。
「さ、行こう」
元気づけるように明るくいって、一歩踏みだした。
「はい」
素直にうなずくおみな。
こうやって並んだら、我ながら、いささかだらしのない叔父に見える。彼女は差しづめしっかり者の姪といったところか。
だからこそ、不思議でならない。おみなが荷物をしっかり梱包していなかったとは……。
「じゃあ、これで」
「ああ」
ぺこっと頭を下げてから、おみなは元気良く歩いていった。
その背中に、何者かの影がかすかに重なった。腰巻き姿で、髪を長く伸ばしている。全体的に半透明をしており、ちらちら濃くなったり薄くなったりした。影もまた、銅吉に背を向けているので誰かは分からない。懐の中で、触りもしないのに小判がガチャつく。
これまでに、そんな影など見たことも聞いたこともない。明らかに、銭霊の警告とかかわりがある。おみなを呼びとめようとした足と口が急に止まった。追いかけて声をかけても、何の足しにもならない。
おみなは、そのまま人混みに消えた。小判も静かになった。寺へと足を踏みだすしかなかった。
賑やかな品川の街並みは、潮風と旅人抜きには考えられない。裕福な遊び人むけの、華やかな飾りをつけた竿を売る釣具屋もあれば、道中の共となる足袋や草鞋を売る店もある。
大通りを抜けつつ、銅吉は十両とおみなに重なる影について考えこまざるを得なかった。寺への寄進だけで解決するのか。せめて、住職にでも相談すべきではないのか。
悩んでいると、寺の塔頭が見えてきた。その彼方にある、遠くの丘に生えた木々の間で、桜が薄桃色をぽつぽつと華やがせている。
銅吉は、松森寺の裏庭に面した塀まで進んだ。そこにも、桜は植えてある。塀の前に立つ銅吉の頭上で、風に吹かれた桜の花びらが数枚渦を巻いた。
「いー……ろー……はー……」
塀ごしに、幼い子ども達が平仮名を読みあげる声がかすかに聞こえてくる。裏庭の向こうは本堂で、寺に引きとられた孤児達が習い事をしている。かつては、彼もその一人だった。
しばらく聞いていると、以前より人数が増えているように思えた。農村から街にやって来たのはいいが、思うような生活がままならずに没落する家が珍しくない。田沼政治の負の側面が、こんなところにも影響を及ぼしている。
一分判や百文のときは、紙袋に入れておいた。小判ならそこまでしなくとも良かろう。
銅吉は深々と息を吸い、吐いた。十両を裏庭へ投げたとたん、どこからともなく一匹の三毛猫が現れた。
猫は、小判の一枚が塀を超える前に宙を飛んでくわえ、着地した。
「銭霊に見こまれただけあって、うまそうだねぇ。せいぜい頑張りな」
小判をくわえながら、三毛猫は喋った。滑らかな、若い女性の声音をしている。
「うわぁっ」
箸を放りだして、銅吉は床を両手でついた。三十路が近づく五尺七寸(約百七十一センチ)の長身が、みっともなく縮む。自分以外にそんな姿を見られてないのが、まだしもの幸いか。
銅吉は、味噌汁の滴る小判を拾った。震える手で残りも全て数えると、十枚ある。わずかに墨がついてしまったものもあった。書いては消した紙が、床に散らばっているからだ。墨汁の香りも室内からは消えてない。
「こ、こんな額……馬鹿な」
この銭は、必ず危機を連れて来る。右手が首筋をなぞった。二年前、ヒゲをそっていて手元が狂ったところだ。出血が酷く、十日ほど寝こんでしまった。そして、床には天井からやってきた一分判が落ちていた。
「銭霊……またか」
銭霊は、書物によれば、善行を銭で称えてくれるあやかしだ。善行とは世間一般の基準による。しかし、銅吉の場合はどうも勝手が違う。
あの傷跡が、またぞろうずく。カミソリが入った小さな箱つき鏡台へと、視線が走った。
箱つき鏡台の脇には、自分の手になる既刊本の戯作が置いてある。銅吉はただの戯作者であり、聖人君子のつもりはない。にもかかわらず、銭霊は様々な危機への警告として、相応の銭を与えてくる。銭霊自体が危機をもたらすのか、危機を見こして『善意』で銭を渡してくれるのかは分からない。だからこそ始末が悪い。
十両はとりあえず置いて、銅吉は戯作に近よった。軒先に止まったスズメの鳴き声が、別世界のように聞こえる。
戯作を箱つき鏡台にどけると、不覚にも滑り落ちてしまった。かまわず下にある日記を手に取り、ぺらぺらめくる。日常ではなく、銭霊の記録だけがつけてある物だ。五年ほど前に始めた。日常が影で銭霊に乗っとられているという皮肉めいた自嘲をこめて、日記としている。せめて、記録でも律儀につけるのがささやかな『抵抗』だ。
銭霊と一口にいっても、金額によって危機の内容はまちまちだった。
さかのぼる限り、規則性らしきものはある。金額が高いほど、深刻な危機に見舞われる。また、銭を得てから危機を抜けるまでの期間も、高いほど長い。一番簡単なものだと、一文と引きかえに、部屋の柱に蹴つまずいた。表紙の端についた赤黒いシミは、首をケガした時のもので、日記もその記述が最後となっている。
十両ときたら、一分判の四十枚にあたる。盗んだ額なら首が飛ぶ。吉原で太夫を揚げても一両ほどか。行ったことはないが、話にはそう聞く。
ただ、過去の記録にはいずれも『寄』とつけ加えてある。
ちょうど、遠くからかすかに鐘の音が聞こえてきた。朝五つから昼四つに変わる時刻(午前九時頃)だ。鐘の所在は品川の北はずれに位置する、松森寺。ここからなら、北へ半刻(約一時間)も歩けば着く。
銅吉は、ぼんやりと北に位置する壁を眺めた。これまでと同じ要領で寄進すれば、功徳になるだろう。日記にある『寄』とはそういう意味だ。松森寺は、銅吉が幼い頃にお百度参りをした寺である。少なくとも彼にいわせれば、それがきっかけで銭霊に憑かれた。寄進で銭霊が消えたり手を緩めたりしたことはないが、世のため人のためにはなる。せめて、そういう形で納得したかったし、ずっとそうしてきた。
壁から膳に視線を戻しかけたとき、不自然な影が床にあった。天井を見あげると、明かりとりの脇に一匹の三毛猫がいた。床に散らばる没の数々を見おろしている。目があったとたん、ガリッと天井を引っかいてどこかに消えた。
とにかく朝食の残りをかきこんだ銅吉は、小判をまとめて部屋を出た。髷も地味なら衣服も洗いざらしの青い小袖。野暮ったいにも程がある。
「あら、銅吉さん。おはようございます」
路地ですぐ、一人の少女に声をかけられた。頬骨の浮いた輪郭に、簪の一つもさしてない髪。背丈も、銅吉の胸くらいまでしかない。
そんな彼女が、自分の身体よりも長い傘を何本かまとめて背負っていた。矢に射られたスズメさながらだ。
「おはよう、おみなちゃん。これから納品かい」
さっきまで恐怖に振りまわされているし、一刻も早く寺へ行きたい。反面、他所でみっともない様子は出せない。そこは、銅吉にも意地がある。精いっぱい涼しい顔を演じた。
幸か不幸か、路地には他に誰もいない。早朝のひとときが終わり、働きに行ったり家で繕い物をしたりしている。銅吉は、井戸端会議の類が面倒なので、わざと家から出る時間帯をずらしてもいた。
「はい」
おみなは、銅吉と同じ裏長屋にいる浪人、上坪 源太郎の一人娘である。父娘二人で傘張りをしている。七、八年ほど前に引っこして来た時から母はおらず、銅吉もそうした話題を避けていた。
「次のご作品、いつ出るんですか」
少し恥ずかしそうに笑いながら、おみなは聞いた。背負っている傘が、かしゃかしゃとかすかに揺れた。背負い紐を握る両手からは糊の匂いが漂い、関節が少し白ばんでいる。
「う、うん。まぁその内ね」
言葉を濁しつつ、さっきの三毛猫の姿が頭の中をよぎった。明らかに、没を観察していた。ひょっとしたら、銭霊は三毛猫を遣わして警告したのかもしれない。ここ数ヶ月間、筆が止まったままだ。
書けなくなった戯作者は、鼻紙一枚の値打ちもない。家賃も払えず追いだされ、あるいは夜逃げし、そのうちどこかの路上でじわじわと餓死していく。負の注目にも当たらないという点では、獄門さらし首にすら劣る。
いやいやいや。発想が飛びすぎている。というより陳腐だ。
「きっと、毎日ねじり鉢巻きでもして打ちこんでらっしゃるんですよね」
銅吉の内心を察してか察せずか、おみなは大げさに表現した。
「い、いや、それほどでも」
「冗談ですよ」
ほんの少しだけ、おみなは唇を尖らせた。
「あ、ああ」
我ながら、十両で頭がいっぱいになっている。
「私、この前お金を溜めてやっと銅吉さんの本を買いました。とても面白かったです」
早ければ親が夫を見つけてくるような歳で、紅や櫛より戯作とは。
「えっ、貸本屋じゃなしに、買ったのかい」
貸本屋は、一件一件家を訪れて一冊単位で安く本を貸す。本好きだが銭のない人間に重宝されており、この裏長屋にもたまに来る。
「はい。本当に……その、好きな本は……買います」
頬を赤く染めて、おみなは小さな身体を余計に小さくした。
「そりゃ嬉しいな。でも、お父さんの勘気は大丈夫かい」
「もちろん。内緒の隠し場所がありますから」
おみなが笑うと、表通りの雑踏や馬のいななきが一瞬ながらも遠ざかる気がした。十両の恐怖も、短い時間にせよ遠のいた。
突然、どこかの部屋で、乳飲み児が派手に泣き声を上げた。銅吉は、おみなと二人そろってびっくりした。
おみなの傘が、がしゃっと大きな音をたてた。何本かの先端が地面に向けて滑り落ちかける。
「うわっ、大丈夫か」
「あっ、すみません。失礼しました」
「後ろを向いてくれ」
「で、でも……」
「いいから」
黙っていう通りにしたおみなの荷物を、銅吉はまとめ直した。その時、まっすぐ立っているかに思えたおみなの両足が、かすかに震えているのが分かった。毎晩遅くまで働いていて、体もぎりぎりということか。
この十両だけでなく、銭霊からの銭を……上坪父娘だけといわず……裏長屋の人々に配るのは最初から考えてない。変な噂が立つに決まっているし、あとあと当てにされるのも困る。それに、理由もなく他人から銭を受けとるような人間は、ここにいない。というのは筋として正しい反面、何ともいえないもどかしさを覚えもした。
「これで大丈夫」
「ありがとうございます」
また振りかえったおみなの返事に、乳飲み児をなだめすかす母親の声が、わずかに重なった。
「元気いっぱいだな。男の子なら、将来、火消しにでもなるかもよ」
火消しは江戸の男衆の代名詞である。
「そ、そうですね」
おみなは、助けられた気恥ずかしさでか、目に見えて顔を赤くしていた。同じ赤面でも、本を買った話とはまるで動機が違った。
「さ、行こう」
元気づけるように明るくいって、一歩踏みだした。
「はい」
素直にうなずくおみな。
こうやって並んだら、我ながら、いささかだらしのない叔父に見える。彼女は差しづめしっかり者の姪といったところか。
だからこそ、不思議でならない。おみなが荷物をしっかり梱包していなかったとは……。
「じゃあ、これで」
「ああ」
ぺこっと頭を下げてから、おみなは元気良く歩いていった。
その背中に、何者かの影がかすかに重なった。腰巻き姿で、髪を長く伸ばしている。全体的に半透明をしており、ちらちら濃くなったり薄くなったりした。影もまた、銅吉に背を向けているので誰かは分からない。懐の中で、触りもしないのに小判がガチャつく。
これまでに、そんな影など見たことも聞いたこともない。明らかに、銭霊の警告とかかわりがある。おみなを呼びとめようとした足と口が急に止まった。追いかけて声をかけても、何の足しにもならない。
おみなは、そのまま人混みに消えた。小判も静かになった。寺へと足を踏みだすしかなかった。
賑やかな品川の街並みは、潮風と旅人抜きには考えられない。裕福な遊び人むけの、華やかな飾りをつけた竿を売る釣具屋もあれば、道中の共となる足袋や草鞋を売る店もある。
大通りを抜けつつ、銅吉は十両とおみなに重なる影について考えこまざるを得なかった。寺への寄進だけで解決するのか。せめて、住職にでも相談すべきではないのか。
悩んでいると、寺の塔頭が見えてきた。その彼方にある、遠くの丘に生えた木々の間で、桜が薄桃色をぽつぽつと華やがせている。
銅吉は、松森寺の裏庭に面した塀まで進んだ。そこにも、桜は植えてある。塀の前に立つ銅吉の頭上で、風に吹かれた桜の花びらが数枚渦を巻いた。
「いー……ろー……はー……」
塀ごしに、幼い子ども達が平仮名を読みあげる声がかすかに聞こえてくる。裏庭の向こうは本堂で、寺に引きとられた孤児達が習い事をしている。かつては、彼もその一人だった。
しばらく聞いていると、以前より人数が増えているように思えた。農村から街にやって来たのはいいが、思うような生活がままならずに没落する家が珍しくない。田沼政治の負の側面が、こんなところにも影響を及ぼしている。
一分判や百文のときは、紙袋に入れておいた。小判ならそこまでしなくとも良かろう。
銅吉は深々と息を吸い、吐いた。十両を裏庭へ投げたとたん、どこからともなく一匹の三毛猫が現れた。
猫は、小判の一枚が塀を超える前に宙を飛んでくわえ、着地した。
「銭霊に見こまれただけあって、うまそうだねぇ。せいぜい頑張りな」
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