裏長屋のあやかし(お江戸あやかし賞受賞作)

堅他不願@お江戸あやかし賞受賞

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二、寄進と噂 二

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 銅吉は、尻が路上についてしまった。

「ね、猫が喋った」

 台詞が終わるか終わらないかの内に、猫は小判ごと消えた。

 呆然と、銅吉は塀と地面をかわるがわる眺めた。残る九枚は、しかと裏庭に入った。だが、あの一枚を、猫が……猫が奪っただけでない。はっきりと、銭霊を口にした。さらには、うまそう……。漠然とした警告とは、もはや一線を画する。

 銭霊が苦々しいのは、危機への警告だけではない。

『俺、お百度参りいってくる』

 両親にかけた、最後の台詞。返事はなく、とぎれとぎれの浅く荒い呼吸だけが聞こえた。自分自身の体調も、決して良くはなかった。

 あのとき、彼はまだ六つだった。江戸を襲った流行り病は、職人一家の穏やかな家庭を無残に打ちくだいた。

 熱にうなされる両親のために、幼い銅吉は松森寺でお百度参りを行った。賽銭などあるわけもなく、ただ鰐口わにくちを百回鳴らした。

 お百度参りのすぐあと、彼は境内で倒れた。三日ほど寺で保護されている間に、両親は亡くなった。彼を不憫ふびんに思った住職が、銅吉を引きとったのである。

 寺で生活しているときに、最初の一回目が来た。九つの時だったか。裏庭で掃除をしていたら、頭をこつんと小突かれた。地面に一文銭が落ちている。周囲には誰もいない。その直後に、蜂に刺された。大したケガにはならなかったものの、銭はどこかになくしてしまった。

 寺ではその一回だけだったが、大人になってから二度三度と続くと、もはや無関係とは思えなかった。つまり、お百度参りの直後に、寝こんだのがきっかけに違いない。彼の頭の中では、銭霊は親の死に目に会えなかった苦い失敗の象徴でもあった。

 もっとも、住職の輪快りんかいは親代わりとして申し分ない。蜂に刺されたときには留守にしていたが、子どもの安全にはちゃんと気を配る。今回も、寄進を有意義に使ってくれることを、銅吉は毛ほども疑ってない。

「次のご作品、いつ出るんですか、か……」

 丘の桜を眺めながら、銅吉は口の中で呟いた。銭霊が善行を称えるのなら、どうして輪快のような人間にやってこないのか。

 孤児の引きとりだけではない。

 銅吉に戯作者の力を見いだし、それで身を立てられるよう尽力してくれたのもまた輪快だ。彼なら、今朝一連の怪異についてうまい知恵を授けてくれるかもしれない。しかし、輪快でも解決できなかったら。

 塀を眺めながら、頭の中で堂々めぐりをしても意味がない。

「小判が何枚落ちようが猫がいくら喋ろうが、知ったことかっ。俺は戯作者だ。訳のわからん警告なんぞで、いちいち筆を引っこめていられるかっ」

 強いて、銅吉は口にした。気持ちを切りかえねばならない。このままだと生活が立ちゆかなくなる。

 それだけではない。お百度参りが親の死に目から己を遠ざけたという痛烈な皮肉は、書いてこそ遠ざけられる。銅吉は、回れ右して家路についた。

 往路を逆にたどっていると、新作への悩みが雑踏ざっとうをさえ頭から遠ざけてしまう。

 助けあい。義理人情。そうした作風が、これまでの彼の持ち味ではあった。実際、首を切ってしまったときも、隣近所からはずいぶんと親切にされている。

 一方で、それだけに頼った執筆の危うさも肌で感じつつある。戯作者は常に新しい面白さを追求せねばならず、それは孤独な作業であった。

 帰宅してから、彼はとにかく机に向かった。日記を新しくつけ、原稿に取りくむ。

 しかし、決意表明だけで書けたら世話はない。一刻たっても題材さえ浮かんで来なかった。

「おーい、銅吉!」

 いつの間にか、眠っていたようだ。野太い声と無遠慮に戸を叩く音がした。屋内は、月明かりで青白く照らされている。

 忘れていた。今晩、隣の太助たすけと自分の部屋で飲む約束がある。十両あれば、吉原で二人して一晩中騒げたのだが、さすがにそんな気にはなれなかった。

「少し……待っててくれ」

 欠伸を交えながら、寝床で返事をした。歓待には、準備というほど大げさなものは必要ない。布団を片づけて行灯を灯し、膳や徳利をだした。

 晩春の夜中に、天窓から差しこむ月光は雅とさえいいたいところながら、行灯あんどんからは魚臭さが漂っている。一応、客がくるので魚油から菜種油に切りかえはした。ふだんは前者を使っているので、ちょっとやそっとでは臭いが消えてくれない。

「待たせたな」

 戸を開けると、太助が笑った。銅吉ほどではないものの、それなりに上背がある。魚の棒手振ぼてふり(行商人)をしていて、見るからに威勢のいい目鼻だちだった。商売柄、かすかに魚の匂いがするものの、悪印象には一切つながらなかった。対する銅吉は、丸みを帯びた輪郭といい少し大きめの瞳といい、整ってはいるがおぼこ娘のような顔つきだった。

 彼は、銅吉より四歳下の二十三歳になる。会った時から俺お前で話ができた。二人を知る人々は、銅吉と太助は幼馴染という。それを聞いた太助は、きまって腐れ縁だと訂正した。

「おう、邪魔するぜ」

 裏長屋の四畳半は、客人を一人入れるとすぐに狭くなる。

「いつきても墨っぽいし、紙だか本だかわからねぇ束ばっかりだし、色気の欠片もない部屋だな」

 がらがら声で悪態をつくようでいて、銅吉を女みたいな顔とは決していわない。

 銅吉は、自宅へ飲みにきた太助の、無遠慮な視線を何とも思ってない。むしろ、親しみの現れだとさえ感じていた。

「色気というなら、お前も似たようなものだろ」

 負けじと銅吉はいいかえした。

 太助は朝から晩まで働いているし、博打でうつつを抜かすようなこともしない。にもかかわらず、襟元のすり切れた腹かけをずっと身につけている。もみあげなど毛が横から突きでたままだ。

「俺は面倒なのが嫌なだけだ。お前こそ、生っちろい面をして、おまけに小袖がくたびれてへとへとじゃねぇか」
「ご挨拶だなぁ。まぁ飲もう」

 銅吉は、太助に膳をだしてから白地に黒い横縞模様の入ったくらわんかわんを渡した。それから徳利を持ち上げて、酒をついだ。

「ありがてぇありがてぇ。こっちも忘れちゃいないからな」

 今日の行商で売れ残ったイカナゴを、太助は自前で醤油煮にしてから持参してきた。

「こっちこそ嬉しいね。じゃあ乾杯」
「乾杯」

 二人は酒盛りを始めた。碗を満たした酒を何度か飲み干すほどに、魚油の臭いも肴のうちだと思えるようになってくる。銅吉は自分の膳に手を伸ばした。箸を手にして、小皿のイカナゴを一匹つまみ、そのまま口へと運ぶ。

「美味しいよ」

 イカナゴを頬張り終えてから後味を酒で流し、銅吉は感謝した。

 太助が酒をあおる姿を眺めつつ、銅吉は思った。自分の『力』がもし知られたら、彼でさえこんな風に気軽に盃をみかわせなくなる。

「酒も上等だな。それはそうと、今日、街角で不気味な噂を聞いたぜ」

 知らぬが仏で、太助は上機嫌を崩さず持ちかけた。

「噂……」

 思わず語尾が上ずった。戯作者たるもの、ちまたの噂は大なり小なり価値がある。ましてや新作に苦戦している。だからこそ、太助のもたらす話に無関心ではいられない。

「おっ、さっそく食いつきやがったな。まぁ聞けよ。ここから歩いて一刻ばかりいったところに、古い墓場があってな」
「うん」
「夜な夜な、でるんだよ。幽霊が」
「幽霊が」

 銭霊や喋る猫をあれほど怖がっていたくせに、頭の道筋が作品に切りかわるとすべてを押しのけてしまう。銅吉にいわせれば、銭霊や喋る猫は現実にあるのだから怖がって当然だ。墓場の幽霊はただの噂話であるから好きにつつき回してかまわないという料簡だった。

「ただの幽霊じゃねぇ。聞いて驚くな、関ケ原の落ち武者だ」
「関ケ原」
「ああ。血まみれな身体にぼろぼろな鎧兜で、あちこち欠けた刀を担いで……恐れ多くも御公儀への恨みごとを喚きちらしてるってことだ」

 御公儀……実質的に世をしきる田沼親子。彼らは日ノ本中の銭という銭を自由自在に操っている。そのおこぼれに預かれない人々は、ただ貧しさに不満を募らせるしかない。裏長屋の住民は、その最たるものだった。

「へーえ、恨みごとをねぇ」
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