裏長屋のあやかし(お江戸あやかし賞受賞作)

堅他不願@お江戸あやかし賞受賞

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五、猫又もメザシ食ったら礼をいう 一

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 猫又の主張は呆れるほど突飛だが、何となく新作の構想がまとまりそうな気もしてきた。そろそろ、卑俗だが重大な問題に集中する時だ。人間でもあやかしでもない、宙ぶらりんになった自分の『立場』を忘れるためでもある。

『いつまでもお前につきあっちゃいられないな。ぼつぼつ朝飯食って、出発だ』
『空威張りを』
『うるさい。まずは、三槌屋さんにいかなきゃならん』
『墓場めぐりはなしかい』
『そりゃ後だ。お前のお陰で、はっきりした作品の形が整いそうなんだ。そろそろどいてくれ』

 銅吉は、両手で猫又を脇から抱え、そっとどかせた。

 三槌屋は、小間物問屋というだけではない。ここ数年、戯作の流行に触れ、新たな商機を見いだしていた。だからこそ、寺を出た銅吉に最低限の衣食住を提供し、見返りに戯作を書かせている。その影には、三槌屋と懇意にしている輪快の口添えがあった。

 この辺りの裏長屋はおよそ三槌屋が地主であり大家であった。家賃が支払えない店子たなこにも寛大で、裏長屋の住民にも丁寧に接する、なかなかめったにいない人格者である。ただし、直接会った者……銅吉も含めて……にいわせれば、諸事重々しい言動に耐えねばならない。不満はなくとも煙たい存在ではあった。

『あたし、メザシは二匹でいいから。ちゃんと塩抜きしてね』

 横暴にして図々しい猫又の注文が、銅吉を我に返した。

『はぁっ』

 素でとがめる声がでた。

『喋りつづけたからおやつが欲しい』
『勝手に押しかけて、勝手に人を食べる算段を語っただけだろう』
『人じゃなくて、銭霊に憑かれた元人間だから』
『やかましい』

 厚かましいとはまさにこのことだ。

『本当は人間の死体がいいけど、あたしってつつましやかだし』
『つつましやかが聞いて呆れる』

 いいすてつつも、銅吉は、メザシが三匹残っていたことを思いだしてしまった。メザシは日持ちする。だから、買うときは何匹かまとめ買いして、最初から焼いておく。それを、一日に一匹ずつ食べる。気分次第で二匹食べることもあった。

 戯作者の大半は、いくら売れても一作で一両少々しかもらえない。一作書くのに一ヶ月はかかることを考えると、一日あたりの収入は二百文ほどか。そこから紙や墨の経費を差し引くと、おおむね百八十文。家賃が一日二十文として残り百六十文。さらに、食費が一日六十文くらいで、残り百文。これでは、仮に結婚して子どもでも作ろうものなら……夫婦共働きであっても……かつかつの生活になるのは当たり前だろう。

 銅吉が、隣近所と似たような生活をしているかぎり、ツケは三槌屋が払ってくれる。たまに、小遣いとして一分判くらいはもらえることもある。純粋に作品のことだけ悩めばいいのは、相当に恵まれた環境だと自覚していた。

 そんな銅吉が、水を張った鍋の中にメザシを二匹入れ、別な鍋で米を研いでから炊きはじめた。

 猫又は、最初は床からじっと眺めていたものの、しばらくすると畳の上をごろごろ転がったり柱に身体をすりつけだしたりした。

『障子を破ったり壁で爪を研いだりしないでおくれよ』
『あたしは猫じゃないから』

 そう返事をしつつ、たまたま紛れこんできたハエを右前足で叩こうとした。

 隣の部屋からは、小さいがガチャガチャと物を出しいれする音が聞こえてくる。太助とは反対側にあたるので、左門次だろう。

 銅吉と太助と左門次は、三人そろって仲がよかった。歳は、左門次が銅吉と太助の、ちょうどまんなかにあたる。身体つきは三人の中でもっとも小柄だが、腕のいい足袋職人だ。ただ、納期が近いので、夕べの席は断られた。謝罪とともに、自分にはばかって声を潜めたりしないで、遠慮なく宴を楽しんで欲しいというのが左門次からの言葉だった。同じ立場だったら、太助などは、せめて笑い声でも聞かせてくれやとでも冗談を飛ばしたことだろう。

 飯が炊けるとともに、銅吉は、塩抜きしたメザシを鍋から一匹だした。ほんの少しちぎって口に入れると、塩味はまったく感じなかった。

『ほら、塩抜きメザシだ』

 銅吉が、皿に置いた二匹のメザシを猫又にだした。

『ありがとう』
『何だ、猫又でも律儀に礼をいうのか』
『当たり前だよ。人間の中には、威張りちらしてばかりなのが珍しくないけどね』
『これは一本とられた』

 素で銅吉は感心した。武士でも商人でも、地位や金をカサにきて傍若無人な手あいはいくらでもいる。

 ともかく、具のない味噌汁に飯と一匹のメザシが、銅吉の朝食となった。ふだんなら大根くらいは買うが、ここのところ作品のことで頭がいっぱいで、食事にまで気が回ってない。

『頂きます』

 自分の膳を構え、銅吉は食べだした。口を動かしながら、頭の中で三槌屋とのやりとりをあれこれ想定する。

 あくまで次の作品の思案がまとまったときにだけ、打ちあわせに行けばいいという話ではある。とはいえ、ここまで作品が進まないのは例がない。そのことで、嫌味とはいえないまでも、やんわりたしなめられるくらいは覚悟せねばならなかった。墓場の亡霊と猫又だけでは、抽象的すぎて方針にすらならない。

 そんな苦悩とは関係なく手は箸を操り、口は飯を咀嚼そしゃくし、喉は胃へと飯を送りこんだ。猫又もメザシに夢中になっている。

『美味しいな』
『メザシの味がわかるんだな』
『当たり前だよ。特に江戸前はいい。人間だったらご飯が進むだろうね』
『お前、本当に猫又か』
『死体だって江戸前に限るよ。見栄っぱりな分、脂が乗ってるから』
『……』

 銅吉は、ひたすら噛みくだいては飲み下した。

『ごちそうさま』
『ごちそうさま』

 銅吉と猫又は、ほぼ同時に食事を終えた。そこからは、後かたづけをすませて、すぐに三槌屋へとむかった。

 時間そのものは、茶が冷めるまでにたどりつける程度だ。何しろ、裏長屋の路地木戸を抜けて、左に曲がればすぐなのだから。

『あたしは適当に時間潰すから。というより、あんたのところには来たくなったら来る』

 銅吉が路地にでるが早いか、猫又はそう告げて壁に飛びかかった。そこからさらに、ひょいと屋根まで跳ねたかと思うと、どこかに消えた。

 猫又は、実のところ、今はどうでもよかった。三槌屋への報告にだけ頭を使いたかったので、むしろいなくなってくれた方が集中できた。

 三槌屋は、まさにその名の通り、立てた小槌に交差する二本のそれを重ねた暖簾紋を、表通りに掲げている。

 大家の中には、地主から雇われて裏長屋の家賃徴収や維持管理を任されている者もいる。三槌屋については、紛れもなく地主であり、かつ管理人でもあった。さらには、下級とはいえれっきとした町役人ちょうやくにんでもある。その意味でも、銅吉のような存在からすれば、自分の生殺与奪を握る存在だった。なお、単に三槌屋といえば、その時々で商家としてのそれをさしたり主本人をさしたりする。

 いつ来ても、使用人の口ぶりや表情からは、彼を軽く見たり馬鹿にしたりする素振りなど一つもなかった。躾が行きとどいているのだろう。そこだけは、銅吉が三槌屋にどうにか親しみを持てる根拠の一つになっている。

 報告については、いつもそうだが、二階に上げられ下座から型通りの挨拶をする。上座の三槌屋もまた形式的に、そう堅くならないようにと声をかけ、それから実務に至るのである。

「猫又と墓場の亡霊ね」

 三槌屋は、銅吉の提案を無表情に口にした。

 左門次よりもさらに背が低く、そのくせ体重は銅吉とさして変わらない、五十絡みの男。古着と一目でわかる、色落ちした青白い小袖を身につけた銅吉に対し、折り目正しい藍色の紋付袴が嫌でもまばゆく見える。
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