裏長屋のあやかし(お江戸あやかし賞受賞作)

堅他不願@お江戸あやかし賞受賞

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二十九、逃げた先 一

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 墓石を壊しても、まだ終わってはいない。それでも、終わりの始まりではある。銅吉は、しっかりした手応えを感じながら猫又についていった。

『あれはうまかった』

 さっきケガが治ったばかりだというのに、猫又はもう平気な顔をしている。

『薙刀なんて見るのも触るのも生まれて初めてだったよ』
『魚と人間の魂以外で食べるなら、銭霊の小判に限る』
『そっちか』

 がくんと銅吉は脱力した。

『和尚の読経がなければ、あいつらと戦えなかった』

 猫又が、銅吉の気持ちなどどこ吹く風で解説した。

『え……』
『ただ墓石を壊すだけだと、別な墓石に出入りするだけだ。それに、八岐大蛇が応援を寄こす可能性もあった。それらは、和尚が全部解決した』
『そうだったのか……』
『あたしも、あの侍だけじゃ荷が重いとは思っていた。お淀は予想よりずっと強くなっていた』
『どうしてそうなった』
『執念。そして、見通し』
『見通し……』

 執念は理解できるが、見通しとは。

『勝てるという見通しがあるから、しっかりした自信が持てて、やることに無駄がなくなった』
『お前がいないから大丈夫と思っていたのか』
『いいや。八岐大蛇に仕える者らが、あいつらとは別個にいるといっただろ』
『ああ』
『それが、あいつらに力を貸すと決めて伝えた。お淀は、その存在の居場所へ逃げようとしている』
『お前がかかわりたがらなかった、和尚様を襲った忍びのところか』
『そうだ。お前の話にあった、墓場で忍びが傷を負った後に流した血の臭いの痕跡と、お淀の逃げ道とはピタリ一致する』
『道案内を嫌がっていたのに、まるで反対じゃないか』

 これは皮肉ではなく、言葉そのものの質問である。

『あの侍が秀秋を倒せるとは、予想していなかった。でもお前の助太刀で勝った。つまり、新しい状況がもたらされた。なら、さっさと考えを切りかえる』
『やはり、忍びが首魁しゅかいか』
『それはまだ分からない』

 猫又は、それっきり黙った。銅吉もまた、ひたすら口を閉じて彼女を追った。

 方角としては、北東に当たる。つまり、江戸城に近づくことになる。むろん、浅草やら両国やらには行ったことがある。その反面、江戸城の門をくぐった経験などあるはずがない。

 銅吉は、身にやましい覚えなど一つもない。だから、不要な緊張などする必要はない。ただ、もし城の敷地にでも入ることになったらと考えると、さすがに冷や汗を禁じえなかった。

 彼の心境とは裏腹に、人波はどんどん濃く強くなり、それにつれて城の姿が遠目にもはっきりしてきた。

 八岐大蛇から日ノ本を守るという、気宇壮大な事業を果たさんとする銅吉が、日ノ本の総責任者の居城に気後れするのは何とも皮肉な構図である。さりながら、見方を変えれば人として当たり前な構図でもあった。

 銅吉は、あくまで一介の戯作者にすぎない。たった今大名やら将軍やらになれといわれても、震えあがって尻ごみするだろう。裏長屋の隣近所を守るという彼なりの意義は、人によってはいかにも見劣りして思えるかもしれない。

 人は、自分の器に沿って何を為すかで何かを残せる。器を大きくする努力なしに高望みをすると、お淀や秀秋のような末路をたどる。

 だからこそ、銅吉の姿は、日々を懸命に生きる市井しせいの庶民の代表たるに相応しいし、八岐大蛇の手先と……それがどんな権力の持ち主であれ……対決するに相応しい。

 増上寺の近くを通る辺りで、時刻は真昼九つから昼八つにさしかかった(午後一時頃)。緊張のせいか、空腹も喉の渇きもまるで感じない。それよりも、通行人の中に浮きつ沈みつする猫又を見失わないようにする方が重要だった。

 そこからやや北寄りに方角を変え、さらに一刻ほど道のりを消化した。

『この門の向こうだ』

 一町ほど向こうに、ほりにかかった橋がある。裃姿かみしもすがたの武士が、ひっきりなしに出入りしていた。猫又は、それを顎でしゃくって見せた。

『この門って、お前……神田橋の御門じゃないか』

 外濠そとぼりに面した門とはいえ、そこをくぐればれっきとした江戸城の敷地になる。いうまでもなく、銅吉は近づくことすら許されない。

『お前はもう戻れ。あたしは、姿を消して最後まで突きとめてから帰る』
『何かあっても助けようがないよ』
『無用だ。そもそもお前の手を借りるつもりはなかった』

 猫又は、銅吉を置いてすたすた歩いた。しかし、十歩ほどでぴたっと止まり、振りむいた。

『そういえば、確かに、あの薙刀を手にした時は見事だった』

 そういいおいてから、また脚を動かした。

 ぽかんと見送っていた銅吉だが、カラスが鳴きながら空をよぎったことではっと気づいた。ぼつぼつ帰らないと、長屋木戸がしまってしまう。

 帰り道は、門限ぎりぎりのところでどうにかなった。猫又が戻ったかどうかはさておき、水の一杯でも飲みたいところだ。

 路地で雁首そろえて待ちかまえていた、上坪と太助と左門次に出くわしたことで、まだまだ今日は終わらないと思いしらされた。

「銅吉、良くぞ無事に帰ってきてくれた」

 上坪が、安堵の笑顔を浮かべてまず口を開いた。

「いや、ご心配をおかけしました」
「細かい話は明日、といいたいが、どうしても話しておきたいことができた。手短にすむゆえ、家に上げてくれないか」
「はい、もちろん」

 断るつもりは毛頭なかった。戸を開けて、三人の客が床に座ってから、茶でも用意しようかとかまどに向かった。

「いや、すまんがもてなしはいらぬ。それより、話に入らせてくれ」

 上坪がそこまでいうからには、極めつけに重大なのだろう。黙って望まれるがままにした。

「では、申す。まことに礼を欠くが、太助と左門次に、お前をつけさせた」
「何ですと」

 なるほど、重大だ。

「俺と輪快殿で、相談して決めた。もちろん、お前を疑ってのことではない。お前をつける人間がいるだろうと当たりをつけてのことだ。断っておくが、あの場で浮かんだ案であって、あらかじめ図っていたのではない」
「はい」
「あの場に、先日の忍びがいないのは不自然すぎる。我らに、用済みになったお淀らを始末させ、その顛末を見届けているのではないかと輪快殿が考えられたのだ」

 そこまでは、銅吉も思案が及ばなかった。輪快の読経が効果を及ぼしたこともあろうが、それは猫又に聞いたからこそわかることだ。当然、上坪達は知るよしもない。

「輪快殿の読みが正しければ、銅吉の行為もまた必ず監視の対象となる。そこに、隙ができる。俺や輪快殿なら警戒されるだろうが、太助や左門次ならさほど用心されまい。二人には、お前に注意を払う人間に注意を払えと命じた」
「まるで気づきませんでした」

 猫又ならば、把握していたに違いない。それと承知で、輪快達の策が台無しにならぬよう配慮したのだろう。

「二人は見事にやりとげた。例の忍びかどうかは不明瞭だが、お前をつけた人間が一人いたこと、そやつが身なりを変えて神田橋御門をくぐったことを突きとめた」
「ということは、お淀も私をつけた人間も、同じ相手の手下という可能性が出たってことですね」
「いかにも。ある意味、相手を絞りやすくなった。残る手がかりは……」
「三槌屋さんですね」

 銅吉は、あえて自分からいった。

「三槌屋が、神田橋御門の向こうにいるどの大名と取引きしているかで、結論は出る」
「じゃあ、私から……」
「こんな事件に絡む取引を、おおっぴらにするはずがなかろう」
「じゃあ、そうおいそれとはわかりませんよ」

 そこで、太助と左門次はいたく深刻な表情になった。

「俺の口からいう。おたみさんに調べて貰う」
「えぇっ」
「外道は百も承知。されど、三槌屋を調べられるのは他におらぬ」
「へ、下手をすれば……」
「強要はせぬ。あくまで本人の任意だ。もし断られたら、俺が責任を持って調べる」

 なら最初から上坪が、という台詞が喉まで出かかった。上坪は、元の立場からして帳簿が読める。しかし、三槌屋に潜入するような技の持ち主ではない。それこそ、忍びの技の範疇はんちゅうだ。もし発覚すれば腹を切るしかなく、そうなればおみなは孤児になってしまう。ただし、上坪父娘が犠牲になるという事態に目をつぶれるなら、それ以上の犠牲はない。少なくとも当座は。
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