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EP 65
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『広がる噂、歪む精神』
江戸の町に、噂(うわさ)という名の猛火が広がっていた。
「おい、聞いたか? あの辻斬りの正体」
「ああ! なんでも、とんでもねえ身分の大名様らしいじゃねえか」
「その大名様が、昨日の夜、ただの『遊び人』に喧嘩を売って、逆に尻餅つかされたってよ!」
日本橋の茶屋、長屋の井戸端、銭湯の中。
至る所で、人々は口元を歪めて笑っていた。
「傑作だな! 剣豪気取りで夜な夜な町人を斬ってたのに、いざ強い奴が出てきたら手も足も出なかったってか」
「弱い者いじめしか能がねえんだよ」
「『尻餅侍』! こりゃあいいあだ名だ!」
かつて「鬼面の辻斬り」として恐れられた存在は、坂上と蘭たちの情報操作によって、一夜にして「笑い者」へと堕ちていた。
恐怖は嘲笑へ変わり、権威は地に落ちた。
それを、町の角で腕を組んで聞いていた蘭が、ニヤリと笑った。
「……へへ。上手くいってるね」
「ああ。……だが、これからが正念場だ」
隣で、遊び人姿の坂上真一が、竹水筒を口に運んだ。
「……プライドの高い人間ほど、恥をかかされた時の反動は大きい。……ましてや、あの男は『妖刀』に魅入られている」
坂上の目は、笑っていなかった。
「……来るぞ。獣が、檻を破って」
松平定兼の屋敷。
その広大な敷地全体が、重苦しい瘴気(しょうき)に包まれていた。
奥の寝所。
昼間だというのに雨戸が締め切られ、暗闇の中で、松平定兼は頭を抱えて蹲(うずくま)っていた。
「……うう……ぅぅ……」
幻聴が聞こえる。
町人たちの下卑た笑い声。
『腰抜け』『尻餅侍』『弱い者いじめ』。
壁のシミが、人の顔に見え、自分を指差して嘲笑っている。
「……黙れ……黙れ黙れ黙れ!!」
定兼は、自分の耳を掻きむしった。
私は、松平定兼だ。
将軍家に連なる、選ばれし血筋。
100万石の支配者。
そして、最強の剣・村正に選ばれた剣客だぞ。
それが、なんだ。
あの遊び人は。
私を見下し、『殺す価値もない』と言い捨てた、あの目は。
「……許さぬ……」
定兼の目から、理性の光が完全に消え失せた。
代わりに宿ったのは、ドス黒い狂気と、村正が求める「血への渇望」のみ。
「……殺してやる」
「……私の名を汚した者……私を笑った者……全員、根絶やしにしてやる……!」
定兼は、床の間に飾られた『村正』を掴み取った。
鞘からわずかに覗く刃が、怪しく赤く輝き、主人の殺意を祝福しているようだった。
ガタッ!
定兼が立ち上がると同時に、障子が乱暴に開かれた。
「――殿! お鎮まりください!」
「これ以上、世間の噂になっては、御家の一大事……!」
家老たちが、必死の形相で定兼の前に立ちはだかった。
「……どけ」
定兼の低く、濁った声。
「なりませぬ! 今すぐその刀を離し、謹慎なされませ!」
「殿は、お疲れなのです! 心の病でございます!」
家臣たちの言葉は、定兼には届かない。
彼には、家臣たちが「自分を馬鹿にする敵」にしか見えていなかった。
「……貴様らもか」
「……貴様らも、私を『腰抜け』と笑うか……!」
「と、殿……?」
「――邪魔をするなァァァ!!」
閃光。
定兼が、一瞬で村正を抜いた。
「ぎゃぁっ!?」
先頭にいた家老が、肩口から袈裟懸けに斬り裂かれ、血飛沫を上げて吹き飛んだ。
「ひっ……!?」
「と、殿が……ご乱心だ……!」
残りの家臣たちが、恐怖に腰を抜かして逃げ惑う。
定兼は、血濡れの刀を下げたまま、ゆらりと歩き出した。
もはや、大名の威厳など欠片もない。
髪を振り乱し、着物は乱れ、目は血走った鬼そのもの。
「……どこだ」
「……あの遊び人は、どこだ……」
定兼は、家臣たちの静止を振り切り、屋敷の表門をこじ開けた。
外には、真昼の太陽が輝いている。
平和な江戸の日常。
その光の中に、漆黒の殺意を纏った「怪物」が、たった一人で足を踏み出した。
「……出てこい、遊び人」
「……私の『誇り』を返せ……!」
松平定兼は、白昼堂々、抜き身の妖刀を下げて、人通りの多い大通りへと歩を進めた。
江戸史上最悪の、「白昼の凶行」が始まろうとしていた。
江戸の町に、噂(うわさ)という名の猛火が広がっていた。
「おい、聞いたか? あの辻斬りの正体」
「ああ! なんでも、とんでもねえ身分の大名様らしいじゃねえか」
「その大名様が、昨日の夜、ただの『遊び人』に喧嘩を売って、逆に尻餅つかされたってよ!」
日本橋の茶屋、長屋の井戸端、銭湯の中。
至る所で、人々は口元を歪めて笑っていた。
「傑作だな! 剣豪気取りで夜な夜な町人を斬ってたのに、いざ強い奴が出てきたら手も足も出なかったってか」
「弱い者いじめしか能がねえんだよ」
「『尻餅侍』! こりゃあいいあだ名だ!」
かつて「鬼面の辻斬り」として恐れられた存在は、坂上と蘭たちの情報操作によって、一夜にして「笑い者」へと堕ちていた。
恐怖は嘲笑へ変わり、権威は地に落ちた。
それを、町の角で腕を組んで聞いていた蘭が、ニヤリと笑った。
「……へへ。上手くいってるね」
「ああ。……だが、これからが正念場だ」
隣で、遊び人姿の坂上真一が、竹水筒を口に運んだ。
「……プライドの高い人間ほど、恥をかかされた時の反動は大きい。……ましてや、あの男は『妖刀』に魅入られている」
坂上の目は、笑っていなかった。
「……来るぞ。獣が、檻を破って」
松平定兼の屋敷。
その広大な敷地全体が、重苦しい瘴気(しょうき)に包まれていた。
奥の寝所。
昼間だというのに雨戸が締め切られ、暗闇の中で、松平定兼は頭を抱えて蹲(うずくま)っていた。
「……うう……ぅぅ……」
幻聴が聞こえる。
町人たちの下卑た笑い声。
『腰抜け』『尻餅侍』『弱い者いじめ』。
壁のシミが、人の顔に見え、自分を指差して嘲笑っている。
「……黙れ……黙れ黙れ黙れ!!」
定兼は、自分の耳を掻きむしった。
私は、松平定兼だ。
将軍家に連なる、選ばれし血筋。
100万石の支配者。
そして、最強の剣・村正に選ばれた剣客だぞ。
それが、なんだ。
あの遊び人は。
私を見下し、『殺す価値もない』と言い捨てた、あの目は。
「……許さぬ……」
定兼の目から、理性の光が完全に消え失せた。
代わりに宿ったのは、ドス黒い狂気と、村正が求める「血への渇望」のみ。
「……殺してやる」
「……私の名を汚した者……私を笑った者……全員、根絶やしにしてやる……!」
定兼は、床の間に飾られた『村正』を掴み取った。
鞘からわずかに覗く刃が、怪しく赤く輝き、主人の殺意を祝福しているようだった。
ガタッ!
定兼が立ち上がると同時に、障子が乱暴に開かれた。
「――殿! お鎮まりください!」
「これ以上、世間の噂になっては、御家の一大事……!」
家老たちが、必死の形相で定兼の前に立ちはだかった。
「……どけ」
定兼の低く、濁った声。
「なりませぬ! 今すぐその刀を離し、謹慎なされませ!」
「殿は、お疲れなのです! 心の病でございます!」
家臣たちの言葉は、定兼には届かない。
彼には、家臣たちが「自分を馬鹿にする敵」にしか見えていなかった。
「……貴様らもか」
「……貴様らも、私を『腰抜け』と笑うか……!」
「と、殿……?」
「――邪魔をするなァァァ!!」
閃光。
定兼が、一瞬で村正を抜いた。
「ぎゃぁっ!?」
先頭にいた家老が、肩口から袈裟懸けに斬り裂かれ、血飛沫を上げて吹き飛んだ。
「ひっ……!?」
「と、殿が……ご乱心だ……!」
残りの家臣たちが、恐怖に腰を抜かして逃げ惑う。
定兼は、血濡れの刀を下げたまま、ゆらりと歩き出した。
もはや、大名の威厳など欠片もない。
髪を振り乱し、着物は乱れ、目は血走った鬼そのもの。
「……どこだ」
「……あの遊び人は、どこだ……」
定兼は、家臣たちの静止を振り切り、屋敷の表門をこじ開けた。
外には、真昼の太陽が輝いている。
平和な江戸の日常。
その光の中に、漆黒の殺意を纏った「怪物」が、たった一人で足を踏み出した。
「……出てこい、遊び人」
「……私の『誇り』を返せ……!」
松平定兼は、白昼堂々、抜き身の妖刀を下げて、人通りの多い大通りへと歩を進めた。
江戸史上最悪の、「白昼の凶行」が始まろうとしていた。
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