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EP 3
しおりを挟む渇望と代用品
(……集中力が維持できない)
坂上は、帝都日報のデスクでこめかみを押さえた。
田中局長の「気合で記事を書け!」という非効率な怒鳴り声が、BGMのように編集局に響いている。
50歳のイージス艦長だった頃の彼の脳は、一晩の徹夜(ワッチ)明けでも、ブラックコーヒーとコーヒーキャンディ(糖分)の連続投入で、強制的に覚醒状態を維持できていた。
だが、今のこの29歳の身体は――いや、この環境は――その「ルーティン」を許さない。
(カフェインが足りない。糖分もだ)
思考が鈍る。この非効率な「沼」の分析が進まない。
彼は、田中局長の目を盗み、財布(この身体の持ち物のようだ)を掴んで席を立った。
「おい坂上! サボる気か!」
「取材です。『肌で感じる』ために」
皮肉を込めて言い返すと、坂上は編集局を脱出した。
彼の足は、無意識に「覚醒」を求めていた。
銀座の通り。モダンなビルと古い木造建築が混在する、ちぐはぐな風景。
やがて彼は、一つの看板を見つけた。
【珈琲(コーヒー) ルブラン】
(……あった)
一縷の望みを抱き、彼はその喫茶店の回転扉を押した。
カラン、とドアベルが鳴る。
紫煙が立ち込める店内。クラシック音楽が流れている。悪くない。
「ご注文は?」
女給が水を置く。
「コーヒーを。ブラックで」
「……え?」
女給は、この男が何を言っているのか分からない、という顔をした。
「ですから、砂糖もミルクも入れずに」
「は、はあ……」
数分後。
目の前に置かれた一杯の液体を見て、坂上は眉をひそめた。
(……色が、薄い)
恐る恐る口をつける。
「…………っ」
坂上は、海千山千の50年の人生で、これほど不快な液体を口にしたことがなかった。
それは、酸っぱいだけの雑味と、煮詰まった焦げ臭さが混在した「泥水」だった。
(なんだ、これは)
彼の脳が、瞬時に分析を開始する。
(焙煎技術が低すぎる。豆の選別もされていない。抽出方法も非効率だ。ドリップではなく煮出しているのか? これではカフェインの覚醒作用どころか、ただの毒だ)
彼は、テーブルに山盛りにされた角砂糖を見た。
(なるほど。この「毒」を飲むために、大量の砂糖とミルクで「味を殺す」のが前提の飲み物か)
この国の「珈琲」は、非効率の極みだった。
(……覚醒(コーヒー)がダメなら、安らぎ(キャンディ)だ)
坂上は、代金を払って店を出ると、駅の売店(キヨスク)に向かった。
菓子が並ぶ棚を、イージス艦のレーダーのようにスキャンする。
「ハッカ飴」
「ニッキ飴」
「黒飴」
「金平糖」
(……ない)
(どこにも、ない)
坂上は、売店(キヨスク)でただの「飴」しか見つけられず、絶望した。
(……いや、待て)
坂上の足が止まる。
(キヨスクに無いだけだ。ここは帝都・銀座。舶来品(はくらいひん)を扱う高級店があるはずだ)
彼は、わずかな望みを抱き、銀座の目抜き通りにある高級百貨店(例えば三越)か、輸入品専門の食料品店へ向かう。
ガラスのショーケース。
そこには、ドイツ製やイギリス製と思われる、美しいブリキ缶に入ったキャンディが並んでいる。
(……あった)
坂上は、それを見つけた。
紛れもなく「Kaffee Bonbon」とドイツ語で書かれた、美しいパッケージのコーヒーキャンディだ。
彼は、安堵のため息をつきそうになりながら、値札を見た。
【 壹圓 貳拾銭 】(1円20銭)
坂上の動きが、完全に停止した。
(……1円、20銭だと?)
昭和10年。新聞記者の初任給が約50円~60円。
この一缶のキャンディが、彼の(推定)日給の半分近くに相当する。
21世紀の彼にとって、それはデスクの引き出しに無造OKに放り込んでおく「消耗品」だった。数百円で買える、使い捨てのストレス解消剤だ。
だが、この昭和(1935年)において、それは「高級嗜好品(ラグジュアリー)」だった。
(……ふざけるな)
彼は、買うことができない。
日給の半分を、この「飴玉」に使うことの「非効率性」は、彼自身が許容できない。
だが、カフェインと糖分への渇望が、脳を焼き切ろうとする。
これが、坂上が昭和で直面した、最初の「リソースの壁」だった。
21世紀では「当たり前」の安価なツールが、この時代では「特権階級の贅沢品」であるという現実。
知識があっても、技術を知っていても、その「安価な代用品」すら、今の彼には手に入らない。
坂上は、その高級店に背を向けた。
そして、先程の売店に戻ると、屈辱を噛みしめながら、あの「黒飴」を一袋買った。
(……最悪だ)
口の中に放り込んだ黒飴の、ただ甘ったるいだけの味が、彼の苛立ちを極限まで高めていた。
この怒りをどこにぶつけるべきか。
彼は、取材(という名の監査)のため、経済部の担当区域である工場地帯へと向かう。
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