『「貴様の命令では犬死にだ」 50歳のイージス艦長、昭和(1935)に転生。非効率な精神論を殴り飛ばし、日本を魔改造する』

月神世一

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第二章 軍法

EP 9

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『数字』の爆弾(もう一人の主人公)
薫がいたのは、冷たい静寂の中だった。
菊池が統計書庫の奥に消えてからの五分間は、北支で狙撃手の弾丸を待つよりも、遥かに長く感じられた。
(……ダメだったかもしれない)
(私は、父と同じように、この国の「合理」に、無謀な期待をかけすぎた……)
その時、書庫の扉が、音もなく開いた。
薫は、ビクリと肩を震わせた。
戻ってきた菊池武弘の顔は、さっきよりも更に疲弊し、まるで十歳は年を取ったかのように見えた。
彼は、無言のまま、自分のデスクに戻った。
そして、一冊の、分厚く、黒い表紙の「公式統計書」を、音を立てて机に置いた。
【昭和九年度 貿易統計概要】
「……!」
薫の心臓が、冷たく凍った。
(昭和、九年……? 昨年のデータ……?)
「菊池様……これでは……」
薫が、絶望に掠れた声を出す。
「坂上さんは、『今』の数字を……」
「大蔵省が公にするのは、確定した『過去』の数字だけだ」
菊池は、薫の言葉を、冷たく遮った。
「それが、我々の『合理性』であり、そして『保身』だ」
「……」
薫は、顔を俯けた。
敗北だった。
父と同じ、惨めな敗北だ。
「……君のお父上は、愚かだった」
菊池は、静かに言った。
薫が、弾かれたように顔を上げる。
「彼は、『正論』で、この国の『空気』と戦おうとした。愚かだ」
菊池は、疲れた目で薫を見据えた。
「この国を動かしているのは、『数字』ではない。『空気』だ。……そして、その『空気』を作っているのは、君が仕える陸軍と、君の『記者』が所属する新聞社だ」
彼は、その分厚い「昭和九年度 統計概要」を、薫の前に、滑らせた。
「持って行きたまえ。公の文書だ。誰が読んでも、問題ない」
それは、完全な「拒絶」の言葉だった。
薫は、唇を噛みしめ、その「役立たずのデータ」を、震える手でカバンに仕舞おうとした。
その時だった。
菊池が、薫の手に、自分の手を、そっと重ねた。
「……!」
「……特に」
菊池は、薫の目を見つめたまま、声を、紙一枚の薄さまで潜めた。
「……四十八ページ。
『精密機械 輸入統計』の、項目『三』。
……そこに、インクの染みが、付いているかもしれん」
「……え?」
「古い資料でね。私が、間違えてインクをこぼした。
……『最新』の、万年筆のインクを」
菊池は、そっと手を離した。
「……行きたまえ。
そして、二度とここへ来るな。
君が思う以上に、特高の目は、我々『穏健派(リベラル)』の背中に張り付いている」
薫は、意味を理解した。
彼女は、深々と頭を下げると、その「分厚い爆弾」を抱え、大蔵省を飛び出した。
人混みを避け、自宅のアパートに戻った薫は、鍵をかけるのももどかしく、あの分厚い「統計概要」を開いた。
四十八ページ。
『精密機械 輸入統計』。
項目『三』。
【ボールベアリング(精密軸受)】
そこには、昭和九年の、古い数字が印刷されていた。
だが。
そのページの隙間に、一枚、薄いオニオンスキンの紙が、挟まっていた。
菊池が言っていた、「インクの染み」だ。
それは、菊池の万年筆で書かれた、手書きの「メモ」だった。
公式の印も、署名もない。
ただ、冷たい「数字」の羅列だけが、そこにあった。
【独逸・SKF社製 BB(ボールベアリング)】
『昭和十年 第一四半期輸入実績: ○○トン』
『同 第二四半期輸入見込み: ××トン』
『(海軍航空本部向け・非公式発注分含む)』
「…………!」
坂上真一が、喉から手が出るほど欲しがっていた、「今」、そして「未来」の、核心的な「生のデータ」だった。
薫は、その小さな紙を、震える手で握りしめた。
彼女は、今、確実に、国家への「反逆」を成し遂げた。
彼女は、もはや「タイピスト」ではなかった。
坂上真一の「目」であり、「手足」であり、そして「命綱」だった。
彼女は、この「数字の爆弾」を、あの「紙の墓場」に届けるため、再び、特高の監視がうろつく、夜の闇へと踏み出す準備を始めた。
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