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序章 DEATH4
EP 2
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巫女との邂逅
母の死から、三度目の収穫期が過ぎた。
たつまろは十歳になり、弟のユウは三歳になっていた。あの日の誓い通り、たつまろはたった一人でユウを育て、畑を耕し、生計を立てていた。彼の作る作物は、不思議と味が濃く、生命力に溢れていると評判だった。それは、彼が客の残した古い書物を読み解き、土の声を聴くかのように、丹精込めて育てていたからに他ならない。稼ぎは決して多くはなかったが、幼い兄弟が飢えることなく暮らすには十分だった。
その日も、たつまろは収穫した野菜を籠に詰め、街へ向かう準備をしていた。
「よし、じゃあ街に行ってくる。ユウ、大人しく家で待ってるんだぞ」
「うん、にいちゃん、わかった!」
舌足らずながらもはっきりと返事をするユウの頭を、たつまろは優しく撫でた。この小さな温もりを守ること、それが彼の世界の全てだった。
街の入り口にあるいつもの市場は、今日も賑わいを見せている。しかし、たつまろは満足していなかった。もっと稼がなければならない。ユウに良い服を買い、腹一杯食べさせ、そしていつか、こんな痩せた土地ではない場所へ連れていくのだ。
「今日は、もう少し人が多い場所に移してみるか……」
街の中心部、富裕層や貴族が住む区画へと続く大通り。そこに足を踏み入れた途端、たつまろは異様な熱気に包まれた。
「ん? やけに人が集まってるな……」
道の両脇には、ひれ伏すようにして頭を下げる人々が壁を作っていた。その視線の先から、荘厳な音楽と共に一つの行列が近づいてくる。
「巫女様だ! 我らが救世主、ユイ様のお通りだ!」
「ユイ様! どうか我らに慈悲を!」
群衆の狂信的な叫び声が響き渡る。行列の中心には、豪奢な神輿があり、その上に一人の少女が座っていた。絹のように白い衣をまとい、長く艶やかな黒髪が風に揺れている。陶器のように白い肌と、性別を超越した美貌。彼女こそが、この地で神の化身と崇められる巫女、ユイだった。しかし、その涼しげな瞳は、眼下で熱狂する人々をどこか退屈そうに見下ろしているだけだった。
たつまろがその異様な光景を眺めていると、人垣の中から小さな子供が一人、ふらりと飛び出した。
「わー、みこさまだー!」
子供は、きらびやかな行列に目を輝かせ、ユイが乗る神輿に駆け寄った。その瞬間、つまずいて転んだ子供の手が、泥だらけのままユイの純白の衣を汚してしまった。
時が止まる。
次の瞬間、群衆の熱狂は、凄まじい怒号へと変わった。
「な、なんてことを! よくもユイ様の神聖な衣を!」
「この無礼者めが! 親はどこだ!」
小さな子供は、突然向けられた殺気に怯え、その場にへたり込んで泣きじゃくる。
「あわわ、えーん、えーん……」
神輿の上で、ユイの美しい顔が不快に歪んだ。彼女は汚れた袖を一瞥し、虫けらを払うかのような冷たい声で命じた。
「僕の服が……! おい!」
「はっ!」
ユイの傍らに控えていた屈強な家来が、主の意を汲んで前に出る。鞘から鈍い光を放つ剣が抜き放たれ、その切っ先が泣き叫ぶ子供へと向けられた。
「殺せ!」「殺せ!」と、群衆がその狂気を煽る。子供の甲高い悲鳴が、天に届く前に斬り捨てられようとしていた。
その、刹那。
「……おい、どけよ」
静かだが、全ての喧騒を貫くような低い声が響いた。人垣をかき分け、たつまろがゆっくりと姿を現す。その目には何の感情も浮かんでいなかった。
家来は、どこからともなく現れたみすぼらしい少年に一瞬眉をひそめたが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。
「小僧、死にたいのか。そこをどかぬか」
たつまろは答えなかった。ただ一歩、踏み出す。次の瞬間、家来の巨体が「ぐはっ」という短い悲鳴と共に、くの字に折れ曲がり地面に崩れ落ちていた。何が起こったのか、誰にも見えなかった。たつまろが籠を地面に置いたのと、家来の鳩尾に彼の肘がめり込んだのが、ほぼ同時だった。
「ギャーッ!」
周囲の群衆が悲鳴を上げて後ずさる。残りの家来たちが慌てて剣を構えるが、目の前の十歳の少年が放つ異様な威圧感に、一歩も踏み出せない。
「なっ……け、家来たちが!」
神輿の上で、ユイが初めて動揺した顔を見せた。
「お、お前はなんだ! 僕が誰だか分かっているのか! 僕はエライんだぞ!」
たつまろは、怯える子供を背中にかばい、静かに神輿を見上げた。そして、無言のまま神輿によじ登る。
パンッ!!
乾いた音が響き渡った。たつまろの平手が、ユイの陶器のような頬を真っ赤に染めていた。
「!? ぎゃっ!」
ユイは、生まれて初めて受けた暴力に目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。頬が熱い。痛い。だがそれ以上に、信じられないという衝撃が彼女を支配した。
たつまろは、燃えるような瞳でユイを真っ直ぐに見据える。
「……小さい子をいじめるな」
その言葉と眼差しには、どんな権威も道理も通じない、絶対的な何かが宿っていた。ユイは、蛇に睨まれた蛙のように硬直し、ただ小さく頷くことしかできなかった。
「……う、うん……」
たつまろは、その返事を聞くと満足したように頷き、くるりと背を向けた。
「よし、良い子だ。じゃあな」
まるで、駄々をこねる弟を諭すかのように。彼は神輿からひらりと飛び降りると、何事もなかったかのように地面に置いた籠を拾い、その場を去ろうとした。
「え?……」
残されたユイは、呆然とその後ろ姿を見つめていた。恐怖は、いつの間にか未知の感情へと変わっていた。誰もが自分を崇め、恐れ、媚びへつらう。そんな世界で、初めて自分を“普通”に扱い、そして本気で“怒ってくれた”存在。
「……ね、ねぇ! 待って!」
ユイは思わず叫んでいた。
「君は誰!? 君の名前は何ていうの!?」
たつまろは、一度だけ足を止め、振り返らずに答えた。
「たつまろだ」
その名が、風に乗ってユイの耳に届く。
「たつまろ……」
ユイは、赤く腫れた自身の頬にそっと触れた。痛みと共に、胸の奥に今まで感じたことのない熱い何かが込み上げてくるのを感じていた。
「誰も僕を巫女だからと怒ったりしないのに……たつまろは……たつまろだけは僕を……」
遠ざかっていく小さな背中を、ユイはいつまでも見つめていた。
「たつまろ、かぁ……」
この日、神の化身と呼ばれた孤独な巫女の世界に、初めて“人間”が踏み込んできた。そしてこの邂逅が、たつまろの運命の歯車を、さらに大きく、そして狂おしく回していくことになるのだった。
母の死から、三度目の収穫期が過ぎた。
たつまろは十歳になり、弟のユウは三歳になっていた。あの日の誓い通り、たつまろはたった一人でユウを育て、畑を耕し、生計を立てていた。彼の作る作物は、不思議と味が濃く、生命力に溢れていると評判だった。それは、彼が客の残した古い書物を読み解き、土の声を聴くかのように、丹精込めて育てていたからに他ならない。稼ぎは決して多くはなかったが、幼い兄弟が飢えることなく暮らすには十分だった。
その日も、たつまろは収穫した野菜を籠に詰め、街へ向かう準備をしていた。
「よし、じゃあ街に行ってくる。ユウ、大人しく家で待ってるんだぞ」
「うん、にいちゃん、わかった!」
舌足らずながらもはっきりと返事をするユウの頭を、たつまろは優しく撫でた。この小さな温もりを守ること、それが彼の世界の全てだった。
街の入り口にあるいつもの市場は、今日も賑わいを見せている。しかし、たつまろは満足していなかった。もっと稼がなければならない。ユウに良い服を買い、腹一杯食べさせ、そしていつか、こんな痩せた土地ではない場所へ連れていくのだ。
「今日は、もう少し人が多い場所に移してみるか……」
街の中心部、富裕層や貴族が住む区画へと続く大通り。そこに足を踏み入れた途端、たつまろは異様な熱気に包まれた。
「ん? やけに人が集まってるな……」
道の両脇には、ひれ伏すようにして頭を下げる人々が壁を作っていた。その視線の先から、荘厳な音楽と共に一つの行列が近づいてくる。
「巫女様だ! 我らが救世主、ユイ様のお通りだ!」
「ユイ様! どうか我らに慈悲を!」
群衆の狂信的な叫び声が響き渡る。行列の中心には、豪奢な神輿があり、その上に一人の少女が座っていた。絹のように白い衣をまとい、長く艶やかな黒髪が風に揺れている。陶器のように白い肌と、性別を超越した美貌。彼女こそが、この地で神の化身と崇められる巫女、ユイだった。しかし、その涼しげな瞳は、眼下で熱狂する人々をどこか退屈そうに見下ろしているだけだった。
たつまろがその異様な光景を眺めていると、人垣の中から小さな子供が一人、ふらりと飛び出した。
「わー、みこさまだー!」
子供は、きらびやかな行列に目を輝かせ、ユイが乗る神輿に駆け寄った。その瞬間、つまずいて転んだ子供の手が、泥だらけのままユイの純白の衣を汚してしまった。
時が止まる。
次の瞬間、群衆の熱狂は、凄まじい怒号へと変わった。
「な、なんてことを! よくもユイ様の神聖な衣を!」
「この無礼者めが! 親はどこだ!」
小さな子供は、突然向けられた殺気に怯え、その場にへたり込んで泣きじゃくる。
「あわわ、えーん、えーん……」
神輿の上で、ユイの美しい顔が不快に歪んだ。彼女は汚れた袖を一瞥し、虫けらを払うかのような冷たい声で命じた。
「僕の服が……! おい!」
「はっ!」
ユイの傍らに控えていた屈強な家来が、主の意を汲んで前に出る。鞘から鈍い光を放つ剣が抜き放たれ、その切っ先が泣き叫ぶ子供へと向けられた。
「殺せ!」「殺せ!」と、群衆がその狂気を煽る。子供の甲高い悲鳴が、天に届く前に斬り捨てられようとしていた。
その、刹那。
「……おい、どけよ」
静かだが、全ての喧騒を貫くような低い声が響いた。人垣をかき分け、たつまろがゆっくりと姿を現す。その目には何の感情も浮かんでいなかった。
家来は、どこからともなく現れたみすぼらしい少年に一瞬眉をひそめたが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。
「小僧、死にたいのか。そこをどかぬか」
たつまろは答えなかった。ただ一歩、踏み出す。次の瞬間、家来の巨体が「ぐはっ」という短い悲鳴と共に、くの字に折れ曲がり地面に崩れ落ちていた。何が起こったのか、誰にも見えなかった。たつまろが籠を地面に置いたのと、家来の鳩尾に彼の肘がめり込んだのが、ほぼ同時だった。
「ギャーッ!」
周囲の群衆が悲鳴を上げて後ずさる。残りの家来たちが慌てて剣を構えるが、目の前の十歳の少年が放つ異様な威圧感に、一歩も踏み出せない。
「なっ……け、家来たちが!」
神輿の上で、ユイが初めて動揺した顔を見せた。
「お、お前はなんだ! 僕が誰だか分かっているのか! 僕はエライんだぞ!」
たつまろは、怯える子供を背中にかばい、静かに神輿を見上げた。そして、無言のまま神輿によじ登る。
パンッ!!
乾いた音が響き渡った。たつまろの平手が、ユイの陶器のような頬を真っ赤に染めていた。
「!? ぎゃっ!」
ユイは、生まれて初めて受けた暴力に目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。頬が熱い。痛い。だがそれ以上に、信じられないという衝撃が彼女を支配した。
たつまろは、燃えるような瞳でユイを真っ直ぐに見据える。
「……小さい子をいじめるな」
その言葉と眼差しには、どんな権威も道理も通じない、絶対的な何かが宿っていた。ユイは、蛇に睨まれた蛙のように硬直し、ただ小さく頷くことしかできなかった。
「……う、うん……」
たつまろは、その返事を聞くと満足したように頷き、くるりと背を向けた。
「よし、良い子だ。じゃあな」
まるで、駄々をこねる弟を諭すかのように。彼は神輿からひらりと飛び降りると、何事もなかったかのように地面に置いた籠を拾い、その場を去ろうとした。
「え?……」
残されたユイは、呆然とその後ろ姿を見つめていた。恐怖は、いつの間にか未知の感情へと変わっていた。誰もが自分を崇め、恐れ、媚びへつらう。そんな世界で、初めて自分を“普通”に扱い、そして本気で“怒ってくれた”存在。
「……ね、ねぇ! 待って!」
ユイは思わず叫んでいた。
「君は誰!? 君の名前は何ていうの!?」
たつまろは、一度だけ足を止め、振り返らずに答えた。
「たつまろだ」
その名が、風に乗ってユイの耳に届く。
「たつまろ……」
ユイは、赤く腫れた自身の頬にそっと触れた。痛みと共に、胸の奥に今まで感じたことのない熱い何かが込み上げてくるのを感じていた。
「誰も僕を巫女だからと怒ったりしないのに……たつまろは……たつまろだけは僕を……」
遠ざかっていく小さな背中を、ユイはいつまでも見つめていた。
「たつまろ、かぁ……」
この日、神の化身と呼ばれた孤独な巫女の世界に、初めて“人間”が踏み込んできた。そしてこの邂逅が、たつまろの運命の歯車を、さらに大きく、そして狂おしく回していくことになるのだった。
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