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EP 27
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天使を堕とす『魔法のキッシュ』
『パティスリー・アオタ』の店内に、先ほどまでの甘い香りとは異なる、食欲をそそる芳ばしい匂いが漂い始めた。
バターで炒めたベーコンの脂の香り。
焦げたチーズの濃厚な匂い。
そして、それらを包み込むような、清涼感のあるフレッシュハーブのアロマ。
「……む?」
腕を組んで査察を待っていたヴァルキュリアの鼻が、ピクリと動いた。
菓子が出てくると思っていた。砂糖の塊のような、堕落の象徴が。
だが、この匂いは違う。これは――『食事』の匂いだ。
「お待たせしました」
青田優也がオーブンから取り出したのは、黄金色に焼き上がったホールサイズのタルトだ。
それを切り分け、白い皿に乗せて差し出す。
「『季節野菜とグリュイエールチーズのキッシュ・ロレーヌ』です」
ヴァルキュリアは目を見開いた。
サクサクに焼かれたパイ生地(パート・ブリゼ)の中には、ふわふわの卵液(アパレイユ)と共に、ほうれん草やキノコ、ベーコンがたっぷりと詰まっている。
表面には、溶けて焦げ目のついたグリュイエールチーズ。
そして仕上げに、鮮やかな緑色のハーブ(イタリアンパセリ、チャービル、タイム)が散らされていた。
「これは……菓子ではないのですか?」
「フランス・ロレーヌ地方の郷土料理です。卵と野菜、乳製品、そして肉。……五大栄養素をバランスよく摂取できる、完全栄養食ですよ」
優也は「栄養」という単語を強調した。
それが、彼女にとって一番の「言い訳」になることを知っているからだ。
「……栄養、ですか。確かに、これなら教義に反しない……かもしれません」
ヴァルキュリアは自分に言い聞かせるように呟き、ナイフを入れた。
サクッ。
心地よい音と共に、パイ生地が崩れる。中は茶碗蒸しのようにプルプルだ。
湯気の立つ一切れを、口へと運ぶ。
――ハフッ。
熱々のキッシュを噛んだ瞬間、ヴァルキュリアの身体が硬直した。
「……ッ!!」
サクサクの生地の食感。
それに続く、卵と生クリームの濃厚でクリーミーな味わい。
噛めば噛むほど溢れ出す、厚切りベーコンの塩気と旨味。
チーズのコク。
それらすべてが、口の中で渾然一体となり、優しく溶けていく。
(温かい……。なんて優しい味……)
冷たいパンとスープしか食べてこなかった彼女の胃袋に、温かな卵料理が染み渡る。
そして何より――。
「……この香り……」
濃厚な味の後味を、爽やかなハーブの香りが洗い流していく。
タイムのほろ苦さ。チャービルの甘い香り。
それは、彼女が天界の庭園で一人、土いじりをしている時の安らぎを思い出させた。
「私の……好きな香り……」
ヴァルキュリアの瞳から、険しい光が消えた。
代わりに浮かんだのは、まるで少女のような、うっとりとした表情。
「野菜の甘みと、ハーブの香りが……喧嘩せずに手を取り合っています。まるで、完璧に指揮されたオーケストラのよう……」
「お気に召しましたか?」
「……美味しい。……悔しいですが、とても」
彼女はもう、フォークを止められなかった。
一口、また一口。
食べるたびに、眉間のシワが消え、張り詰めていた肩の力が抜けていく。
完食する頃には、彼女はただの「美味しいものを食べて幸せな女性」になっていた。
「……ふぅ」
空になった皿を見て、ヴァルキュリアは我に返った。
咳払いを一つして、居住まいを正す。
「コホン。……認めましょう。この料理は、単なる快楽の追求ではなく、心身の健康に資する『良質な食事』であると」
彼女はキリッとした顔で宣言した。口元に小さなパイ屑がついているのも気づかずに。
「よって、この店を即刻破壊することは保留します。……ただし!」
「ただし?」
「監視が必要です。この店が今後、本当に健全な運営を続けるか……私が毎日、責任を持って『味見』をしに来ます」
「毎日ですか?」
「ええ、毎日です。これは公務です。……あ、明日は違う種類のハーブを使ったキッシュを用意しておきなさい。いいですね?」
それは事実上の「常連宣言」だった。
優也は苦笑しながら、深く一礼した。
「かしこまりました。……では、明日は『サーモンとディルのキッシュ』をご用意してお待ちしております」
「ディル……! 魚料理に合う素晴らしいハーブですね。……楽しみにしています」
ヴァルキュリアは満足げに頷き、部下の騎士たちに号令をかけた。
「総員、撤収! この店は『要観察対象』とする! 決して手を出さぬように!」
嵐が去った後。
店内に残されたのは、安堵の空気と、勝利の余韻。
「やったね優也様! 天使長も餌付け完了!」
「チョロいですぅ……」
「こらルナ、聞こえるぞ」
優也はグラスを磨きながら、窓の外を見上げた。
シスター、不死鳥、そして天使長。
聖都の守護者たちは、次々と「胃袋」という弱点を握られ、優也の軍門に下った。
だが。
この一連の騒動を、快く思わない最後の敵が、ついに動き出そうとしていた。
聖教会の頂点にして、世界樹の代弁者――教皇である。
「……さて、ラスボスの登場まで、もう少し仕込みが必要か」
優也は、キッシュの残り香が漂う厨房で、次なる一手(世界樹再生プラン)を練り始めた。
『パティスリー・アオタ』の店内に、先ほどまでの甘い香りとは異なる、食欲をそそる芳ばしい匂いが漂い始めた。
バターで炒めたベーコンの脂の香り。
焦げたチーズの濃厚な匂い。
そして、それらを包み込むような、清涼感のあるフレッシュハーブのアロマ。
「……む?」
腕を組んで査察を待っていたヴァルキュリアの鼻が、ピクリと動いた。
菓子が出てくると思っていた。砂糖の塊のような、堕落の象徴が。
だが、この匂いは違う。これは――『食事』の匂いだ。
「お待たせしました」
青田優也がオーブンから取り出したのは、黄金色に焼き上がったホールサイズのタルトだ。
それを切り分け、白い皿に乗せて差し出す。
「『季節野菜とグリュイエールチーズのキッシュ・ロレーヌ』です」
ヴァルキュリアは目を見開いた。
サクサクに焼かれたパイ生地(パート・ブリゼ)の中には、ふわふわの卵液(アパレイユ)と共に、ほうれん草やキノコ、ベーコンがたっぷりと詰まっている。
表面には、溶けて焦げ目のついたグリュイエールチーズ。
そして仕上げに、鮮やかな緑色のハーブ(イタリアンパセリ、チャービル、タイム)が散らされていた。
「これは……菓子ではないのですか?」
「フランス・ロレーヌ地方の郷土料理です。卵と野菜、乳製品、そして肉。……五大栄養素をバランスよく摂取できる、完全栄養食ですよ」
優也は「栄養」という単語を強調した。
それが、彼女にとって一番の「言い訳」になることを知っているからだ。
「……栄養、ですか。確かに、これなら教義に反しない……かもしれません」
ヴァルキュリアは自分に言い聞かせるように呟き、ナイフを入れた。
サクッ。
心地よい音と共に、パイ生地が崩れる。中は茶碗蒸しのようにプルプルだ。
湯気の立つ一切れを、口へと運ぶ。
――ハフッ。
熱々のキッシュを噛んだ瞬間、ヴァルキュリアの身体が硬直した。
「……ッ!!」
サクサクの生地の食感。
それに続く、卵と生クリームの濃厚でクリーミーな味わい。
噛めば噛むほど溢れ出す、厚切りベーコンの塩気と旨味。
チーズのコク。
それらすべてが、口の中で渾然一体となり、優しく溶けていく。
(温かい……。なんて優しい味……)
冷たいパンとスープしか食べてこなかった彼女の胃袋に、温かな卵料理が染み渡る。
そして何より――。
「……この香り……」
濃厚な味の後味を、爽やかなハーブの香りが洗い流していく。
タイムのほろ苦さ。チャービルの甘い香り。
それは、彼女が天界の庭園で一人、土いじりをしている時の安らぎを思い出させた。
「私の……好きな香り……」
ヴァルキュリアの瞳から、険しい光が消えた。
代わりに浮かんだのは、まるで少女のような、うっとりとした表情。
「野菜の甘みと、ハーブの香りが……喧嘩せずに手を取り合っています。まるで、完璧に指揮されたオーケストラのよう……」
「お気に召しましたか?」
「……美味しい。……悔しいですが、とても」
彼女はもう、フォークを止められなかった。
一口、また一口。
食べるたびに、眉間のシワが消え、張り詰めていた肩の力が抜けていく。
完食する頃には、彼女はただの「美味しいものを食べて幸せな女性」になっていた。
「……ふぅ」
空になった皿を見て、ヴァルキュリアは我に返った。
咳払いを一つして、居住まいを正す。
「コホン。……認めましょう。この料理は、単なる快楽の追求ではなく、心身の健康に資する『良質な食事』であると」
彼女はキリッとした顔で宣言した。口元に小さなパイ屑がついているのも気づかずに。
「よって、この店を即刻破壊することは保留します。……ただし!」
「ただし?」
「監視が必要です。この店が今後、本当に健全な運営を続けるか……私が毎日、責任を持って『味見』をしに来ます」
「毎日ですか?」
「ええ、毎日です。これは公務です。……あ、明日は違う種類のハーブを使ったキッシュを用意しておきなさい。いいですね?」
それは事実上の「常連宣言」だった。
優也は苦笑しながら、深く一礼した。
「かしこまりました。……では、明日は『サーモンとディルのキッシュ』をご用意してお待ちしております」
「ディル……! 魚料理に合う素晴らしいハーブですね。……楽しみにしています」
ヴァルキュリアは満足げに頷き、部下の騎士たちに号令をかけた。
「総員、撤収! この店は『要観察対象』とする! 決して手を出さぬように!」
嵐が去った後。
店内に残されたのは、安堵の空気と、勝利の余韻。
「やったね優也様! 天使長も餌付け完了!」
「チョロいですぅ……」
「こらルナ、聞こえるぞ」
優也はグラスを磨きながら、窓の外を見上げた。
シスター、不死鳥、そして天使長。
聖都の守護者たちは、次々と「胃袋」という弱点を握られ、優也の軍門に下った。
だが。
この一連の騒動を、快く思わない最後の敵が、ついに動き出そうとしていた。
聖教会の頂点にして、世界樹の代弁者――教皇である。
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