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第二章 世一と結
EP 1
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月が綺麗ですね、と彼女は泣いた
「……はぁ。ついてねぇ」
深夜一時。
誰もいない住宅街の路地裏に、俺――月神世一(つきがみ よいち)の深いため息が溶けて消えた。
革靴の踵(かかと)はすり減り、安物のスーツはヨレヨレだ。
手にはコンビニの袋。中身は値引きされた冷たい弁当と、第三のビール。
これが、今の俺の全財産であり、唯一の楽しみだ。
「なんで俺ばっかり、こんな目に遭うんだか」
今日の出来事を思い返すだけで、胃がキリキリと痛む。
朝、通勤電車で足を踏まれ、ドアにネクタイを挟まれた。
昼、上司のミスをなぜか俺のせいにされ、取引先で土下座させられた。
夜、終電間際まで残業を押し付けられ、挙げ句の果てに駅の階段で転んで、スマホの画面が割れた。
不運。
俺の人生は、この二文字で構成されていると言っても過言ではない。
何も悪いことはしていないはずだ。
真面目に生きている。人に迷惑をかけないように、目立たないように生きてきた。
それなのに、世界は俺にだけやけに厳しい気がする。まるで、前世でとんでもない大罪でも犯した罰を受けているみたいだ。
「……バカバカしい」
妄想を振り払い、重い足を前に進める。
街灯が点滅し、ジジジ……と不快な音を立てて消えた。
まただ。俺が通る道は、なぜかよく電球が切れる。
暗闇に包まれた帰り道。
ふと、視線を上げた。
ビルの隙間、電線が張り巡らされた狭い夜空に、ぽっかりと白い穴が開いている。
満月だった。
透き通るような、冷たくて優しい光。
地上の泥臭い不幸など、どうでもいいと言わんばかりの、圧倒的な静寂。
不思議と、それを見ている時だけは、胸の奥のモヤモヤが晴れていく気がした。
理不尽な上司の顔も、ヒビの入ったスマホのことも、どうでもよくなってくる。
「……あー」
俺は立ち止まり、夜空に向かって独り言ちた。
「今日は、月が綺麗だ」
誰に聞かせるわけでもない、ただの感想。
けれど、その言葉は夜の空気に吸い込まれ――
「――こんばんは」
背後から、鈴を転がすような声がした。
ビクリと肩が跳ねる。
こんな時間に、こんな暗い路地裏で。
恐る恐る振り返ると、そこには――
この世の物とは思えない、一人の女性が立っていた。
「……え?」
思考が停止する。
闇夜に溶け込みそうな濡羽色(ぬればいろ)の長い髪。
対照的に、月光を浴びて発光しているかのような、陶器のような白い肌。
服装こそ現代的な白いワンピースだが、彼女が纏う空気だけが、まるで神社の御神木のような、神聖で近寄りがたい気配を漂わせていた。
美人、という言葉では安すぎる。
もしも「美」という概念が人の形をしたら、こうなるのだろうか。
そんな浮世離れした美女が、じっと俺を見つめている。
その大きな瞳には、今にも溢れ出しそうなほどの涙が溜まっていた。
俺は見惚れるのと同時に、狼狽した。
不審者か? 幽霊か?
いや、それにしては足があるし、何より……懐かしい。
初めて会うはずなのに、なぜか俺の魂が「知っている」と叫んでいるような、強烈な既視感。
「あ、あの……」
俺が掠れた声を絞り出すと、彼女はふわりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、心臓が早鐘を打った。
彼女は、俺と同じように夜空を見上げ、そして震える声で言った。
「月が……綺麗ですね」
それは、ただの天候の話ではなかった。
まるで、長い長い旅を終えた旅人が、ようやく故郷の灯りを見つけたような。
あるいは、数千年の時を超えて、愛しい人に再会したような。
万感の想いが込められた、愛の告白に聞こえた。
「は、はい……こんばんは」
俺はドギマギしながら、間抜けな返事をするしかなかった。
彼女の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
それは宝石のようにキラキラと光り、アスファルトに染み込んだ。
「やっと……やっと、見つけました」
彼女が一歩、俺に近づく。
甘い、どこか線香花火のような、儚くて懐かしい香りが鼻をくすぐった。
「見つけた? 俺を、ですか?」
「はい。ずっと、ずっと探していました。何回、季節が巡っても。世界が形を変えても」
彼女は俺の目の前まで来ると、その白く華奢な手で、俺のスーツの袖を――汚れた、安物のスーツの袖を、宝物のようにギュッと掴んだ。
「世一様」
名前を呼ばれた。
名札など付けていないのに。
「貴方様に、お仕えするために参りました」
「……は?」
お仕えする?
誰に? 俺に?
「い、いや、人違いじゃ……俺、ただのしがない会社員で、給料も安いし、運も悪いし、君みたいな綺麗な人が探すような人間じゃ……」
俺が後ずさりしようとすると、彼女は首を横に振った。
その瞳には、狂気的なまでの熱が宿っていた。
「いいえ。間違いありません。貴方様は、私の世界の全て。私の……神様ですから」
「か、神様?」
やっぱり、危ない人なんじゃないか。
そう思ったけれど、掴まれた袖の手が熱くて、震えていて、どうしても振り払うことができなかった。
彼女は濡れた瞳で見上げ、懇願するように、けれど絶対に逃がさないという意思を込めて言った。
「お腹、空いていらっしゃいますよね? お家に……入れていただけますか?」
これが、俺――月神世一と、
かつて世界を統べていたらしい元女神・結(ゆい)との、再会の夜だった。
この時の俺はまだ知らない。
自分の前世が、神をも恐れぬ大悪党だったことも。
そして、この美女がこれから俺の生活(と敵対する者すべて)を、徹底的に支配し尽くそうとしていることも。
ただ、月だけが静かに、俺たちの再会を祝福していた。
「……はぁ。ついてねぇ」
深夜一時。
誰もいない住宅街の路地裏に、俺――月神世一(つきがみ よいち)の深いため息が溶けて消えた。
革靴の踵(かかと)はすり減り、安物のスーツはヨレヨレだ。
手にはコンビニの袋。中身は値引きされた冷たい弁当と、第三のビール。
これが、今の俺の全財産であり、唯一の楽しみだ。
「なんで俺ばっかり、こんな目に遭うんだか」
今日の出来事を思い返すだけで、胃がキリキリと痛む。
朝、通勤電車で足を踏まれ、ドアにネクタイを挟まれた。
昼、上司のミスをなぜか俺のせいにされ、取引先で土下座させられた。
夜、終電間際まで残業を押し付けられ、挙げ句の果てに駅の階段で転んで、スマホの画面が割れた。
不運。
俺の人生は、この二文字で構成されていると言っても過言ではない。
何も悪いことはしていないはずだ。
真面目に生きている。人に迷惑をかけないように、目立たないように生きてきた。
それなのに、世界は俺にだけやけに厳しい気がする。まるで、前世でとんでもない大罪でも犯した罰を受けているみたいだ。
「……バカバカしい」
妄想を振り払い、重い足を前に進める。
街灯が点滅し、ジジジ……と不快な音を立てて消えた。
まただ。俺が通る道は、なぜかよく電球が切れる。
暗闇に包まれた帰り道。
ふと、視線を上げた。
ビルの隙間、電線が張り巡らされた狭い夜空に、ぽっかりと白い穴が開いている。
満月だった。
透き通るような、冷たくて優しい光。
地上の泥臭い不幸など、どうでもいいと言わんばかりの、圧倒的な静寂。
不思議と、それを見ている時だけは、胸の奥のモヤモヤが晴れていく気がした。
理不尽な上司の顔も、ヒビの入ったスマホのことも、どうでもよくなってくる。
「……あー」
俺は立ち止まり、夜空に向かって独り言ちた。
「今日は、月が綺麗だ」
誰に聞かせるわけでもない、ただの感想。
けれど、その言葉は夜の空気に吸い込まれ――
「――こんばんは」
背後から、鈴を転がすような声がした。
ビクリと肩が跳ねる。
こんな時間に、こんな暗い路地裏で。
恐る恐る振り返ると、そこには――
この世の物とは思えない、一人の女性が立っていた。
「……え?」
思考が停止する。
闇夜に溶け込みそうな濡羽色(ぬればいろ)の長い髪。
対照的に、月光を浴びて発光しているかのような、陶器のような白い肌。
服装こそ現代的な白いワンピースだが、彼女が纏う空気だけが、まるで神社の御神木のような、神聖で近寄りがたい気配を漂わせていた。
美人、という言葉では安すぎる。
もしも「美」という概念が人の形をしたら、こうなるのだろうか。
そんな浮世離れした美女が、じっと俺を見つめている。
その大きな瞳には、今にも溢れ出しそうなほどの涙が溜まっていた。
俺は見惚れるのと同時に、狼狽した。
不審者か? 幽霊か?
いや、それにしては足があるし、何より……懐かしい。
初めて会うはずなのに、なぜか俺の魂が「知っている」と叫んでいるような、強烈な既視感。
「あ、あの……」
俺が掠れた声を絞り出すと、彼女はふわりと微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、心臓が早鐘を打った。
彼女は、俺と同じように夜空を見上げ、そして震える声で言った。
「月が……綺麗ですね」
それは、ただの天候の話ではなかった。
まるで、長い長い旅を終えた旅人が、ようやく故郷の灯りを見つけたような。
あるいは、数千年の時を超えて、愛しい人に再会したような。
万感の想いが込められた、愛の告白に聞こえた。
「は、はい……こんばんは」
俺はドギマギしながら、間抜けな返事をするしかなかった。
彼女の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
それは宝石のようにキラキラと光り、アスファルトに染み込んだ。
「やっと……やっと、見つけました」
彼女が一歩、俺に近づく。
甘い、どこか線香花火のような、儚くて懐かしい香りが鼻をくすぐった。
「見つけた? 俺を、ですか?」
「はい。ずっと、ずっと探していました。何回、季節が巡っても。世界が形を変えても」
彼女は俺の目の前まで来ると、その白く華奢な手で、俺のスーツの袖を――汚れた、安物のスーツの袖を、宝物のようにギュッと掴んだ。
「世一様」
名前を呼ばれた。
名札など付けていないのに。
「貴方様に、お仕えするために参りました」
「……は?」
お仕えする?
誰に? 俺に?
「い、いや、人違いじゃ……俺、ただのしがない会社員で、給料も安いし、運も悪いし、君みたいな綺麗な人が探すような人間じゃ……」
俺が後ずさりしようとすると、彼女は首を横に振った。
その瞳には、狂気的なまでの熱が宿っていた。
「いいえ。間違いありません。貴方様は、私の世界の全て。私の……神様ですから」
「か、神様?」
やっぱり、危ない人なんじゃないか。
そう思ったけれど、掴まれた袖の手が熱くて、震えていて、どうしても振り払うことができなかった。
彼女は濡れた瞳で見上げ、懇願するように、けれど絶対に逃がさないという意思を込めて言った。
「お腹、空いていらっしゃいますよね? お家に……入れていただけますか?」
これが、俺――月神世一と、
かつて世界を統べていたらしい元女神・結(ゆい)との、再会の夜だった。
この時の俺はまだ知らない。
自分の前世が、神をも恐れぬ大悪党だったことも。
そして、この美女がこれから俺の生活(と敵対する者すべて)を、徹底的に支配し尽くそうとしていることも。
ただ、月だけが静かに、俺たちの再会を祝福していた。
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