「月が綺麗ですね」その一言の為に世界を壊した。蜘蛛を助けた極悪人と、彼を数千年も探し続けた女神の、地獄から始まる転生純愛物語

月神世一

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第二章 世一と結

EP 3

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パワハラ部長と、無自覚な殺気
​ 奇跡のような快適な通勤を終え、俺はオフィスに到着した。
​ 胃が痛くない。
 足取りが軽い。
 何より、今朝食べた結(ゆい)の手料理――あの神懸かった味噌汁の余韻が、体の芯から活力を生み出している気がする。
​「よし。今日も一日、何事もなく終わりますように」
​ 俺は小さく祈って、自分のデスクに向かった。
 だが、俺の人生(シナリオ)に「平穏」という文字は書かれていないらしい。
​「おい、月神(つきがみ)ィィィッ!!」
​ フロア全体に響き渡る怒号。
 ビクリと肩を震わせて振り向くと、営業部長の権田(ごんだ)が、赤鬼のような形相で仁王立ちしていた。
​ 権田部長。
 部下の成果は自分のもの、自分のミスは部下のもの。
 気に入らない人間がいれば、大勢の前で罵倒してストレス解消にする、典型的なパワハラ上司だ。そして不運な俺は、彼にとって格好のサンドバッグだった。
​「な、何でしょうか、部長……」
​「『何でしょうか』じゃねえよ! この役立たずが!」
​ バサァッ!
 権田は持っていた書類の束を、俺の顔めがけて投げつけた。
 紙の端が頬を掠め、ピリッとした痛みが走る。書類が雪のように床に散らばった。
​「なんだこの見積書は! 金額の桁が一つ足りねえぞ! おかげで先方が激怒して取引中止になりかけたじゃねえか!!」
​「え……?」
​ 俺は床に落ちた書類を拾い上げた。
 確かに金額が間違っている。だが、これは――
​「部長、これは私が作ったものではありません。作成者は……」
​ 作成者欄には、権田の腰巾着である若手社員の名前がある。俺はそもそも、この案件に関わってすらいない。
​「言い訳すんじゃねえ!」
​ ドカッ!
 権田が俺のデスクを蹴り上げた。周囲の社員たちが怯えて俯く。誰も助けてはくれない。いつもの光景だ。
​「お前がチェックしてねえからだろうが! 俺の部下なら、俺のケツを拭くのが仕事だろうが! あぁん!?」
​ 理不尽だ。
 あまりにも理不尽すぎる。
 だが、ここで言い返せば、さらに火に油を注ぐだけだ。いつものように、頭を下げて嵐が過ぎるのを待てばいい。
​「申し訳、ありませ……」
​ 俺は条件反射で頭を下げようとした。
 
 ――その時だった。
​ ドクン。
 心臓が、大きく脈打った。
​(……あ?)
​ 脳裏に、ノイズのような声が響いた。
 
 ――誰に口きいてんだ、テメェ。
 ――殺すぞ。
​ 熱い。
 腹の底から、どす黒いマグマのような感情がせり上がってくる。
 今朝食べた結の料理が、俺の魂の奥底に眠っていた「何か」に栄養を与えてしまったのだろうか。
​ 俺の体は、意思に反して動かなくなった。
 首が、曲がらない。
 謝罪の言葉が、喉に張り付いて出てこない。
​「あぁ? なんだその目は。俺に逆らおうってのか、このゴミクズが!」
​ 権田がさらにヒートアップし、俺の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしてきた。
​ その瞬間。
 
 俺は無意識に、ゆっくりと顔を上げた。
​「……あ?」
​ 口から漏れたのは、普段の俺からは想像もできないほど低く、地を這うような声だった。
​「ひっ……!?」
​ 権田の動きが、ピタリと止まった。
​ 俺自身は、ただ部長の顔を見ただけのつもりだった。
 だが、権田の目には全く別の景色が映っていた。
​ ――目の前にいるのは、冴えない部下の月神ではない。
 
 背後に、天を焦がすほどの紅蓮の炎を背負った、鬼だ。
 その瞳は、人の命など路傍の石ころほどにも思っていない、絶対的な捕食者の眼光。
 
 『死ぬ』。
 
 生物としての本能が、警報を鳴らした。
 手を伸ばせば、その腕ごとねじ切られる。
 声を出せば、喉笛を食いちぎられる。
​ 圧倒的な「死」の予感が、権田の精神を粉々に砕いた。
​「あ……あ、あ……」
​ 権田の顔色が、怒りの赤から土気色へ、そして蒼白へと変わっていく。
 伸ばしかけた手が、ガタガタと無様に震え始めた。
​「ぶ、部長?」
​ 俺は不思議に思って、首を傾げた。
 なぜ急に黙ったんだろう。
​ 俺がわずかに一歩踏み出すと、権田は「ヒィッ!」と悲鳴を上げ、後ずさりして自分の足にもつれた。
​ ドサァッ!
 尻餅をつく権田。
 その股間が、じわりと濃い色に染まっていく。
​「く、来るな……殺さないでくれ……ごめんなさい、ごめんなさい……!」
​ 権田は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、床を這いつくばって後退りし、そのまま脱兎のごとくオフィスから逃げ出した。
​「うわあああああん!!」
​ 子供のような泣き声だけが、廊下に響き渡っていった。
​ 静寂。
 オフィスに残されたのは、呆気にとられる社員たちと、何が起きたのか分からず立ち尽くす俺だけ。
​「……えっと」
​ 俺は頭を掻いた。
​「部長、急にお腹でも痛くなったのかな……?」
​ 漏らしてたし。
 まあ、怒られるのが終わったならいいか。
 俺は散らばった書類を拾い集め、席に戻った。
​ 周囲の同僚たちが、俺を「あいつ、一体何をしたんだ……?」という畏怖の目で見ていることになど、全く気づかずに。
​          ◇
​ その頃。
 会社の向かいのビルの屋上で。
​ 結は、その一部始終を「千里眼(のような術)」で見ていた。
​「ふふっ……♡」
​ 彼女は頬を染め、恍惚とした表情で身をよじる。
​「さすが世一様。あのような下等生物に手を下すまでもなく、眼光だけで制圧されるとは……」
​ 彼女の目には、世一の背後に浮かび上がった、かつての「世界を壊した男」の幻影が見えていた。
​「やはり貴方様は素敵です。……ですが」
​ 結の表情が、スッと冷徹なものに変わる。
​「あの男、世一様の視界に入ったことすら許せません。二度と世一様の前に現れないよう、社会的に……いえ、存在ごと『処理』が必要ですね」
​ 彼女が指先を動かすと、空気がピリリと震えた。
 逃げ出した権田には、世一の眼光以上の「本当の地獄」がこれから待ち受けているのだが――それはまた、別の話。
​「さあ、お昼には愛妻弁当をお持ちしますね、世一様」
​ 最強の女神は、上機嫌で鼻歌を歌いながら姿を消した。
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