ママ戦争を止めてくるわ

月神世一

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第二章 ママ日中戦争を止めてくるわ

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桜田邸の広く磨き上げられた厨房には、朝から昆布と鰹節の合わせ出汁の、ひどく優しく上品な香りが漂っていた。
​「よし、お魚の骨は完全に抜けたわね。カブも指で潰せるくらいトロトロになったし……完璧」
​最高級の割烹着を身に纏ったリベラは、小鍋の中でコトコトと煮込まれている離乳食を味見し、満足げに微笑んだ。
現代の栄養学と、趣味のお菓子作りで培った繊細な火加減のコントロール。当時としては手に入りにくい新鮮な真鯛の白身とカブを、極上の出汁で極限まで柔らかく煮含めた一品だ。法廷で相手を冷酷に追い詰める敏腕弁護士の顔は微塵もなく、そこにはただ愛息の健康を第一に考える母親の顔があった。
​「さあ優太、あーんして」
​ダイニングテーブルの特製ベビーチェアに座る優太の口元へ、ふーふーと冷ました離乳食をスプーンで運ぶ。
優太はパクリとそれを咥えると、目を丸くして「んま! んまぁ!」と短い腕をパタパタと振って喜んだ。
​「ふふっ、美味しい? いっぱい食べて、丈夫な男の子になるのよ」
​リベラが優太の柔らかい頬を撫でていると、控えめなノックの音と共に、執事の背後から柴田が顔を出した。
その表情は、いつもの気のいい「私兵のリーダー」ではなく、血の匂いを纏った「裏の顔」に切り替わっている。
​「……お食事中、申し訳ありやせん。アネゴ……いや、総帥。少々耳障りな報告書が上がってきやした」
​「……そう」
​リベラは優太の口元を綺麗なガーゼで拭うと、手早く割烹着を脱ぎ捨てた。
その下から現れたのは、一切の隙のない漆黒のスーツ姿。一瞬にして、慈愛に満ちた母親から、大日本帝国を裏から支配する冷徹な財閥総帥へと空気が反転する。
​「応接間で聞くわ。優太のお世話、お願いね」
乳母に優太を預け、リベラは柴田を伴って重厚な応接間へと足を踏み入れた。
​「それで? 国内の急進派(狂犬ども)の牙は全部引っこ抜いて、予算も三田会のジイさん達に首輪をつけさせたはずだけど。どこの馬鹿が騒いでいるの?」
​ソファに優雅に脚を組んで座るリベラに、柴田は分厚いファイルを手渡した。
​「『関東軍』です。満州に駐留している、帝国陸軍の最大の出先機関。……中央(近衛内閣)からの予算が絞られたことに腹を立て、満州の資源と鉄道の利権を使って、独自に裏金を作り始めていやがるようです」
​「……なるほどね。親会社(内閣)から経費を止められたからって、子会社の支社長が勝手に別会社を作って独立しようとしてるわけか」
​リベラはファイルをパラパラと捲りながら、呆れたように鼻を鳴らした。
​「まったく、いつの時代も軍人ってのは法律も経済も理解していない。……だけど、厄介な連中ね。彼らが満州で勝手にドンパチ(戦争)を始めれば、国際社会は『日本が侵略を始めた』と見なして、本格的な経済制裁に乗り出してくるわ」
​「総帥の仰る通りで。いくら内閣と議会を抑えても、あいつらが大陸で勝手に暴発すりゃあ、結局元の木阿弥です。……いっそ、満州の司令部ごとウチの部隊で『お掃除』しやすか?」
​柴田が首の骨を鳴らしながら物騒な提案をするが、リベラは静かに首を振った。
​「駄目よ。モグラ叩きになるだけ。一人暗殺したところで、また別の狂犬がトップに座るわ。……彼らが中央の命令を無視して暴走できるのには、根本的な『システム上のバグ』が存在するの」
​リベラはテーブルの上に、一冊の古びた六法全書をドンと置いた。
​「大日本帝国憲法・第十一条。『天皇ハ陸海軍ノ統帥ヲ大権トス』。……通称、『統帥権の独立』よ」
​弁護士としての鋭い眼光が、六法全書のページを射抜く。
​「軍の指揮権は天皇陛下だけにある。だから内閣や議会(シビリアン)は、軍の作戦行動に口出しできない。軍部はこの一文を『憲法という名の絶対のルール』として悪用し、勝手に戦争を始めようとしている。……契約書としては致命的な欠陥(バグ)だわ」
​「憲法のバグ……。じゃあ、どうすりゃいいんで?」
​「決まってるでしょう? バグがあるなら、ルール(法律)そのものを書き換えて、二度と奴らが身動き取れないように鎖で縛り上げるのよ。近衛内閣を通じて『新しい憲法解釈』、あるいは『新法』を議会に叩きつける」
​リベラは六法全書を閉じ、万年筆を手に取った。
​「だけど、それを作るには今の日本の法学者じゃ駄目。彼らは明治憲法の枠組みに洗脳されすぎているわ。世界基準の国際法に通じ、基本的人権を理解し、なおかつ私の『えげつない法廷戦術』を理解できる、若くて柔軟な頭脳が必要よ」
​リベラは手元のメモ用紙にサラサラと横文字を書き込み、それを柴田に差し出した。
​「柴田。桜田の情報網を総動員して、帝都にいるこの家族を探し出しなさい。右翼や特高警察の連中が彼らに目をつけ始めているはずよ。指一本触れさせる前に、何がなんでもウチで保護(お持ち帰り)するの」
​柴田はメモ用紙を受け取り、そこに書かれた名前を読んだ。
​「『レオ・シロタ』……。たしか、最近ウィーンから亡命してきた、ユダヤ系の天才ピアニストじゃねえですか。音楽家(ピアノ弾き)に法律の知識が?」
​「本命は彼じゃないわ」
​リベラは妖しく、そしてひどく楽しげに唇を吊り上げた。
​「探すべきは、その娘よ。ベアテ・シロタ。……六ヶ国語を操り、誰よりも平等と自由を愛する、とびきりの天才少女。彼女を私の『一番弟子』として鍛え上げるわ」
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