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EP 6
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匂いをおかずに白飯を食え
夕闇が迫る第3区の裏通り。
先ほど食べた板チョコの甘美な余韻は、私の胃袋を通過するやいなや、儚く消え去っていた。
糖分は摂取した。頭は冴えている。
だからこそ、身体がより鮮烈に訴えてくるのだ。
――塩分と、炭水化物と、温もりを寄越せ、と。
「お腹……空きましたわ……」
私はフラフラと歩いていた。
シェアハウスに帰れば、キャルルさんが買ってきた夕食や、ルナさんが生成したディナーがあるだろう。
でも、今の私は無一文(さっきのパチンコ玉はお菓子に変わった)。
プライド高き元姫として、これ以上彼女たちに「一口ちょうだい」とは言えない。
その時だった。
私の鼻腔を、暴力的なまでに芳醇な香りが貫いた。
「こ、この匂いは……!?」
醤油が焦げる香ばしさ。出汁の深い香り。そして、脂の乗った肉が煮込まれる甘美な匂い。
私は見えない糸に引かれるように、その匂いの発生源へと吸い寄せられた。
目の前に現れたのは、一軒の小料理屋。
暖簾には『鬼神亭』の文字。
格式高そうな店構えだが、換気扇からは庶民の胃袋を鷲掴みにする「家庭の味」の爆撃が行われていた。
「はわわ……なんて素晴らしい香り……」
私は店の前の電柱の陰に隠れ、ポケットから「非常食」を取り出した。
朝、パン屋でもらったパンの耳の残りだ。カピカピに乾いている。
しかし、今の私には秘策があった。
「スーッ……(深呼吸)」
換気扇から漏れ出る極上の煮物の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
脳内でイメージするのだ。目の前にホックホクのジャガイモと、トロトロの角煮がある光景を!
「今ですわ! ガブッ!」
匂いをオカズに、パンの耳をかじる。
ボソボソとしたパンの食感が、脳内のイメージによって、ジューシーな肉の食感へと変換され……
「……るわけないじゃないですかぁぁッ!!」
私は一人、電柱に頭を打ち付けた。
虚しい。あまりにも虚しい。
匂いを嗅げば嗅ぐほど、胃液が逆流して空腹が加速する。これぞ焦らしプレイ。
私は涙目で、もう一度大きく匂いを吸い込もうとした。
ガララッ――。
突然、目の前の引き戸が開いた。
「……店の前で何をしている」
現れたのは、夜の闇そのもののような男だった。
長身痩躯。黒いシャツに、血のように赤いジャケット。
整った顔立ちだが、その瞳には底知れぬ虚無と、人を数人埋めてきたような凄みが宿っている。
店主の、鬼神龍魔呂だ。
「ヒィッ!?」
私は飛び上がった。
殺される。タダで匂いを嗅いでいた罪で、海に沈められる!
「ご、ごめんなさい! 営業妨害するつもりじゃなくて! ただ匂いがあまりにも美味そうで、ついパンの耳を……!」
私は乾いたパンの耳を隠そうと背中に回し、ガタガタと震えた。
龍魔呂は、私の薄汚れた服と、手に持ったパンの耳を無表情で見下ろした。
そして、私の顔(おそらく空腹で死相が出ている)をじっと見つめ――。
「……入れ」
短く、そう言った。
「え?」
「客が来ない時間帯だ。余り物でいいなら食わせてやる」
「い、いいえ! お金持ってませんの! 無銭飲食はアイドルの恥ですわ!」
「金はいらん。……腹の虫がうるさい」
龍魔呂は私の腕を掴むと、強引に、しかし驚くほど優しく店内へと引き入れた。
◇
店内は清潔で、木の温もりに満ちていた。
私はカウンターの端に座らされ、縮こまっていた。
龍魔呂は厨房に入ると、手際よく鍋を振るい始めた。
その背中は、殺し屋というより、熟練の職人のそれだった。
数分後。
コトッ、と私の前に器が置かれた。
「肉じゃがだ。……熱いから気をつけろ」
湯気を立てる大鉢。
そこには、ゴロリと大きなジャガイモ、鮮やかな人参、緑の絹さや、そして飴色に輝く豚肉が山盛りにされていた。
隣には、ピカピカに光る白米の丼と、お味噌汁。
「こ、これを……私に……?」
「食え」
彼はそれだけ言うと、カウンターの奥でタバコ(赤マル)に火をつけ、紫煙をくゆらせた。
私は震える手で箸を取った。
「い、いただきます……」
まずは、ジャガイモを一口。
ハフッ、ハフッ。
口に入れた瞬間、ホロリと崩れる柔らかさ。
中まで染み込んだ甘辛い出汁の味が、口いっぱいに広がる。
「んんっ……!」
次は白米。
ジャガイモの味が残る口内に、炊きたての銀シャリを放り込む。
噛めば噛むほど甘みが出る米。煮汁とのハーモニー。
「おいひぃ……おいひぃですわぁ……!」
気がつけば、私の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
ただの煮物だ。王宮で出るような高級料理じゃない。
でも、ここ数日、パンの耳と雑草しか食べていなかった私の身体には、この温かさが何よりの魔法薬(ポーション)だった。
豚肉の脂の甘み。人参の素朴な味。
味噌汁をすすると、カツオ出汁の香りが鼻に抜ける。
私は夢中で箸を動かした。
姫としてのマナー? アイドルとしての品格?
そんなもの、この「肉じゃが」の前では無力だ。
ズズッ、と鼻をすすりながら完食した私に、龍魔呂は無言で温かいお茶と、おしぼりを差し出した。
「……食ったか」
「はい……! ごちそうさまでした……! 本当に、本当に美味しかったです……!」
私が深々と頭を下げると、龍魔呂はふっと口元を緩めた。
その笑顔は、先ほどの凄みが嘘のように穏やかで、思わず胸がドキリとした。
「ならいい。……また腹が減ったら来い。パンの耳なんかかじってないでな」
「ううっ……龍魔呂さぁん……!」
なんていい人なのだろう。見た目は怖いけど、中身は聖人だ。
私は感動に打ち震えながら、店を後にした。
お腹はいっぱい。心も満タン。
今日の私は無敵だ。
――しかし、私は知らなかった。
この数分後、私が座っていた席を巡って、女神と魔王による『神話級の喧嘩』が勃発し、龍魔呂さんが頭を抱えることになるなんて。
そして、その火の粉が明日の私に降りかかることも。
夕闇が迫る第3区の裏通り。
先ほど食べた板チョコの甘美な余韻は、私の胃袋を通過するやいなや、儚く消え去っていた。
糖分は摂取した。頭は冴えている。
だからこそ、身体がより鮮烈に訴えてくるのだ。
――塩分と、炭水化物と、温もりを寄越せ、と。
「お腹……空きましたわ……」
私はフラフラと歩いていた。
シェアハウスに帰れば、キャルルさんが買ってきた夕食や、ルナさんが生成したディナーがあるだろう。
でも、今の私は無一文(さっきのパチンコ玉はお菓子に変わった)。
プライド高き元姫として、これ以上彼女たちに「一口ちょうだい」とは言えない。
その時だった。
私の鼻腔を、暴力的なまでに芳醇な香りが貫いた。
「こ、この匂いは……!?」
醤油が焦げる香ばしさ。出汁の深い香り。そして、脂の乗った肉が煮込まれる甘美な匂い。
私は見えない糸に引かれるように、その匂いの発生源へと吸い寄せられた。
目の前に現れたのは、一軒の小料理屋。
暖簾には『鬼神亭』の文字。
格式高そうな店構えだが、換気扇からは庶民の胃袋を鷲掴みにする「家庭の味」の爆撃が行われていた。
「はわわ……なんて素晴らしい香り……」
私は店の前の電柱の陰に隠れ、ポケットから「非常食」を取り出した。
朝、パン屋でもらったパンの耳の残りだ。カピカピに乾いている。
しかし、今の私には秘策があった。
「スーッ……(深呼吸)」
換気扇から漏れ出る極上の煮物の匂いを肺いっぱいに吸い込む。
脳内でイメージするのだ。目の前にホックホクのジャガイモと、トロトロの角煮がある光景を!
「今ですわ! ガブッ!」
匂いをオカズに、パンの耳をかじる。
ボソボソとしたパンの食感が、脳内のイメージによって、ジューシーな肉の食感へと変換され……
「……るわけないじゃないですかぁぁッ!!」
私は一人、電柱に頭を打ち付けた。
虚しい。あまりにも虚しい。
匂いを嗅げば嗅ぐほど、胃液が逆流して空腹が加速する。これぞ焦らしプレイ。
私は涙目で、もう一度大きく匂いを吸い込もうとした。
ガララッ――。
突然、目の前の引き戸が開いた。
「……店の前で何をしている」
現れたのは、夜の闇そのもののような男だった。
長身痩躯。黒いシャツに、血のように赤いジャケット。
整った顔立ちだが、その瞳には底知れぬ虚無と、人を数人埋めてきたような凄みが宿っている。
店主の、鬼神龍魔呂だ。
「ヒィッ!?」
私は飛び上がった。
殺される。タダで匂いを嗅いでいた罪で、海に沈められる!
「ご、ごめんなさい! 営業妨害するつもりじゃなくて! ただ匂いがあまりにも美味そうで、ついパンの耳を……!」
私は乾いたパンの耳を隠そうと背中に回し、ガタガタと震えた。
龍魔呂は、私の薄汚れた服と、手に持ったパンの耳を無表情で見下ろした。
そして、私の顔(おそらく空腹で死相が出ている)をじっと見つめ――。
「……入れ」
短く、そう言った。
「え?」
「客が来ない時間帯だ。余り物でいいなら食わせてやる」
「い、いいえ! お金持ってませんの! 無銭飲食はアイドルの恥ですわ!」
「金はいらん。……腹の虫がうるさい」
龍魔呂は私の腕を掴むと、強引に、しかし驚くほど優しく店内へと引き入れた。
◇
店内は清潔で、木の温もりに満ちていた。
私はカウンターの端に座らされ、縮こまっていた。
龍魔呂は厨房に入ると、手際よく鍋を振るい始めた。
その背中は、殺し屋というより、熟練の職人のそれだった。
数分後。
コトッ、と私の前に器が置かれた。
「肉じゃがだ。……熱いから気をつけろ」
湯気を立てる大鉢。
そこには、ゴロリと大きなジャガイモ、鮮やかな人参、緑の絹さや、そして飴色に輝く豚肉が山盛りにされていた。
隣には、ピカピカに光る白米の丼と、お味噌汁。
「こ、これを……私に……?」
「食え」
彼はそれだけ言うと、カウンターの奥でタバコ(赤マル)に火をつけ、紫煙をくゆらせた。
私は震える手で箸を取った。
「い、いただきます……」
まずは、ジャガイモを一口。
ハフッ、ハフッ。
口に入れた瞬間、ホロリと崩れる柔らかさ。
中まで染み込んだ甘辛い出汁の味が、口いっぱいに広がる。
「んんっ……!」
次は白米。
ジャガイモの味が残る口内に、炊きたての銀シャリを放り込む。
噛めば噛むほど甘みが出る米。煮汁とのハーモニー。
「おいひぃ……おいひぃですわぁ……!」
気がつけば、私の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
ただの煮物だ。王宮で出るような高級料理じゃない。
でも、ここ数日、パンの耳と雑草しか食べていなかった私の身体には、この温かさが何よりの魔法薬(ポーション)だった。
豚肉の脂の甘み。人参の素朴な味。
味噌汁をすすると、カツオ出汁の香りが鼻に抜ける。
私は夢中で箸を動かした。
姫としてのマナー? アイドルとしての品格?
そんなもの、この「肉じゃが」の前では無力だ。
ズズッ、と鼻をすすりながら完食した私に、龍魔呂は無言で温かいお茶と、おしぼりを差し出した。
「……食ったか」
「はい……! ごちそうさまでした……! 本当に、本当に美味しかったです……!」
私が深々と頭を下げると、龍魔呂はふっと口元を緩めた。
その笑顔は、先ほどの凄みが嘘のように穏やかで、思わず胸がドキリとした。
「ならいい。……また腹が減ったら来い。パンの耳なんかかじってないでな」
「ううっ……龍魔呂さぁん……!」
なんていい人なのだろう。見た目は怖いけど、中身は聖人だ。
私は感動に打ち震えながら、店を後にした。
お腹はいっぱい。心も満タン。
今日の私は無敵だ。
――しかし、私は知らなかった。
この数分後、私が座っていた席を巡って、女神と魔王による『神話級の喧嘩』が勃発し、龍魔呂さんが頭を抱えることになるなんて。
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