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第三章 中間管理職と3柱
EP 2
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紫煙の貴公子、モーニングセットに堕ちる
午前7時。
城塞都市バルドの朝は早い。
だが、路地裏にひっそりと佇む小料理屋『鬼灯(ほおずき)』の暖簾をくぐる客は、まだほとんどいない時間帯だ。
カラン、コロン……。
ドアベルが鳴り、一人の青年が入ってきた。
仕立ての良い漆黒のスーツに身を包み、銀髪をオールバックに撫で付けた美丈夫。片目には知的なモノクル(片眼鏡)を掛けている。
「……失礼する」
その声は低く、そしてどこか深い疲労を滲ませていた。
彼の名はルーベンス・クロウ。
魔界の政治を牛耳る「穏健派」の筆頭議員であり、魔王ラスティアの側近中の側近である。
「……あぁ? まだ準備中だぞ」
カウンターの中で、龍魔呂が新聞(古新聞)を広げながら言った。
ルーベンスは店内を見渡し、カウンターの隅で突っ伏して寝ている「何か」を見つけて、深くため息をついた。
「……いや、回収に来ただけだ。我が主(あるじ)が、昨日から帰ってこないものでね」
ルーベンスの視線の先には、魔王ラスティアがいた。
彼女は昨夜の激辛祭りの後遺症か、ヨダレを垂らしながら白目を剥いて爆睡している。眼鏡はズレ、服は乱れ、魔王の威厳など微塵もない。
(……はぁ。これでも魔界の象徴か? ただの酔っ払いの中年女じゃないか。……起きろよババア)
ルーベンスは心の中で毒づいたが、表情には出さず、慇懃に頭を下げた。
「店主殿。この駄……いや、陛下を連れて帰る。手間を掛けさせたな」
「別にいい。金は取ってる」
龍魔呂は素っ気なく答えたが、ルーベンスがふと足を止めたことに気づいた。
ルーベンスの鼻が、ピクリと動いたのだ。
「……む」
店内に漂う、芳醇な香り。
焦げた豆の香ばしさと、どこか土の匂いを感じさせる深みのあるアロマ。
「……この匂いは、コーヒーか?」
「マンデリンだ。……飲むか?」
ルーベンスは迷った。
これからの激務(ラスティアの尻拭いと議会答弁)を考えると、胃に何か入れておきたい気分ではあった。魔王城のコーヒーは「泥水を煮詰めたような味」で、飲むと余計にストレスが溜まるのだ。
「……一杯だけ、いただこうか」
ルーベンスはカウンターの端に腰掛けた。
龍魔呂はネルドリップのサーバーをゆっくりと回し、黒い液体を抽出していく。
コポポポ……。
さらに、トースターから「チンッ」という音が響く。
「ついでだ。食ってけ」
ドンッ。
目の前に置かれたのは、木のトレーに乗った朝食セット。
湯気を立てる漆黒のコーヒー。
4枚切りの極厚トースト(バターが染み込んでいる)。
そして、つるんとしたゆで卵と、小さなサラダ。
『鬼灯特製・モーニングセット(金貨1枚)』だ。
「……トーストか。悪くない」
ルーベンスは新聞(魔界タイムズではなく、龍魔呂が置いていた地球のスポーツ新聞)を片手に、コーヒーカップを持ち上げた。
口に含む。
――ッ。
「……ほう」
ルーベンスの目がわずかに見開かれた。
苦い。だが、嫌な苦味ではない。
重厚なコクが舌の上に広がり、その後にハーブのような爽やかな香りが鼻に抜ける。
雑味がない。澄み渡った闇のような黒。
(美味い……。魔界のあれは一体何だったんだ? これは『覚醒』の味だ)
続いて、厚切りのトーストを手に取る。
表面はキツネ色に焼け、バターが黄金色の池を作っている。
サクッ……フワッ。
「……!」
香ばしい小麦の香りと、ジュワッと溢れ出す有塩バターの塩気。
中は驚くほどフワフワで、噛むたびに甘みが広がる。
(サクサクとフワフワの共存……。このバターの背徳的な量……。朝の空腹に染み渡る……!)
ルーベンスは無言でトーストを平らげ、ゆで卵の殻を剥いた。
塩を少し振って齧る。固茹で一歩手前の、絶妙な茹で加減。黄身のモソモソ感をコーヒーで流し込む快感。
完璧なルーティン。
ルーベンスの張り詰めていた神経が、ほどけていくのを感じた。
「……ふぅ」
完食し、彼は深く息を吐いた。
至福の時間。
だが、何か一つ足りない。
彼は懐から愛用のパイプを取り出そうとした。
その時。
スッ、と龍魔呂が何かを差し出した。
白い小さな箱と、銀色のライター。
「……パイプもいいが、こいつを試してみな」
「これは?」
「『セブンスター』だ。……ガツンとくるぞ」
ルーベンスは怪訝そうに、その紙巻きタバコを一本取り出し、口に咥えた。
龍魔呂が火をつける。
シュボッ。
ジジジ……。
ルーベンスは深く吸い込み、肺に紫煙を満たした。
そして、ゆっくりと吐き出す。
フゥゥゥゥゥ…………。
「――っくぅ……!」
脳髄に走る衝撃。
高タール、高ニコチン。
チャコールフィルターを通した鋭いキック感が、喉を焼き、血管を駆け巡る。
パイプの甘い香りとは違う、荒々しくも洗練された「男の煙」。
「……いい。すごく、いい」
ルーベンスは天井を仰いだ。
コーヒーの余韻と、タバコのヤニクラ感(ニコチンによる浮遊感)。
これだ。俺が求めていたのは、この「一服」だ。
(……あー、仕事行きたくねぇなぁ)
魔界の貴公子の心に、人間臭い本音が芽生えた瞬間だった。
「……ルーベンス? 何してるの?」
その時、背後から寝ぼけた声がした。
ラスティアが起きてきたのだ。
彼女はルーベンスが優雅にコーヒーとタバコを嗜んでいるのを見て、目を丸くした。
「あんた、なんでくつろいでんのよ。早く城に戻るわよ。会議があるんでしょ?」
ラスティアの言葉に、ルーベンスの現実は引き戻された。
彼は吸い殻を灰皿に押し付け、冷徹な仮面(ポーカーフェイス)を被り直した。
「……ええ、分かっていますとも、陛下」
(チッ、起きやがったかババア。せっかくの余韻が台無しだ)
ルーベンスは立ち上がり、龍魔呂に金貨を置いた。
チップ込みで、金貨2枚。
「店主殿。……釣りはいらない」
「毎度」
「それと……」
ルーベンスは帰り際、小声で龍魔呂に耳打ちした。
「明日の朝も、同じ時間に寄らせてもらう。……席を空けておいてくれ」
龍魔呂はニヤリと笑い、新しい角砂糖を口に放り込んだ。
「へいよ。……いってらっしゃい」
ルーベンス・クロウ。
魔界の頭脳と呼ばれる彼は、こうして一日の始まりを『鬼灯』で迎えるヘビースモーカーとなったのである。
午前7時。
城塞都市バルドの朝は早い。
だが、路地裏にひっそりと佇む小料理屋『鬼灯(ほおずき)』の暖簾をくぐる客は、まだほとんどいない時間帯だ。
カラン、コロン……。
ドアベルが鳴り、一人の青年が入ってきた。
仕立ての良い漆黒のスーツに身を包み、銀髪をオールバックに撫で付けた美丈夫。片目には知的なモノクル(片眼鏡)を掛けている。
「……失礼する」
その声は低く、そしてどこか深い疲労を滲ませていた。
彼の名はルーベンス・クロウ。
魔界の政治を牛耳る「穏健派」の筆頭議員であり、魔王ラスティアの側近中の側近である。
「……あぁ? まだ準備中だぞ」
カウンターの中で、龍魔呂が新聞(古新聞)を広げながら言った。
ルーベンスは店内を見渡し、カウンターの隅で突っ伏して寝ている「何か」を見つけて、深くため息をついた。
「……いや、回収に来ただけだ。我が主(あるじ)が、昨日から帰ってこないものでね」
ルーベンスの視線の先には、魔王ラスティアがいた。
彼女は昨夜の激辛祭りの後遺症か、ヨダレを垂らしながら白目を剥いて爆睡している。眼鏡はズレ、服は乱れ、魔王の威厳など微塵もない。
(……はぁ。これでも魔界の象徴か? ただの酔っ払いの中年女じゃないか。……起きろよババア)
ルーベンスは心の中で毒づいたが、表情には出さず、慇懃に頭を下げた。
「店主殿。この駄……いや、陛下を連れて帰る。手間を掛けさせたな」
「別にいい。金は取ってる」
龍魔呂は素っ気なく答えたが、ルーベンスがふと足を止めたことに気づいた。
ルーベンスの鼻が、ピクリと動いたのだ。
「……む」
店内に漂う、芳醇な香り。
焦げた豆の香ばしさと、どこか土の匂いを感じさせる深みのあるアロマ。
「……この匂いは、コーヒーか?」
「マンデリンだ。……飲むか?」
ルーベンスは迷った。
これからの激務(ラスティアの尻拭いと議会答弁)を考えると、胃に何か入れておきたい気分ではあった。魔王城のコーヒーは「泥水を煮詰めたような味」で、飲むと余計にストレスが溜まるのだ。
「……一杯だけ、いただこうか」
ルーベンスはカウンターの端に腰掛けた。
龍魔呂はネルドリップのサーバーをゆっくりと回し、黒い液体を抽出していく。
コポポポ……。
さらに、トースターから「チンッ」という音が響く。
「ついでだ。食ってけ」
ドンッ。
目の前に置かれたのは、木のトレーに乗った朝食セット。
湯気を立てる漆黒のコーヒー。
4枚切りの極厚トースト(バターが染み込んでいる)。
そして、つるんとしたゆで卵と、小さなサラダ。
『鬼灯特製・モーニングセット(金貨1枚)』だ。
「……トーストか。悪くない」
ルーベンスは新聞(魔界タイムズではなく、龍魔呂が置いていた地球のスポーツ新聞)を片手に、コーヒーカップを持ち上げた。
口に含む。
――ッ。
「……ほう」
ルーベンスの目がわずかに見開かれた。
苦い。だが、嫌な苦味ではない。
重厚なコクが舌の上に広がり、その後にハーブのような爽やかな香りが鼻に抜ける。
雑味がない。澄み渡った闇のような黒。
(美味い……。魔界のあれは一体何だったんだ? これは『覚醒』の味だ)
続いて、厚切りのトーストを手に取る。
表面はキツネ色に焼け、バターが黄金色の池を作っている。
サクッ……フワッ。
「……!」
香ばしい小麦の香りと、ジュワッと溢れ出す有塩バターの塩気。
中は驚くほどフワフワで、噛むたびに甘みが広がる。
(サクサクとフワフワの共存……。このバターの背徳的な量……。朝の空腹に染み渡る……!)
ルーベンスは無言でトーストを平らげ、ゆで卵の殻を剥いた。
塩を少し振って齧る。固茹で一歩手前の、絶妙な茹で加減。黄身のモソモソ感をコーヒーで流し込む快感。
完璧なルーティン。
ルーベンスの張り詰めていた神経が、ほどけていくのを感じた。
「……ふぅ」
完食し、彼は深く息を吐いた。
至福の時間。
だが、何か一つ足りない。
彼は懐から愛用のパイプを取り出そうとした。
その時。
スッ、と龍魔呂が何かを差し出した。
白い小さな箱と、銀色のライター。
「……パイプもいいが、こいつを試してみな」
「これは?」
「『セブンスター』だ。……ガツンとくるぞ」
ルーベンスは怪訝そうに、その紙巻きタバコを一本取り出し、口に咥えた。
龍魔呂が火をつける。
シュボッ。
ジジジ……。
ルーベンスは深く吸い込み、肺に紫煙を満たした。
そして、ゆっくりと吐き出す。
フゥゥゥゥゥ…………。
「――っくぅ……!」
脳髄に走る衝撃。
高タール、高ニコチン。
チャコールフィルターを通した鋭いキック感が、喉を焼き、血管を駆け巡る。
パイプの甘い香りとは違う、荒々しくも洗練された「男の煙」。
「……いい。すごく、いい」
ルーベンスは天井を仰いだ。
コーヒーの余韻と、タバコのヤニクラ感(ニコチンによる浮遊感)。
これだ。俺が求めていたのは、この「一服」だ。
(……あー、仕事行きたくねぇなぁ)
魔界の貴公子の心に、人間臭い本音が芽生えた瞬間だった。
「……ルーベンス? 何してるの?」
その時、背後から寝ぼけた声がした。
ラスティアが起きてきたのだ。
彼女はルーベンスが優雅にコーヒーとタバコを嗜んでいるのを見て、目を丸くした。
「あんた、なんでくつろいでんのよ。早く城に戻るわよ。会議があるんでしょ?」
ラスティアの言葉に、ルーベンスの現実は引き戻された。
彼は吸い殻を灰皿に押し付け、冷徹な仮面(ポーカーフェイス)を被り直した。
「……ええ、分かっていますとも、陛下」
(チッ、起きやがったかババア。せっかくの余韻が台無しだ)
ルーベンスは立ち上がり、龍魔呂に金貨を置いた。
チップ込みで、金貨2枚。
「店主殿。……釣りはいらない」
「毎度」
「それと……」
ルーベンスは帰り際、小声で龍魔呂に耳打ちした。
「明日の朝も、同じ時間に寄らせてもらう。……席を空けておいてくれ」
龍魔呂はニヤリと笑い、新しい角砂糖を口に放り込んだ。
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