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三本のアマリリス
プロローグ
しおりを挟む「よう、咲」
背後からの聞き覚えのある声に、咲は恐る恐る振り返る。
途端に、長い前髪の間から向けられる鋭い視線と目が合う。
「りっ、凛太郎さん……」
驚いて、キョロキョロと辺りを見回す。が、間違いなく職場のビルである。
──決して華村ビルではない。
なのに、どうして凛太郎さんがいるの?
「どうしてここに?」と口にし、軽く混乱した頭で考えを巡らす。
「──まさか、嫌がらせのため……」
「……馬鹿か」
凛太郎は呆れて、咲の頭を軽く叩く。
「そんな暇じゃねーよ。仕事だよ」
凛太郎は自分の格好を見ろと言わんばかりに、両手を広げた。
そういえば、と咲は改めて凛太郎の姿を見直す。いつものラフな服装とは違い、黒に近い紺のシングルスーツを着ていた。
「仕事?」
咲は首を傾げた。
「このビルで?」
咲がここで働くようになって、三年。今まで凛太郎の姿を見かけたことはなかった。
もっともビルで働く人間は多いから、すれ違っても気がつかなかっただけかもしれない。
今だってロビーはそこそこの人で混雑している。
──でも、それよりなにより……
咲はチラリと凛太郎の様子を窺った。それに凛太郎はニヤリと薄笑いを返す。
──まさか……
咲の胸の中にモヤモヤとしたものが広がった。
たしか、凛太郎はIT関係の仕事をしていると、以前悠太が言っていた。
ただ、具体的な職種や勤め先までは聞いていなかったし、通勤する様子もなかったから、フリーランスで仕事をしているのだろうと勝手に思い込んでいた。
「……ここで働いているんですか?」
ギュッと身を固め、咲は確認する。もしかしたら、客先を訪れているだけなのかもしれない。
「あ?」と凛太郎が怪訝そうに咲を見、「ああ」と頷いた。
その答えに、そういうことか、と咲は一人納得する。と同時に、父のやり口に目眩を覚えた。
このビルに入る会社は、父が経営するIT会社『タナベシステムズ』と母の建築設計事務所だけだ。
咲は母の会社に勤めているが、当然、凛太郎は在籍していない。つまり凛太郎は父の会社に勤めていることになる。
その事実に、グラグラと足元が揺れる。
──結局はカゴの中の鳥だった……
咲は自分を嘲った。
父に逆らって逃げたつもりが、手のひらの上で転がされていただけだった。逃げた先にいたのは、父の息のかかった人間だった。
──きっと花音さんも……
咲はキュッと唇を結んだ。
「お前、なんか誤解してないか?」
咲の顔を覗き込み、凛太郎が眉間に皺を寄せる。咲は驚いて、一歩後ずさった。
「誤解、ですか?」
視線を逸らし、呟く。
──誤解だったら、どんなに良かっただろう。
「……まぁ、いいや。少し付き合え」
すっかり青ざめた顔色の咲に、凛太郎は小さくため息を漏らした。それから先に立って歩き出す。
咲もゆるゆるとそのあとを追いかけた。
*
凛太郎が入ったのは、半地下にある小さな喫茶店だった。
店内は日の光が入りにくいのと、照明が落とされているのとで薄暗い。レトロな調度品は昔ながらの喫茶店を思わせる。
すぐに現れた店員に案内され、窓際の奥まった席へと通される。
昼どきの店内はほどよく混んでいたので、咲は素早くメニューに目を通し、サンドウィッチと紅茶を、凛太郎はコーヒーを注文した。
「……お前、俺を親父さんのスパイだとでも思ってるんだろ?」
店員が立ち去ると同時に話を切り出したのは、凛太郎だった。
「……違うんですか?」
テーブルに向けていた視線を、凛太郎へと移す。つい、反発するような、責め立てるような口調になってしまった。
凛太郎は前髪を掻き上げると、やっぱり、と呆れた顔で呟いた。
「俺がもしスパイだったら、あそこで声はかけないだろ」
「それは、そうですけど……」
確かに、父との関わりを隠すなら、あそこで呼び止めるのは非常に悪手だ。
咲はジトリと凛太郎を睨んだ。
──それでも完全に信用はできないけれど。
計算高い父のことだ。そう思わせる作戦なのかもしれない。
いまだ警戒心の解かない咲に、凛太郎は彼にしては珍しく困ったような表情を浮かべる。
そこへ店員が注文の品を持ってきて、テーブルへと置く。
「──お前がどう思おうと構わないが、華村ビルで築き上げた関係は本物だ」
立ち去っていく店員の背中を見つめ、言う。
「実際、悠太はお前がいなくなってから元気がない……武雄にいたっては、ただの腑抜けだ」
そう言ってコーヒーを啜った。
「凛太郎さん……」
──もしかして、慰めてくれている?
いつもは意地悪なことしか言わない凛太郎の言葉に、咲は惚けて彼を見た。
コーヒーを啜る凛太郎の顔が心なしか照れているように思えた。だから、つい悪戯心をくすぐられる。
「凛太郎さんはどうですか?」
途端、凛太郎が激しく咳き込み、「お前っ」と睨みをきかせる。
咲はケラケラと笑い声を上げた。こんなに素直に笑ったのは、華村ビルを出てから初めてかもしれない。
笑いながら、自分が泣いていることに気がついた。ほんの一か月前までの暮らしがすごく恋しい。
──それから……
すごく花音さんに会いたい。
「……咲」
凛太郎が心配そうな顔で見つめてくる。咲はポケットからハンカチを取り出し、目頭へと当てた。
「ごめんなさい──笑いすぎて涙が出ちゃった」
そう言って笑みを返す。
「今度、お店に顔を出すからって、悠太くんに伝えておいてください」
「分かった」
凛太郎は頷く。
「それから、花音さんには、『馬鹿』って言っておいてください」
「……まったくだ」
凛太郎はニヤリと笑い、再びコーヒーを啜った。
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