上 下
4 / 37
一章 ユリア公爵令嬢

三 悪夢のめざめ

しおりを挟む



 黄金を思わせる日差しがまぶたを叩いているようで、ユリアはげんなりと起きた。

 窓から空を見上げると太陽は真上にのぼっており、つまりは正午であることが徐々に頭に染み込んだ。

 なにか夢を見ていたようだが、涙が流れていないから、悪夢ではなかった──?

 ぼうっとすること一秒。覚醒する。
 眠りすぎた!
 舞踏会の翌日は仕事がいろいろ溜まってるのに!

 立ち上がろうとしたら、ゴン、と頭をぶつけてしまった。
 おでこを押さえてうめくが、相手も同じように頭を押さえていた。

 今のは間違いなくユリアのせいだろう。でも、公爵令嬢は軽々しく謝ってはならないのだ。

 もしも、体調を心配してここにきてくれた王子殿下であったら謝ることができるのだけど……乙女ゲームのヒロインならば”そうくる”のかもしれないが、公爵令嬢の現実はどちらかといえばついていないものだ。これまでも、果物を選べば酸っぱいものに当たったり、空から園芸の鉢が落ちてきたこともある。肝心な舞踏会でヒールが折れたり、そういうささやかな運がないように”なっている”のだ。ユリアが諦めているところだ。

 おでこを押さえているのは、執事であった。

 ああ、とユリアは肩をすくめる。せめて、これならばどうにでもなりそうだ。

「まあ。主人に向けていらだちを隠そうともしないだなんて無礼だわ」

 立場をわからせてあげるため、正してあげるための言葉がからくり人形じみて放たれる。

「大変失礼いたしました。自分は本館の副支配人の執事です。現在、兄君様たちの直属となっております」

「知ってる。あなた、ダンというのよね。あなたは面接に王族の紹介状を持ってきたし、筆記と護身武術が満点だったから印象に残って……。まって、お兄様たちの直属とはどういうこと? 私の耳に入っていない」

「一〇日もお眠りでしたから」

「じゅ……!?」

 ユリアはベッドサイドに置かれた新聞に目をやり、引き寄せて日付を見る。

 舞踏会から一〇日後の日付が、起きがけの脳を殴った。あれもこれもそれも、仕事をしていないのに!

 ずり落ちたメガネをクイッと上げる動作をしてから(ずり落ちたメガネって何!?)と驚愕する。

 しかしそれよりも先に、と、必要なことから問いかけなくては。

「一〇日間眠っていた間の、公爵家の執務はどうなっているのかしら?」

「兄君様たちが滞りなくこなして下さいましたので、問題はありません」

「そ、そう」

 ぐう、と喉の奥からひしゃげた音が鳴った。

 家を継ぐものとされて教育を施されたユリアがやるより、唐突にまかされた兄たちの方がスムーズにやってのけたのだ。あまりにも容易く突きつけられる才能の格差。唇を噛みしめそうになるが、人形に傷がついてしまってはいけないので、力を抜く努力をする。皮肉にもそれがわからないくらいの馬鹿ではなく、中途半端にまあまあの頭脳を持つユリアは、これに気づくくらいの自覚はあった。

「続けさせていただきます。公爵家の書類処理には家紋の押印が必要でした。そのため兄君様が急遽、後継の立場となっております。現状について申しますと、ユリアお嬢様は重病人として後継から外れております」

「しょうがないものね」

 けれど、承知した、とはまだ口にできない。ただ悔しいだけではなく、情報が少なすぎる。

 ユリアは部屋をすばやく見渡す。身体異常のため部屋を移されたようだけど、こんな部屋が本館にあったかしら? と思う。頭がぼんやりしていてうまく思考できない。

「飲み物を持ってきてちょうだい。氷入りのハーブティーをもらえるかしら」

「かしこまりました。その、自分が近くにいた理由なのですが」

「私の観察のためでしょう。いいでしょう、非常時だったもの。許します」

「え……」

「何?」

「そんなにあっさりと仰られるとは思っていなかったものですから」

「後継としての私ならば不可能だったけど、今であればこれくらいは言っていいでしょう。本心よ」

「ご配慮、ありがたく頂戴いたします。それと一つ、聞いていただきたいことがございまして。起きたユリアお嬢様は、自分の……執事の胸ぐらをつかみまして、その、メガネを取り去ったのでございます。それです」

 ユリアは恐る恐る自分の顔をさわった。硬質な金属のフレームが指先にゾッとする冷たさを伝える。

「メガネ……」

 ユリアは、早く返そう、という気持ちだった。
 公爵令嬢がメガネをかけているなんて、いけない!

 西暦二000年代の地球ではいたるところで受け入れられていたメガネだが、この日光シュラ王国においては、平民くらいしか身につけない。目が悪くなったときにメガネをかけるのが平民、魔法で治してしまえるのが貴族。もし貴族がメガネをかけているならば、魔法を使うだけの財力がないことを指してしまう。

 綺羅星公爵家は大富豪だ。

 きらびやかな容姿に恵まれることを活かして初代が立ち上げた芸能事業が大成功、大きな劇場を国内に私有し、王族をしのぐほどの私財を有している。初代は女性であり、銀の像が王都広場に建てられている。

 それなのに現長女がメガネをかけてしまっているなんていけない。しかし、

「か、返したい気持ちはあるのよ。でも、むりみたい」
「なぜ?」
「涙がとまらない……。メガネを取ると泣いちゃって……どうしちゃったんだろう。ねえ、見ないで、あっちを向いていなさい。私がいいっていうまで、絶対に、見ないでちょうだい!」

 パニックになったユリアは幼い口調になり、癇癪を起こしたように指示をする。執事が後ろを向いたのを確認してから、外していたメガネをまた恐る恐るかけてみた。すると涙はひっそりと瞳に収まる。

(呪いのメガネだ!)

 診察にきた医者はこれについて「長期睡眠による眼精疲労かもしれません」と額の汗を拭きながら診断した。そそくさと帰っていき、過去の文献をあたりますとモゴモゴ言い訳した。

 しばらくの間、ユリアはメガネをかけて生活するしかなくなった。

 唯一幸いだったのは、ここが別荘だということ。
 使いものにならない綺羅星ユリアは、本館にはいらなかったのだ。


しおりを挟む

処理中です...