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一章 ユリア公爵令嬢
十六 観光道中
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ダンに手を引かれているから安全なのは分かっていた。
だからこそ、正直に、ユリアの顔は曇っていった。
平民観光街のこ綺麗な街並みから奥へと進むほど、ぽつりぽつりと、落っこちているように”違和感”が見え始めた。それはこの街並みが整備されるよりも前の名残の建造物だったり、垢抜けない人だったりする。
とある隙間の細道で、薄暗がりのじめじめした空気そのものみたいな人が腰をおろしている。
ユリアは困ったことに、物言いたげな人間を見つける目がいいのだ。
主人が立ち止まった先で何を見ているのか、気づいたダンは「すみませんでした」と言った。
その心には少し意地悪してやろうという意志があり、その根源はといえば、貴族様は平民街の真相になど気づかないだろうから暗がりまで連れていってみようか、というものだった。別荘にいる人相手だから、自分の生活を握っている人たちだから、今だけは丁寧に扱う……というような主人ではない。そのことがダンの捻くれた胸中にも沁みた。
「教えてちょうだい。あれは、なぜ?」
ユリアは人のしぐさについて聞いているのだ。
「あそこにいれば風が避けられると知っているんです」ダンも立ち止まり説明をする。「家々の間には突風が吹くことがあります。それを避けるためもっと狭い隙間に忍びます。それに家の裏にいれば食事を分けられることもあり、食いっぱぐれない。この辺は農耕地じゃないし土地の所有者もいるから勝手に物を育てたりできないんだ。私生児のような人や税金を払えなくて家を出て行かなくてはいけなくなった人がいる」
(ホームレスってことなんだ)
「ま、でもそれなりに共生してます。住民にとってはゴミ箱を漁られたりせず衛生的だし、明日は我が身ということを平民はわかってる。だから邪険にはしない、手も差し伸べられないけど。それほどの力もないので」
しまった、とダンはここで思った。
「少なくともあなたがすぐ手を出すようなことではない。これは、毒を食べるだけでは解決しませんからね」
ダンは主人を暴走さないように、釘を刺した。
そして当初言われていた通りに、気ままにユリアを連れ歩いた。ユリアは頭の中でぐるぐると考え込んでいるようで、どうにも足取りが遅い。先ほどまでの明るい表情もすっかりと陰ってしまっている。
(私は白い霧に惹かれてただ楽しんでしまってもいいのかしら……)
誰も許してくれないような気がした。猫は沈黙してしまっていて、途方に暮れているようだ。すぐに解決できないことなのに、心に抱えたままにしてしまうユリアなのだと、ずっと見てきた猫はもうわかっていたから。
「平民街の見どころって、貴族街に比べりゃ生活厳しいけど、人が積み上げてきた空気には元気があるとこ、そんなふうに自分は思いますよ」
ダンは「自分がついていますからもう少し見ませんか」と、かえって平民街の奥に行くことを勧めた。ユリアはどこか自罰的な気持ちを持って、おずおずと、けれど首を縦に振った。
ところどころに古い文化が残っている。
ダンはそれを無神経にも指差しながら歩く。よその人や建物を指すなんて失礼なことというマナーはこの街には存在しないのだ。そのような雰囲気にユリアはしだいに呑まれていった。
国の時代をさかのぼっていくようだ。
洋風建築の街並みから、木造りの家へと変わり始めた。それはところによりトタンが混ざったり「トタンを生む魔法!」一つだけ石垣を扱った試験的な家があったり「石造りにこだわるオヤジが住む家」まさにカオスと表現されるような様相へと変わっていった。
(別荘から見ている限りでは古びた屋根があるのかも、くらいしかわからなかった。家庭教師は昔の建物が平民街の奥に存在するとしか伝えなかった。ほんとうの街を歩いてみると全然違う)
住民たちが思っていたよりも明るく、挨拶を交わしているのもユリアを安心させた。ダンに声をかけるものもいて、ユリアも平民のふりしてお辞儀などする。徐々に足取りは軽くなった。
(それにしても家屋ときたら、記憶にある日本のもののよう。着物のような服装。いやに似ている……彼らもまた、私のように、夢の中に日本の景色を見たりなどしたのかしら? どうしてなのかしら)
少なくとも自然に育まれたものではないだろう。
建物や生活の方式というのは、気候により差があるはずである。例えば日本の木造りで一階建ての軒付き家というのは温暖多湿なところから来ていると考えられる。それなのに、さんさんと太陽がそそぎからりとしたあたたかさの日光シュラ王国が同じになるなど、ユリアが想像するのも難しかった。
足元には瓦屋根のかけら、削りかけの木にはそういえば年輪がなくて不思議に思った。
「そろそろ話しかけてもよろしいですか」
「あら、ダン、待ってくれていたの?」
「”待ってたのね”」
「……待ってたのね。ごほん。私、考え込んでる時に黙ってしまうの。頭の中の処理が遅くって」
「はあ。そんなことを仰るなんて」
「ずっと、ずっと思っていたのよ。そうなんだろうなって。ほら、今、平民風だからそれくらい言っても……いえ、駄目よね……私、どうして……?」
「それならば理由を知っています。愚痴を言いたくなるんです。この土地に来ると。あそこを見てください」
ダンは人垣のほうを指差した。
平民が集っているので、店で何か売っているのかと思いきや、貴族の観光客も混ざり、立て看板もある。
【へその湖】
「へそ……?」
ユリアはうかつな愚痴を声に出してしまわないように、口に手を当てながら、近づいてみると、”道に開いた大きな穴”が見えた。
水がなみなみとあり、水溜りにしては大きくて、池にしては澄み渡って深く、湖にしては小さすぎる。ここはなんだろうと、再び看板を見た。
【へその湖】……ひとの魂はきっとさまざまな青色をしている。その魂がとおる水脈がさまざまなところにある。ここはきっとその一つ。あなたの魂が水面に見えるところ……
「詩のようだわ。私にはすぐには理解できないみたい……」
「吟遊詩人の戯言なんですよ。それが観光客に受けたので、ロマンチックに書いてあるだけです。なんでも真に受けすぎなんですよ。みんながあなたのことを待っているわけじゃない。ここでは群衆の一人だ」
ユリアは、自分というものがふくらんで空気に溶けてしまったようなとほうもない感覚を抱いた。それは、人形の形の中に押し込み続けて小さく小さくなってしまった自分が、解き放たれたかのよう。
ふうあっ、と大きく息をした。頬に血色が華やぐ。
「わからないと不安になっちゃっていたわ。教えてくれて……。……嬉しい。ねえ、へその泉には囲いもなくて、汚されたりしないの?」
「自分はたまにここを訪れますが、どんなにボロ着た貧乏人でも、ここで風呂には入りません。そんな気持ちにならない忌避感がありませんか、ここ」
確かに……。泉は自分自身かのようだ。自分を映すものだと看板に書かれているからその気になったのだろうか。へその中に入り込むようなものだとすれば、それは還元されてしまうような心地になる。
ユリアの番が来たので、周りの人々を見て真似をした。
澄んだ空色のユリアだ。白い肌や銀の髪はこの湖本来の色をよく吸収し、やがて輪郭が消えてしまった。
「ちなみに、姿が映らなければどうなのかしら」
「えー……。実は、この泉は生命力を測れるらしいんですね。くっきり映ればその人にはエネルギーが集中しています。逆ならば、嘘が嫌いなのでそのまま言いますが、エネルギーに振り回されずに生きることができるでしょう」
ダンは雑に頭をかいた。そのような嘘がないところ、フォローしようという気持ちで接してくれているところが、安心につながるのだとユリアは思った。彼は失敗したと思っているようだけど、それでよかった。
ぐー、とユリアのお腹が鳴る。
赤面する。こんなこと今まで一度だってなかったのに!
「助かった。飯にしましょう。その先に食べ物屋がありますし、お嬢様ならばけっこうな粗食でも召し上がってくれそうですからね」
おにぎり。ユリアは初めて食べるのに、懐かしい味がした。
だからこそ、正直に、ユリアの顔は曇っていった。
平民観光街のこ綺麗な街並みから奥へと進むほど、ぽつりぽつりと、落っこちているように”違和感”が見え始めた。それはこの街並みが整備されるよりも前の名残の建造物だったり、垢抜けない人だったりする。
とある隙間の細道で、薄暗がりのじめじめした空気そのものみたいな人が腰をおろしている。
ユリアは困ったことに、物言いたげな人間を見つける目がいいのだ。
主人が立ち止まった先で何を見ているのか、気づいたダンは「すみませんでした」と言った。
その心には少し意地悪してやろうという意志があり、その根源はといえば、貴族様は平民街の真相になど気づかないだろうから暗がりまで連れていってみようか、というものだった。別荘にいる人相手だから、自分の生活を握っている人たちだから、今だけは丁寧に扱う……というような主人ではない。そのことがダンの捻くれた胸中にも沁みた。
「教えてちょうだい。あれは、なぜ?」
ユリアは人のしぐさについて聞いているのだ。
「あそこにいれば風が避けられると知っているんです」ダンも立ち止まり説明をする。「家々の間には突風が吹くことがあります。それを避けるためもっと狭い隙間に忍びます。それに家の裏にいれば食事を分けられることもあり、食いっぱぐれない。この辺は農耕地じゃないし土地の所有者もいるから勝手に物を育てたりできないんだ。私生児のような人や税金を払えなくて家を出て行かなくてはいけなくなった人がいる」
(ホームレスってことなんだ)
「ま、でもそれなりに共生してます。住民にとってはゴミ箱を漁られたりせず衛生的だし、明日は我が身ということを平民はわかってる。だから邪険にはしない、手も差し伸べられないけど。それほどの力もないので」
しまった、とダンはここで思った。
「少なくともあなたがすぐ手を出すようなことではない。これは、毒を食べるだけでは解決しませんからね」
ダンは主人を暴走さないように、釘を刺した。
そして当初言われていた通りに、気ままにユリアを連れ歩いた。ユリアは頭の中でぐるぐると考え込んでいるようで、どうにも足取りが遅い。先ほどまでの明るい表情もすっかりと陰ってしまっている。
(私は白い霧に惹かれてただ楽しんでしまってもいいのかしら……)
誰も許してくれないような気がした。猫は沈黙してしまっていて、途方に暮れているようだ。すぐに解決できないことなのに、心に抱えたままにしてしまうユリアなのだと、ずっと見てきた猫はもうわかっていたから。
「平民街の見どころって、貴族街に比べりゃ生活厳しいけど、人が積み上げてきた空気には元気があるとこ、そんなふうに自分は思いますよ」
ダンは「自分がついていますからもう少し見ませんか」と、かえって平民街の奥に行くことを勧めた。ユリアはどこか自罰的な気持ちを持って、おずおずと、けれど首を縦に振った。
ところどころに古い文化が残っている。
ダンはそれを無神経にも指差しながら歩く。よその人や建物を指すなんて失礼なことというマナーはこの街には存在しないのだ。そのような雰囲気にユリアはしだいに呑まれていった。
国の時代をさかのぼっていくようだ。
洋風建築の街並みから、木造りの家へと変わり始めた。それはところによりトタンが混ざったり「トタンを生む魔法!」一つだけ石垣を扱った試験的な家があったり「石造りにこだわるオヤジが住む家」まさにカオスと表現されるような様相へと変わっていった。
(別荘から見ている限りでは古びた屋根があるのかも、くらいしかわからなかった。家庭教師は昔の建物が平民街の奥に存在するとしか伝えなかった。ほんとうの街を歩いてみると全然違う)
住民たちが思っていたよりも明るく、挨拶を交わしているのもユリアを安心させた。ダンに声をかけるものもいて、ユリアも平民のふりしてお辞儀などする。徐々に足取りは軽くなった。
(それにしても家屋ときたら、記憶にある日本のもののよう。着物のような服装。いやに似ている……彼らもまた、私のように、夢の中に日本の景色を見たりなどしたのかしら? どうしてなのかしら)
少なくとも自然に育まれたものではないだろう。
建物や生活の方式というのは、気候により差があるはずである。例えば日本の木造りで一階建ての軒付き家というのは温暖多湿なところから来ていると考えられる。それなのに、さんさんと太陽がそそぎからりとしたあたたかさの日光シュラ王国が同じになるなど、ユリアが想像するのも難しかった。
足元には瓦屋根のかけら、削りかけの木にはそういえば年輪がなくて不思議に思った。
「そろそろ話しかけてもよろしいですか」
「あら、ダン、待ってくれていたの?」
「”待ってたのね”」
「……待ってたのね。ごほん。私、考え込んでる時に黙ってしまうの。頭の中の処理が遅くって」
「はあ。そんなことを仰るなんて」
「ずっと、ずっと思っていたのよ。そうなんだろうなって。ほら、今、平民風だからそれくらい言っても……いえ、駄目よね……私、どうして……?」
「それならば理由を知っています。愚痴を言いたくなるんです。この土地に来ると。あそこを見てください」
ダンは人垣のほうを指差した。
平民が集っているので、店で何か売っているのかと思いきや、貴族の観光客も混ざり、立て看板もある。
【へその湖】
「へそ……?」
ユリアはうかつな愚痴を声に出してしまわないように、口に手を当てながら、近づいてみると、”道に開いた大きな穴”が見えた。
水がなみなみとあり、水溜りにしては大きくて、池にしては澄み渡って深く、湖にしては小さすぎる。ここはなんだろうと、再び看板を見た。
【へその湖】……ひとの魂はきっとさまざまな青色をしている。その魂がとおる水脈がさまざまなところにある。ここはきっとその一つ。あなたの魂が水面に見えるところ……
「詩のようだわ。私にはすぐには理解できないみたい……」
「吟遊詩人の戯言なんですよ。それが観光客に受けたので、ロマンチックに書いてあるだけです。なんでも真に受けすぎなんですよ。みんながあなたのことを待っているわけじゃない。ここでは群衆の一人だ」
ユリアは、自分というものがふくらんで空気に溶けてしまったようなとほうもない感覚を抱いた。それは、人形の形の中に押し込み続けて小さく小さくなってしまった自分が、解き放たれたかのよう。
ふうあっ、と大きく息をした。頬に血色が華やぐ。
「わからないと不安になっちゃっていたわ。教えてくれて……。……嬉しい。ねえ、へその泉には囲いもなくて、汚されたりしないの?」
「自分はたまにここを訪れますが、どんなにボロ着た貧乏人でも、ここで風呂には入りません。そんな気持ちにならない忌避感がありませんか、ここ」
確かに……。泉は自分自身かのようだ。自分を映すものだと看板に書かれているからその気になったのだろうか。へその中に入り込むようなものだとすれば、それは還元されてしまうような心地になる。
ユリアの番が来たので、周りの人々を見て真似をした。
澄んだ空色のユリアだ。白い肌や銀の髪はこの湖本来の色をよく吸収し、やがて輪郭が消えてしまった。
「ちなみに、姿が映らなければどうなのかしら」
「えー……。実は、この泉は生命力を測れるらしいんですね。くっきり映ればその人にはエネルギーが集中しています。逆ならば、嘘が嫌いなのでそのまま言いますが、エネルギーに振り回されずに生きることができるでしょう」
ダンは雑に頭をかいた。そのような嘘がないところ、フォローしようという気持ちで接してくれているところが、安心につながるのだとユリアは思った。彼は失敗したと思っているようだけど、それでよかった。
ぐー、とユリアのお腹が鳴る。
赤面する。こんなこと今まで一度だってなかったのに!
「助かった。飯にしましょう。その先に食べ物屋がありますし、お嬢様ならばけっこうな粗食でも召し上がってくれそうですからね」
おにぎり。ユリアは初めて食べるのに、懐かしい味がした。
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