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一章 ユリア公爵令嬢

十七 みがかれた本屋

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「──どういたしまして。そんな返事をしたくなる顔をしてますが、お嬢様、言っちゃあだめですよ」

「分かってる。察してくれて助かるわ……。ねえ、あそこに連れていって」

 ユリアは、白い霧が帯になっているところを見つけたのだ。

 白い霧は、乙女ゲームのスチルカードが『まだ明瞭に見えていないもの』──と前に猫が言った。
 この先にはよいことが、よいイベントがあるのかもしれない。ユリアはお腹が膨れたことと平民が笑う顔も見たため、しょぼくれて膝を抱えた痩せた人を頭の片隅に忘れないようにしながら、白い霧に関わってみることにした。

 おにぎり屋のすぐ向かい側にその白い霧はあった。

「あー、ここね……早めに終わらせましょう。店主が厄介だ」

 ダンの知り合いらしい【みがかれた本屋】という店。
 表紙が木の板になっている古めかしい本が鎖で繋がれている。表紙に飴色の光沢、磨かれているらしい。象牙を薄く切った紙束のような本など、だいぶ昔の品物が揃っている。
 綺羅星公爵邸おすみつきの本屋が持ってきてくれる新刊はといえば、もっと持ちやすいすべてが紙づくりの本だ。ユリアはしげしげと本を眺めた。

「なぜ鎖で繋がれているのかって顔してるぞ。防犯装置だって教えてやろうかあ。お嬢さん。いいとこの女だって、おれあ、分かるぞ」

 本屋の店主が舌なめずりをした。大柄の”女性”で、くるみのような髪を一つ結びにし、おくれ毛の隙間の首筋にはおどろおどろしい刺青の色が見えた。
 声をかけられたユリアは震えてダンの後ろに引っ込んだ。

「買い物の客としてきています。接客をしてくれよ。お嬢様、どれにしますか」
「それ、を……」

 情けないと思いながらも町娘のように、店主のぎょろ目から逃げながら、ユリアは白い霧に包まれている一つの本(であろうもの)を指差した。白い霧はいいものの予想だ。さて、何だろうか。

「王立学園の入学前学習書──これがいいのか?」

 そんなものだったのか!

 ユリアは困った。もう持っている。それなのに、なぜ白い霧はそれを指したのだろうか。ユリアはそれをどうすれば、いいことにつながるのだろう。

『思い出してごらん』

 想像する……乙女ゲームにこのアイテムが出てきたところを。

 ヒロインがそのアイテムを手に入れたことは回想の中で語られた。下町の子供たちの生活がままならないのを見てきて、どうしても彼女は王立学園に入りたがっていた。そこで入学試験に合格するために学習書を欲していたところ、本屋の店先に来ていた貴族に「後援者になってやろう」と持ちかけられる。その申し出を受けて王立学園生徒になることができたが、支援をされたゆえに貴族から無理難題を持ちかけられたヒロインは酷く苦しめられる。

 貴族の出す無理難題がどのようなものか、ユリアは想像した。
 豚男爵と噂されているかの家が後援者ならば、おそらく媚を売るために「ユリア公爵令嬢が平民特待生に勝った、という状況を作って差し上げよう!」ということをしたがるだろう。
 それを強要しつつ、平民特待生には成績一位を取れという無茶を最後の方には押し付けたりなどする。彼らがしたいのは得をする命令と憂さ晴らしだからだ。

(私にとっても迷惑な話。いつも通りのしょうがないマナー)

『あらかじめ防いでごらんよ』

 ユリアは息を呑む。
 今この瞬間であれば、それができるのだ。

 ヒロインにこの学習書を渡して、ユリアが後援者になってあげようと恩を売ればいい。無垢なヒロインは雛鳥が親を慕うがごとくユリアの言いなりになってくれるだろう。私欲に肥えた貴族を抑えることもできて、いずれ王子殿下に褒めてもらえるようなことにつながる未来さえあり得る。
 猫ははしゃぐように鳴いた。

『白い霧がどこに繋がっているのか見て。平民街の奥まで今なら行ける、使用人が君を守る』

「今ならば間に合う……」

「お嬢様?」

 ユリアはハッとして口元を押さえた。

『ヒロインのところまではきっと白い霧が案内してくれる。この白い霧の向こう側からヒロインが本屋の方に向かってきているんやろう。それならば買った本を持ち、堂々と向かってごらん。そうすれば君はヒロインを手名付けた最強の公爵令嬢になれる』

 ユリアは口元を押さえたまま、反対を向いた。ダンが持っていた鞄を開けて財布をひったくり、そのまま店主に突き出した。周りの人が驚いた目で見ていることももう関係なかった。

(体の中から黒い気持ちが溢れそうになってくる!)

『ユリア』

(ヒロインが、おそらく学力をすぐ身につけて神様の加護の審査も突破してするりと入学してくるヒロインが、私に顔色をうかがわれてぬくぬくと学園で恋をするのかもしれない彼女が、あぁ、ぁ、このおどろおどろしいものが嫉妬なの……ずるい、ずるい……)

『ユリア! しっかりしぃ。まるで幼い子供みたいやね』

足首に猫のやわらかな肉球がコツンと当たれば、銀の毛皮をふさふさ揺らして白い霧の中に駆けて行った。慰めてくれる味方が消えてしまったように感じられてユリアは不安に包まれた。

「何をやっているのですか。店主の野郎は絶対おおめに金を取ってしまいましたよ。もともと暴利で本を売っていたんでしょうが、さらに。ほうら、小躍りしてやがる。
 ところでお嬢様、この本は誰かに贈られるのですか。二つもご自身用とは思えませんが……。貴方の調子が悪いようですから早く帰らせて差し上げたいのです」

「この次に店にやってくる子どもがいれば、その子に渡してあげてちょうだいな。王立学園の平民受験があるのだから、誰かしらチャンスがあってもいいでしょう」

 ユリアはあとのことは、運命に任せることにした。
 こんなことを自分で決めようとすれば、ヒロインには本が渡らないようにしたい、そのためにはこうすれば──など、邪な気持ちに呑み込まれてしまいそうだったからだ。

 ヒロインはへその泉に映った時、エネルギーが溢れるような人なんだろうか。その運のよさをもって王立学園にくるならば、それならばもうユリアの邪魔できるようなことではあるまい。
 暴れる心をなだめようとユリアは必死だ。

「社会貢献ってことかい。お嬢様」

 本屋の店主の皮肉な声。

「とんでもない。ただの貴族の令嬢の気まぐれよ。財布のお釣りはいらないわ。あなたが取っておきなさい。古本を買うつもりなのでしょう、店に並べる本が尽きないように。あなた、貴族の館を訪ねたっていいわ」

 ユリアは【みがかれた本屋へ 綺羅星ユリア】とサインをした。
 このサインがあればどこの貴族の館にも本の仕入れを断られはしないはずだ。

 たとえ古本のゴミ出しでも平民には冷たくしたい貴族は多くいる。そうさせないほうがいいとユリアは判断した。

 【みがかれた本屋】というのは乙女ゲームにも登場する。その歴史を古く持つ老舗の店で、知識を平民に広く与えるという役割を持つ。買った本を平民は分け合う。店主がただで中身を読み聞かせてやることもある。それにより平民はかろうじて学問から取り残されずに済んでいるのだ。すると本の内容は古くとも、古さの中から己で研鑽して発展させてゆく職人の卵すら生まれる。

 この本屋に手を差し出したくなった。ユリアはその気持ちに素直になる。まだ、平民の仮装をしているのだし……。

「ダンの友達みたいだしね」

 といえば「友達じゃないけど」と二人とも声を揃えた。
 荒々しくぶつかる平民街のコミュニケーションをユリアは感じた。


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