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木漏れ日の少女 ―月の離宮―
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列車の中のやり取りのおかげか、なんの緊張もすることなく二人は月の離宮の門扉の前に立った。
鍵はノイラートから預かっている。
週に一度本館の掃除と庭園の業者が入るのみであるこの離宮は、ルイーシャが亡くなってから一度も使用されてはいなかった。
「懐かしい………」
大きな鉄の門扉は大分錆び付いてはいたが音もなく開いた。
今はその機能を失った噴水を横目に、本館の玄関に向かって歩を進める。
夕暮れの風が冷たい。
夏の離宮と違って冬が開けたばかりの今では、体にあたる風が肌を刺すように痛かった。
両腕を擦ると、すかさず上から暖かい手がそれを覆って擦ってくれる。
「中に入ろう、寒いだろ?」
頷いて鍵を取り出し、鍵穴に差しこみ回す。
ガチャリ、と門扉と違って大きな音が響いた。
薄暗い室内に明かりを灯していくと、灯された明かりのところから徐々に色が生まれていく。
そこには幼い少女の幻影がアルバムを捲るように次々と浮かんでは消えていった。
「ここで良く母とお茶を飲んだわ」
黙ってクリスタの肩を抱き、付いてくるローラントの大きな背中に手を回した。
居間の窓際の椅子には今も母が腰かけているように見え、クリスタの視界は次第にぼやけていった。
そんなクリスタの涙を、心配し前屈みになって覗き込むローラントの暖かい唇が、掬い取っていく。
次から次へと溢れても、飽きることなく掬い取られていく………。
「やっぱり……結構辛いわね……」
「我慢するなよ、側にいるから」
微笑むローラントに甘やかされて、クリスタの涙腺は決壊した。
指先の血流が止まるくらい必死で彼にしがみつき、言葉にならない声で嗚咽を繰り返す。
「あの時は……泣けなかった、泣くことも出来なかった……ドアの向こうでただ怯えていたの。倒れて行く母を見ているしか出来なかった……」
ずっと心に秘めていた何かが涙と一緒に溢れ出る。
「ふっ……くっ………どうして……いいかわからなかった……私、何も……出来なくて……」
ローラントは抱き締める腕に力を込めた。
今、当時の彼女を抱き締めている、とローラントは思っていた。
後悔に苛まれ、力ない自分を蔑む幼い少女……。
兄と弟を亡くした時の自分と同じだ。
どうしてこんなに彼女に惹かれるのか、ずっと不思議だった。
確かに、美しいし、可愛いし、賢い。
だが、それだけではないもっと深い部分で彼女に惹かれていた。
オレと彼女は同じ痛みを抱えてる。
同じ傷を持っていて、その傷を塞ぐには互いの手が必要なんだ。
今まではずっとオレの傷を塞いでくれてた、今度はオレが君の傷を塞ぐ。
泣き続けるクリスタを、ローラントはもう一度力を込めて抱き締めた。
********
どれだけ泣いていただろう。
日は完全に沈み、美しく妖しい月がその顔を覗かせている。
居間のソファーに腰かけるローラントの腕の中で微睡んでいたクリスタは、腫れた目を上げて彼を見た。
「はぁ………ごめんなさい。取り乱して」
赤く腫れた目を撫でながら、ローラントはゆるゆると首を振った。
「取り乱した君も素敵だ。そんな君を知っているのはオレだけだろ?嬉しいよ」
「変な人……」
「その通り。変なんだよ。でも君にお似合いだと思うけど、どう思う?」
「……………うん、そうかも……」
クリスタはその身を起こし、立ち上がる。
「母の部屋に行きましょう」
彼の前に立ち手を差し出す。
そこにはもう、泣いていた少女はいなかった。
「ああ、行こう」
その手を取りもう一度繋ぎ直して、二人は二階への階段を登って行った。
扉の前に立つと正直今も足がすくむ。
でも、一人じゃない。
そう思うと強くなれた。
ローラントの顔を確認して、扉を開ける。
そこは、あの時から時が止まってしまったかのように何も変わっていなかった。
ミカエルが立っていた場所、母が倒れていた場所、それらが生々しく思い出される。
心配そうにクリスタを見る彼を制して、部屋の中央へと歩いて行く。
月明かりが差し込む窓辺まで進み、くるりと振り向くと、微かに懐かしい母の匂いがした。
「これ!は………?」
ローラントが暖炉の上を見ながら大声を出した。
「何?一体どうしたの?」
彼は暖炉の上の絵を見ながら狼狽している。
何をそんなに驚いているのか全くわからない。
そこには母とクリスタの絵が在るだけだ。
「この絵が、好きだったんだ……昔、アイスラーに絵葉書を貰って、今もそれを持ってる。これは……君か?!」
「え、ええ……昔ヘルマンが描いて、なんだか絵葉書にまでなったらしいわね。……この小さい子が私……確か五歳くらいだったと……」
ああ、と悲鳴に近い声を上げながらローラントはクリスタに駆け寄り力の限り抱き締めた。
「なっ、何??何があったの?」
「神様ありがとう!そうか、そうだよな!そりゃあ似てる筈だ!なんで、今まで同じだと思わなかったんだろう!ああ、神様ありがとう!いや、ありがとうヴィクトール!!」
なんで、ヴィクトールが出てくるの……?
言ってることも全く意味がわからないし。
どこかで頭でも打ったのかしら。
「話が見えないわ、大丈夫?」
クリスタは段々不安になってきた。
「オレはこの絵の子にずっと憧れてた。だけど、この世にはいないと思ってた。絵葉書を初めて見たときからずっと、ずっと。ああ、そうか……最初からそうだった。君を探してた!君を好きだった!」
いつになく饒舌なローラントを、ぼんやりと見上げるクリスタは、この少年のように熱い彼の情熱に圧倒されていた。
だけど………それって……
「ローラント、あなた、そういう危ない趣味の人?……」
人のことは言えないが……と思いつつ聞いた。
「………え?………あ、いや違う!そういうのじゃなくてだな……その小さい子をどうこうしようというわけじゃなくて、天使のようなその姿に憧れたっていうか……自分と正反対のものに惹かれたっていうか……ああもう、とにかく君が好きなんだ!!」
あ、面倒くさくなったな。
「では、そういうのではないと?」
「そうだ!少女や幼女が好きなんじゃない!君が好きなんだ!わかったか!」
もうやけっぱちですね……
「まぁ、いいです。どっちにしろ私のことが好きだって言ってくれるなら一緒よね、それにしても……どうしてこういつも私達って緊張感に欠けるのかしら?さっき泣いてた私が馬鹿みたいじゃないの!」
ローラントはいつもより朗らかに笑い、ずっと抱き締めていた手をほどいてクリスタの頬を包みこんだ。
鍵はノイラートから預かっている。
週に一度本館の掃除と庭園の業者が入るのみであるこの離宮は、ルイーシャが亡くなってから一度も使用されてはいなかった。
「懐かしい………」
大きな鉄の門扉は大分錆び付いてはいたが音もなく開いた。
今はその機能を失った噴水を横目に、本館の玄関に向かって歩を進める。
夕暮れの風が冷たい。
夏の離宮と違って冬が開けたばかりの今では、体にあたる風が肌を刺すように痛かった。
両腕を擦ると、すかさず上から暖かい手がそれを覆って擦ってくれる。
「中に入ろう、寒いだろ?」
頷いて鍵を取り出し、鍵穴に差しこみ回す。
ガチャリ、と門扉と違って大きな音が響いた。
薄暗い室内に明かりを灯していくと、灯された明かりのところから徐々に色が生まれていく。
そこには幼い少女の幻影がアルバムを捲るように次々と浮かんでは消えていった。
「ここで良く母とお茶を飲んだわ」
黙ってクリスタの肩を抱き、付いてくるローラントの大きな背中に手を回した。
居間の窓際の椅子には今も母が腰かけているように見え、クリスタの視界は次第にぼやけていった。
そんなクリスタの涙を、心配し前屈みになって覗き込むローラントの暖かい唇が、掬い取っていく。
次から次へと溢れても、飽きることなく掬い取られていく………。
「やっぱり……結構辛いわね……」
「我慢するなよ、側にいるから」
微笑むローラントに甘やかされて、クリスタの涙腺は決壊した。
指先の血流が止まるくらい必死で彼にしがみつき、言葉にならない声で嗚咽を繰り返す。
「あの時は……泣けなかった、泣くことも出来なかった……ドアの向こうでただ怯えていたの。倒れて行く母を見ているしか出来なかった……」
ずっと心に秘めていた何かが涙と一緒に溢れ出る。
「ふっ……くっ………どうして……いいかわからなかった……私、何も……出来なくて……」
ローラントは抱き締める腕に力を込めた。
今、当時の彼女を抱き締めている、とローラントは思っていた。
後悔に苛まれ、力ない自分を蔑む幼い少女……。
兄と弟を亡くした時の自分と同じだ。
どうしてこんなに彼女に惹かれるのか、ずっと不思議だった。
確かに、美しいし、可愛いし、賢い。
だが、それだけではないもっと深い部分で彼女に惹かれていた。
オレと彼女は同じ痛みを抱えてる。
同じ傷を持っていて、その傷を塞ぐには互いの手が必要なんだ。
今まではずっとオレの傷を塞いでくれてた、今度はオレが君の傷を塞ぐ。
泣き続けるクリスタを、ローラントはもう一度力を込めて抱き締めた。
********
どれだけ泣いていただろう。
日は完全に沈み、美しく妖しい月がその顔を覗かせている。
居間のソファーに腰かけるローラントの腕の中で微睡んでいたクリスタは、腫れた目を上げて彼を見た。
「はぁ………ごめんなさい。取り乱して」
赤く腫れた目を撫でながら、ローラントはゆるゆると首を振った。
「取り乱した君も素敵だ。そんな君を知っているのはオレだけだろ?嬉しいよ」
「変な人……」
「その通り。変なんだよ。でも君にお似合いだと思うけど、どう思う?」
「……………うん、そうかも……」
クリスタはその身を起こし、立ち上がる。
「母の部屋に行きましょう」
彼の前に立ち手を差し出す。
そこにはもう、泣いていた少女はいなかった。
「ああ、行こう」
その手を取りもう一度繋ぎ直して、二人は二階への階段を登って行った。
扉の前に立つと正直今も足がすくむ。
でも、一人じゃない。
そう思うと強くなれた。
ローラントの顔を確認して、扉を開ける。
そこは、あの時から時が止まってしまったかのように何も変わっていなかった。
ミカエルが立っていた場所、母が倒れていた場所、それらが生々しく思い出される。
心配そうにクリスタを見る彼を制して、部屋の中央へと歩いて行く。
月明かりが差し込む窓辺まで進み、くるりと振り向くと、微かに懐かしい母の匂いがした。
「これ!は………?」
ローラントが暖炉の上を見ながら大声を出した。
「何?一体どうしたの?」
彼は暖炉の上の絵を見ながら狼狽している。
何をそんなに驚いているのか全くわからない。
そこには母とクリスタの絵が在るだけだ。
「この絵が、好きだったんだ……昔、アイスラーに絵葉書を貰って、今もそれを持ってる。これは……君か?!」
「え、ええ……昔ヘルマンが描いて、なんだか絵葉書にまでなったらしいわね。……この小さい子が私……確か五歳くらいだったと……」
ああ、と悲鳴に近い声を上げながらローラントはクリスタに駆け寄り力の限り抱き締めた。
「なっ、何??何があったの?」
「神様ありがとう!そうか、そうだよな!そりゃあ似てる筈だ!なんで、今まで同じだと思わなかったんだろう!ああ、神様ありがとう!いや、ありがとうヴィクトール!!」
なんで、ヴィクトールが出てくるの……?
言ってることも全く意味がわからないし。
どこかで頭でも打ったのかしら。
「話が見えないわ、大丈夫?」
クリスタは段々不安になってきた。
「オレはこの絵の子にずっと憧れてた。だけど、この世にはいないと思ってた。絵葉書を初めて見たときからずっと、ずっと。ああ、そうか……最初からそうだった。君を探してた!君を好きだった!」
いつになく饒舌なローラントを、ぼんやりと見上げるクリスタは、この少年のように熱い彼の情熱に圧倒されていた。
だけど………それって……
「ローラント、あなた、そういう危ない趣味の人?……」
人のことは言えないが……と思いつつ聞いた。
「………え?………あ、いや違う!そういうのじゃなくてだな……その小さい子をどうこうしようというわけじゃなくて、天使のようなその姿に憧れたっていうか……自分と正反対のものに惹かれたっていうか……ああもう、とにかく君が好きなんだ!!」
あ、面倒くさくなったな。
「では、そういうのではないと?」
「そうだ!少女や幼女が好きなんじゃない!君が好きなんだ!わかったか!」
もうやけっぱちですね……
「まぁ、いいです。どっちにしろ私のことが好きだって言ってくれるなら一緒よね、それにしても……どうしてこういつも私達って緊張感に欠けるのかしら?さっき泣いてた私が馬鹿みたいじゃないの!」
ローラントはいつもより朗らかに笑い、ずっと抱き締めていた手をほどいてクリスタの頬を包みこんだ。
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