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第七章
一炊の夢08
しおりを挟む「一足、遅かったか……」
魔王の頬を、一筋の汗が流れ落ちる。
工房は甘味処よりも広場の水時計から遠かった。
待たせては悪いと早々に用事を済ませ、急いで向かったが、そこに青年の姿はなかった。
待つより迎えに行った方が早いか――そう思った矢先のことだ。
『魔王さま!』
息を切らせながら、彼女がこちらへ駆けて来た。
その様子にすぐ事態を察し、魔王が駆けつけた時には、すでにその姿はなかった。
店の裏路地に足を踏み入れると、確かに争ったような形跡がある。
だが、肝心の人物がいない。二人は勝手口のあたりで足を止めた。
「ティナ」
魔王が思わず彼女の名を呼ぶ。
彼女も周囲を見回しながら、「はい」と答えた。
「本当に、ここにいたのか?」
「はい、確かに……いたんです」
ティナは店のエプロン姿のまま、両手を胸元で握りしめて不安そうに言う。
「倉庫に用があって、勝手口を開けたらあの方がいたんです。それで〝中に入って、絶対に出てくるな〟って言われて……そしたら扉で誰かを殴って、かと思ったら〝水時計へ行け〟って」
動転している彼女に魔王は「わかったティナ。落ち着け」と声をかける。
「何人だ? 顔は? どの魔族だ?」
「分かりません。顔も見てません。けど……たぶん三人」
「なぜそう思う?」
「あの方を入れて気配が四人分でした」
「そうか……ティナ、直ぐにカミルラを呼んでくれ」
「はい!」
ティナは我に返ると、キリッとした目付きで踵を返し、駆け出した。
「倉庫か……」
魔王が歩を進めると、足に何かが当たる。
見れば鍔のある帽子が一つ、地面に転がっていた。
「これは」
そう、青年に買ったあの帽子だ。
魔王はその帽子を拾い上げると、静かに握り締めた――。
◇
――冷たい床の感触に、ゆるゆると意識が浮かび上がる。
重い。頭が、異様に重い。
まぶたの裏で、何かが鈍く脈打っていた。
「……ぅ、……あ……」
声が漏れた瞬間、焼けるような痛みが後頭部を走った。
思わず眉をしかめ、腕を動かそうとするが、身体が思うようについてこない。
周囲は……暗い。ほとんど何も見えない。
ただ、湿った木の匂いと、軋むような静けさが、ひたひたと肌を這ってくる。
(……ここは?……俺は)
朧げな記憶に手を伸ばしかけて――そこで、殴られた瞬間の衝撃が、雷のように脳内を閃いた。
そう、自身が殴り付けた相手に逆に後頭部をやり返されたのだ。
「っ、くそ……油断した」
ようやく、青年は両手をついて身を起こそうとしたが、身体が思うように動かない。
鈍く軋む骨と、ずきずきと頭の奥で膨らむ痛みに耐えながら、息をつく。
夜か、地下か。窓を締め切っているだけなのか。
わずかに差し込む明かりさえないこの闇に、青年は音もなく目を凝らした。
「あのやろう、思いっきり殴りやがって」
まだじくじくと痛む頭を右手で押さえると、ぬるりとした感触。
暗がりでも分かる。手にはべったりと血が着いた。
「どうりで痛いわけだよ」
ついでにアルデラミンの怒る顔が浮かぶ。
「またお前はって言いたいんだろう。そんなん自覚ぐらいある。て……あぁくそ、増えた」
ついでに魔王の顔までその隣に浮かんでしまった。アルデラミンとはまた違ったやかましさがある。
「……さすがに、今回は迂闊過ぎたか」
思考はまだ霞んでいた。言葉は出ても、口内が乾き、喉がひりつく。
初めから怪しい危険だと分かっておきながら深入りしてしまった。しかも自分の畑でもない場所で、もう少し利口に立ち回るべきだっただろう。
とは言え相手は暴力で解決する気満々のやつらだと、一目で分かっていたからこそ先制攻撃をしかけてやったのだが――。
『そもそも気付いた時に引き返せ!』
幻聴だ。居もしないアルデラミンの声が耳に響いた気がした。
『だから私も一緒に行くと、そう言ったというのにお前は』
ついでに魔王の声も。
(あーぁ口煩いのが、増えちゃったなぁもう)
青年はその声を振り払うように、なんとか身を起こした。
すると、足元からガチャリと音がする。
「まぁ、そりゃそうだよな」
なんとなく足首が重く、ひやりとすると思っていたが、両足にしっかりと足枷をされている。
肩幅程しかない鎖で両足を繋げられては、走って逃げることもままならない。
「っ?」
両足の間にある鎖、もし錆び付いているのであれば真っ二つに出来るかも知れない。
そう思ってよく見ようと前方へ上体を下げようとした時だ。首が引っ張られて気付いた。
「あらま」
触るとひやりとする重みのある鉄の首輪。そこから伸びた鎖が何かに繋がっている。
手を伸ばすと掌が壁に振れた。畑にあるような簡素な木造の小屋ではなさそうだ。
鎖の長さはそれなりにあるのでそこまで不自由はしない。だがそこまで自由もきかない。
(ずいぶん準備がいいじゃないか……)
青年はてっきり縄で縛られるものだと思っていたのだ。まさかこんなにしっかり拘束されるとは。
しかも自身の予想に間違いが無ければここはおそらく地下室である。
そうなるとここから脱出するのは難しい。たとえ出られても、その先が何処に繋がっているか分からない――それが一番の問題だ。
下手を打てば連れ戻され、拘束はより厳重になる。
(そもそも見られちゃマズイもんを見られて、何故あの場で殺さず、わざわざ連れて来た……)
考えられることとしては、死体をそのまま放置して騒ぎになるのを気にしたか。しかも死んでいるのが人間となればそれこそだ。
〝どうして人間がここに、誰がなんのために殺した?〟
確実に世間を騒がせる。そうなると足が付くのも早いだろう。
出来ることなら何事もなく立ち去りたかった筈だ。
だからと言って死体処理に時間をかけるとそれはそれでリスクが高い。
だから気絶させて連れ去り、こっそりと殺してしまう方が良い。
だが……
(ならなぜ俺はまだ生きている? こっそり殺して埋めたとしてもバレたあとが面倒だと気にしてか?)
結局どこで殺して隠そうとも、万一死体が見付かれば人間が魔族の領土で殺されたと世間が騒ぐ。
では、彼らにとって一番安全な方法とは――。
(俺なら……重りをくくりつけて海に沈めるか、焼き殺すか、薬剤で液体にするか)
海はここから遥か遠く、焼き殺せば悪臭がする、都合よく薬剤を所持しているとは思えない。
(一番てっとり早いのはネーベル森林に投げ捨てること)
魔王が言っていた。死を求めてか、時折人間があの森林へ迷い込みそのまま死に逝くと。自身で手をくださずとも邪気の影響で勝手に死んでくれ、人間の遺体があってもなんの不思議もない。
もしそのつもりなら勝機はある。
目は暗闇に慣れて来た。ハッとして自身の腰を見る。
イェンから貰った魔晶石を入れたポーチがない。
当然やつらは青年が平気で魔族領にいる事に疑問を持って調べたのだろう。
「脳筋の集まりに見えたが、意外と頭が回るのか」
まだ持っているのか、着いてから捨てられたのか、移動中に捨てられたか。
あの魔晶石には追跡の効力があると魔王は言っていたが、イェンの助けは期待しない方が良さそうだと青年は溜め息をつく。
(なるほど、このままではネーベル森林どうこうのの前にお陀仏ってわけか。……しかし腑に落ちない。それならどうして拘束する必要があるんだ。利用価値でもあるのか……?)
ふと、微かに鼻先をくすぐる香りがあった。
古びた木の香りに混じって、どこかで嗅いだことのあるような甘い匂い。
ハーブ酒のようでもあり、薬草のようでもある……けれど、それだけではない。
アルコールの蒸気を含んだ、乾いた苦味が喉の奥をざらつかせる。
(……酒? それも、普通のじゃない)
身動ぎすると肩に何かがぶつかった。木箱だ。
よく目を凝らすとそこらには沢山の木箱と樽が置いてある。
どうも見覚えがあるのも当然で、あの三人が荷馬車に積んでいた積み荷にそっくりなのだ。
青年はそばの木箱の蓋をずらした。
中には、中身が入った瓶が並んでいる。
その漏れ出すどくとくの匂いに、青年は眼を見張った。
「まさか、〝緑の妖精〟か……?」
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